蜜の部屋へようこそ。
私、齊藤真善が担当しております大学院の授業に、アスペルガー症候群当事者の蜜さん(アスペルガー症候群・高機能自閉症の女性の会カモミール代表、2007年発足、HP:http://as-camomile.org/)をお招きし、講義をいただいております。この部屋では、その内容をご報告していきます。第一回目の講義は、資料および私のメモから起こした蜜さんのお話をまとめてあります。二回目以降は、文字に起こししたものを掲載します。蜜さんの生の言葉をお届けしたいと思います。
蜜さんには、幼児期から学齢期、思春期、青年期、そして現在の成人期ごとにエピソードを紹介してもらいながら、そのとき何を感じ、何を考えていたのかを、語っていただこうと思っています。
文字起こしは授業の参加者であり、当研究室の大学院生でもある伊藤一貴君と支部哉太君が担当しています。
北海道教育大学 札幌校 齊藤 真善
時系列に「蜜の部屋」を読みたい方は、こちらのインデックスをご覧ください。
蜜の部屋
第3回 蜜さん講義(平成23年10月18日) 後半
*ここからはディスカッションです。
蜜さん:
まあそんな感じで、学校に入るところまで来てしまいましたけれども。先生、質問タイムにしますか?
齊藤:次のスライドから、学齢期に入るんですね。
蜜さん:はい。
齊藤:
わかりました。ここまでで幼児期が終わりましたので、ディスカッションに入りたいと思います。蜜さんの思考は速いのでここで15秒空けると、次の話題が始まるかもしれません。みなさん、どんどん質問してください。
<蜜さん片づけをするようになったエピソード>
蜜さん:
いいですよ。ゆっくりで(笑)。私は、今日はお気に入りのチョコレートが、そこのコンビニで売っていることを発見して、ご機嫌なので。これ好きなんです。ちっちゃい頃から好きなんです。子どもの頃、このチョコレートの箱をいくつもいくつも貯めていました。お母さんに「中身が空なのになんでそんなに貯めるんだ」って叱られて、ある日全部捨てられました。小さい頃片付けられない子どもだったんですね。いまはすごく得意なんですけど。小さいリュックの中に、どんだけ物が入ってるんだってくらいに。中身を出すとみんなびっくりするんです。だいぶ成長してから。
小さい頃はそういうことができなかった。お母さんには「引き出しの中にしまいなさい」とか言われてたんですが、物は見えてないと無いものになっちゃうので、私はその辺に出しておいたんです。そしたらお母さんが「踏んじゃうでしょ」とか「邪魔でしょ」とか言って怒るんですね。私も視野が狭いので、ちょっと隙間があるとそこに物を置いたりとか、目線が変わると忘れて、後ろに下がるとバリッとか踏んで、それを見て「ギャー」みたいな感じで「自分の大事なもの壊した」とかになって、自分で自分の地雷踏んでパニくって。その場合は、自分に対する怒りなんで、数十分、ただ唸ってることとかあって。「この子は問題だな」と、お母さんはその時思ったみたいなんですけど。でも、学習すればそのうち直るだろうみたいな、楽観的なところもあった。
齊藤:片付けられるようになったきっかけは何だったの?
蜜さん:収納ですか?
齊藤:うん。
蜜さん:お母さんに捨てられたことですね。
齊藤:「捨てられちゃならん」と危機感が湧いてきた?
参加者:片付けなきゃというより、捨てられないようにってことですか?
蜜さん:
はい。4歳のときに引越しをします。チョコレートの箱とか、なんでもかんでもとっておいて、そしてそれが何個あるとかそういうことで満足してるわけですから、引越しの際に私のガラクタは膨大な量になってしまっていて。しかも片付けられないでその辺に散らかってるもんだから大変だったんですね。引越しの最終日、お母さんが頭にきて黒いゴミ袋をいくつもいくつも用意して、私のガラクタを片っ端から突っ込んでいったんです。袋がいっぱいになったら口を止めて、また次へと。黒いゴミ袋と一緒に引越ししました。
齊藤:捨てたんじゃないの?
蜜さん:
はい。引越しした後、お母さんは私に「7日以内に全部片付けられたらまた使っていいよ」って言いました。
齊藤:すごくクールな対応だけど、背景には激しい怒りがあるね(笑)。
蜜さん:
「7日間ね」って言われたんですけど、その頃まだ、時間の概念がまだ自分の中になくて、別なものに夢中になって。しかも黒いゴミ袋に入れられちゃったら、中に、何が入ってるか全然見えないから、私にとってないものになっちゃった。
“にゃんにゃん”(猫のヌイグルミ)とは抱っこしたまま一緒に引越ししたので、“にゃんにゃん“は捨てられなかったんです。自分のことを”にゃんにゃん”って呼んでいたくらい自分と同一視してて。しょっちゅう使ってたんで、捨てられなかったんです。
それで、ブラックホールのような黒いゴミ袋がいくつもいくつもあって、それを7日の間に片付けるということができなくて、最終日にお母さんがキレて、「わかりました。きょうはゴミの日なので全部捨てましょう」って言って、ゴミステーションに持ってっちゃって、泣きながら抵抗したんですけど、「何入ってるかわかんないし、私の大事なものだし」って抵抗したんですけど無駄でしたね、大人の力の前では子どもの力なんて。
齊藤:目の前で、無残にも…
蜜さん:
はい、さよならです。そこから、反省しないと捨てられるって思って。どこにしまうと捨てられないのか研究するようになります。大人になるまで、ここにしまえば捨てられないっていうのを、探しながら生きるようになります。
齊藤:
散らかってるから見栄えが悪いとか、欲しいときにすぐに取り出せないから不便というような動機じゃないのね。「捨てられる!」くらいの危機的状況が必要だった。
蜜さん:はい。
齊藤:
0か1なんだね。捨てられるって、かなりレベル高いじゃない?1になったときにはじめてプログラムが起動する感じ?
蜜さん:
無くなったときに初めて「ハッ」って思った。「こうなるのか」みたいな。片付けないと捨てられるっていうのがわかったので、「捨てられないように」っていう風に思いました。郵便受けにプルタブ…昔のプルタブって、リングの部分と(ホワイトボードに絵を描きながら)こんな風になってたの覚えてますか?
齊藤:うん。よく外して遊んだよね。
蜜さん:そう。
齊藤:それでこうピンッて飛ばして遊んでた。
蜜さん:
そうです、そうです、それです。それをやってました、私。(ホワイトボード上の絵を指しながら)こっちを飛ばすんですね。こっちはクニュって曲がってて。このクニュって曲がるほうは、1個か2個でいいんですけど、飛ばすほうはいっぱい欲しかったんです。学校入ってから、通学の途中に集めて回って、それがあまりにも家の中に多くなって、しかもあちこちに置いてあるのでお母さんがまたキレて「捨てる」って言って、捨てられて。それでも私は、集めるのをやめなかったんで、お母さんがある日、「郵便受けの中に入る分だけなら良い」って。「郵便受けに入れなさい」って。「どうせ遊びに行くとき郵便受けの前を通るでしょ?」って。団地に住んでたので。「郵便受けに入る分だけなら良い。ついでに郵便物が届いているか見てから家の中に戻っておいで」みたいなこと言われました。
齊藤:それで納得したの?入る分だけで良かったの?
蜜さん:そうそう。
齊藤:目安ができたから?
蜜さん:
はい。郵便受けに入れておけば、捨てられないっていうのがわかったので。「そっかあ」と思って。
齊藤:なるほど。
蜜さん:「ここならいい」って言われたら「ああそうか」って思えましたよ。
齊藤:捨てられないかどうかが大事なんだね?
蜜さん:
おもちゃは全部そうでした。おもちゃとかお気に入りの道具は、お母さんに捨てられないかどうかです。お気に入りの道具じゃなくても捨てられないものって教科書とかね、あるんですけどね。そういう区別があんまりなくて。お絵かきノートと教科書の区別とかあんまりなかったので。
参加者:
質問いいですか?今のお話に関わって。捨てられたことに対するショックから立ち直るっていう段階がその前にありますよね?
蜜さん:ありました、はい。
参加者:
誰でも、自分の大切にしていたものが、もう二度と手元に戻ってこない経験をすると、ものすごいショックだと思うんですけども、それを自分の中で納得させるなんかコツみたいなのってあるんですか?
蜜さん:
コツですか?コツなんて何もないですよ。うちの親は単に「新しいものが来るよ」って言って終わっただけです。
齊藤:入れ替わるだけだよっていうこと?
蜜さん:そうです。お茶碗のときと同じです。
参加者:そっかそっか。
齊藤:
永久になくなるわけではないってところで納得したのね。代わりがあるということ。
蜜さん:
そうです。さらには「あんたまたどうせなんか欲しいって言うでしょ?そしたら家に物が増えるんだから、いま捨てたってたいしたことにはならないわよ」って言われたんです。
齊藤:で、落ちたの(納得したの)?
蜜さん:落ちました。
齊藤:すごいですね。蜜さんもすごいけどお母さんもすごい(笑)。
蜜さん:
「どうせ人生で一生使うものなんて、今はほとんどないんだから」って言われました。
齊藤:蜜さんの幼少期って相当理解力高いですね。
<蜜さんの母親への信頼度の高さと母親による説得力の高さ>
蜜さん:
うちの母がなんか笑いますね。記憶量なんかも異様だって言いますね。良く覚えているな。って。だから、うちのお母さんは言えば分かる子だって思ったって、よく言ってました。医療機関で診断を受けた時に「お母さん、大変だったでしょ。」って言われたんだそうです。そしたらうちのお母さん「うちの子、洗脳されやすくて、すぐ言うこと聞く子で、楽だったんだけどなあ。」って思ったんだそうです。「よその子って難しいんだなあ。」って思ったそうです。すごく洗脳されやすかったって(笑)。「これはこういうものなだからこうすると良いよ」って言われると、「そうか!キュピーン!」みたいな感じで生きてきたので、単純だなあ、私、みたいな。
齊藤:
それが良いんだね。一見、理屈の様だけど、価値観の押し付けのように無理やり納得させる場合もあるけど、お母さんはちがうよね?
蜜さん:「そうなってるのよ」って言われたことないですね。
齊藤:ああ、そう。
蜜さん:
「こういうこともあるよとか、こういう風なこともあるよ」っていうのが多かったですね。「そうじゃないこともあるけど」っていうのもあった。
齊藤:納得出来るものがその中に必ずあったんですね?
蜜さん:信じてたんですね、お母さんのことを。すごく。
齊藤:あ~、なるほど。
蜜さん:
うちのお母さんに対する私の信頼度って300%位だったんですよね。「この人の説明を聞いておかないと、とっても大変なことが起きる」って思ってました。「この人の説明は自分にとっては有用だ」って。「すごく大事だ」と思ってた。「この人の説明通りに生きておけば失敗は少ない」みたいな。「リスクが減る」みたいな。だから大人がいかに大事かなんです。この人から学びを得ることによって、どれほど自分は便利に生きていけるかということを、小さい頃に感じることができたんですね。
齊藤:う~ん。それは凄いね。
蜜さん:
でも、それだけ不便してたってことです。自分一人で何かすると、大抵とんでもないことが起きてたっていうことです。だから「この人の言うことを聞いておいた方が安全だ」っていう判断です。自分で何かやろうと思うと必ず何かとんでもないことが起きるんですよね。とんでもないことって言うのが、普通の人の考えるとんでもないことの上をいっているんで、尋常じゃないことになってしまう。他の人が想定する範囲内に収める為には、母のアドバイスっていうのが凄く大事だったんです。「世の中は恐ろしいところだ」っていうのが、生まれてこの方ずっと印象としてあるんです。
二十代後半、自分がアスペだと分かって色々考えるようになってから、そうか、私って恐怖に苛まれて生きてきて、お母さんのアドバイスっていうのは凄く役立ってて、小さい頃にお母さんは人生の説明書だと思ってたけど、ある意味説明豊富な親の元に生れて良かったのかなと考えるようになりました。説明の少ない親の元に生れたら、私もっととんでもないことになっていたと思います。
齊藤:
お母さんも昔、おなじようなところで困ったことがあったから、説明が上手なのだろうか?
蜜さん:
困ったというよりも、頭にきてたって言ってました。お稚児さんって知ってますか?
齊藤:お稚児?
蜜さん:
お稚児さん。何歳くらいなんだろうな、小さい子だけ集められて白塗りにして、麻呂みたいな眉にして、シャンシャンと歩く、変な行事なんですけど。むこう(本州)だけの風習かなあ?お稚児に、ある日突然連れて行かれて、何が起こるか分からないうちに、ベタベタ塗りたくられて、そして機嫌よく歩かないからって言われて、叱られて、すごく腹が立ったってお母さんが言ってました。「子どもの意思というものがあるんだから、『お稚児さんしたい?』とか、確認しないで連れて行って、しかも気持ち悪いものをベタベタ塗られて歩けって言われて。散々何キロも歩かされたら機嫌も悪くなるわ」って。
齊藤:(ネットで調べてから)どうやら伝統的な儀式のようです
蜜さん:伝統的な儀式。
齊藤:
大方の子は、不安でも、わあ~って声援を送られたら、思わずえへへへ~って笑っちゃうんだろうけど、幼少期のお母さんは、しっかりと自我を持っていて、私は見世物じゃないっていう意識がどこかにあったのだろうね。
蜜さん:
ムカついたらしいですね。おばあちゃんに手を引かれて、「かわいいよ」って言われて、そこだけなんかこう、良かったなって。おじいちゃんに対しては、反発心があったので、「私をどこに連れて行くんだぁ!」と思ったと言っていました。だから、自分の子どもには「どうしたいの?」って聞こうと思ったらしいです。
うちのお母さんは状況説明を子どもにするのが大事だと思ってて、私はそういうところに生れた自閉ちゃんだったので。ここまでうまく生きて来られたのは、お母さんの世の中に対する考え方とか叩き込まれたからかなと思います。
齊藤:そうだね。
蜜さん:うん。
齊藤:
どこかで、世の中は不条理だということを子どもに説明することは大切だよね。不条理な部分を見せまいとするんじゃなくてさ。その不条理を自分なりにどのように消化すればいいのか。何歳であっても、不条理と感じる事柄はあると思うのね。大人だけが不条理を抱えているわけじゃない。いつも世の中には存在するのです。その事実は大人が伝えるのが義務だとは思うのだけど。
蜜さん:
ええ、子どもを子ども扱いしないっていうのは大事かなとは思います。というか、子どもをちゃんと一人前扱いするというか、そこはちゃんと意思があって言葉を持っていて、人格としてあるものだからそれを尊重するっていうのは凄く大事なことかなと。特に教育とか子育てとかの面ではそうなのかなと思います。
<直感的な動作が苦手なことについて>
齊藤:さっきのお父さんの急ブレーキ、何度やっても手はでなかったの?
蜜さん:たまにちゃんと出てましたよ。ブレーキ踏むって分かっている時は。
齊藤:ほお。
蜜さん:
お父さんが急ブレーキ踏む時は必ず、前か後ろに車がいない時だった。だから前を見て後ろ見て、車がいない時は気をつけようと思ってました。
齊藤:状況をみて予期しているのね?
蜜さん:
それで予想通り、急ブレーキを踏まれたら両手を出す。両手を出したら褒められる。良し!
齊藤:
「前後に車がいない時はお父さんが急ブレーキを踏むかもしれない」というルールができ上がったんだね。
蜜さん:はい!
齊藤:なるほど。
蜜さん:
でも、29歳で私が転んだ時は、車の中ではありませんでしたし、バックミラーを見て前後に車がいるかいないかなんて関係ないですし、つるっと滑ったのは、突然だったし、やっぱり両手は出ませんでした。
齊藤:
予期を誘発するような手がかりがないものね。転びそうっていう雰囲気を自覚するっていうことができていないのかな。
蜜さん:
うん。バランスが悪いっていうのは分かるのかもしれないですけど、このまま行くと転ぶっていうところまでの予測が・・・ないのかなと思います。
齊藤:どうしてだろう?
蜜さん:
大人になってから、私、自転車に乗っている時に電柱にぶつかったりした時には、ガンとぶっかったショックで、その後に倒れるっていうのが分かるので、足を出すとかできるようになったんですけど、その時に何か別の物を持っていたり、何か別のことをしていると、そっちに注意を奪われてしまうので難しい。
齊藤:
意識して身体をコントロールしている感じだね。「ぶつかった→きっと倒れる→だから足を出す」というように。知らない間に体が動いているっていう感じが薄いというか、ないというか。
蜜さん:それはないですね。
齊藤:
意識的に状況を分析してから反応してる印象を受けるんだけど。
蜜さん:「来た!→やるぞ!」みたいな感じですね。
齊藤:
そうかあ。でも、事前にいろんな状況を想定して訓練しておくことは無駄じゃないよね?
蜜さん:
無駄じゃないです。「来た!→やるぞ!」ができる様になったのは、「来た!→考えた!→やるぞ!」が、だんだん「来た!→やるぞ!」になったから、だいぶ速くなりました。
齊藤:やっぱり速くなるんだね。
蜜さん:
なりますね。昔は「来た!→何だろう?→どうしよう?→考えよう→やるぞ!」みたいな感じだったので。
<内的な感覚の意識化について>
齊藤:
ケガなどの目に見える外傷ではなくて、胃がムカムカするとか、体温が変わったとかいう内科的な変化に対する気付きはどうなんだろうか。
蜜さん:全く、分からないんです。
齊藤:成人した今も?
蜜さん:はい。
齊藤:内科的なものは訓練してもなかなか難しい?
蜜さん:
訓練、しずらいんですね。この辺に違和感があるんですけどって言って、すご~く考えた末に病院に行ってみたら、「胃潰瘍です」って言われました。
齊藤:
えー!かなり痛かったんじゃない?痛かったんだろうね、蜜さんの身体は。
蜜さん:
でも、良く分からなかったんです。なんか違和感があるだけなんです。でも「胃潰瘍です」と言われて、でも、そんなに大きくないからお薬で治しましょうと言われて。でも、仕事に行ったりとか、ストレスのかかることは避けてくださいと言われたので会社を休みました。
齊藤:“痛い”じゃなくて“違和感”なんだね。
蜜さん:
なんか、いつもと違うような気がする。以前に、いつもと違うような気がするっていうのを放っておいたらとんでもない目にあったことがよくあったな、このままいくともっとひどいことになるかな、しかもついでにちょっと風邪も引いているみたい、ちょっと熱もあったしなあ、う~んしょうがない、幾つも症状が重なったから病院に行こうかと思ったんです。病院に行って、「先生、熱が37度超えてて、この辺に違和感があるんです。」と言ったら、「胃潰瘍です」と言われたんです。
齊藤:
そのときは、風邪の症状があったから病院にいったんだよね。違和感だけじゃきっと行かなかった可能性が高いんだね。
蜜さん:
私、だからたぶん、ガンになって死ぬとしたら、気付いたときは末期だと思います(笑)。
齊藤:ある意味幸せかもしれない(笑)。
蜜さん:
そうなんです(笑)。 私、今も38度以上の熱があっても気が付かないんです。
参加者:痛みに対する感覚鈍磨と同じですか?
蜜さん:熱にも鈍感なので、自分の体温が上がっているかどうか分からない。
参加者:違和感が先だったの、風邪が先だったの?
蜜さん:分かんないです。
参加者:分かんないのかあ。
蜜さん:
熱があるっていうのはなんで気が付いたかっていうとですね、いつもより体の動きが鈍いと思ったからなんです。動きが鈍い時は熱があることが多いなと経験から学んだんです。体温計で熱を測ったらやっぱり熱があった。でもこれは病院に行くレベルなのか、そうじゃないレベルなのか、ちょっと考えようとも思った。ちょっと考えているうちに、そういえばこの辺に違和感があるな。そうなんだよな。ちょっと前からあったかな。いつからあったかな。う~ん分かんないけど違和感はあるな。う~んって悩んで。そんな感じです。ノロノロしてる。
齊藤:
うちの子どもと似ているのかな。体調が悪いことを気付いてないから、外遊びなんかして、気付いたときには、グターッってなってる。でも、親が、症状を言語化して返してあげて意識化を促すとか、体を温めて気分をすっきりさせてみたりして、自分の体調の良いときと悪い時の差を比べやすくしたりとかするよね。何回も繰り返しているうちにだんだん分かってくる。
蜜さん:
未だにダメです。だから今日私、鼻を垂らしているんですけど、熱があるのか、ないのか分からない状況なんです。体温計があったら計った方が良いだろうなと今思ってます。
齊藤:蜜さんの今日の表情は、具合い悪そうな顔に見えます。
蜜さん:
そんな風に、みんなに言われてから「ああ、そうか」と思って体温計を使うんです。でも、ちょっと動けると元気だと思っちゃうんですね。
齊藤:うんうん。
蜜さん:
動ける=元気っていう間違った考え方が頭の中にあって。それが間違いだとすると、私、365日あったら360日位具合いが悪いことになっちゃう。
齊藤:調子が良い時の方が実は少ないんだね。
蜜さん:
そうです。動ける=元気っていう方程式を私の中から抜いてしまうと、365日中、360日位は調子が悪いことになってしまう。
齊藤:鼻がグズグズしたりっていう兆候はいつもある。
蜜さん:
うん。そうですね。だから違和感が2つ3つ重ならないと病院に行かない。
齊藤:兆候が1つじゃ、行かないのね。いつもあるから。
参加者:熱測らなくていいんですか?
齊藤:そうだね、熱あるんじゃない?
蜜さん:
放っておくしかないです。あっ、いいものあったんだった!最近、コンビニでこんなもの売ってるんですね。
参加者:それ何ですか?
蜜さん:こう見えても体温計(薄っぺらいカードみたいな体温計)。
参加者:お~!!
蜜さん:
体温分からない人だから、こういうものがあると便利だなと思って、買ったんですよ。
参加者:どこで測るんですか?
蜜さん:口の中でも良いですし、脇の下でも良いそうです。
齊藤:どうぞ、測って下さい。
蜜さん:便利でしょ。
齊藤:
気分を意識することはどうなのだろうか?今日は不安だなとか、いやな予感がするなとか、イライラしてるなとか。
蜜さん:あんまりない。ちょっとは気がつくときもあります。
齊藤:どんなときに気付くの?
蜜さん:
やっぱり身体の動きが鈍いときかな。なんか「身体の動きが鈍いな」とまず思う。その次に「からだの調子が悪い」状態に移行しなかったときには、病気ではなく気分が悪いのかなと考えます。体調じゃなくて気持ちの問題なのかなという風に。
齊藤:手がかりは、身体の動きというような外部から確認できるものなんだね。
蜜さん:はい。
齊藤:
内的な感覚じゃないのかあ。胃の辺りがズンッと重たいとか、心臓がどきどきするとか。
蜜さん:
皆さんの感覚とは違うかもしれないんですけど、たとえば普段だったら5分で家を出られるところが今日は30分かかっていると、これは体調が悪いなという風に考えるんです。体調が悪いから時間がかかっているのねっていう風に考えます。
齊藤:ふうん。
蜜さん:
最初に時計を見て、それからもう一回時計を見たときに「いつもより針が進んでいる=自分の動きがのろい=ちょっとなんか考えなきゃな」っていう風な感じです。
齊藤:
内的状態を推測するには、外部にある数字を介さないといけないんだね。僕が蜜さんに「顔赤いよ」って言ったくらいでは、次からその状態を記憶して利用できるとは限らない?。
蜜さん:
「顔赤いよ」って言ったら「本当?」って「鏡貸してくれる?」っていうそんな感じです。
齊藤:事実を確認しておしまいっていうことだね(笑)。
蜜さん:
そうです。それが熱に関係あるかどうかはわからないし。私が恥ずかしいから赤いのかなとかも考えられる。そういうところまで話を膨らませてもらわないと。
齊藤:なるほど。
蜜さん:「赤いね」終わりみたいな。
ピピピ(タイマーの音)
蜜さん:7度5分超えてますね。
参加者:えー!
齊藤:ここで講義やめようか?家まで送るよ。
蜜さん:大丈夫です。私38度超えてなければ動けるので。
齊藤:わかった。じゃあ今日は家まで送りますので。
蜜さん:
はい。7度6分ありました。でもこれは序の口ですよ。私、大人になって自分が具合悪いってまったく気がつかないで仕事に行って、しばらく働いて、何時間か経ったときに、顔が真っ赤だったらしくて、首の辺りも赤かったらしくて、私ファミリーレストランに勤めてたんですけど、後ろからパントリーっていって、お料理が出てくるスペースのところに入ってきた女の子に後ろから「ねえねえ、首の辺りとか顔とか赤いけど大丈夫?」って言われて「熱あるんじゃない?」って言われて「測っといでよ」って言われたんで、体温計で測ってみたら38度超えて9度くらいあったのかな。「39度あった」ってケロッと言ったら「ほかの人に風邪移すから帰れ」って言われたので帰りました。
齊藤:動けてるんだね?
蜜さん:
動けるんです。ちょっとのろいんですけどね。そんときはたぶん時計見なかったんで気がつかなかったんでしょうね。
<入力と出力のアンバランスについて>
蜜さん:
私、数日前、入力について考えたんです。建物に例えて。おお、これしっくり来るって。私たちの中には、入口は広いけど出口に狭い人がいっぱいいるよなって。
齊藤:どういうこと?
蜜さん:
入口広いから、お店でお買い物が出来ると思って、お客がいっぱい入ってきて、でも、出口が狭いから、出られなくなって。なんでこんな設計にしたんだ!ってお客に怒られるみたいな。つまり、入力は多いけど、出力がうまくいかない。そういう人、アスペルガー症候群の人の中にいっぱいいるよねって仲間と話してたんです。入口は大きいけど、出口の狭いデパートみたいな感じだよねって。
齊藤:出口に殺到したら危ないね。
蜜さん:
そうです。デパートの中で渋滞するから、みんな結構苦しいんです。だから、(意識的に)お客さんをいないことにしたりとか、そもそも入ってなかったことにしたりとか。あと入場制限かけたりとかする。
齊藤:意識的にいないことにして、仮想的に心のスペースを増やすってこと?
蜜さん:そう。時々お客様の中におかしな人がいて。金槌持ってる人とかがいて、
齊藤:頭の中で出口を叩くの?
蜜さん:
出口を広げることは、それはそれですごく自分が傷つくことなんだけど。とっても苦しいし、嫌なことなんだけど。でも、結果として出口が広くなってみたら、少し楽になったっていうこともある。
齊藤:出力が少ないというのは、表現方法が分からないっていうのと一緒?
蜜さん:
うん。大人になっても出口は狭いんですね。狭い出口に、お客が集まってきて、ガンガン叩いて壊してくれて。その時はハートブレイクな感じなんですけど、後で役に立ったねっていうこともある。でも、そのお客さんは不満たっぷりで出口を壊して帰るわけですから、それ以降そのお客さんは来ない。ということでそのお客さんとの関係はもう作れない。
齊藤:
うん。出口を広げてくれたことには感謝するけど、だからと言ってそのお客さんと信頼関係が築ける訳ではないということね。
蜜さん:はい。
参観者A:
今までの話は全部入力の話のように聞こえてきて、出力について何かエピソードはないんですか?
蜜さん:
出力ですか?私がやっていることに、ふと関心を寄せてくれたと時に「ああ、良いことだ」ってラベリングがされると、次からそれをやるっていうのはある。
あと小さい頃にたくさん入力がないと、あとになってからの出力が難しいのかなと思います。うちのお母さんほど、入力をたくさんしてくれている親はいないということが、他の当事者さんの話を聞いて感じますね。うちのお母さんと話をするとすごく視野が広がるみたいに言う当事者さんがいて、「蜜さんのお母さん良いな」って言ってくれます。こういう人が傍にいると便利だよねって。
でもうるさいこともあります。今日もそうなんですけど、私がパソコンに入力してる時に、お母さんが何か喋りかけてくるんですね。お母さんの喋ってることに注意を向けるとパソコンの入力を間違うのでイライラする。さらにお母さんはテレビを付けながらそれをやるわけですよ。私はテレビを聞きながら、お母さんの話を聞きながら、パソコンをやらなきゃいけなくて、でもそれはすごく難しくて。それをいっぺんに持ってくるお母さんにだんだんイライラしてくる。私がやってることを、突然後ろから覗き込んだりもするんですけど、私、音がこの辺(肩の辺りを指して)から後ろから迫ってくるのが、すごく不快なんですね。
齊藤:肉食動物に食べられまいとして、背後を警戒する草食動物みたいだね(笑)。
蜜さん:
笑。特に肩の後ろから聞こえてくる、咀嚼音?くちゃくちゃと物を食べてる音が不快。
齊藤:
まさしく草食動物的な恐怖だね。食べられるかもしれないという本能が作動しているのかもしれないね(笑)。
蜜さん:
私がパソコン入力してる時に、お母さんがオニギリとか食べながら近づいてきて、くちゃくちゃ音をたてるから、私、腹が立って、そのへんの物、パシッて投げつけたりとか、「うるさい」とかって言って怒るんですけど。お母さんやめないんですね。そういうところはすごく嫌だなんて言ったら、お母さんに対してちょっと失礼なのかな。
齊藤:良いんじゃないですか?親子ですもん(笑)。
蜜さん:
わがままかなとか。最近、みんなが、良いお母さんだねって言ってくれるので、そんな良いお母さんに対して、不満を抱くということは、とってもわがままなことなのかなとちょっと反省したりしてます。
齊藤:
さっきの話に戻るけど、お母さんの蜜さんへの働きかけは、入力ではなくて、出力を増やしているように聞こえるんだよな。ちゃんと場合分けしてから入力してるでしょ。場合分けしないで入力されたら、後で頭の中で自分で整理しなければならない。でも、お母さんは、出力を想定した上で、最初から入力を仕分けているからこそ、今の蜜さんの表出力の豊かさになっているのではないかと思ったりする。
参観者:
本人的には入力にしか感じないけど、実は出力に繋がってたってことですね。
齊藤:そうそう。
蜜さん:
あのー、私は基本的にこういう人(入口が広くて出口が狭い図を描いて)ではあるんです。きっと、お母さんは交通整理の仕方を教えてくれたんですね。あんたはこういう状態なので(入り口が広く出口が狭い状態)、こういう風に(入口と出口の幅が同じになるよう)お客さんを入れれば良いんじゃない?という風に。
齊藤:入力を出力の幅に合わせるということですね。
蜜さん:うん。
齊藤:なるほど。
蜜さん:
幼児期、私が暴れていた、うちのお母さんは、この子は入口にあわせていると思ってたんですよね。入口が広くても出口が狭いから、どうにもならなくなって癇癪起こす。だから出口に合わせたら?っていうことを私にアドバイスするわけですよ。私を見ていると、入口は広いけど出口は狭いという分析を最終的にしたのだと思います。だから齊藤先生の仰ることは、私の感覚で言えば交通整備という言葉で整理されるんだと思います。
齊藤:
定型発達者は出口が広いのかな?それとも交通整備が上手?蜜さんからみると、どう見えるの?
蜜さん:出口も入口も無いんだと思います。広場なんだと思います。
齊藤:あらゆる方向から出入り自由な感じだね。
蜜さん:
そう、あちこちで誰かと繋がって。野原でやってるフリーマーケットみたいな。
齊藤:
ほお。システムがオープンなんだね、定型発達者は。アスペルガー症候群の人は、情報の流れが直列で、なおかつクローズシステムなんだね。計算モジュールみたい。
蜜さん:そうそう。
齊藤:
そんなに僕たちってオープンかなあ?少なくとも僕は直列な気がします(笑)。
蜜さん:
私が思うに野原の人と建物の人がいるわけですね。建物の人は、いっぱい入れて出口で詰まって、みんな怒るみたいな。怒られても何が起こったか分からないから、構造上の欠陥でした、すみませんでしたって謝るしかない。
齊藤:野原は出るのも自由だし入るのも自由?
蜜さん:はい。
齊藤:野原の中では均衡は保たれてるの?
蜜さん:はい。
齊藤:なるほどなあ、そんな風に見えるんだなあ。
蜜さん:建物タイプは論理的な人。野原タイプは感覚的な人。
齊藤:うちの奥さん野原タイプだなあ。僕は建物タイプだと思う。
蜜さん:野原タイプの人は、入口と出口どこにあるかよく分かんない。
齊藤:
わかるなあ。どこ向いて喋ってるのか分からないし、どこ向いて行動してるのかも分かんないときがある。もっというと何を利益に動いているのかがよく分かんないときもある。
蜜さん:
アスペルガー症候群の人の中に、建物の中が迷路になってる人がいます。中は迷路なので、お客さんが流れるのに時間がかかるので、渋滞する。だから、入口を一旦閉めて、入力を一回カットしちゃえば良いんじゃないかって思ってる人。感情のスイッチを切るっていう感じ。
齊藤:水量が増えてきたから、水門を閉ざすみたいな感じ?
蜜さん:
そう。それで、入力を止めている間に、迷路の中にいる人たちの交通整理しようみたいな。
齊藤:
入口さえ止めれば順次お引き取り願えるっていうシステムなのね。面白いなぁ。
蜜さん:
中が空いてきたら、入口をまた開けて、中がいっぱいになって出口が渋滞してきたら、また入口を閉めるみたいな。以下、繰返しみたいな。
でもたまに、迷路の中で、ある人が気付くわけですよ。この迷路ってこう通ればすぐに出れるんだっていうことが。
齊藤:すると出口にみんながだぁーっと押し寄せる!?
蜜さん:そう!みんながだぁーってなるんですよ(笑)。
齊藤:
その瞬間は、意味が分かったとか、感情がラべリングされた瞬間に相当するんだね。
蜜さん:
出口では、人が死んだりとか、苦しいことが起きたりして、すごく疲れる。疲れたり具合悪くなったりする。それ以降、何も出来なくなったりする。
齊藤:
やっぱりクローズなんだね。定型発達者は、自分は論理的に真っ直ぐと考えてると思いつつ、実はあらゆる方向から影響を受けながら変容しているように思う。
蜜さん:広場だから、私は移動してないって言うんですよ。
齊藤:
そうだね!一貫性はあると定型発達者は思い込んでいるけれど、実は流動的なんだよね。ところで、迷路のメタファーって何に当たるんだろうね?迷路は大事だよね。
蜜さん:迷路大事です。
齊藤:
自分の心を外部の圧力からを守るためには特に大事だよね。まずは入場制限できるっていうのが大事でしょ?
蜜さん:はい。
齊藤:
次に、入ったお客さんをいかに混乱させないように交通整理するのかってことが大事だよね?
蜜さん:はい。
齊藤:広場にはなれなくてもさ。
蜜さん:はい。
齊藤:
入力をすぐに出力に結びつけずに、何ステップも何ステップも場合分けしながら考ることが迷路に当たるかな?
蜜さん:そうなんですよね。
齊藤:
そうだよね。場合分け思考が迷路の役割をしていると考えてみよう。
蜜さん:
問題なのは、その人にとって答えは一つなんですよ。答えは一つだって分かっているけど、同時に選択肢がたくさんありすぎる状態なのかな。やっぱりしっくりビンボーの話になるんですけど、自分にとってしっくりくることは一つしかないのに、迷路なもんで選択肢もしくは場合分けがいっぱいあって。選択肢をたくさん持っているけれども答えが一つしかない人。
齊藤:
出口が一つしかないのに、選べるものが一杯あるから迷っちゃうんだね。定型発達者は、その場その場で出口を変更するもんね。みんなに言われたら「それもありかな」って瞬時に変更するのは広場タイプの人は得意だね?
蜜さん:
はい。迷路を持つ人は、答えが一つしかない人だと思います。さらには自分には答えが一つしかないっていうことを分かってない人たちです。
齊藤:
ああ、それしっくりくるね。出力はいっぱいあると自分では思い込んでいるけれど、自分が納得する出力は一つしかない。本当は建物タイプなのに、広場だと思い込んでいるということになるのかな?
蜜さん:
そう、それしかしっくりこないのに、いくつもいくつも探しあぐねるので、すごい時間がかかるし、すごい疲れるし、すごい渋滞も起きるわけです。みんな一気に出口に押し寄せるのでパンクするんです。
齊藤:
そういう人は自分が色んな選択肢を持っていると自覚してるのかな?
蜜さん:
んー、知識として知ってるだけだと思いますね。自分が欲する出力は一つなんだけどそれに気がつかないというか。
私は、あんたの人生はあんたが選ぶんだよって言われてきた。あんたが決めないで誰が決めるのって。例えば「あんたの代わりに、お母さんがトイレに行ってすっきりするの。あんたはすっきりしないでしょ」って。トイレの問題はあなたで解決しなさいって言われてたんです。
ただトイレは2階にもあるし3階にもあるけど、あんたはトイレしたいのって言われるだけじゃ、知識だけが蓄積されるだけです。「どこにトイレがあるのかは知ってるよ」って。でも自分がトイレに行きたいかどうかは別のこと。
齊藤:
出口に合わせて入力の幅を揃えることがないまま、選択肢だけ増やすと、かえって出力が混乱することがあるということだね。
蜜さん:
はい、たぶん。私が、出力している時に、それを見た人が「あんた、ちゃんと出てんじゃん」とか「あんたこうしたいんだ、ふーん」とか、反応があったから、出口を整備することができたんです。「あんたの出力は、こうなんだからこうしたら」っていうのがはっきりしてたんだと思います。あんたの出口をどこに作るかはあんたの建物なんだから自分で決めなさいみたいな。ところでうちのお父さんは「入口>出口」で、お母さんは「入口=出口」ですね。
齊藤:
蜜さんは、両親のハイブリッドだね。お父さんのモデルを性質として受けつつ、その中にお母さんのモデルを搭載したという感じ?
蜜さん:そう。
齊藤:素晴らしい。
蜜さん:
だからお父さんの性質で生まれたんだけど、交通整備の仕方はお母さんが教えてくれたみたいな。そういう感じなのかなと思います。
最近、入力・出力について当事者会の中で話が出ますね。相手がどう受け取るかまで考えないと出力は難しい。相手の反応が自分の期待や想像するものと違うことが多い。そうすると自分がびっくりしてしまう。自分がびっくりしないように出力するには、どうすればいいかわからない。
齊藤:お互いに?
蜜さん:
はい。お互いに。空港の検査場ってあるでしょ?検査場行った時に、みんなが考えることって同じだと思うんです。すぐ通れる場所を選びますよね。入口が広いと人が少ないように見えるから、すぐ通れるんじゃないかと思う。でも、行ってみたらやたらと荷物をたくさん持っている人がいて、やたらと時間がかかることってあるでしょう?そういうことが頭の中で起きてて。自分が荷物をいっぱい持っている場合、他のお客さんにかかる迷惑とかそういう所まで考えないじゃないですか。そこまで考えて検査場に行くのは難しい。自分の荷物だから、飛行機の出発時刻が迫っていたら、否が応でも荷物を持って突撃しなきゃいけないでしょう?いつも、そういう状態です。急いで飛び乗る時の検査場に、常にいる感じ。そういう時に、他の人にかける迷惑とか、どこを通れば自分が安全にしかも速く出られるかなんて全然分からない。私たちは、荷物をそんなに多くは持ってないだろうと思われるけど、意外と荷物持ってたりして。
齊藤:
空港は検閲が厳しいよね。検閲が厳しいのは、危険を排除するためだよね。そうすると、蜜さんの出口が混むのは、検閲なしに出力すると、自分がびっくりしてしまうような事件が起きるから、意識的に検閲を強化しているとはある?
蜜さん:そういう人もいますよ。
齊藤:検閲が強い人は多いかな?
蜜さん:
うん、多いですね。出口が混雑する理由は他にも考えられます。例えば、自分が荷物をいっぱい持っているのを知らない人がいます。他の人と比較しないから。出発時刻ぎりぎりで飛行機に乗ろうとしてる人って、自分の荷物が大きかろうが小さかろうが、そこ通るしかないわけだから、他の人が小さい荷物で先に預けてるからどうだとかそういうこと考えないでしょ?通らなきゃいけないのは一緒ですから。だからこそ「~でなければならない」思考になるんだと思います。
齊藤:
飛行機に持ってく必要のない荷物もいっぱい持って検査場に押し掛けているっていう可能性もあるっていうこと?
蜜さん:
はい。でもそれは良く分からないし、全部自分の荷物だからその辺に捨てていくわけにもいかなくて、自分で持っていなければいけない。そうせねばならない。そこを通らなければならない。結果的に「~でなければならない思考」みたいになる。
齊藤:
入口から出口の過程で、情報がフィルタリングされて、減っていかないんだね。情報の選別はしないのかな?
蜜さん:選別してる時間が無いのかも知れません。空港に例えるのであれば。
齊藤:そうか。じっくり時間があればできるもんね。
蜜さん:
両手が出るか出ないかの話ですけど、「きた!→そうか!→考えた!→やる!」ってやるところを、定型発達者は、「よっ」と一言で終わるわけですよ。
齊藤:うん、そうだね。
蜜さん:
「よっ」ていう風になるためには、「きた!→そうか!→考えた!→やる!」を一気に出力しなきゃいけないですよね?そうすると、考えてる時間が無い。いつも煽られてる気持ちになって入る気がします。
齊藤:落ち着かないね。追いかけられてる感じだね。
蜜さん:うん。
齊藤:
ADHDは前のめりに物事を進めている感じがする。追いかけられているというよりは「空港に早く着きすぎて、まだ飛行機来てない」みたいな。未来を先取りしすぎて、いつも待ちぼうけ状態のしんどさを感じることが多いように思うんだけど。
蜜さん:
だとすると、アスペルガーの人は、たくさんの荷物を検査場の人が何回も何回も検閲するって感じですよね。
齊藤:そうだね(笑)。
齊藤:
お母さんとの相性はそういった意味でも良かったのかもね。ADHD的な生き方とアスペルガー的な生き方との良いところが、お互いに補い合っている感じがする。未来先取り方のお母さんの説明が本当に役立ってるもんね。
蜜さん:表現力という意味では成功例なのかなと思います。
齊藤:
蜜さんは、講義のあと「今日の内容で良かったんでしょうか」といつも確認してくれますが、とても分かりやすいですよ。
参観者:そうですね。
蜜さん:
でも、自閉症の人は迷路の中で困ったり、自分が迷路なことを知らなかったり。出口が狭いことを知らないために、消化不良になってる人が多くて、みんな便秘なんですねえ。
齊藤:
頭の便秘ね。思考の便秘ですね。なるほど、よく分かりました。じゃ今日はここまでにします。次回からは学齢期に入ります。ありがとうございました。
第3回 蜜さん講義(平成23年10月18日) 前半
蜜さん:
よろしくお願い致します。前回に話した“手をつかない”っていう話をまとめました。
蜜さん:
手をつかないっていう話の補足です。車に乗っているとき、両親が何回も急ブレーキを踏んで、私が手をつけるのかどうかっていう練習をさせられたんですけど、急ブレーキですら、手をついたり、つかなかったりして。「どうしてそれができるようにならないのか、人間の反射反応だろう」ということで、両親はすごく不思議に思ったとのことです。
手をつけないっていうことがいかに問題かというのを、29歳の冬に再び経験することになります。29歳の冬に、大量の荷物を持っているときに転んだんです。そのとき、卵を持っていたんですね。「あっ、卵が割れる」って思って、卵は守ったんだけど、雪道のつるつるのところに顔面を強打してしまって。なんかポタポタって…なんか生温かいものがこう・・・。でも冬だったんで、この辺は(顔全体を指して)冷たくて麻痺していたんで、「顔がない」と思って。痛みに鈍磨なので痛くはなかったんですけど、痺れ具合がいつもとなんか違うぞと思って。触ったけど痺れているから「やっぱり顔がない」と思って。「顔がないのは、ちょっと変だよな」と思いながら、視線を手袋に移すと、真っ赤になってて。「ギャー、手袋が真っ赤になっている」と思って。かばんからティッシュを出して「このティッシュが真っ赤になったら、鼻も頭も出血してるってことだから、病院に連絡したほうがいいのかな」なんて冷静に考えながら、しばらくそこにうずくまってたんですけど。その後、携帯で119番通報しようと思って、ボタンを押そうとしたんだけど、血でぬるぬるしちゃって。ひとりでもじもじしているところを、除雪してたおじさんが近づいてきてくれて。そのおじさん、その辺一帯が血に染まってるのを見て驚いてた。「ヒャー」みたいな感じで。そして、私が携帯に向かって「ここは北21条なのか、それとも19条なのかどこらへんなのかはっきりわかりません」とか言ってると、おじさんが携帯を私から取り上げて「いまどこそこで…女の子がなんとかでかんとかで…」って代わりに通報してくれて。そして救急車で運ばれました。
齊藤:救急車?
蜜さん:
そうです。頭部出血なんで。普通の人ならこんなことはないんですね。病院のお医者さんに何回も何回も確かめられました。「他人に殴られたわけじゃないんだよね?誰かをかばってるわけじゃないんだよね?」って。何回も質問されたんで「うるさいなあ、この医者は」って思いました。私は「転んだだけなのに。血が止まればいいだけなのに」と思って腹が立ったんですけど。おそらく、お医者さんは「荷物は無事なのに私の顔面だけがケガをしている」っていうのが不思議だったらしくて。卵はもちろん割れずに無事だったんですよ。両手で保護しましたから(笑)。
カモミールのみんなですら「こんなことはまずない」って言う。雪道で滑ったら、普通は卵が犠牲になって自分は犠牲にならないっていうのが通常の反射的反応だろうっていうことで。自分ではなく、卵を救ってしまったという面白い人間というか、何かが欠落してるっていう話でした。
蜜さん:
私は「周りを良く見なさい」とか「人のことも考えなさい」ってよく言われてたんですね。お母さんは、私が周りの人に対して注意を向けていないことが多いと感じてたからです。お母さんは仕事をしていたので、ほかの人にわがまま言って迷惑かけないように、それから職場に連れて行ったときに邪魔にならないようにと「気を遣いなさい、あんたはおまけなんだから」って。これ、別の場所でも良いルールになるんですね。小学校入った頃から、このルールはすごく役に立ちました。周りの人がどうしてるのか、よく見て真似することっていうのはすごく大事なことだったんです。小さい頃は観察するだけで終わっていたのが、小学校に入る頃から真似ができるようになりました。このルールは便利だったし、すごく助かりました。
蜜さん:
ドラえもんのことでキレた話です。お母さんは、私のことを賢い子だなって思ってたらしいんですけど、一方で頭の切り替えがへたくそなんで、だいぶ長い間、お母さん怒り続けてたみたいです、いくら謝ってもダメ。私にはしょっちゅうこういうことがありました。
千葉の祖父母には「屁理屈こねる子だ」って言われていた記憶があります。祖父母の家に遊びに行って、お母さんが冗談で「障子の紙に、つばつけた指で、ピッて穴あけたら面白いよ」って言ったんです。普通は、障子の張替えの時期するもので、張り替えて新しくなったらそれはしてはいけないんですね。私が祖父母の家に行ったときは、張り替えた直後だったんです。でも、私には障子を張り替えた後だとか前だとかっていう情報がなかったので、穴開けて遊んでました。当然、祖父母に叱られる。そのとき私は、「(お母さんに)面白いって言われたからやったんだ」って言ったら、「そういう屁理屈ばっかりこねて」って祖父母に叱られました。そんな理由でしょっちゅう怒られてましたね。
蜜さん:
お母さんは、職場に私を連れて行くことが多かったので、子ども言葉で教えませんでした。私は小さい頃に覚えた言葉にこだわりがあって、例えば「スパゲッティ」のことがまだ言えなかった頃、「パピッピ」って言ってました。お母さんが「スパゲッティ?」って聞き返すと、私は「パピッピ」って言い直してたりしてました。「マクドナルド」は「マクマルド」、「かかと」を「かとと」、「バナナ」を「ババナ」と言ってました。言葉に執着というかこだわりがあって、間違った言葉を執着を持って覚えてる変わった子だなと思われていました。でも面白いし、子どもだから放っておこうという感じでゆるい環境で育ったらしいです。まあそのうちちゃんとした言葉を覚えて、通じるようになったみたいですけど。
覚えた言葉遣いは、すごい丁寧でした。うちの両親は自分で何でもできるようにというのを念頭においてたので、デパートにご飯を食べに行ったときなど「お水が欲しかったら自分で言いなさい」って言われてた。「そういうときには『お冷をください』って言うんだよ」って言われてたので、すごく小さい私が「お冷をください」って言うんですね。電話出るときも…
おっ、大変。携帯電話の音を切るのを忘れていて、びっくりしました。で、電話…。電話、電話は違う…えっと…。
齊藤:ゆっくりでいいよ。
蜜さん:
いえ、電話なんです。電話の話なんですけど、電話の話と電話の話が混ざっちゃってちょっと混乱しました。えっと、電話が…。うちの両親、事業を立ち上げて会社からの電話を自宅で受けるようになりました。まだ幼児の私は、「ただいま父と母は外出しておりますが何か言伝はございますでしょうか?」みたいな感じで答えてました。「どちらさまでしょうか?」なども言ってました。
参加者:すごーい。
蜜さん:
両親は、そういうことを紙に書いて私にインストールしたんです。私はそれをきっちり覚えて言ってたんで、すごくできた子だと思われてました。5歳とか6歳の頃、保育園に通う頃には、紙を見なくても言えるようになって。文字を覚えて読めるようになったから、そんな感じだったんですね。でも、小学校行ってからは、そのギャップが大変なことになるんですけど。
子どもだからこそきちんとした言葉遣いができないと、大人は相手にしてくれない。子どもだから大人に助けてもらうことが必要なことがたくさんあるのだけれど、子どもが「やだー」とか「こわーい」とか「あんた、だれ?」とか言ってたら相手にしてもらえない。きちんとした表現をというのがうちのお母さんのポリシーだったらしくて。教えられた言葉をかっちり話していました。
おかげで小学校に通うようになるまで方言を知らなかったので、すごいズレがありました。うちのお母さんは東京方面から来た人なのでほとんど方言がないんですけど、(札幌の)学校に行ったら、クラスメートに「バクる」とか言われた。私は「バクる」の意味がわからないから、しばらく黙ってたんです。そういう場合、沈黙って同意と受け取られるんですね。黙ってるだけなのに、了解したっていうことにされてしまうんです。黙ってたら、勝手に自分の大事なものを持っていかれちゃって。代わりに、どうでもいいような、私にとってはいらないものを押し付けられて。一体、何が起きたんだと思ってパニくって泣きました。
齊藤:当時、「バクる」は使わなかった?
蜜さん:
はい。「バクる」は使いませんでした。小学校入ったときには意味が分かりませんでしたね。「ゴミ投げる」はさすがにわかってました。近所の人が言うんで。「ゴミ投げる」は聞いたことあるけど、「バクる」は聞いたことがなかったんですね。「じょっぴんかる」も大人になってから知りました。「じょっぴんかるってなに?」って聞いたら、「それはね」って説明されました。「田舎の人が使うんだよ、鍵をかけることだよ」って。
話は少し変わりますが、私は、雪祭りは、2月じゃなくて12月にあると思い込んでたような人間なので、一回誤学習しちゃうとなかなか修正が難しいんです。私はホワイトイルミネーションが始まってから、長い期間やってるのが雪祭りだと思ってたんですよね。なんかこう、雪が降ってつらいのもみんなで乗り越えようねっていう、そんなお祭りだと思ってたんです。すごい誤解でした。
齊藤:蜜さんの雪祭りは、雪のある間、ずっとやってることになってたんだ。
蜜さん:
はい。大きな勘違いでした。私にとっての雪祭りの終わりは、雪像を取り壊して立ち入り禁止になるときです。あれが雪祭りの終了だと思ってたんです。ホワイトイルミネーションでキラキラし始めた頃から始まって、「今年も雪祭りのシーズンなんだ、これからなんだ」みたいな感じで盛り上がって、雪像とかできて「オー、今年もこんなに雪が降ったんだ。それをみんなで喜んでるんだ」と思って。取り壊しになって、「終わったんだな」みたいな。高校3年生まで思い込んでた。高校3年生のときに雪祭りの話を友達にしたときに「お前は雪祭りを何だと思ってんだ」って言われて。そのとき初めて雪祭りの意味を知りました。
言葉のことに戻るんですけど、自分の中のあいまいな意思を誰かと確認したり、共有するということにあまり関心がなかったので、他の人が使っている言葉を自然に学習するっていうことが、あまりなかったみたいです。お母さんに「こういう風に言ったら」とか「こういう表現を用いたら」とか「ほかに言い方があるでしょ。こういう言い方はどう?」って言われて、初めてそれをインストールしてた。
テレビの画面って狭いじゃないですか。あれくらいの情報だったら、自分の中に入ってきやすいんですけど。それでも、画面の全体を見るっていうのは、あんまり得意ではなくて、一部分とかを見て、そのキャラクターがしゃべってる時だけインプットしたりとかして。他のキャラクターがしゃべってるのは、なんとなく分かっているんだけど、ふわふわしていて。よくよく見てみたら「ああ、もうひとりキャラクターがいたのね」みたいな感じで、あとから気付くんです。でもそのキャラクターを見た瞬間に「あっ、消えた」みたいな。「結局、どういうことだったんだろう」って、テレビの見方がわかんなかったりして。まあそんな感じで言葉を覚えるっていうのは周りに関心がないとなかなか難しいんだなっていう印象が私の中にあります。
相手が私にタイミングを合わせながら聞いてくれるっていうことがない限り、誰かと会話するというのは難しかったと思っています。誰かと会話できないと、言葉って育ちにくいのかなって思います。言葉は、誰かと意思の疎通を交わしたいと思ったり、表現したいと思ったときに使う道具なのであって、そうじゃない限りなかなか必要性を感じにくいと思います。私のお母さんはプリインストールを一生懸命してくれたので覚えることができました。
蜜さん:
「あなたはどうしたいの?」って、お母さんにはしょっちゅう尋ねられました。自分の中の意思を確認をされることがすごく多かったです。でも私は、自分の中の意思に気付くまでがとても遅いので、「あなたはどうしたいの?」っていう質問はすごく難しかったです。自分のことなのにどうでもいいこと思うことがすごく多いんです。でも反対に、これじゃなきゃダメっていうのもあって。“8対2”くらいで、“2割”がこれじゃなきゃダメっていうもの。残りの“8割”はどうでもいいというか、よくわからないというものですね。自分じゃ判断がつかないというか。それはいったいどういうこと、どういうもの、どういう風にしたらいいのかってことが、皆目見当がつかないことが多かった。でも「あなたはどうしたいの?」って聞かれるから「答えを出さなきゃいけないのかな」とか悩んだりしていました。でも、どれが自分にしっくりくるのかわかんないから、すごく不安で…。やってみたとしても、しっくりこないとそれはそれで落ち着かなくて。自分の中の地雷みたいな感じになっちゃって。すごく困った問題でした。これは仲間同士の造語なんですが、しっくりこないって意味で「しっくりビンボー」って言葉を使ったりして遊んだりしてます。「私、今、しっくりビンボーだわ」とか言ってます。
蜜さん:
そんなしっくりビンボーな私に、親がしたことは「どう考えているのか、なにをしたいのか」っていう意思表示を求めることでした。このようなスパルタ的な要求は、私の自己表現の多様さにつながっていって、こうやってみなさんにお話できるようになっているんだなっていうのを、今は痛感しています。
ただうちの親は「どうしたいの?」って尋ねるだけじゃなくて。例えば、私が困ってるとしますよね。すると「答えがないのかな」それとも「すぐに思い浮かばないのかな」っていうところまで推論してくれる両親でした。答えを見つけられないで、私が悩んでると選択肢を与えてくれたんです。「バナナがいいの、りんごがいいの、どっちが食べたい?」っていう風に。「それともナシがいいのかい?」とか言われて。あまり選択肢が多いと悩みすぎて選べないんですけど、2択か3択くらいならありかなと思います。私としては、2択が一番助かるんですけどね。なぜかというと、じゃんけんして勝ったか負けたかで決めれるから。私、買うか買わないかで迷ったときに、お母さんとじゃんけんするんです。「お母さんが勝ったら買う、私が勝ったら買わない、最初はグー、じゃんけんポン」みたいに。自分で決められないっていうことがよくあります。アバウトなものっていうのはすごく難しい。いるのかいらないのかがわからないものの場合なども。だから、じゃんけんで決めたものについてはあとで後悔しないようにと思っています。
齊藤:
それは、買うために必要な決定的な根拠が見つけられないからってこと?
蜜さん:そうです、そうです。
齊藤:暫定的にじゃんけんの結果を根拠にするわけだね。
蜜さん:
そう、根拠として。じゃんけんで負けたから買わなかった。はい、終わり。みたいな。
齊藤:なるほど。
蜜さん:
でも、小さい頃はじゃんけんなんて思いつかなかったので、両親の示してくれる具体例というのはすごく助かったんです。こういう道もあるし、ああいう道もあるし、こういうやり方もあるし、ああいうやり方もあるよ、みたいなのをいくつか示してくれて。その中で「私はこれがいいと思う」っていうのを選ぶ。「あんたが選ぶのは自由よ」という空気の中で育ったのは、すごくよかったかなと思います。なんでそうなったかというとうちのお母さんは「黙って親の言うことを聞けばよい」という教育が嫌いだったからだそうです。だから、私の意見を聞いたと言っていました。
でも、そこまでだとすごく困るんです、自閉的には。前にお話したとおり、先生がおっしゃっていたとおり、私には「手札がない」状態なので。手札がないのに「どうしたいの?」って言われても、「何がいいんだろう」っていう状態なので。でも「イチゴのカードとりんごのカードとバナナのカードとあるけどどれがいいの?」っていう感じで言われると「じゃあイチゴかな」って選べる。そういう意味では、親の提示してくれる選択肢は論理的で助かりました。というのは、これを選ぶと、どんなマイナス点があるということも話してくれたから。例えば、危険性について。うちの両親は「あなたは自由にどこにでも行けるけれど、外に行って道を聞く人はお店にいる人かおまわりさんか駅の人にしなさい」ってよく言われてました。「そうじゃない人たちはあなたを車にボンッと押し込んでそのまま香港マカオ一生の旅っていって、内臓バラバラにされて…」。
齊藤:怖!それ都市伝説じゃん(笑)。
蜜さん:
「売られる」みたいな話とか、それから「ドナドナのように、女の子が男の人に買われる」とか、「そういう怖いことがいっぱい起こるから、今いる場所から動けない人に地図を見せてもらって、ここをこう行けばいいっていう風に教わりなさい」みたいな。そういう風に、根拠を示してもらっていたので、「あーなるほど」と思いながら生きてここまで来ることができたと思います。選ぶことっていうのは根拠がないとなかなか難しい。でも、自分で選べたときにすごく達成感があるので本当は選べた方がいいです。
蜜さん:
ほめられて育つ効果についてです。みんなポジティブシンキングみたいに捉えているんですけど、ポジティブシンキングの前にネガティブシンキングにならないっていうことのほうが、すごい大事なのかなと思います。ポジティブまで行かなくてよいと思うんです。ネガティブシンキングにならないことが大事なのかなと。良いことをしたときとか、ちゃんとできてるときに「いいんじゃない」とか、「できてるよ」とか言われると「あっ、これをしてるといいんだ」っていう基準が分かって、すごい安心できました。お母さんはあんまり私をほめることを意識してなかったそうです。お母さんにほめられたりとか、オーバーアクションな感情表現の中で育てられなかったです。「愛してるよ」とか言葉にすることはたまにあったんですけど。「すごいいい子ね」とか自分の子をあまり過大評価するのも恥ずかしいみたいでした。
その代わりに「やる気をそがない、否定しない」ということをがんばったそうです。しょっちゅう聞いてたのが「はじめはみんなへたくそ。いっぱいやれば何でもできるようになる。好きだったら何回でもやりなさい、だれになにを言われても好きだったらやりなさい」ということ。おかげで、絵を描くのもだいぶ上手になったかなと思います。売れるほどの絵は描けませんけれども。「何かを描いたのかな?」くらいは伝わるような絵が描けるようになったかと思います。お母さんは私に「ほめたつもりはない」って言うんですけど、私はそれなりにほめられていたなと感じてはいました。というのは、正当な自己評価の基準をさりげなく教えられていたんだと思います。良いところと悪いところっていうのをちゃんと示してもらって、悪いところっていうよりも、まあまあできてるときに「いいんじゃない」って言われるのはすごく大事かなと思います。「すごいね!」とか持ち上げる必要はないんだけど、「オッケー♪」みたいなのは、うれしいというか。「ああ、そうなんだな」と思います。
第2回 蜜さん講義(平成23年10月11日) 後半
蜜さん:
私、すっごい遊びたい子がいたんです。やっちゃん以外に。かわいい子だったんですよ、顔が。「あの子、顔がかわいい、お人形みたい」って。お人形みたいな人と、どうやったら遊べるんだろうって思ったんです。でもその子は特定の女の子とずっと遊んでて。そりゃそうですよ、仲良しがいるんですから。でもそれが私にはわかんないんですよ。なんであの子とばっかり遊ぶんだろ、なんであれやってるんだろ、あれはどういう意味なんだろうって。母さんに相談してました。「どうやったら遊んでもらえるようになるんだろう」って。
もっと題なのは、「遊ぼう」って言って「いいよ」って言ってくれても、そのあと何で遊んだら良いのかわかんないんですよ。「遊ぼう」って言っといて「いいよ」って言われたら、「わーっ」って逃げちゃうみたいな。
齊藤:
許可されたのは良いけど、次にどう展開していいかわかんなかったんだね?
蜜さん:走ったら追っかけてきてくれるかな?的な。
齊藤:
大人だったら「この子遊び方がわからないんだな」って、その子どもがやってほしそうなことをしてあげるよね。
蜜さん:
そう。でも同年齢の子どもはそうはいかない。だから「いいよ」って言われたらピシッて、石置いちゃうみたいな。どうしていいかわかんないから。
全体:(笑)
齊藤:
そこで「石ピシッ」て、すごいな。「石ピシッ」にリアクション返せる同年代の子どもはいないだろうな。
蜜さん:
そういうことをやってたんで、全然遊んでもらえなくて。すごい思い悩んでた。「遊ぼう」って一生懸命言ってるんだけど、遊んでもらえない。やっちゃんみたいに遊べない。どうしたら良いのかなって。そしたら、お母さんが「その子はその子で遊びたい遊びがあるからあなたと違うかもしれない。その子に聞いたら」と言われた。「そうか。自分から何かしなくても良いのかもしれない」って。「どうしてもその子と遊びたいなら、あなたの遊びたい遊び方じゃなくて、その子が遊びたい遊びを聞いて遊んでもらえるか頼んでみたら」って言われたの。具体的なアドバイスですよね。
それで、ちょっと理解できて「何で遊ぶ」って言ったら「おままごと」って言われて。でも、私のおままごと概念が基本的に間違っていたので、おままごとキットを八組並べて去っていくわけです。
蜜さん:
おままごとにチャレンジしましたね。お母さんに「おままごとってなあに」って聞いたら、「役割があってね、お父さん役とお母さん役なんかを、みんなやるんだよ」って。見事に失敗しましたね。そこまでの説明しか受けていなかったので、大変なことになりました。泥団子作って手渡されたら、「これは食べ物じゃない」と言ってビシッと断るわけです。他にも「会社に行く」って言って私、その場を離れて園に戻らないんです。だってお父さんは会社に行ったら帰ってこないでしょ、夜寝るまで。
齊藤:リアルままごとだ(笑)。疲れるな、それ。
蜜さん:
私の家は共働きだったので、ママ役のときはは「子どもを保育園に連れて行く」って言って子ども役の子を連れてって「じゃあね、会社行くわ」って言ってそのまま、園に戻らないんですよ。子ども役のときは「子どもは遊ぶのが仕事だから」って言って、保育園を脱出して近くの空き地でクルミ割りとかしてました。夕方になるまで。
齊藤:園から出てるんでしょ?それも長時間。
蜜さん:はい出てます。
齊藤:その時点で、保育必要ないじゃん。自立してるね(笑)。
蜜さん:
夕方になったなと思って園に戻ったら、みんな怒ってるんですよね。おままごとが終了してたり、別の人がやってたりとか。もう一生懸命、大人を模倣してごっこ遊びしてたんですけど、できませんでした。「リアルすぎたんだね」って大人になってお母さんに言われました。「その概念は間違ってたね」って。なんでそのとき教えてくれなかったんだって私は思いました。でも「あんたがそんな風に困ってるなんてわかんなかった」って言われました。
齊藤:お母さんをしても、わからないんだから相当難しかったんだ。
蜜さん:
ジョークを言ってはいけませんって話です。こういうジョークはダメですよ。すごい信じちゃいます。私が3歳くらいの頃に、お母さんが「あんたはデパートで買ってきたんだから、良い子にしてないと返品するよ」って言ったんです。私、小学校に入学するくらいまで、デパートにある授乳室、あそこに赤ちゃんマークついてますよね。あそこが赤ちゃん販売所だと思ってたんですよ。漢字読めないから。だから、本当に売買してるんだと思って、返品されないように必死でした。すっごいトラウマですよ、これ。
「デパートに子ども売り場はない。こんなに大きくなった子どもは返品できない」って訂正されるまで安心できなかった。デパートの中では、大きくなっちゃった子は、ひとりで授乳室に入ったらダメじゃないですか。大人に「そこ違うよ」とか言われるじゃないですか。入っていけないから、ブラックホールのままなんですよ。
齊藤:中でなにが行われているかわからないもんね。
蜜さん:
わかんない。確認もできない。本当に私はここで売り買いされたんじゃなかろうかっていう疑念が消えない。最後はお母さんが病院でこうやって私を抱きかかえる写真を見て「あっ、違うんだね」って納得できました。
齊藤:授乳室が人身売買所にみえるって怖いね。
蜜さん:
すごい危険なこと。だから子どもができたらジョークでも言わないでください。トラウマになります。
蜜さん:
はじめてのおつかいは3歳か4歳の頃でした。団地に来る移動販売のお店に牛乳を買いに行くことでした。普段お母さんと一緒に何回もやってることなんで安心して、慣れてるしおじさんも知ってるし、ビジョンがあったんです。自閉症の人ってすごいですよ、ビジョンがあることはもう100%できるって信じてますからね。失敗のビジョンがないんです。失敗のビジョンがないとどうなるか。お茶碗割れた時と一緒になっちゃうんですね。100円玉一枚握り締めながら、牛乳持って帰るイメージもばっちりできてるんです。いつもやってることだから。ところがさっき言ったとおりに、足元の狭い範囲しか照らされてない、視野の狭い私です。突っかかってこけたら、100円玉が手からポロンと飛んでってしまって。私、両手つけない子だったんで。そうだ私その話したっけ?
齊藤:両手つけないって、反射的に手が出ないってこと?
蜜さん:
はい。反射で手が出ない子なんです。突っかかったときに、普通、足が出たり手をつきますよね。私、それがないんです。だから、ヒュードンッていくんです。私、それで乳歯2本折ってるんです、前歯の。
齊藤:本当?それやるのって体を張った芸人さんくらいだよね。
蜜さん:乳歯が生えるのって何歳くらいですかね?
齊藤:乳歯?1歳前には…
蜜さん:乳歯から永久歯になるのは?
参加者:小学校くらい?
蜜さん:
それくらいの頃、お父さんが「お前なんか家から出て行け。反省しろ」と、ドア開けてドンッて押し倒したときに、私、そのままガンッて倒れて前歯バキッて折りました。
手にある100円玉と牛乳買うイメージで頭がいっぱいで、歩くことに意識が集中してなかったので、転んじゃって。そしたら今度は、100円玉が転がってパニックを起こして、ヒャーってなって。ヒャーってなったときは誰か大きい人に言えば、なんとかなると思っておじさんに助けを求めたんです。おじさんに「ブロックをよければそこに100円あるから!」って言った。説明能力はあったんですよね。だから「そこに100円あるからそれをとって牛乳頂戴!」って言ってるのに、そのおじさん不親切だったんです。「100円ないなら牛乳あげられないね、バイバイ」っていなくなっちゃったんです。ダーって泣いてもう死ぬかと思いました。
齊藤:そこにあると伝えたにもかかわらず、対応が不親切だったわけだ。
蜜さん:
映画の設定も全部知ってて、同じ映画を見ていたはずが、突然、衝撃のラストみたいな感じ。それが映画ならいいですよ、他人事ですから。でも自分のことだから、とんでもないことになって、死ぬかと思って。牛乳1個買えなかっただけで死ぬかと思ったんですね。いまだに排水溝の隙間から見える100円玉の記憶が残ってます。おじさんめ!
蜜さん:
これもトラウマの話ですね。お母さんがまたジョークを言ったんですね。お母さんのふりをして狼がやってくるという絵本のストーリーがあったんです。ある日「おおかみさんが来ても鍵開けちゃいけないよ」と言って、両親二人でお買い物に行っちゃったんですよ。あとで、お母さんが帰ってきました。玄関で「お母さんだよ」って言いました。おおかみがお母さんの声で「帰ってきたよ」っていう話を聞いていたから、てっきり私は「おおかみが来た」って思って。
齊藤:あらら、お母さん、自業自得のはめに。
蜜さん:
外を見ようとしたんです。でもまだ上の大きい穴から身長が足りないから見えなくて。チェーンロックして、バンッみたいな (笑)。
齊藤:閉めちゃったの?
蜜さん:
そう。ガチャって鍵閉めて。親は鍵もってるからドアを開けた。けれどチェーンロックでバンッてなるんですよ。以下、繰り返しみたいな(笑)。バンバンバンバンって。これは絶対おおかみだって思い込んでました。
齊藤:やればやるほどね。
蜜さん:
やればやるほど。すごいことになりましたね。冗談って言うのがわかるようになったのは、言語能力とか経験とかがだいぶ備わってから。そういうこともあるねっていう経験値を積んでからじゃないとダメでした。お母さんが「あの時期は本当に苦労したんだから。とんでもないこと言っちゃったよ」っていまだに言います。自閉症の子に絶対こういうこと言っちゃいけません。
齊藤:
スタンリー・キューブリックは奇才じゃないっていうのがわかってきたよ。だって世の中に、おおかみがいるってリアルに思ってるんだよね?おおかみが家に来ることもあるっていう想定で生活していることになる。それは、怖いなあ。やさしいお母さんとおおかみが、この世の中に同時に存在しうるんだもんなあ。不条理だなあ。
蜜さん:
そう。やさしいお母さんかおおかみかわからないのが、家に来るっていう。
齊藤:そりゃあ、ドア開けないよね。
蜜さん:
そう。「おかえし」っていう絵本聞いたことあります?お母さん同士が仲良くなって、お隣同士のおうちで。「これつまらないものですが」って物を持っていって、相手はお返しして。そしてそのお返しにお返しして。そうやっていくうちに、だんだん家中のものがすり替わっていって。で、最後に子どもを「お返しに」って言って…
齊藤:怖いー(笑)。
蜜さん:
子ども同士を交換するんですよ。で、子ども同士を交換したあとに「代わりになにがあるかしら。あとは全部もらったものばかりだし」って言って、じゃあ「私をお返しに」って言って、自分をお返しに行くっていう。そしたら向こうのお母さんが「じゃあ、私がお返しに」って言って、相手の家に行って、結局「引越ししたね」っていうハッピーエンドな話なんですけど、私にはすごいホラーでした。なんて怖い話なんだろうって。私はいつになったら取り替えられるの?みたいな。そんな感じでした。そんなことが普通にあると思ったんです。そういう世界で生きてるって、とんでもないこと。だから自閉症の人は想像力ないって言うけど、そうとばかりは言い切れなくて、イマジネーションはものすごくある部分もあるので、気をつけないと大変なことになります。
齊藤:
想像に制約がないよね。なんでももうフリーハンドだよね。“マトリックス”みたい。想像したらなんでもありなんだ。それだもの、コントロールの効く世界でじっと安全を守っていたいと思うよね。コントロールの効く範囲から一歩外に出たら何があるかわかんないもんね。
蜜さん:うん、わかんない。恐ろしいことが起こると思う。
齊藤:そっかぁ。
蜜さん:
知ってて、良かったことです。「うちではあなたが一番」って言われてました。3歳くらいの頃から、お母さんには「○○君のおうちのお母さんには○○君が一番かわいい。あなたはあなたのおうちでは一番だからほかのおうちで面白くないことがあっても気にしなくていいのよ。あなたはうちで一番なんだよ。だからよそではいやな思いしても気にしないでね」って言われていたの。裏を返せば「よそに行ったらいやなことがあるのよ」っていう意味だったんですけど、それには気がつかなくて、この文言どおりに受け取ってるから「そうか、おうちで一番なんだ。イェイ!」みたいな感じで。
この頃はまだ。他人と自分との比較みたいなことにまだ意識がいってない。だってやっちゃんと跳んで遊んでハッピーっていう頃だったわけで。人との共同注意っていうのができるかできないかくらいの頃の話なんで、人との比較なんてまだ全然できない。でも「うちではあなたが一番」って言われてて、「どんなにいやなことがあってもうちに帰ってきたらなんとかなるのよ」って3歳くらいの頃から言われてた。「よそで怖いことがあっても家に帰ってきたら好きにしてなさい」って言われてたのは、意味わかんないけど自信になりました。家に帰ってきて、お母さんに訴えればなんとかなるって思いました。だからよそにいってなんともならない事態になっても、お母さんに泣きつけば何とかなると思って。
2、3歳頃に母親との愛着が大事って言われてますけど、愛情を言葉でちゃんと言われてたのがすごくよかったのかなとすごく思います。「一番よ」って。「お父さんよりもあなたがかわいい」とか「あなたはあなたのことを考えなさい」って言われてました。でも「あなたはうちでは一番だけど、よそに行ったら一番じゃないから、よそではよその人のことも考えなさい」とも言われてました。
お母さんが理屈に合わないこと言ったりしたこともありました。その頃、うちのお母さん、プログラミングの仕事をしてたんですね。ADHDだから過集中になりやすいんです。私は「7時になったら、ドラえもんが始まるからその時間になったら教えてね」って言って、お母さんは「いいよ」って言って。私はその頃、時計が読めなかったからお母さんが教えてくれると信じ込んで「イエス、イエス、ドラえもん」って上機嫌だったんですけど、お母さんが過集中になって、ドラえもんの時間忘れてしまい「お母さん、ドラえもんは?」って聞いたときには「ごめん。ドラえもん、終わっちゃった」って言われて「ギャー」みたいな。私はその時「お母さんのうそつき。お母さんはいつもお父さんより私がかわいい。あんたが家では一番かわいいって言うじゃない」って、「よそであなたはほかの人の子と考えなさいって私に教えたけど、お母さんha私のこと考えてない。人のこと考えてない」って言って怒って。そういう理屈こねる子だった。3歳4歳くらいの頃、屁理屈こねるって言われてました。
齊藤:3,4歳のときにそれだけのことを、お母さんに言うの?すごいなあ。
蜜さん:
そのくせあれですよ。「おしっこは」って聞かれたら「トイレでするもの」って、その場でしちゃう(笑)。
齊藤:バランスが悪いというかなんというか(笑)。
蜜さん:
すごく厄介でしょ。言うこと言うくせに、やることできないっていうしょうもない子どもでした。
蜜さん:
うちのお母さんがちょっと変わったお母さんだったっていう話です。一般の親があまり教えないことを言ってました。特に保育園に入る頃に言われました。お母さんは「子ども嫌いだった」って言います、いまだに。「よその人にわがままをいう子どもがとくに嫌い。見てるだけでいや。いまだに見てて腹立つ」って言います。それで、私がそういう子にならないように「お友達の親に嫌われないようにしなさい」って言われました。「お友達のお母さんにはお世話になるのだから言うことを聞いてよくお手伝いをしなさい。その家の子と遊んだ後、その子が部屋を片付けなくてもあなたは片付けなきゃいけないし、おやつをもらったらきちんとありがとうと言わなきゃいけないよ」って言われてました。そのとおりに鵜呑みにするから、そのままインストールされて、素直に実行してたら、すっごい良い子だと思われてました。すっごいしっかりした、すっごい良い子だと思われてるのに、家ではすっごい手のかかる子だったから、お母さんが「意味わかんない」って言ってました。遊びに行った先で、すっごいほめられることはあっても、怒られた覚えが全然ないのはそういうことなんですね、きっとね。
齊藤:
家で片づけをしなかったのは、親に甘えていたからではなくて、そういうルールじゃなかったから?
蜜さん:
そうです。おうちでは「好きなことしてていいよ」って言われてたので。お片づけは、お外に行ったときのルールだったんですよ。お友達のおうちに行ったときのルールです。お友達のおうちに行ったときは、お友達の親がルールだって言われてたんですよ。それに従いなさいみたいな。
齊藤:国がかわれば、法律がかわるみたいに。
蜜さん:
そう。あらかじめ言われてたので、パニック起こさなかった。でも、たぶん「お友達の家に遊びに行っといで」なんて気軽に言われてたら、地雷チュドーンですよね、きっと。だって観ている映画に、違うストーリーが組み込まれてたみたいになっちゃうから、大変なことになってたと思う。でもお母さんはちゃんとインストールしてくれてたんで、すごく助かりました。「よそへ行ったらルール違うよ」っていうのは。
蜜さん:
歩くスピーカーだったんです、私。「お母さん、すごく恥ずかしかった」って言ってました。「☆☆ちゃん(蜜さん)がうちに来ると、☆☆ちゃんの家のことがよくわかる」って言われたそうです。夫婦喧嘩の内容やら会社の話やら、自分の知ってることはなんでもべらべら話し、プライバシーっていうものがない。自分のことについて話すのが恥ずかしいという感情がいまだにわかんないんです。どこまでのプライバシーが漏れていたら恥ずかしいっていう基準がよくわかんない。
鼻毛が出てたら恥ずかしいかなって思いますよね。鼻水出てたら、これは恥ずかしいってことだよなとか。だから髪の毛がふさふさしてたら、これはちょっと整えたほうがいいってことなんだよなって鏡を見れば気がつきますよ。でも鏡ないのに気がつく人いないじゃないですか。それと同じで自分が話してることを同時に聞いて「あっ」ってなることがないので、なかなか難しい。だから私はこれを見たら「あっ」って、「なんかちょっと恥ずかしいわ」ってきっと思うと思います(記録用のビデオを指し示して)。
齊藤:ビデオだと、客観的に自分のことを見ることができるから?
蜜さん:そう。私、なんか動いてる。私、動いてるって思うだろうな。
齊藤:蜜さんそろそろ1時間くらい経ったんですけど、きりのいいところで。
蜜さん:じゃあこの辺で終わりにしますか。
蜜さん:
あとは、読んでおいてもらえれば良いと思います。良いのか悪いのかを聞かれるというのがよくあって、それについて自分はよくわからないっていうことを自覚するのが難しい。グレーゾーンを知るのが難しかった。悪くなければ良いのだろうと思って、なんでも受け入れてしまって結構地雷を踏んでたなっていう。
それは悪いって言われることは多かったんですね。「やめなさい」とか。うちのお母さんはあんまり言われなかったんですけど。「お外に出たときに赤信号のときは渡ってはいけない」とか、保育園では「お友達にいやな思いをさせてはいけない」とか「泣かせてはいけない」とか、「~してはいけない」というのは明確ではっきりしているような気がしてて。でも、「これが良い」って言いながら教えてくれる人ってあんまりいないですよね。それって詐欺師が多いですよね (笑)。
齊藤:
そうかあ。悪い基準はそこら中にあふれてるわけだ。でも良い基準は明示されてないことが多い。見えにくい。
蜜さん:
あんまりない。ないというかぼんやり。「これが良いよ」って勧めてくる人って大抵、裏がある人だったりして。その後とんでもない思いする人だったりして。結局、良くない思いをしたりとか。うちの親が「これが良い」って言うのは鵜呑みにしてたんですけど、それ以外のことって「うーん、よくわかんないけど悪いって言われなかったから良いのかもしれない」くらいアバウトで。だから、良いか悪いかを聞かれても、判断するのが難しかったかな。
齊藤:
悪いと明言されてなければ、あとは全部良いことになってたのね。グレーゾーンに属するものも、“良い”とラベリングされた可能性があるってことだね。
蜜さん:
だから地雷踏んで、ひとりでビーってなってたことがあるんじゃないかなって今は思います。これ実は、恋人の話もそうなんです。二十歳くらいに付き合った人に「好きです」って言われて嫌いじゃないから、たぶん付き合っても大丈夫と思って。付き合ってみたんだけどやっぱりダメでした(笑)。嫌いじゃないから好きっていう理由で付き合っちゃいけませんね。
齊藤:ストライクゾーン広いねえ。
蜜さん:
良いのか悪いのかがよくわかってない。怖いか怖くないかの方がすごく明確だった気がします。「動物感覚」って書いたの誰だっけ?私も動物感覚だなって思ったんですけど。えーっと牛を追い込む…
齊藤:テンプル・グランディン?
蜜さん:
そうそう、テンプル・グランディン。テンプル・グランディンが「動物感覚」って本を書いてますけど、そうだなって思いますね。この社会のルールっていうのは悪くなきゃいいんだろう、男性の基準も悪くなきゃいいんだろうみたいな(笑)。アバウトでしたね。
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<ディスカッション>
齊藤:
はい。今日も、面白い話を聞きましたね。今度は、みなさんのリアクションをお願い致します。
蜜さん:
変な話ばっかりで突っ込みどころが難しいかもしれないですね。私に地雷はないのでなんでも聞いてください。変だなって思ったところとか。
参加者(A):
最後の話なんですけど、グレーゾーンも良いことになっちゃったって言ってましたね。僕の話なんですけど、僕はグレーゾーンは悪いことなんですよね。
蜜さん:おっ!
齊藤:
“蜜さんと逆で、君は世の中のほとんどが“悪い”ことで占められていて“良い”ことが少ないのね。
参加者(A):
なぜ蜜さんはグレーゾーンも“良い“ことになっちゃったんですか?
蜜さん:たぶんね、家のなかでお母さんが受け入れてくれてたからだと思う。
参加者(A):あー…。
齊藤:君のお母さんは、君について肯定的な態度が少なかったということかな?
参加者(A):
そうです。ルールにはとても厳しくて細かったので。だから自分は“良い”の方が少なかったんですね。僕は「悪いことをしてはいけない」の方が多い家だったんです。だからグレーゾーンも全部悪いことになっちゃって。
齊藤:だから僕に怒られると、すぐにゼミ休んじゃうのね。
全員:笑
参加者(A):
だからどうしたら、グレーゾーンが“良い“ことになるのかなと思って気になっちゃったんです。
蜜さん:
でもね、自閉の人で私みたいなタイプはすごく少ないです。逆パターンが多いです。
齊藤:どっちかというと彼みたいなタイプが多い?
蜜さん:多いです。すんごい多い。
齊藤:ネガティブな想像が優勢なんだね。
蜜さん:
だから私が「こういう発想もできない?」とか「こういう可能性もない?」とか言うと「そういう考え方をしたことがなかった」と言われたり、「これはこういう意図だったかもしれないよ」って言うと「すげえポジティブ」とか言われて。私としてはどこがポジティブなんだろうかと、よくわからなくなったりします。考え方のバリエーションを増やしただけにすぎなかったりするんですけど。私の発想は、みんなにはポジティブって伝わることがよくあります。
齊藤:
蜜さんの発想によって、考え方が変わるという当事者の人はどれくらいいるの?
参観者(蜜さんの友人):なかなか変わらないんですよね。
蜜さん:
難しいよね。なかなか自分の根底をひっくり返すっていうのは。コンプレックスだもんね。でも、バリエーションは増えるよね。そういう考え方の人もいるっていう意味で。
参観者(蜜さんの友人):
知識としてインストールはされるけど、実感はなかなかできないんじゃないかな。
蜜さん:
でも、共同で作業してみて、成功すると「ああ、こういう考え方で成功することもあるんだな」っていう実感にはなるのかなと思います。
齊藤:その知識を確かめる、みたいな感じ?
蜜さん:
うちの母はうちの父の育ちがあまりにも酷かったので、わたしが何歳の頃かな・・・中学生くらいの時に『毒になる親』っていう本を読んでましたね。あとアリス・ミラーの『魂の達人』とか。親にされたことが自分の生きずらさに関わっていくかっていうことが書かれている本でした。うちのお父さんは、母親が2歳の時に死んでて、ほとんど記憶になくて、その後、父親と対峙していくんですけど、それがうまくいかなくて認められていなかった感が強い人で、それで私とも凄い衝突があって、講義の後半で触れようと思いますが、私が自殺未遂とかすることになって、大変なことになるんですけど。その辺で、お父さんとの葛藤とか色々あるんですけど・・・。
うちのお母さんは、お父さんを理解するためにこれを読んでいました。放っておいたら、うちのお父さんは、私をおかしくしちゃうと思って。
齊藤:すごいお母さんだね。
蜜さん:
私に悪影響があるから、この父親をなんとか改善しないと、自分の娘がおかしくなっちゃうっていうことで、父親のネガティブマインドをなんとかしなくちゃと本を読んでたんです。私にも読ませるんです。
『毒になる親』って確か、だいぶ前に読んだので、記憶があやふやなんですけど、最後に、親と対峙して自分はこんなに辛かった!っていうのを、ぶあ~っと訴えられれば一番良いのだけれども、それができなくて。何らかの形で告白していくことが大事なんだけど、それができなくてすごく辛かったっていくことが書かれていて。ネガティブマインド入力が多くて、すごく辛い人生を送ってきたので、それはどこかで出力がなされないと辛いっていうようなことが書いてあった様な気がします。
カモミールに集まる仲間とかを見ると、入力と出力のバランスが悪いなあ、って思ってて、私もそうなんですけど。アスペルガーの人って、入力と出力のコントロールをするのが下手くそな人が多い気がします。
齊藤:出力が少ない?
蜜さん:
出力の仕方がよく分かっていない。出力の種類を知らないとか。文字でも良かったり、音声でも良かったり、絵でも良かったり。いろんな方法があると思うんですよね。相手をタップ(軽く叩く)するとかでも十分出力だったりするし。どれが自分にとって心地よい出力なのかっていうのがピンとこない。しっくり貧乏な人が多い。
齊藤:
しっくりくるって大事な感覚だよね。他者に気持ちをラベリングしてもらって、それでしっくりくるという経験が少ないんだよね、きっと。通訳してくれる人たちが少ないもんね。
蜜さん:だから、これで良いんだという自分のイメージがない。
齊藤:
つらいなあ。それ、つらいなあ。「あなたはそれでいいんだよ」言われることって大事だよね。
蜜さん:
でも一方で「それでいいよ」って言われても、「それってどれ?」みたいな時はある。
齊藤:具体的じゃないとわからないって言うことだよね。
蜜さん:
これとこれとこれの中であなたはどれ?って言われれば、「私はこれが良い」って自分でチョイスすることができる。チョイスした結果を褒められれば、何が良いのか確定できる。
齊藤:
自分が能動的に関わった結果に対して「それが良いよ」が必要なんだね。
蜜さん:
もしくは、最初から「これがいいよ」って言ってもらったほうが楽。私はしょっちゅう、これ「で」良いのか、これが良いのか、で喧嘩になります。
齊藤:「で」と「が」じゃ、だいぶ違うもんね。
蜜さん:
「これでいいよ」ってお母さんがよく言うの。たとえば、お店のメニューとか指さして「じゃあ、私これでいいわ」って言うんです。私は「これで良い」ってことはないだろうって怒る。「これで良いって」ことは、他にもっとなんかあるような気がして・・・。喧嘩の理由は、ほんとに些細なことなんですよ。おにぎりが2つあって、「たらこと明太子、どっちが良い?」って私は聞いているのに、「たらこで良いよ」って言うんですよ。そこで、キレるんですよ、私が。「たらこが良いんだろ!」って(笑)。
お母さんは私が明太子を選ぶだろうなって思っているので「私は、たらこで良いよ」って言ってるって言うんです。でも、そんなもん推測せんで良いわい!!って気持ちになる。どっちが良い?って聞いてるんじゃい!っ言って、いつも喧嘩になる。意思を確認しているのに、勝手に推測して先回りされると、わけわかんなくなっちゃうんです!
齊藤:
うん。なるほどね。先回りされると、自分の立ち位置がよく分からなくなっていってしまうんだね。
蜜さん:イタチごっこみたいになってしまう。だから全部が、フニフニになってしまう。
齊藤:
確定した他者の意思の網の目の中に、自分がどこにいるかを確かめたいだけなのにね。
蜜さん:
わけわかんないんです。「それが良いよ」って言われたら、「うん」ってなるんですけど。
齊藤:
「それで良いよ」っていう言い方には、選択の可能性が無限にあるかのようなイメージを髣髴とさせるよね。
蜜さん:
さっきの映画と同じなんです。映画もね、2時間我慢してそこに座っていれば、怖い映画観ても終わるんですよ。でも、「~で良いよ」って言い続けられると、いつ終わるのか分かんないから、怖いんです。
齊藤:「それでいいよ」って言われ続けるとどうなるんだろう?
蜜さん:混沌としちゃう。混沌としちゃうんじゃないですかね?
齊藤:それは不安定だね。
蜜さん:
だから「どれが良い?」って聞かれて、能動的にチョイスできるように、選択肢の範囲をある程度狭めてもらって、泳がせてもらいながら学ばせてもらえるっていうの幸福なんだと思います。ということに、最近気付かされます。つまり、大枠がある中で、つまり、お風呂の銭湯ね。「この湯船の枠の中でなら泳いで良いですよ」みたいな。でも「海に出て泳いでこい!」って言われたら、沖に流されて大変なことになるかもしれない。それと一緒かなと思います。
齊藤:なるほどね。
蜜さん:すみません。皆さん、長々と。
齊藤:
今日は、ここで終わりにしたいと思います。また来週。蜜さん、ありがとうございました。
第2回 蜜さん講義(平成23年10月11日) 前半
蜜さん:
始めて良いよって言われないとよくわからないので、良いよって言ってくださいね。
齊藤:皆さん、良いですか?
参観者:はい。お願いしまーす。
蜜さん:では、どうやら良いようですので、ここから行きましょう。
蜜さん:
トイレがすごく近くて、迷惑な子どもだったって話。トイレに行きたいって言わないとトイレに行けないシステムであるってことを学ぶことが大事。自分の身体感覚の一部を認識するのにちょっと疎い子だったんです。
蜜さん:
私、すごく言葉が流暢なので、「エコラリアとかオウム返しとかが無かったんじゃない?」って思われるんですけど、私、これはエコラリアだったんだと思うんですね。「おしっこは?」って聞かれたら「トイレでするもの!」って答えて、その場でおしっこしちゃうっていう。言葉の意味が分かってない。なんか、上の句と下の句みたいな。お母さんは「したいの?したくないの」?って聞いてるのに。この含みが私には分からないから、「おしっこは?」って聞かれたら「トイレでするもの。おしっこはトイレでするもの。おしっこはトイレでするもの」って言って、そのまましちゃう。
これは意思の疎通の問題で、言葉の流れを推測するのが難しかったのかな?って今は推測してます。「その後どうなるの?」「それはどういう意味?」っていう、言語能力とか社会性とか、身に付くまで結構時間がかかって、大人から意味不明な子供だったんじゃないかなと。すごくよく喋って、反応も良いのに、奇怪な行動をするということがあったんじゃないのかなと思います。言葉が話せるからといって油断をしていると、本人が発言していることとやってることが何か違うっていう。「あれ?確認したことと違うことやってない」ってことが発達障害の人の場合はあるんじゃないかなーと思います。
蜜さん:
お茶碗が割れたっていう話です。いまだにそうなんですけど、これすごく良い!って思ったものがあると、しかもそれをしばらく使って納得しちゃったり、気に入り具合が激しくなると、壊れた時の衝撃が半端ない!それから、失くなったとか、落としたとかも。つい先日も、カバンのここところに、すっごい可愛がって、大好きだった犬の遺骨が入ってるんですけど、このネジが外れてカランって落っこちて、中から遺骨がポロって出ちゃった時に「ああ、うちの犬の一部が出てちゃった」と思ってパニックになって駅で、泣いちゃったんです。今でもそういうことがある。
小さい頃はもっと大変だった。ほんの些細なことですよ。頭の切り替えが出来ないんです。汽車の模様がついた使い慣れたお茶碗があったんですね。それが自分のお茶碗だってことは知ってて、それを食事の時に使うんだっていう暗黙の了解が自分の中にあって。知らない間に定着してしまったルールっていうのが、その食器だったんですね。見慣れたっていうのは既にルールなんですよ。
ある日、洗い物の最中にお母さんがお茶碗を割っちゃったんです。私、どうなったと思いますか?ご飯は、汽車の模様のお茶碗で食べるってことが染み付いちゃってたんで、明日からはご飯は食べられない!って思い込んじゃったの。大変だあって思って。「明日からは、ご飯は食べられない」って言って、すごい大パニックになって。「なんてことをしたんだ」ってお母さんを責めたんです。で、お母さんは「同じお茶碗買ってきてあげるからご飯が食べられるよ」って言ってくれたんですけど、私にとっては、目の前の割れてる茶碗だけが私の茶碗なわけです。「同じ茶碗」って言われても理解できないんです。想像力がないから。「同じ茶碗」ということがうまく想像できないんです。「同じじゃないんです」もうすでに。割れたのは私の茶碗で、割れてない茶碗がイメージできない。だから「どうしよう、明日からご飯が食べられない」ってお母さんに猛反論しました。その後、お母さんどうしたと思いますか?
齊藤先生に答えて欲しいですよね。皆さんはどうしたと思いますか?
参観者:ボンドでくっつけた。
蜜さん:
ブー!この答え、面白いですよ。「大きくなったからもう一回り大きいお茶碗使おうね」って誤魔化した。目先をそらすんですね。上手いでしょう?それで、新しいお茶碗を購入してきたんです。しかも壊れてもパニックにならないように予備にもう一つ。
実はこのカバンも私の家にもう一つ買ってあるんです。そうじゃないと大変なことになるから。壊れてもパニックに陥らないように、二つ以上買っておくっていう予防線はすごい大事なんです。だからもし、ちょっとこの子は予防線はっとかないとやばそうだなって子がいたら素知らぬふりして普段から「二個とも両方、君のだよ、一個失くなったけどもう一個あるからなんとかなるよー、乗り切っていけるよー」って言われると、「はぁぁぁ、よかったあ」みたいな。
ちなみにその後も、お母さんまた上手かったんです。またお茶碗割っちゃうんですよ。そしたら「もう見慣れたから違うお茶碗にして気分を変えよう」って。上手いでしょう。気分を変えようとか、何か付け足してこう新しくしてく。賢いなぁって思います。
蜜さん:
洗濯バサミの話。感覚のせいだと思うんですけど、お母さんの洗濯に付き合うのが大好きだった。特に、洗濯バサミが好きで。こう全部(指を)挟むと、どこまでが自分の体かってのがすごくはっきり分かって、それがすごく気持ちいい刺激だった。丁度良い刺激。好きな洗濯バサミがあって。いまだにうちのお母さん、使ってるんですけど、たまに挟んで遊んでます。洗濯バサミを使ったっていうのは他の人からも聞いたことあるんですよね。みんな体の端っこが気になるんでしょうかね?
蜜さん:
ここからが新しい話になる。あっ!先生にしたい話があったな。でも、先に入園の話をしましょう。お母さんの都合で、私は二つ目の保育園に四歳位の時に移ったんですね。保育園が移ったってよりは、お母さんに連れて行かれる距離が長くなって、しかも万華鏡が失くなったみたいな(第1回の講義参照)。意味が分かんない感じでした。お母さんは私に向かって「大人はね、会社に行ってお仕事があって、それをするんだよって。あなたはね、子どもでしょ?子どもの仕事は遊ぶこと」って言われたんです。そうやって保育園に連れて行かれたんです。
そしたら大変なことが起こっていました。子どもがバーって走ってるんですよ。しかもギャーって言ってるんですよ。何が起きてるか、分からないんです。「はぁ!?」って思って。万華鏡みたいな小さな穴から見ているくらいの刺激には耐えられたんですけど、目の前をこう走り回ってこうなってて、水とかバーってなってたりとかして。何が起こってるのか分からないんです。怖くて、すっごい勢いで泣いて。工事現場と一緒ですね。刺激が多すぎて、音も多すぎてびっくりして泣いちゃって。ギャーギャー泣いたもんだから「今日はちょっと無理ですね」「お母さんから離れたくないんですね」って保育園の先生が言って。でも違ったの。怖かったの。「何やってんのあれは?」って。「遊ぶところって言ってたけど何でどう遊ぶのか、何で誰も何も言ってくれないの?」って思ってやっていられなくって。
ある日ですね、三日目くらいかな?カナータイプの自閉の子が、こうやって跳んでたんです。落ち着いてますよね、リズミカルで。私もそばで、こうやって跳んでたんです。そしたらお母さんいなくなってたんです。私がその子と目線合わせながら跳んでる間に。たぶん、跳んでるタイミングが心地よくて、それに合わせているうちに怖いのを忘れてたんですね。そこに意識が集中して。その子にこう、懐中電灯がぽっと当たったような感じになって。メジボフ先生は、自閉症の人の視野っていうのは、暗闇で懐中電灯を照らしているようなものだと。すごく狭くて、そしてはっきりとしている。定型発達の人はもっとフォーカスが広くてぼんやりしている、って言ってるんですけど。
そういう感じで、私はたまたま目線があったその子にフォーカスが、ビシッとはまった。そしてその間に、お母さんに置き去りにされました(笑)。
齊藤:その後は、何ともなかったの?
蜜さん:その子とずっと遊んでたんです。
齊藤:毎日?
蜜さん:毎日。
齊藤:心地良かった?
蜜さん:
それがですね。心地良いんじゃなくて、何て言うんでしょう。違和感が無かっただけなんですね。怖くなかったっていうか。
齊藤:なるほど「心地よい」の前に「違和感がない」があるんだね。
蜜さん:そうです。
齊藤:面白いとか楽しいじゃなくて。
蜜さん:
何か怖いことが起きない感が大事でしたね。その子に何かとんでもないことをされるって感覚がなかった。他の(定型発達の)子は、私の予測できないことをするんだけど、その子は私の予測できないことというか、不快なことをしない子だってすぐ分かった。何でかは、よく分かんないけど、たぶんこの子は私の嫌なことしないって思ったの。それから、その子を見つければ安心だと思って。保育園に行くと、その子を見つけて安心!みたいな。その子は、カナータイプの子なので、特別に先生が一人付いてて。それでその子とコミュニケーションしてると、ついでに先生も付いてきて、私の管理をしてくれるっていう便利な状況になったんです。先生からしたら本当は一人の面倒を見れば良いはずなのに、何故か二人の面倒を見るという訳の分かんない感じになってたと思うんですけど。私としては管理してくれる先生がいっぱいいるみたいな感じですごい便利でした。
あっ、思い出した。齊藤先生、ちょっと先生にクイズ出したいです。さっきのクイズ(齊藤は先ほどクイズの場面、中座していて内容を知りませんでした)。
蜜さん:
私、汽車の模様が付いたお茶碗でご飯を食べるのが習慣になってたんですよ。それである日、お母さんがお茶碗を割っちゃったんです。私パニック起こして明日からご飯食べられないって言って、人生に絶望したんです。しょっちゅう絶望するんですよ、私。大変なことがあると。で、明日からご飯食べられないって受け入れられなくて。パニック起こしました。お母さんが「同じお茶碗買ってきてあげるから明日もご飯食べられるよ」って言うんですよ。でも私にとってのお茶碗は、目の前で割れてるお茶碗で、割れてないお茶碗は全然想像できないんです。それに今割れたお茶碗が私のお茶碗であって、新しく買ってくるお茶碗は私にとって別物なんですよ。だから受け入れられない。「違うよー」って猛反論したんです。さて、この時、お母さんどうしたでしょうっていう。これすっごい上手いですよ、うちのお母さん。みんな思ったでしょ?上手いなーって。
参観者:はい。
蜜さん:ほら!教育相談とかしてるんだから、先生、答えてくださーい。
齊藤:
僕が子どもだったら、物事を丸ごと更新して欲しいから「明日からはこのお茶碗に変わりました」って言うかな。
蜜さん:
正解。流石!そう、しかもうちのお母さん、理由がちゃんと付いてるの。お母さんは、「あなたはもう大きくなったからもう一回り大きいお茶碗使おうね」って。理由がちゃんと付いてるから、納得したんです。
齊藤:代替可能だっていう資本主義的価値観は通用しないんだね。
蜜さん:はい。
齊藤:だから、もう丸ごと変えるしか納得の方法はないもんね。
蜜さん:そう。目線を変えたんです、お母さん。
齊藤:理由がまた納得しやすいものだった。
蜜さん:
はい。現在の私にも役立ってて、実はこのカバンも二つありますっていう話をさっきみなさんにしました。
齊藤:それは失った時のリスクを考えて?
蜜さん:
はい。ないとだめなんです。これコールマンの限定リュックなんですね。こんなリュックはもう二度と手に入らない。背中にも馴染んで使い勝手も慣れた。これ壊れたら私どうなるでしょうって。また大パニックですよ。だから予防線張ってます、っていう話をさっきみなさんにしてました。
蜜さん:
やっちゃんという私のお友達について少しお話したいと思います。
あ!その前に先生が来たら話したかったのが、佐々木正美先生の講演を聞いて思ったのこと。お母さんとの愛着形成ってのが、生まれてすぐの子どもには大事だとされてて、二歳くらいまでの間にしっかりとしたお母さんに対する信頼感、お母さんから無条件で愛されているっていうことを実感して、それに応えていくことができるようになることが障害児であってもなくても必要だって。だから極端な話、「お母さん嫌い」って言える子はすごいお母さんのこと信頼してる子だと思うんですよ。「嫌い」って言ってもお母さん離れてかないって分かってるから言うんですよね。そういうことが言えるくらいにお母さんと仲良くなってる子は、大丈夫なんじゃないかなぁって思うんですけど。
でも、お父さんとはやっぱり色々接点を持たないと育たないらしくて。何でお母さんと愛着が育まれやすいかというと、お腹にいる時に、声の響きとか、そういうのも聞いて学んでいるらしいんですね。だから、お母さんとは愛着が先にできるっていうのがあって。私、お父さんというものの認知がすごく遅かったの。お父さんは、お母さんに仕込まれて認知したんです。「お父さんというのが家にはいるよ」って。
齊藤:
子どもが生まれる前に雄がいなくなったり、死ぬ生物種はあるもんね(笑)。人間のお父さんも家族の中で、影が薄いのかなあ。
蜜さん:
はい。私が保育園行く前に会社に行って、寝てから会社から帰ってくる人だったから、お父さんはいないも同然だったんです、私にとって。見えないんですもん、だって。夜中に踏みつけて「ぎゃっ」て言うくらい。「あ、いた」みたいな。私、変な子で、寝ながら半分くらい起き上がって、そのまま隣にいるお父さんに頭打ち付けるように、夜中に腹筋運動する子どもだったらしくて。それでお父さん、私の頭蓋骨で顔面ガーンって打たれて、「うぎゃっ」とか言ってて、何か声上げる変な人みたいな。それがどういう意味の人なのか全然よく分かってなくて。お母さんは「それはお父さんと言ってね」って。「夜ね、あんたがご飯食べた後、居間で寝ちゃうでしょ。居間で寝ちゃった後に知らず知らずのうちに運んでくれているのはお父さんなんだよ」とか「お父さんはね、よそでお金を稼いできてくれて、そのお金であなたはおやつを買ったりご飯を食べたりしているんだよ」とか。保育園に行く途中に、散々その話ばっかりするんです。お父さんが一体どういう生き物かっていうのをお母さんから教わって「そうかそうか」と思って。たまの休みにお父さんが、ブランブランとかしてくれると、「おおっ!これがお父さんか」みたいな。突然現れる変な人みたい。何かオプション的。
齊藤:
僕も子どもがいるから、子どもから見た父親と母親との違いは何となく分かる。
蜜さん:
分かります?私、そういう認識でした。私が自閉だったせいなのかなんなのかよく分からないんですけど。お父さんって、後付けだったんですね。お母さんに言われて、「そうか、そういう人も一緒にいるね、確かにいるね、たまに踏んだらギャッて言うね」みたいな。そんな感じでしたね。
ハイハイし始めた頃に私、さっき言った懐中電灯の話なんですけど、いまも歩くときもそうなんですけど、視野が結構せまいんです。注意を払っていられるのがこれぐらいの視野しかないので、真正面見て歩くと足元が危うくて、落っこちるか、逆に下しか見てなくて、正面のものに当たるか。危険な感じで歩いてるんですけど。ハイハイの頃から既にそうだったみたいで、ハイハイし始めた頃に、うちのお母さんが他の子と一緒にハイハイしてるところを眺めながら「何でうちの子は何でもかんでも踏みつけながら歩くんだろう」って思ったって言ってました。よその子ってハイハイしながらでも、物をよけて自分で道つけてきながら歩いてく子が結構いるらしいんですね。私は、何でもかんでも踏みつけて歩くっていう。ぐちゃぐちゃにしても何も気にしない。怪獣のような。そんな感じだったらしいです。
齊藤:物が視野に入っていなかったということ?
蜜さん:
というか、物をよけるとか、大事だとか、壊れたら大変とか、そのへんの予測が何にもできないからでしょうね。意味が分からないんです。佐々木正美先生が言ってました。TEACCHの人たちの考え方は、自閉症の人は、周りの環境のことが自分では理解しにくい、把握しにくい人。説明してもらわないと、理解できないタイプの人たちなんじゃないかっていう話があって。それと同じですね。きっと意味が見出せなかったんだろうなって。
さて、やっちゃんの話です。この話、私すごくしたかった。私、他の子どもとは協調性持てなくて遊べなかったけど、やっちゃんとだけ遊べた。彼が自閉症だって知ったのは私の診断が下りた後で、同じ保育園に通っていたお母さんののママ友からの情報で。
私、お母さんに言われて「あの子のお家に行って遊んどいで」って言われて遊びに行くことはあっても、その子を友達だと認識して遊びに行ったことって一回もないんですよ。エリっていう子がいて、エリのことを認識したのはお母さん同士がまずお友達だったからなんですね。年齢が近くて。私の母がいて、母と親しい人がいて、それのオプションとして、エリ。私は母のオプション。母がいない時は、そのお家のお世話になる。オプションのエリが付いてくるっていう。友達っていう認識じゃなかった。たぶんこの頃、友達と言えるくらいに分かってたのは、このやっちゃんくらいだったかなと思います。
何やってたかって言うと、すごい安心な人で、すごい(遊びが)意味ないんですよ。例えばここにマグネットがあるじゃないですか。するとやっちゃんは、黄色のマグネットだけ取り出して並べていくんです。これを私と交代交代にやるんです。「黄色いのが並んでるって法則だね」って分かった瞬間に二人で顔を見合わせて、にやって笑うっていう。以下、繰り返しみたいな。分かります?分かるでしょ?そういう遊びをしてて、でも言葉が無いので、他の人には全然その遊びの意味が通じないんですよ。
齊藤:そういうのは楽しいよね。
蜜さん:
色を交代にして縞々にするとか。私たちにとっては意味はあるんですけど、他の人にとっては全然意味のないことをしてた。でも遊びってそういうことですよね?子どもにとっては意味のあることだけれども、大人にとっては全く意味がない。だから遊びって言われる。石ころの形が似ているのを並べてって、ちょっとずつ違うのにして最後、変な石にするとか。書けない石からどんどん書ける石を並べていくとか。
齊藤:蜜さんの思いついた法則で遊ぶの?
蜜さん:
いえ、向こうがこうきたら、私がこうするって感じで。この子の言語レベルってどれくらいだったと思いますかみなさん。言える言葉、すごい少いですよ。「いやー」とか「ぎゃー」とか。人の名前は「お父さん、お母さん、山本先生、私の名前」以上。妹いるのに。妹の名前覚えてなかった。赤ちゃんだから。そのうち、「妹」とか言うようになったんですけどね。これくらいしか言えない子と、ずっと遊んでました。お友達と遊ぶってことに目覚めた頃です。つまり、万華鏡(第1回講義参照)をようやく脱出した。
齊藤:何歳くらい?
蜜さん:
四歳ですね。近くのスーパーで、やっちゃんが、私を見つけると「○○ちゃーん」って言いながら駆け寄って来る。私が見つけるよりも先なんですね。彼は私より更に視野が狭くて、ピントが合っているので、ピシッと見つけて、ダーって寄ってくるんです。
お店の陳列棚って楽しいんですよ。同じもの並んでるし、隙間があったらそこ埋めてみたりとか、日付順とかに並べるとか。あと色の違うのをちょっとずつ並べてみたりとか。色々やって遊んでそのままにして帰ってきたりとか。すごい楽しいんですよね。セールでいつもと並び順が違うと、やっちゃんと「並び順が違うね」みたいな感じで無言でニヤニヤしあったりとか。それだけで通じるみたいな。ただニヤニヤしてるだけで、あんまり意味は無いんですよ。ただ違和感がないっていう安心。他の人だと、まず違和感がどーんって来るんで。
齊藤:目を合わせるタイミングが合うと、やっぱり通じてる感は大きいの?
蜜さん:
分かんないんですけど、ジーっと見てると、ふっと何か同じところを見ているような気がするんです。例えば、私今、先生のパソコン見てますよね?こうやってそばで私が見てると、先生は私を見ていなくても、一緒に見てるような気がしません?(蜜さんが齊藤の後ろに立ち、齊藤のパソコンを一緒に並行的に見る)。
齊藤:うん、する。
蜜さん:
そういう時に「あっ、見てる」って思って、横見ると向こうもやっぱり見てる。「あっ!」みたいな。そしてまた自分たちの遊びに戻ってく。
齊藤:一緒に見てるって気配を感じているんだね?
蜜さん:
そうです。でもそれだけ。「うん」と頷きあうとか、アイコンタクトみたいな合図は送らないんですよ。ただ「あ、見てたね」っていう事実を確認して納得みたいな。「同じことに一応興味あったね、終わり」みたいな。でも、自分と同じ興味を持っていない人よりは違和感ないでしょう?
齊藤:うん、そうだね。
蜜さん:
同じことに興味ある人の方が、興味無い人より違和感ないから安心だったんです。
齊藤:共同注意が潜在的にはあったってことだよね?
蜜さん:たぶん。やっちゃんにも私にもあったんです。
齊藤:
相手の行動を観察して「一緒に見ている」と確認する前に「見ているはず」という予感がちゃんとあるってことでしょう?
蜜さん:
もしかしたら、別の可能性もある。やっちゃんが私の遊びに手を出してくるせいかもしれないです。私が、何かを並べているとやっちゃんが突然こうやってビシッと次のマグネットを置いてくるから「あ!私のルールに気付いた」という感じが起きるのかも。
齊藤:そういう場合もあるね、なるほど。
蜜さん:
やっちゃんはきっと、私の行動を見ているうちにルールができて、そのルールにのったというだけで、自分もそれに参加してみようというような、私と絡もうっというつもりはなかったのかもしれない。でも「私は絡まれた」って思ってた。
私がやっちゃんに絡む時の方は危なかったですね。私が彼にいきなり関わっていくと彼はびっくりするんです。自分が私に絡む時は調子よく入ってくるくせに。
齊藤;柔軟性は蜜さんの方が高かった?
蜜さん:
うん、私は絡まれても、「おう!?」って思うけど、やっちゃんは、私が「イエーイ」って絡むと、「ギャー」みたいな。それでも何か同じものに注目したって意味で、やっちゃんは他の人よりは、私には違和感がなかったんだと思う。私の名前覚えてくれて、近寄ってきてくれて、一緒にニヤニヤするぐらいにはなるっていう。そういう感じです。
齊藤:
最近、自閉症児の発達相談でも似たような事例に会いました。子どもの意思が分かるようになってきたご両親は、子どもの行動を先取りして手伝うようになった。するとその子どもは、ご両親が、手を出したとたん、無言で身体を震わせて怒り、ギャーと泣いちゃうの。ご両親は「一体、どうしたんでしょう?わが子の気持ちがわからない」って困ってた。僕は「たぶんそれ手を出してほしくないんだと思う」と答えた。そして「自分のプランが先にあるんだと思う」と説明した。
蜜さん:
車の運転してる時に、指導教官にフロントガラスのことを「前の画面が、前の画面がちゃんと見えない」って言ったことがあって。見てる世界は画面って感じなんですね。それから私、見えないところにビジュアルモニターみたいなものがあるらしくて、ここから先(視界の斜め上辺り)見えてないんですけど、そこに映像がフワッと出てきて、そこに昔の記憶とかを読み込んだりすることがあるんです。
小さい頃、まだ漢字を覚える前に、井村屋の肉まんを食べるのが習慣になってたんですね。「お腹減ったなぁ」って言ったら井村屋の肉まんをもらえるっていうのを知ってたんで、「お腹減ったなぁ」って言うことにしてたんですね。それだけ言えば良いと思ってて。井村屋ってロゴのいっぱい入った紙をペラって剥がすって、記憶があるんですけど、井村屋って文字はまだその頃、読めなかったはずなんです。でもその頃の記憶を、ここ(視野の外のビジュアルモニター)で再生すると“井村屋”って、大きくなってから読めたんです。
齊藤:
画面みたいに見えるってことは、その画面に予測しないものが入ってくるとびっくりするよね。テレビ見てる最中に関係のないモノが突然映り込んだら怖いよね。そんな感覚に近いの?大人が途中で手を出すということは、予測しない映像になるってことだね。
蜜さん:
齊藤先生、That‘s right!です。自分の視野を遮られたりして読めなくなると怖いじゃないですか?
齊藤:怖いし、腹立つよね。
蜜さん:そうです。
齊藤:侵襲性が高いよね。
蜜さん:
そこの先何あんの?!みたいな。それに何の意味があるの?どういうことなの?「怖いよ、怖いよ」っていうのがずっと続く。
齊藤:
目の前の風景が画面のような感じがするっていうのは、雨野カエラさんも似たようなこと言っててね、世の中は映画のようだって。映画のスクリーンと蜜さんの画面は似ているね。見えているけど、映像の中に自分はコミットしていない。向こうの世界で起きてるような感じがするっていうことを言ってた。そこには主体としての自分が含まれてない感じなの?
蜜さん:
んーと、見えますよこの辺(鼻の辺り)とか。時たま予測してないときに自分の足とかが、下から出てきてそれに躓いて転んだりすると、私の足のくせに言うこときかなかったって混乱することがありますけど。そういう具合にちょっとコントロールきくようできかない世界として感じているのかもしれません。
齊藤:
視野を遮られても怒らない子どもって、相手をコントロールできると思ってるからだと思うのね。「どけて」って言えば相手は応えてくれると信じているから。でも、コントロールきくようできかないっていう世界観を持っているならば、その世界をそのまま保持しておきたいと普通は思うよね。変化してしまったら元に戻せなくなるかもしれないから。
蜜さん:
自分がどうすればよいのかっていうビジョンが無い。だから、自分の見えてる世界をコントロールしようとしないし、世界をコントロールできるという自覚が無くて。何とかしようと思ったときには既に遅いみたいな。時間がもうとっくに過ぎていたりとか、後付けで意味が追っかけてきてズーンと身につまされるみたいな。
齊藤:
世界に対して、受動的だよね。自分で世界を変えられるって感じはしない?
蜜さん:しないです。勝手になっちゃうもんだと思ってる。
齊藤:
映画の筋を、聴衆が観ながら変えられると思ってる人がいないのと同じように。
蜜さん:
はい。それに、映画だったらエンディングがあるって分かるから、怖くないじゃないですか。時計見てればどれくらいって分かるじゃないですか。だから怖くないんですよね。何分、我慢すれば良いって分かるから。でも人生っていつ終わるか分からないでしょ。一体自分がいつ死ぬか分かんないんですもん。 そういう感じです。それは怖いでしょ?だから我慢できない。
齊藤:
うん、それは怖いわ。先の見えない、予測のつかない長い映画を観ている感じ?
蜜さん:そう。
齊藤:
うわあ、それ怖いわ。“時計じかけのオレンジ“だっけ?僕、あれ観たとき、途中で嫌になった。
蜜さん:時計じかけのオレンジ?ちょっとトリッキーな映画?
齊藤:
そうそう、スタンリー・キューブリック。自分はどこに連れて行かれるんだろうっていう不安定な感じ。
蜜さん:
私、あれを見た時は、予測の範囲内だったので、大丈夫でした。
齊藤:そうかあ。あれくらいじゃ、びっくりしないのかあ。
蜜さん:
あれのどこが奇才って言われてるのかが理解できなかったぐらい。普通じゃない?だってもっと怖いこといっぱいあるでしょ?って思った。自分が血出してそれがいつ止まるか分かんないとか、他の人に怒られてるのがいつ終わるか分かんないとか。そういうことの方が、よっぽど怖いでしょって思ってるんですよ。だからスタンリー・キューブリックなんて、箱の中のことだからパチってスイッチ切っちゃえば終わるし、二時間経ったらおわるとか三時間経ったら終わるとか。すごい安全でしょ?
齊藤:なるほど。
蜜さん:
おままごとの遊び方ってみなさん普通、見立て遊びだから役割とかやりますよね?それって何を言われなくても、やり方がインストールされていらっしゃる方がほとんどだと思うんですけど、私、分からなかったんですね。
保育園には、全部で八組のおままごとのキットがあったんです。箱があって。机が蓋になってるっていう、そういうセット。積み重ねたり並べたりすると四角い箱がいっぱい並ぶっていう、すごい素敵なものがあって、「イェイ」ってなって、それを色んな形に並べていって、その上に決まったようにお茶碗とかを並べて、箸は箸とかで並べて。私は、そのおままごとキットを、毎回違うパターンで並び替えるっていう遊びをするものだとずっと思ってました。だから八組そろわない時は遊べない道具だと思っていたんです。で、一人で遊んでいる時に「一つくらい貸してよ」って言われたら遊びが成立しなくなっちゃうんです、私の中で。だから、「なんで!!!」みたいな感じで猛抗議です、先生に。一組あればみんな何人かで共有して遊べるって先生は思ってる。だけど、私は八個ないと遊べないと思ってる。
齊藤:
一箇所パターン変えて、引いてこう眺めると、「わーこんな模様になるのかあ」みたいな?
蜜さん:
そうそうそう。「イエーイ」みたいな感じでまたそれを繰り返すみたいな。お茶碗を重ねるので言えば、「お碗を下、お茶碗を上」にするのか、「お茶碗を下、お碗を上」にするのかとか。立体パズルみたいな感じでずっと遊んでましたね。大間違いですね(笑)。その状態でいつまでもおままごとキットを占有してるんで、保育園でしょっちゅう怒られてました。ずっと意味が分からなかったんです。
蜜さん:
何で並べるかっていうと、さっきコントロールできないものが怖いって話をしたと思うんですけど、コントロールできる範囲内ってすごく限られていたので、コントロールできるものっていうのがすごく安心だったんだと思います。
自分のルールで並べたものはコントロールできてるものですよね?視覚的に確認できて安心できて混乱の少ないもの。だってお碗を下にして、お茶碗を上にしてしまったものは、後で蓋開けてもまだそうなっているはずですから、それは安心。だからおままごとキットで困ったのは誰かが使った後に順番がおかしいときです。それでイライラして。全部ひっくり返して、また並べて、みたいな。きれいになったら、「ふぅー」みたいな。バリエーションも自分で選べますよね。他の人への配慮をしなくても没頭できる遊び、他にパズルとか、そういうのは安全なのかなと。ルールも端からやればいいとか真ん中からやればいいとか自分で決めれば良いし、周りの人に邪魔されなければ混乱も少なくて安心かな。
それに合わせてくれる人がいたら、それが初めて共有とかっていうことになっていくので、合わせてくれるっていうことがないと共有に繋がらないのかな。やっちゃんと私の関係はそうだったのかなと思います。私がやっちゃんにいつのまにか合わせていて、やっちゃんの中で共有感が生まれたから私に名札がついたんです。○○ちゃんていう。そういうことをしていかないとリアルに他者を認識できないっていうことがあったりするのかなって思います。
第1回 蜜さん講義(平成23年10月4日)
・相手が合わせてくれるならば、ないしは100%自分のやり方でよければ、関係ができる。等分の距離を持ったまま付き合うのが難しい。
・就職すれば、仕事だけに専念できるので、他者とやりとりは必要ないと思っていた。でも実際は違った(笑)。
・幼児の私は、ある日、ストーブの上の網が横棒だけだったので、縦線が欲しいと思った。そこで、割り箸を縦に並べて置いた。そしたら燃え出して、びっくりした。置いたらどうなるかイメージしなかった。想像力の問題ということか。
・燃えた割り箸を集めて母に持っていった。燃えていたけど、熱くはなかった。冷たいような、しびれたような感覚はあった(感覚鈍磨)。お母さんは燃えている割り箸の束を握っている私を見てびっくりしていたが、私の方はお母さんが何にびっくりしているのか分からず、混乱していた。私は、割り箸が燃えたことに驚いていたのだけれど・・・(笑)。
・子どもの可能性をつぶさないことが母の教育方針だった。他の大人に比べると、説明の多い大人だったと思う。
・「あなたは何をしたいの?」と、私にいつも尋ねてくれた。
・1分間のワークの後、開口一番、どうして皆さんは、今、テーマと関係のない話をしたのですか?と我々に投げかける。
・皆さんは、指示されていないのに、まず雑談をしていました。私達は、その雑談ができない。いつもテーマにまっしぐら!
・相手の話だけを聞いていて、非言語的な情報(表情やしぐさなど)を読み取れない。
・非言語的な情報は見えてはいるけれども、メッセージ(相手の意図)が含まれているものとは思っていない。
・会話中、相手の言葉の内容を理解するのに精一杯で、自分にとってどんな意味なのか考えるのにまた時間がかかる。
・生まれた時の記憶。すごく、まぶしいと感じたことを覚えている。すごく泣き叫んだ記憶もある。母親に聞いてみたら、すごく泣いたのは生まれた直後とのこと。だとすると、まぶしいと感じたのは手術台の光だったかもしれない。
・乳児室に寝かされていた時のこと。カメラのフラッシュに対して、私だけ痙攣していたので父親は驚いたそう。視覚過敏だった。
・ちょっとした物音に対しても、身震いして、泣き叫んでいた。
・衣擦れの音がとても嫌だった。なぜなら、母親が離れていく音、物が動く音だったから。怖いという気持ち。
・パチンコ屋の騒音について。全身が傷口になったところを刺激されるような感覚。
(聴覚刺激なのに触覚的に捉えられているところが興味深い。うるさいというよりも、痛いという感覚)
・怖くて身動きができくなる。その場で固まっていた。母親に抱きかかえられて、その場から離れる。
・大人になってからは、そのような不快な体験は、「心の引き出しに入れる」ことで対処するようになった。無理やり押し込んで、なかったことにする。
・大きく揺らされると、安心できた(おそらく遠心力で身体全体が腕に押しつかられる感覚が気持ちよかったのだと思われる。深部感覚)。
・小さいときは、文句を言いたかった記憶しかない。
例えば、天井でグルグル回ってるやつが、見えなくなる、風が吹いて違う動きをするだけでもびっくりしていた。その景色に順応すると落ち着くけれど、また抱っこされて景色が変わると、そこでもびっくり。
・「安心だよ、怖くないよ」という大人の言葉を素直に信じてしまう。こういう可能性もあるから危険である、ということも説明しないといけない場合もある。
・答えは「偶然通りがかった近所の人にあけてもらい、無事帰宅できました!」
でした。
・答えは「帰宅時におばさんについてきてもらい、母の目の前で、チョコレートをもらわなかったよと説明してください!と、おばさんに頼みました」でした。
・一日中、見ていられた。映像に飽きると、姿勢や位置を変えるだけで、リフレッシュが可能だった。視点や体感が変わるから。
・その穴が他の子どもにも見つかり、押入れが大変なことに。ぶつかって痛いし、困った。
・そのうち先生に見つかってしまい、危険だということで穴がふさがれてしまった。
・その後、ふさがれた押入れの穴のそばで、映像を思い出して楽しんでいた。私にとって、押入れの穴は、「音のなる万華鏡」だった。
・トイレに行きたいのかどうかがよく分からなかった。
・母親の言葉によって初めて、排尿や排便が自分の身体に属しているものだと気付いた!
「これはしなければならない義務なんだ!」と思った。
・お金と交換。ルールとして、母親は保育園に入る前から私にやらせていた。
・私としては、その行為の意味が分からなくても、システムとして納得できればよかった。
・知識の修正が難しいことを母親は「自閉症者の頭は、CD-Rであって、RWではない」と言っている。
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<質問コーナー>
参加者:
パチンコ屋の騒音のエピソードについて。なかったことにできるようになったきっかけは?
蜜さん:
大人になってからできるようになった。パチンコ屋には、距離をとったり、近づかなかったりしていた。でもある日、工事現場のそばをどうしても通らなければならなくなった。ある日、目をふさいで通ったら、足が動いた!目を手のひらで完全に覆ってしまうと大丈夫だった。それをやっているうちに。見えなかったことにすればよいと思うようになった。その後、アレンジしていき、心にたくさん引き出しを作ることにした。嫌なことはその引き出しに入れて、しまってしまう。そこにあるのは知っているけど、しまっているので耐えられる。ちなみに目を閉じるだけでは光が入るのでダメ。耳は、ふさいでも完全に刺激を遮断できない。聴こえてしまう。それに、音は振動。皮膚でも振動を感じているので感じてしまう。
私の耳はとても敏感。自分の呼吸音もうるさいときがある。東大の先生が言ってた。定型発達者も可聴閾外の音も脳には入力されているそう。脳波上は反応しているらしい。私達自閉症者は、その可聴域外の音を不快に感じるらしい。デジタル補聴器を使って、耳に入る音を可聴域に限定できるようにすると良いらしい。
参加者:飛行機に乗ったときは大丈夫だったのか?
蜜さん:
3歳のときは、頭の中がゴーって鳴っていた。怖くて、固まっていた。でも、何度も乗っているうち、死なないと言うことが分かって、大丈夫になった。私にとって、不快=危険ということ。見慣れればよいではない。何も起こらないというのが大事。
メジボフ先生の適応のための3条件は、①離席の自由があること。これは、音がうるさいなどの理由で、身体が動かなくなってしまうから。②発言を求められないこと。どうでもいいか、どうしても必要か、というように二分化している。中間がない。ほとんどの質問は中間に属することだから、尋ねられても関心のないテーマなので、よく分からない。だから、答えようがない。答えないでいると自己主張がないと、否定されてしまう。③は困ったとき発信すれば助けてもらえること。
高機能タイプにはもう一つ加えたい。それは、否定されないこと。例えば、似合わないね、ではなく、こういう服がいいよ、と言ってくれたほうがいい。ルールや解説は、子どもの言語レベルに合わせて話すことが大事。ロン・クラークの「あたりまえだけど、とても大切なこと」が面白い。ぜひ読んで欲しい。これを読んでおけば、もっと学校生活が楽しかったと思う。どうして今になって、この本と出会ったのだろうという悔しい気持ち。「どうして学校にドリトスを持ってきていけないのか」が良い。
「あなたはどうしてもらったら、楽になりますか?」は難しい。子どもに選択をさせる前に、どんな選択肢があるのか先に示して欲しい。私達は、自分の意図や気持ちを表出するのがとても苦手。でも表出する方法をたくさん持つのは大事。
表情は、小さいときから練習してきた。入学前、母親が化粧しているのを覗いていたら「化粧してみる?」と言われた。鏡に映る化粧した自分をまじまじと見つめていたら母親が「少しは、笑ってみたら」と促された。振り返って母親の表情を見たら笑っていた。母親と鏡に映る自分の表情を見比べながら、笑顔を作ってみた。人の顔の動きというのは、表情筋なんだ!と思った。それから、練習している。普通のアスペルガーよりは表情が豊かだと言われる。