雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

014 「感覚について」のコメントの続き

014 「感覚について」のコメントの続き


齊藤コメント

 親の会での本人活動のときのこと。サンバ隊を呼ぼうということになりました。聴覚過敏の子どもも多くいたのですが、チャレンジしてみようということになったのです。本格的な団体なので、体育館は音の洪水となることが予想されました。


 演奏者はとても上手に、子ども達を演奏に引き込んでくれました。一つ一つの楽器を鳴らしてみたり、子どもに鳴らせてみたり。小さな音から大きな音へ、少ない楽器から多くの楽器へと徐々に音を増やしていったりしてくれました。それでも、その段階で耳をふさぎながら、早々に体育館を立ち去った子どもはいました。


 いよいよ全員で楽器を持って演奏しようということになりました。おそらく音の大きさや多さは最大限になるはずです。さて何人飛び出るのだろうかと、構えていると、数分経っても、飛び出る子どもはほとんどいません。恐る恐るという感じですが、演奏者に促されながら自分でも音を出しています。あちこちでそのような様子が見られました。


 私も圧倒されそうなくらいの音なったときに、面白いことが起こりました。聴覚過敏の強いお子さんが、その音の洪水のなかで、カウベルを一心不乱に叩きまくっているのです。顔をよく見ると、完全に陶酔しています(笑)。頭を上下に振りながら、演奏者と一緒にリズムに没頭しているのです。他にもそのような子どもが何人もいました。


 過敏性には、安全や意味が密接に結びついているものなのではないか?とその時、思いました。その音が聞こえても、何も起こらない、自分に危害が加えられない、死なない(安全の獲得)。さらには「その音は、~である」というふうに言葉で説明できること(意味の獲得)。誰だって、未知の刺激には警戒を示します。安全なのか、また一体何であるのかが判明しなければ、ますます感度を上げて少しの変化ももらすまいと敏感になることでしょう。つまり子ども達の過敏性の背景には、安全と意味の喪失があるのでないかと考えたのです。


 数年前の講義のときのこと。その日は自閉症者の感覚世界について話をしました。感想のレポートを眺めていると、驚きの気持ちを持ったという内容が大半でした。でもその中に「私はそのような世界を努力して求めている」と書いてあるものがあり、目が止まりました。所属をみたら美術専攻(絵画)の学生でした。その学生曰く「芸術とは、既存の枠組みをはずして、ありのままの世界を描写できるのか?」が大切なのだそうです。意味的な枠組みのない状態で世界を眺めてみると、どんな風に見えたり聴こえたりするのか?言葉や概念を血肉としている私にはもはや到達できない世界なのかもしれません。でも芸術家の卵であるこの学生は、その枠組みを意識し、なんとか排除しようと努力しているのです。新しい表現のために。


 意味的な枠組みを伴わない感覚とは、決して心地よいものではないのではないか?と思います。“何であるのか”把握できないのです。それは自分を脅かすものの予兆かもしれないのです。


 私は、1歳半くらいの時の記憶があります。その記憶に含まれているものは、現在の私であれば、ほとんど言葉で表現できるものばかりです。タイムスリップして、1歳半の私が見たり聞いたりしたものを追体験したとしても、それは日常のありふれた経験であり、すぐに忘れてしまうでしょう。でも、幼かった私にとってその時の経験に含まれる色もにおいも音も触感も、グロテスクなほど生生しい質感を持っていました。例えば、近所の家の古い物置に大きな漬物樽がありました(大きくなってから知りました)。私はその物置に、何度か恐る恐る近づいたことがあります。すると暗い入り口の内側から、すえたようなにおいが鼻をつきます。「漬物が発酵しているにおい」+「物置のカビのにおい」なわけですが、そんな分析は私には不可能でした。「なんじゃこりゃあ」(松田優作みたいに)と私は、びっくり仰天し、しばらくその場に立ち竦んでいました。その時の匂いは、いつでも思い出すことができます。快と不快の境界にいるような不思議な気分と共に。


 何度も繰り返されることによって、自分の身体に危害が加えられないことが分かれば、安心して感度を下げられるようになります。しかし、この場合は長い緊張を強いられることになります。人は生れ落ちてからたくさんの経験をしなければなりません。その一つ一つの経験について、試行錯誤していたのでは、時間がいくらあっても足りません。またそのような長い緊張に、生理的に耐えられなくなることも考えられます。


 もっと効率よく、そして早く安心する方法はないでしょうか?それには、すでにその感覚を経験済の他者に、意味を教えてもらうことが一番の近道なのではないかと思います。だから対人関係が薄ければ、また言葉の世界に入らなければ、感覚経験に意味が付与されません。この意味で、自閉症の人たちは、意味(言葉)以前の純粋な感覚経験の世界に長く留まった人たちといえるのではないでしょうか。発達のスタートラインに近い人たちだとも言えるかもしれません。「意味以前の世界を持っている人たちだと感じた」と言うのは先ほどの美術科の学生の言葉です。


 ちなみに、私は1歳半の頃以降の記憶は、しばらくありません。きっと、言葉の世界に入ったことによって、生生しい経験から遠ざかったのだと思います。