このページは、アスペルガー症候群当事者である「雨野カエラ」さんの文章を掲載し、私、齊藤真善(北海道教育大学札幌校)がコメントを書くという、対話形式のエッセイとなっています。ここに掲載する文章は、雨野さんが本を出版するべく執筆したもので、今日まで私が原稿を預かっておりました。出版社へ問い合わせたところ、内容の整理と解説が必要であるとのアドバイスをいただきました。このまま日の目を見ずにお蔵入りするのは残念なので、ここに皆様に紹介し、雨野さんの伝えたかったことを、私なりに解釈しまとめていきたいと考えています。
※掲載されているエッセイ文につきましては、執筆した本人に著作権があります。
雨野カエラのエッセイ
041 想像力と会話
041 想像力と会話
From 雨野 To 齊藤 (2004年7月)
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A「××君のこと知ってる?」
私「はい」(知ってる)
A「○○に就職したんだよね」
私「うん」(ただのあいづち、知らない)
A「知ってるんだ」
私「、、、」
(僕が知っていることが既定の事実なら僕はどこでそれを知ったのだろうか、と考えている)
会話は進みやがて食い違う。
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A「函館のご両親は元気?」
私「、、、はい」
(函館に両親はいない。親戚はいるがその事をAさんにはいつ言っただろうか。誰か他の人の両親が函館にいるのだろうか。とにかく両親は元気だ)
A「こちらには来ないの?」
私「鼓膜の手術をしてから飛行機に乗れないんです」
A「函館から飛行機???」
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親知らず抜歯
歯科医「痛かったら教えてください」
私(ちょっと痛くなってきた。普通はこれくらいで言っていいのだろうか)
歯科医「もう少しですよ」
私(かなり痛くなってきた。これは一般的に、言ってもいいレベルかもしれない)
歯科医「はい、我慢してください」
私(とんでもない痛さだ。これは言わなければ)手をあげようとする
歯科医「これで最後だから動かないで。我慢して」
私(え!ガマン?そうなの?)限界越え記憶なし。数か月痺れ残る。
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ある会議
一同 活発な議論。
A「では雨野さんはどう思いますか?」
私「(熱弁)」
一同「、、、」
僕が何かいうと賛成も反対もしてもらえないのですがどうしてでしょうか?
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雇用主との会話
主「何を考えているんだ」
私(説明)こわくなる。
主「そんな事を聞いているんじゃない」
私(さらに資料や事実を並べる)かなしくなる。
主 怒る、やがてあきれる。
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とにかく相手の意図を読み違えるみたい。
想像力の障害とはこのことでしょうか?
これは自閉と非自閉の文化の違いではなく、想像力の機能の問題のような気がします
MRI でわかりますか?
「情報意図」は受け取れるけど「伝達意図」を受け取っていないのでしょう。
動物は、この二つがもしかしたら分かれていません
だからコミュニケーションがとれます。
人間はウソツキだなー。
040 冷静と情熱のあいだ(2)
040 冷静と情熱のあいだ(2)
From 雨野 To 齊藤
僕は人から愛想が良い、と愛想がないの両方の評価を受けます。
実はいいという評価をくれる人は、
その人自身が朗らかで、元気に近付いてくれる人です
「愛想がないことを悪いと評価する人は、
その人自身があまり表情をあらわしていないことが多いです。
(ミラーシステムは働いている。むしろ引きずられる?)
自分からの感情の発信がうまくできません。
(知と情の距離が遠い?)
人の話にはあまり反応しないのに、
相手の表情の読み取りはしています。
人が聞いてくれないとか怒っているとかが目に入ると困惑しますが、
相手が僕の表情を見て困っていることはその場ではあまり考慮されていません。
(だいたいよく見ていない。見ると迷うから)
考えて表情を作る事もあるし、ごく自然にできることもありますが、
一般的な無意識のサインの取り交わしとは、
わずかに違ってしまっているのではないかと思います。
愛想がなく疎遠でよそよそしい態度になってしまうことも多いと思います。
(近付きたくない)
それなのに言っている理屈だけはなんとなく正しいとしたら、
無意識にそれを受け取ってしまう相手は腹立たしいだけですね。
自分で修正する訓練をしても相手の無意識に訴えかけるのは難易度が高そうです。
わかっているとか、気にしない人ならいいのですが。
共同注意というのは、
私とあなたで同時に対象物をみていると言えそうですが、
これを視線が合うという場合で考えてみます。
1:あなたは私を見ている(あなた→「私」)
2:私を見ているあなたを私は見ています(あなた→「私」)←私
「私」に対する共同注意のメッセージのやりとり。
なんだかややこしいですが、
僕が、時々相手を見たところで1しか行われていないのだから、
(動物的、、、)
相手の心を想像したメッセージにはなっていないわけです。
わざと、ではなくてそうするのが自分にとって自然なのですが、
なんだろうか、これは。
(動物的な情動をコントロールするために知が突出する?)
理―――――◇―――――情
これ?
From 齊藤 To 雨野
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1:健常 理―――◇―――情
2:間違った自閉 理―◇―情
3:間違ったアスペ 理―――◇―情
4:アスペルガー 理―――――◇―――――情
カナー
5:動物 理――◇―――――情
----------------------------------------------------------------------------
この図と解説は面白かったです。僕も、どこかで2や3のような印象をもっていたかも知
れない。反省。考え直します。
4の場合、情動が未分化なのだと捉えていいのかな。雨野さんは動物的と表現してる
けれども。感覚過敏を、「快-不快」の水準と結び付けているのは、「そうだよね!」と思いました。
情報処理モデルの問題としての感覚の問題ではなく、感覚を評価する下位の情動回路の暴走と捉えた方がいいんじゃないかと思っていたので。そうじゃないと掃除機の音は大丈夫なのにドライヤーの音は嫌いということがうまく説明できないもの。
>私とあなたで同時に対象物をみていると言えそうですが
>これを視線が合うという場合で考えてみます
>1:あなたは私を見ている(あなた→「私」)
>2:私を見ているあなたを私は見ています(あなた→「私」)←私
>「私」に対する共同注意のメッセージのやりとり
>なんだかややこしいですが
>僕が時々相手を見たところで1しか行われていないのだから
>(動物的、、、)
>相手の心を想像したメッセージにはなっていないわけです
相手の表情は読み取っているのに、相手の表情に影響を与えている自分の言動は、モニターされていないわけですね。すると、「相手→私→相手→・・・」というような自分と相手の相互作用ではないのですね。本当は相互的なやり取りのはずなのに、相手の情報だけだと、情報が分断されてしまいますね。
意識すればできるものなのでしょうか?
039 冷静と情熱のあいだ
039 冷静と情熱のあいだ
From 雨野 To 齊藤
こんにちは。
実行機能の問題 →スケジュール
(脳機能) |
統合ーマルチフォーカスー選択的注意の問題 →シングルフォーカス的指示
|
感覚の問題 →刺激の選択
(快、不快)
多少なりとも自分の実感のあるあたりから思い浮かべたので、
皮質下が無視されているのではと思います。
実行機能についてはいまいちわかっていないのですが、
運動の不器用さも長期計画の失敗も、
考えている要素が多い上に、
順位を決められないことに原因があるのではと思うのですが。
***
情と理について考える。
言葉の定義は大変あいまいに使っています。
1:健常 理―――◇―――情
2:間違った自閉 理―◇―情
3:間違ったアスペ 理―――◇―情
4:アスペルガー 理―――――◇―――――情
5:動物 理――◇―――――情
理と情のバランスがとれているのが健常者(1)だとして(そんな人いない)。
理性的でもなく情動も乏しい自閉像(2)を思い浮かべる人が多いように思います。
また無闇に才能があるのだと思っている人もいますが、
その場合でも情動の低さを想像している事があります(3)。
先日当事者の方の講演会に行ったら、
当事者に向かい「アスペルガーの人は愛情をもつことがあるのか」、
という質問をしている人がいました。はあ、、、。
説明や論理で物事を捉えつつ同時にある種の感覚過敏、
見なれない物や匂いに恐れや驚きがあるのは非常に動物的、情動的だと思います。
それと同時に理屈も好きというモデル(4)を考えてみました。
カナーの理はどこにくるでしょう。
健常者向けの知能テストではわからないかも。
理と情の間に距離があってあえて言えば薄くなっています。
それで健常者の考え方が理と情が混じっていて濃いように感じるのかも。
ちょっとムチャなことを書いているような気もしますが、
こんな事も考えたということで。
僕は電話に出るのが嫌いですが、
それは音ではなく不意のできごとがイヤだからです。
で、他の人もきっと同じようにイヤだろうと思うから、
かけるのも決意がいります。
電話にでることに抵抗のない人は、
僕も抵抗なく電話にでられると思っています。
お互いに自分の経験から相手の心を推測していますがハズレです。
1対1ならお互いにハズレ!と言っていればいいのですが、
電話にでられる人がもう一人現れると途端に僕の立場は、
常識も心もない人になってしまいます。
これから電話にでるのは頼れる人にお願いしようと思います。
少しは立場が回復できるでしょうか。
教育的介入が無駄ではないというところに辿り着きたかったのですが、
全然届きませんでした。
実行機能障害でした。
038 社会的判断における妥当性の問題について(4)
038 社会的判断における妥当性の問題について(4)
From 雨野To 齊藤
> 馬や犬と接する時に視線を外すというのは重要な信号です
> 相手に少し自由を与えるのです
僕も人間相手に視線をはずす時があるけど、その場合「戸惑い」「拒否」「後ろめたさ」など、ネガティブな感情を持ったときが多い気がします。あと、相手の迫力に圧倒されているとか。この場合は「恐怖」「敗北」という感情でしょうね。
一人で考えを整理するために意識的に視線を外すことはありますが、多用すると相手に良くない印象を与えてしまうので、気を使います(つまり相手の反を観察しながら、ということです)。
かといって、相手の目をじっと見据えるのは、失礼に当たる場合もあるので、時々視線を外しますが、それもタイミングに気を使います。相手が一番伝えたいと思って話しているところで、視線を外すと、真面目に聞いていないように思われるかもしれないからです。
「話すときには、目を合わせる」といった固定的な台本ではなく、場面と相手の反応に合わせて、臨機応変といったところでしょうか。
> 「あやふやなモデル」
> 実行機能の問題 →スケジュール
> |
> 統合ー選択的注意の問題ーマルチフォーカス →シングルフォーカス的指示
> |
> 感覚の問題 →刺激の選択(全ての低減ではなく)
僕自身は、「実行機能」は、対人的な相互作用を通して、構成されていると考えています(もちろんすべてではありませんが)。
実行機能を導いている機能はなんなのか」という疑問が湧いてきます。「実行機能」という小さなコビトが頭の中にいるわけではありませんよね。実行機能の実行機能というのを想定しなければならなくなります。「こうなると無限に、上位の管理システムを想定しなければならなくなります。閉じたシステムとして考えると、「実行機能」の実態がとてもあいまいなものになります。
社会的状況に合わせて適切なプランニングをしたり、必要のない刺激に向かう注意を抑制し、適切な刺激に注意を自動的に振り向けるといった機能は、長い期間の「学習」の結果なのではないかと思うのです。
定型発達児の場合、乳児の時から「社会的参照」「共同注意」を通して、他者の外界に対する情動的評価を基準にして、世界の心内モデルを構成したり、他者の注意の方向をモニターしたりしています。プランを立てるのかについても同じことが言えると思うのです。白紙の状態から、独力で考えるのではなく、その多くを他者を参照し、模倣するというあり方です。
この論に従うと自閉症圏の人は、選択的注意や実行機能そのものに機能の欠陥があるというよりも、それらの能力を獲得する土台が危弱であると言えます。
他者と経験を共有するという志向性がまずあることが前提になのではないかと思います。
雨野さんの「あやふやなモデル」には、主に皮質レベルの心理機能について列挙されているように見えます。皮質下のシステムは、どこに、どのように入ってくるのでしょうか?
どのように皮質と皮質下の機能がどのように影響しあっているのかについては、僕の浅い知識では何ともいえませんが、どうもそこにヒントがあるような気がしてならないのです。人が、他者に対してオープンなシステムであろうとすると、他者と物理的に交感する身体や身体反応としての情動が大切になってくると思うからです。
ぶっちゃけた言い方で言えば、情と理とのバランスということでしょうか。
037 社会的判断における妥当性の問題について(3)
037 社会的判断における妥当性の問題について(3)
From 雨野 To 齊藤 (2004年5月)
今日は「対外的なやる事」がいくつかあって、
朝からひとりでわめいていました(人がいるときはしません)、
一つのスケジュール欄にやる事が全部書き込んであるみたいでした。
作業の途中でしゃがんで固まって、
スケジュール欄を「今日やる事」と、
「明日以降にする事」(ずいぶん先まで)にやっとの思いで分けました。
「今日」の欄にも時間の目盛はなかったので、
順不同で詰め込んであることにはかわりません。
時間的な締め切りが来るまでどうしようどうしようと考えていました。
考えながら、なるほどこういう人には、
一つずつ順に予定を示してやるのが有効なのかと観察も自分でしていました。
ためになるなあ、自分。
> 論理と直感の間
これは後で、ちょっとどうかなあ?と思いましたが、
不要な情報がたくさんあって必要な情報が不足する事があるから、
穴があいたところを理屈で埋めようとする、のと、
もっと情報が少ない時は1つの断片から全体像を組み立ようとする、
の2種類で、あいだはないかも。
あまり言えてない。
今読んでいる本も3行につき5分くらい考え込んでしまうのでなかなか進まないです。
考えないで読むぞ、という決意で読み飛ばさなければ、なかなか最後まで読めません。
読みかけの本が手近なところに50冊くらい。
頭のなかの情報が整理できないのが現実にも及んでいます。
本、書類、服、予定、、、たくさんありすぎ。
> 馬と人は、なにが違う?
ヒトは表情と言動が一致しなかったり、言動と行動が別だったりしませんか?
そういう台本だったのかあ。
その上、台本なんてない、ということになってる台本?
(ボランティアの人が仕事を)イヤイヤやっているように見えると「やらなくていいよ」と言ってあげたくなります。
これは思いやりにならないらしい。
僕は、自分の知っていることは人も知っている。
自分ごときの知っている情報、知識は当然他の人は知っている。
と思っているかもしれません。
このことについて考えるのは難しいです。
自分の認知の外をつかまえるようとしているからか?
From 雨野 To 齊藤
雨まだ降っています。
さて、いろんな事を書いていますが、
自分がアスペルガーかどうかはよく分かりません。
聞いたこと、読んだことをなぞっているだけなのだろうか、と思う事もあります。
教室はいつも苦痛だったし、
診断前はもしかしたら化学物質過敏症かと思っていたから、
(しかしセンサーの過敏にしては反応があいまいだと思っていた)
それが自閉症だとしたら、
わざとそのようにふるまっている訳ではないのだろう。
グループケアについて説明を聞く。
お話を聞いた部屋は照明がなぜか暖色系で、
手元のプリントを見ていると窓からの昼光色と照明の暖色が入り混じる。
もしあの部屋で手元の紙を傾けている子どもがいたら
光を楽しんでいるのかもしれない(そんな子いないか?)。
馬や犬と接する時に視線を外すというのは重要な信号です。
相手に少し自由を与えるのです。
目線が合わないことは必ずしも悲しいことではありません。
表情を作るとか目線を合わせるとか書いてあるのが人の隠し持っている台本でしょうか?
馬や犬とは目線が合わないのも会話なのですが。
***
「あやふやなモデル」
実行機能の問題 →スケジュール
|
統合ー選択的注意の問題ーマルチフォーカス →シングルフォーカス的指示
|
感覚の問題 →刺激の選択(全ての低減ではなく)
***
たくさん考えたんだけどキリがないのでここまでにします。
036 社会的判断における妥当性の問題について(2)
036 社会的判断における妥当性の問題について(2)
From 雨野 To 齊藤 (2004年4月)
B先生のところで3名の当事者の方と会う。
なんとなく楽しかったけれどあまり発言はできなかった。
最後に感想を聞かれて固まってしまいました。
何も浮かばなかったのではなく、
いくつもの解答が浮かび選べなかった。
シーンとして緊張感が高まってしまったので、
やっと「、、、おもしろかったです」と言いました。
「妥当な解釈の選択」はできていません。
その日、初めて紹介された先生がいて、
名前を忘れそうだからしっかり覚えようと意識したのですが、
最後には忘れていました。
ホワイトボードに書いてくれたら覚えていたのに。
先生がいなくなってから当事者 Bさんに聞いたら
覚えていませんでした。
2人で当事者のAさんに聞いてメモしました。
音で聞いただけのことは覚えていないということ自体が、
「認知の外」だったのでは、今までとても不利だったのでは?とか考えつつ、
ともかくいろんな人がいる、似ている人もいる、ということを知ることができたのは収穫でした。
***
普通の人は意識せずに、論理と直感の間を考える。自分はその端と端を考える。
間がない。
***
ダマシオを読みながら連想。
「こころ」は前頭葉に局在しない。前頭葉に機能の問題があっても「こころ」はある。
言葉のない子どもにも「こころ」はある。
前頭葉に辺縁系を含めてもまだ足りない。脳全体でも足りない。
脳障害児にも「こころ」がある。
神経系から脳や脊髄だけを取り出しても意味がない。手の先、足の先まで全ての神経が1つのシステムになっている。神経だけでなく、身体全てが私であり「こころ」だ。
さらに「こころ」は、個人の中ではなく、人と人との間にある。2人の人の間に浮かぶハート、他者との関係の中に「こころ」がある。それを見つめるのはやはり個人の主観であり、自閉症児の「こころ」と主観的に関係を見出せない人は、自閉症児には「こころ」がないと言うかもしれない。
僕は犬や馬と駆け引きをする。関係を見出す。主観的とはいえ、私たちの間には「こころ」がある。
とりとめのない連想でした。
From 齊藤 To 雨野 (2004年4月)
こんにちは。ちょっと長いです。暇な時にでも読んでください。
> シーンとして緊張感が高まってしまったので、
> やっと「、、、おもしろかったです」と言いました。
> 「妥当な解釈の選択」はできていません。
感想は難しいですよね。何に照準を合わせてしゃべったらよいのか、判断しづらいからです。
僕の弟が子どもときに「先生の喜ぶこと言えばいいんだよ」と言っていたことがありました。
まあ、そうなんでしょうが、相手が何を喜ぶのか分からないから難しいんですよね。
雨野さんが、いくつもの感想を思い浮かべたのなら、浮かんだ順に話せばよかったのかもしれないですね。すべての感想が、一度に全部浮かぶわけじゃないですよね。最初に浮かんだ感想って、率直に感じたものに近いのではいでしょうか?思いついた順に記録してみたら、自己分析できるかもしれません。
> 音だけで聞いた事は覚えていないということ自体が、
> 認知の外だったのでは今までとても不利だったのでは?とか考えつつ、ともかく
> いろんな人がいる、似ている人もいる、ということを知ることができたのは収穫でした。
なるほど。名前を覚えるためには、その人の雰囲気とかエピソードなどを、音声とともに
記憶する必要がありますよね。
僕は普段、子どもの発達相談をしています。子どもの名前は忘れているんだけど、遊んでいるうちに、過去のやり取りが蘇ってきて名前を思い出すということが、たまにあります。人の名前を記憶するには、自分がその人と関与し、五感を通して得た情報をまとめあげることが大事なのでないかと思います。または、意味づけができるかどうかが、鍵と言えるかもしれません。無意味な刺激を保持するのは、難しいことだと思います。
講義に出席する学生の名前を覚えるのが苦手です。講義は、一方的に話すだけなので、学生と関与する時間がほとんどないからだと思います。一方ゼミは、色々と話し合うことができるのでよく覚えることができます。 「よく遅刻してくる子」なんていう、エピソードがあると覚えたくなくても覚えられます。
人の名前を覚えるには、自分との関係性を意識することが重要みたいですね。
幼児期の自閉症の子で、友達と遊ぶようになったら、友達の名前を家で言うようになった、
ということを経験したことがありますが、これは言語能力、記憶力の発達というよりも、
関係性の発達が影響しているのだと思います。
> 普通の人は意識せずに論理と直感の間を考える。自分はその端と端を考える。
> 間がない。
「間」が「ない」のでしょうか?それとも「つながりが弱い」のでしょうか?どちらでしょうか?
> さらにこころは個人の中ではなく人と人との間にある。2人の人の間に浮かぶハー
> ト、他者との関係の中にこころがある。それを見つめるのはやはり個人の主観であ
> り、自閉症児のこころと主観的に関係を見出せない人は自閉症児には「こころ」が
> ないと言うかもしれない。
本当にそうですね。お互いの主観的世界を、いかにすり合わせるかが大切だと思います。
音楽を演奏してる複数の奏者を考えてみます。例えばジャズ。コード進行とビートの種類、お決まりのフレーズなんかは大雑把に決まっていますが、あとはアドリブ。演奏が成功する時って、お互いが溶け合うような感じになるわけです。なんにも打ち合わせしてないのに、息が合ってくる。決めのフレーズがぴったりしてくる、同じタイミングで盛り上がったり、ポーズする瞬間ってあるのです。人間関係もこれと同じなのではないかと思います。心が通じ合うと、まるで自分の考えていることが相手の考えていることに直接通じているような感覚。いわゆる「間主観性」ですね。
定型発達者と自閉症者は、同じ楽器を持っているのだと僕は思います。
ただ、何を演奏にするかには違いがあるかもしれません。
ところで先日、NHKで面白い番組をやっていました。
歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが、“鼓童”という和太鼓集団を演出するプロセスを追ったドキュメンタリー番組でした。1年以上かけて、演目を作り上げていくのですが、面白いのは楽譜がないのです。みんなそれぞれ、思い思いに演奏しながら、玉三郎さんの指揮のもと、即興的に作りあげていくのです。大変興味深かったです。
そのときの玉三郎さんの言葉が大変印象に残りました。
台詞は正確ではないですが、内容をまとめますと次のようなことを言っていました。
「自分勝手なアドリブはやめてください。それは自分だけが気持ちいいのであって、
お客様を置いていくことになるからです。大切なのは、台本です。
同じ台本、同じ言葉、同じ音、同じ間を共有しているという前提があって、初めてアドリブが生きてくるのです」。
ジャズの例に戻ると、同じコード進行、同じビート、共有するフレーズなどが、台本に相当するのだと思います。
同じ台本を、お互いに持っているから、アドリブが許されるのだし、台本には書かれていなくても理解や予測が可能になるのだと思います。
そこで、雨野さんの以下の文章が気になりました。
> 僕は犬や馬と駆け引きをする。関係を見出す。主観的とはいえ私たちの間には「こころ」がある。
雨野さんにとって、馬と人は、どこが違うのでしょうか? 雨野さんからみて、人の持っている台本は、どんなところが分かりにくいのでしょうか?
035 社会的判断における妥当性の問題について(1)
035 社会的判断における妥当性の問題について(1)
今回から、雨野さんと私で交わしたメールを掲載します。今から約8年前のものです。
From 雨野 To 齊藤 (2004年4月)
厩舎にボランティアが来た時に、
自分がイヤだったり苦手だったりする仕事は頼まないんですね。
「自分がイヤな事は人もイヤだ。人の気持ちになりなさい」と、
教育されてきたからです。
ところがボランティアさんはそれでは不満なんです。
人によってイヤとか苦手は違う、というのが
反射的に指示を出す時には自分の考えには入ってこないみたいです。
じっくり考えてもピンときてないかもしれない。
これを専門家が「他者の気持ちがわからない」というのはわかるのですが、
一般の人に「人の気持ちがわからない」といわれたら、
そうしようとしてるだけに納得できません。
三つ組みからではない、
もっと良い説明がないかなと思います。
脳科学的な検査や研究をしている機関はS市にあるのでしょうか?
From 齊藤 To 雨野 (2004年4月)
こんにちは。まだまだ寒いですね。風邪などひいてはいませんか?
僕が、雨野さんのメールを読んで考えたことは、「社会的状況の解釈の妥当性もしくは適切性を判断することの困難」ということです。雨野さんの「ピンとこない」という点が、ポイントだと思いました。
時間をかければ他者の意図を推測することは可能なのではないかと、雨野さんのメールを読むといつも思います。色々な解釈を挙げることはできるのだと思います。
しかし複数の解釈のうち、どの解釈が妥当なのか判断する段階で、立ち往生しているイメージが浮かんできたのです。どの解釈が妥当なのか、実感が伴っていないから「ピンとこない」のだと思うのです。「解釈すること」と「どの解釈を採用するのか」は機能的に区別しなければならないのではないかと思いました。
このように整理すると、他者の心を想像できないというのは、正確な表現ではないということになります。「想像できない」という表現には、前者の「解釈できない」というニュアンスのほうが強く含まれている気がするからです。
この考え方は、雨野さんの内的事実と一致しますか?
妥当性の判断において、論理だけでは結論が導き出せないものが多いと思います。妥当性を判断する心の働きを「直観」というのでしょうか。ならば「直観」とはなにか、考えなければなりません。
この点については、以前紹介したダマシオの著書「生存する脳」が一つのヒントになるかもしれないと考えています。もし読んでいたら、意見を聞かせてください。
ダマシオの考え方を借りると、理性(論理)を支える情動や身体の役割が大事だということになります。社会的な状況を読み取り、ある解釈を施す際の、妥当性の基準はどこから来るのかという話です。ダマシオの主張するように、身体からなのでしょうか?
論理的に導き出せないとするならば、一体どこから?
僕は、他者とのやり取りの中で、絶えず互いの基準を相互参照しながら、調整が行われ共有されるものなのだと考えています。日常の対人関係を振り返ってみても、いつも阿吽の呼吸で意思疎通しているわけではありません。むしろ、ズレが生まれる場合の方が多いのではないでしょうか。
人間関係において、無駄とも思えるほどの長い時間、意見等の調整に心的努力を費やすのは、この調整が簡単ではないことを証明しているのではないでしょうか。人と人のコミュニケーションにおいては、完璧な正しい解釈をして、正しい言動をしようと考えるよりも、他者の意図と自分の意図がズレているのではないかと、常にチェックする態度を維持することが大切だと思うのです。
さらにはズレたらそれでおしまいというのではなく、そのズレをどのように調整しあうのかに、コミュニケーションの醍醐味というか、面白さがあると思うのです。そういったやり取りをたくさん、他者と共有した形で経験するうちに、一般的な基準と言うものが、形成されてくる、というのが僕の考えです。そうやって他者と響きあう身体を形成していくのかもしれません。身体は、いわばコミュニケーションにおけるセンサー、アンテナということになります。
・「生存する脳-心と脳と身体の神秘-」 アントニオ・R・ダマシオ著 講談社
034 「テクニカル」のコメントの続き
034 「テクニカル」のコメントの続き
齊藤コメント
メールでの議論は、約1年間続きました。いろんな事柄について、意見や感想を交換しました。二人で共有する “知識”や“概念”ができました。 そろそろ会って話してもいいのではないかと私から提案し、大学のゼミ室で議論することにしました。
二人だけではもったいないので、大学院生にも参加してもらいました。しかし、この院生、議論開始から20分ほどでウトウトと眠り始めてしまいました。院生を横目で気にしながら、その日の勉強会を終えました。院生にお灸をすえようと、なぜ眠ったのかと研究室で尋ねました。院生は「今日は眠ってしまってすいません。雨野さんと先生の話を聞いても内容がさっぱりわからないのです。日本語としては分かるのですが、何について話しているのかが全然わかりませんでした。すると急に眠気がきたのです。意味が分からないと、集中力が保てないものなのだとよく分かりました。普段のアスペルガーの方たちの気持ちが分かった気がします。雨野さんと先生の間に挟まった私は、まるで意味を喪失したアスペルガーと一緒だったのかもしれません」と言いました。
叱ろうと思ったのですが、思わずなるほどと納得してしまいました。雨野さんと私にとって、なじみのある議論が、初めて聞いた院生にとっては、全く理解できないものだったわけです。雨野さんと私だけは、二人だけの“暗黙の了解”を共有していたのだと言えます。
この時期、私はいつも「雨野さんならば、どのように考えるだろうか」と暇さえあれば想像していました。相手に同一化しようとすると考え方や動作が似てくるように、私も自然に、言葉遣いや思考の肌理が雨野さんに似てきました。似てきたことに気づいたのは、妻と口げんかすることが増えたことがきっかけでした。
どういうことかと言いますと、家に帰って妻から一日あったことを、色々と聞くわけですが、なにせ短い時間にいっぺんに話そうとするわけですから、理路整然とは言い難いのです。その話し方が、いちいち気になり始めました。例を挙げますと、「主語が無い」「複数のエピソードが並行して語られている」「感情的な問題が優先されていて、問題解決は二の次」「時間的順序がバラバラ」「オチがない」などなど、雨野さんとのメールでは考えられないほどの言葉のあいまいさに苛立ちを感じるようになりました(妻がこれを読むときっと怒ると思われます)。なので、私はいちいち「それって誰の話でしょうか?」「その話にはどんな意味があるのでしょうか?」「先ほどの話と、今の話との関連は?どっちが原因なの?」などと、無粋な質問を夫婦の団欒において尋ねてしまうようになりました。
妻は、私の態度に怒り心頭。そりゃあそうです。自宅の茶の間で、愛する夫とただ会話を楽しみたいのであって、面接を受けているのではありませんから。私の目の前に仁王立ちになった妻は「あんたねえ、心理学をやっているくせに、人の心がわからないのおお!“今日は大変だったね”って共感しろ!」と怒鳴られる始末。「やれやれ」でした。
この話を雨野さんにすると、ニコッと笑って「僕もそうなんです」とパートナーとのエピソードを話してくれました。雨野さんに慰められながら、「定型発達の会話は難しいね」と二人はしみじみ語りあったのでした。
033 テクニカル
雨野カエラ
自閉症者の支援は、気持ちだけではどうにもならない。本人を支えようとするポジティブな気持ちは勿論必要なのだけれど、支援の技術なしに関わろうとする人がなんと多いことか。理解するということと思いやりをもって接することは同義ではない。「ロマンティックな自閉症」が好きな人たちにはウケがよくないのかもしれないけど、支援の「テクニック」「技術」がとってもとっても重要なのだ。
社会性の障害があるということと「誰でも社会では苦労するさ」というような事柄は、同じように語られるべきではない。支援者はよく考えなければならない。本人もまたそれを混同しないようできる限り考えなければならない。
他者の意図がわからないということは思いやりを持てないという意味ではない。思いやりを持っていても、意図を読み違えて相手に迷惑をかけることがあるもしれない。本人は、そこに注意がいるだろう。一方、支援者は本人が多くの場合、意図の分からない大勢の人たちに囲まれて過ごしている状態にあることを忘れてはならない。
それが頑固であるとかこだわりであるとかいった単なる指摘は(理解がその程度では)本人にとっては拷問にしかならない。
齊藤コメント
雨野さんと知り合った頃、メールでやり取りしていました。抽象的な議論をしていましたから、口頭で話し合うだけではイメージの共有が難しいと互いに判断したためです。
文章ならば、言葉をじっくり練ることができます。
私は、できる限り丁寧に文章を組み立てることに注意を払っていましたが、ある日、時間がなかったので校正もろくにせずに送信してしまったことがありました。いつもならすぐに返信があるのですが、なかなか返ってきません。2週間ほどすぎても返信がなかったので、こちらからメールをしました。
するとすぐに返信がありました。メールには、返信できなかった理由が書いてありました。私の文章に意味の繫がらない箇所があって、何度も読み返していたのだそうです。
指摘された文章を再度読んでみると、なるほど繫がっていません。文章の流れは保たれているものの、一つ一つの文章がきっちりと論理的に編まれているわけではないので、局部的にみると非論理的に感じられるのでした。雨野さんは、そこに引っかかったのです。
私は、曖昧な文章を書いて送ったことをまず謝りました。その上で、「わからないと思ったらすぐに連絡してくれれば良かったのに」と書き送りました。すると「齊藤先生が、意味の通らない文章を書くとは思っていなかったのです。先生の文章は正しいと思っていたので、理解できないのは自分のせいだと思っていました」と返事がありました。雨野さんの言葉への態度は、とても精密なのだなと感じました。
数日後、非論理的な文章が苦手な理由について「一貫性のない文章」という題されたメールで解説してくれました。
文章に[真 T(true)]と[偽 or あいまい F(false)]が混在した時に、(僕の頭は)フリーズするか整合性のとれない部分を消去するようです。順番に文章を読んでいって、
ここでフリーズ
↓
…T T T T T T F t t t t t t t …
↑
ここから新規(F以前は消去)
ラージ「T」が連続しているのは、論理的に整合的であることを示しています。しかし、そこに「F」という曖昧な表現が混入します。すると、ラージ「T」と「F」が、矛盾しますので処理が中断してしまいます。つまり、フリーズが生じます。でも立ち止まってばかりはいられません。これが、相手の話であれば、どんどんと話題は進んでいきまので、処理を前進させなければなりません。「F」とスモール「t」は、やはり矛盾するのですが、かまわず処理を進めていきます。スモール「t」が連続してくると一安心です。論理的に繫がっていて意味が分かるからです。しかしながら、ラージ「T」および「F」の記憶は失われます。意味的、論理的に繋がらない文章は断片化し、記憶に残りにくいからでしょう。または断片化しているので、想起(検索)できないだけなのかもしれません。雨野さんは、論理的に曖昧な文章を読んだり聞いたりすると、いつも最後の文章しか頭に残っていないと言います。「ここからは新規」と記述されているのはそういう意味です。
このメールを受けて、文章の構成には、特別の配慮をすることにしました。何度も読み返しては、意味の繫がらないところはないかどうか入念にチェックしました。すると、論理的によく構成されたメールを送信すると、返信が早いことが分かりました。私の文章が変化したことによって、意思疎通がよりスムーズになったのです。雨野さんとコミュニケーションする、コツを学んだような気がしました。
余談ですが、「私は、せっかちでおっちょこちょいです。論理的ではない文章は、実は始終書いているのです。だから、次回から曖昧な文章に出会った時は、雨野さんの読解力がないからと判断せず、齊藤の文章力のなさと考えてもらえますか」とお願いしたところ、「今回のことで、よくわかりました。齊藤先生のメールに関しては基準を変更しました。曖昧な文章に出会っても、もう大丈夫です」と言ってくれました。それからは、僕の曖昧な文章にもよくつきあってくださり、雨野さんが思う解釈を返信してくれるようになりました。お互いを理解し、文章の書き方、読み取り方を修正した結果、コミュニケーションがよりスムーズになったのでした。
032 「周囲への告知について」のコメント
032 「周囲への告知について」のコメント
齊藤コメント
雨野さんの文章を読んでいると、他者を敵か味方かで判断しているように見受けられます。
基本的信頼感が薄いと、判断の基準がどんどんとプリミティブなものになっていくようです。
敵か味方か、という基準が強くなると、コミュニケーションは生まれにくくなります。
以前紹介した高校生のF君は、所属する部活のメンバーに自分のことを告知しました。最初のうちは理解を示してくれた仲間や先輩達も、頻繁に指示を忘れたり、同じ間違いを繰り返すF君に苛立ちを感じ始め、しばらくすると「障害に甘えているのではないか」と責めるようになってしまいました。
悩んだF君は、一つ上の学年の先輩に相談しました。その先輩は、親身になって話を聞いてくれたそうです。また、聞いてくれただけでなく解決方法も一緒に考えてくれました。F君は「次から次へと指示されると、最後の指示しか頭に残っていないんです」と自分のことを説明しました。すると先輩は、ノートを持つことを勧めてくれました。F君に指示があったときは、手元にあるノートにすぐに書き込めるようにしたらどうだろうかと提案してくれたのです。さらには、一人だけノートを持っていては目立つので、コーチや監督には事前に伝えておいてくれたそうです。
F君がこの話を終えた後「齊藤先生、これで良かったのでしょうか?」と確認を求めてきました。私は「もちろんです」と答えました。そして「F君の話を聞いていて、すごいなあと思ったところは、自分の記憶の特性に気付いただけでなく、さらに相談に乗ってくれそうな先輩を試行錯誤せずに一度で見つけられたことだと思います」と言いました。F君は、きょとんとしていました。
自分を理解してくれそうな人を見つけるのは、簡単なことではありません。自分が何について相談したいのかが分かっていないと、それに適した相手を見つけることは不可能だからです。また、F君のように自分の特性を把握している人でも、「相手を信じる」気持ちがなければ相談までたどり着けません。「どうせ分かってくれないだろう」と否定的な気持ちで一杯な時に、他者に頼ろうとはしないでしょう。このように「相談する」というスキルは、獲得の難しいスキルの一つだと思います。
私が出会ってきた自閉症圏の方たちは、本当に困った時に自分一人で考える込む人たちが多いなあ、という印象を持っています。他者に頼る、助けを求めるということは、まず身に着けなければならないことだと私は思います。誰だって、人に助けられて日々を生きているわけです。心を低くして、他者に助けを求める。そして助けられたことを感謝して形に表してお返しする。この気持ちが育っていれば、社会に出たときに何とか生きていけるのではないかと私は思うのです。
F君のように、本当に困ったときに他者に相談できる人というのは、きっとそれまでの人生において、一緒に考え、助けてくれる人にたくさんめぐり合ってきたのだろうと想像できます。もっと想像するならば、F君のご両親や周りの人たちが、小さなF君の代わりにいろんな方々に相談しながら、他者に助けてもらう模範を示されてきたのだろうとも思うのです。両親が先に通ってくれた道なればこそ、後に続く子どもが、本当に困ったときに親の姿に自分を重ね合わせ、自然と相談できるようになったのだと思うのです。相談する力というのは、一丁一石に身につくものではないと私は思います。短期間のソーシャルスキルで、形は整うかもしれませんが、そのスキルを運用すること、相手に感謝の気持ちを持つことは、また別の話です。何年もの生活の積み重ねが必要です。
自立することを、人に迷惑をかけないことと教えている場面によく出会います。年齢などにもよりますが、小さいうちからあまりこのことを強調しすぎると、かえって人間同士が自然に助け合う姿を歪めて伝えてしまっているように思います。
「困っているんだね、手助けしてあげよう。でも次からは、自分で出来るように努力するんだよ」。一見筋が通っているように思うのですが、この精神を突き詰めると、実存的で孤独な個人を作り出してしまうような気がします。孤独な個人には信じるものがありません。完全な自由を獲得しますが、同時に心のよりどころを見失うことになります。
「困っているんだね。手助けしてあげよう。私にお返しはいらないよ。そのかわり、君が大きくなって同じように困っている人がいたら、助けてあげてほしい。できれば、自分が助けられて感謝しているということを話してくれるなら、もっといいな」。これだと、人と人のつながりが切れません。自己評価も下がりません。またこの声かけは助けられてきた過去の自分から人を助ける将来の自分へと、自己の成長を歴史的に展望する視点を子どもに与えています。歴史的な文脈の中に自己を位置づけることは、たくさんの他者に支えられながら今の自分が成り立っているという気持ちを育てる苗床になると思います
子どものソーシャルスキルの問題は、我々大人のソーシャルスキルの問題であると言えます。思いやりの気持ちを持って欲しいと願うならば、その子の前で私たちが、常に思いやりのある行動を、その子どもや周りの人に向けていることが必然となります。社会のために働いて欲しいと願うならば、まず私たちが他者の喜びを目標としてしっかりと働く姿を、子どもに映さねばなりません。
ソーシャルスキルや障害告知といったことが、技術論だけで終わるならば、大きな効果は望めないでしょう。子どもに向き合う私たちの日常の生活そのものをどのように構築していくかが問われているのだと思います。
F君は、普段、部活のメンバーに迷惑をかけて申し訳ないと思う気持ちから、誰よりも早くグラウンドに顔を出し、一人黙々と整備をしているのだそうです。F君を育てた家族や支援者たちの日々の過ごし方が表れていると思います。