雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

022  「021かんしゃくの構造」のコメントの続き

022  「021かんしゃくの構造」のコメントの続き


齊藤コメント

 

 実験後の感想をもう少し挙げます。

 

 Bさんは「快不快、喜怒哀楽程度は感じることができます。相手の感情をうまく言葉に出来ないのと同様に、自分の気持ちも漠然としています。だからいつもモヤモヤしています。でも、自分の気持ちにぴったりな言葉を言われるとすごくすっきりします」。


 Cさんは「感情を表現する語彙が少ないんです。普段はその程度の語彙でしか、他者や自分の感情をとらえていません。会話だと流れの中で表現する必要があります。時間制限があるのでとても難しいです」。

 

 Aさん、Bさん、Cさんに共に、感情を表す言葉を知らないということを自覚されています。感情というものは言葉に規定されているものなのですね。

 

 Dさんは「結婚してから、怒れるようになりました。それまでは、無意識に怒りの感情を押さえ込んでいたのだと思います。結婚したことが大きい。夫に対して気持ちを伝えないと、夫婦関係は成り立たない。夫は、私が感情を表現することを求めてきました。恐る恐る感情を表現してみたら、夫のリアクションがとても大きいので驚きました。そんな日々をすごしているうちに、自分の感情を見つめざるを得ない状況なっていきました。すると、感情の起伏が大きくなっていきました。でもまだ、自分の感情をどのくらい出せばよいのかわからないので、必要以上に夫を悲しませることがあります。今は調整段階なのです」。

 

 結婚を機に感情表現が豊かになったというのが興味深いと思います。ポジティブな感情は、相手に受け入れられやすいので表現しやすいですが、ネガティブな感情は相手を怒らせたり、悲しませたりして、その後の関係を悪化させてしまう可能性があります。人間関係において失敗経験の多い人であれば、自己評価を下げる事態を招くことは出来る限り避けたいと思うはずです。

 

 でもDさんは、信頼できる夫に対してであれば、今まで意識することを避け、押し隠してきた感情を表現することができると思ったのでしょう。感情が育つには、当然ですが基本的信頼感が必要条件です。

 

 「自分の心の動きに疲れるときがあります。細かに動いているから。刺激に対するフィルターが細かい。反応してしまう」。

 

 Dさんは、外から見るとクールに見えるのですが、ここで述べているように、いろんな刺激に反応して揺れ動く、敏感な心を持っているようです。細かく揺れ動いているのに、それを外部に表現できない状態は、本当のDさんの姿ではなかったでしょう。
 

 雨野さんは感情語の獲得について、「定型発達児は、養育者からたくさんのラベリングを浴びせかけられる。取捨選択するのは子ども自身だが、ラベリングのきっかけは他者なんですね」と言っていました。

 

 他者からのラベリングを取り込むということは、人は発達初期から他者性を含んだ自己を形成しているということになります。雨野さんは「オリジナルな自分の言葉はないかと、心の中に捜してみたことがあります。しかし、どん言葉も他者から取り入れたものばかりだということに気付きました。自分はたまねぎみたいなものです。真ん中には何もないのですから。僕自身というのは一体どこにあるのでしょうか?」。

 

 このとき私は雨野さんに「感情も含めて自己という概念は、他者と作り上げた一種のイメージなのではないかと思います。自己というものは、個人に内在する実体のあるものではなく、他者との関係性のあり方そのものを指すのではないかと思います。ゆえに他者との関係がないところに、自己もまた存在しないということになると思うのです」という意味のことを述べました。でも、雨野さんは自己がどこかに“ある”と信じているようでした。そして深く長く内省していったのです。

 

 雨野さんは「怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思えるように少しなった。病識というのは大事だ」と述べました。私はこの文章に少し違和感を覚えたのですが、皆さんはどう思いますか?

 

 雨野さんが怒る理由は、時にユニークかもしれません。しかし「怒ること」それ自体は、人間として自然な行為だと思うのです。怒りの感情をうまくコントロールすることは必要ですが、距離を置いて表現しないでいることは、自然ではない気がするのです。私は「怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思う」ことを、なるべくなら“病識”と整理したくないのです。自身の感情世界をより豊かにするのは、他者からラベリングなのだとすると、それを出さずにじっとしていることは、安全と引き換えに成長を失うことになります。

 

 Dさんのようにネガティブな感情をありのままに受け入れ、対話をしてくれる人に出会うことの大切さは、雨野さんの納得の仕方と対比されることによって、より明確になると思います。Dさんは「苦手なことはにがてなままでいいんだなと思えるようになった。自分を許してあげる感覚を持つようになりました」と仰いました。