雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

012 具象と抽象~認知のメッシュ~

012 具象と抽象~認知のメッシュ~


雨野カエラ


 抽象的な事を言いたいのに、具象でしか言い表わせないことがあります。何か困っている?と聞かれて具体的な事で答えるのですが、実は困っているのはその一点だけでなく「その事に代表されるような」もっと大変な事だったりします。なんだ、そんなことかと思ってもその裏にある表現できない問題を汲み取る必要があります。


-----

齊藤コメント

 今から十数年前、アスペルガー症候群の年長児、C君に知能検査を実施しました。この検査の中に「類似」という検査がありました。二つの単語の似ているところを答えるというものです。C君は、一問も正答しませんでした。語彙は豊富ですし、記憶力も抜群であるにもかかわらずです。例えば、水族館に行くと学名まで丸暗記してくるくらいです。そんなC君がどうして、0点なのか不思議ですね。その理由はどの問題においても、C君は「全然似ていない」と強く主張したためでした。

 標準化された検査ですから、実際の問題をここに書き記すわけにはいきませんので、例を挙げて説明します。例えばこんな問題です。「松田聖子と小泉今日子はどこが似ている?」(すいません、キョンキョンのファンなのです)。答えは「アイドル!」ですね。しかし、C君は違いました。C君の答え方を真似てみると次のようになります。「その二人は似ていません。顔も違いますし年齢も違います。出身地も違いますし、身長や体重も違います。ヒット曲も違います。だから、全然似ていません」という具合でした。

 C君とは、スリーヒントクイズをよくやっていました。絵カードを私の額に掲げます。私は、絵カードの絵を見ることはできません。絵はC君の位置からしか見えません。ヒントを出すのはC君です。絵の見えない私に、三つ以内のヒントで当てさせる、というゲームです。あるとき、私は「エビ」のカードを引きました。

 (机の上にあるカードの山から一枚引いて)

私 「よし、C君、ヒント出して」

C君「うーんとね、(絵を指差しながら)ここに線が三本。ここには線が二本。そしてここはね、シューッとなってる」(自信満々な態度で私の反応を待っている)

私 「ここってどこ?線が何本って言われてもわかんないよ」

C君「えー、どうしてわかんないの。だから、こ・こ・の線が三本なの!そして、ここが二本なの!わかった?」

私  「ぜんっぜん、わかりません!」

C君「もー、どうしてわかんないの。イライラするなあ」

私 「じゃあさ、これは生き物?生き物じゃない?」

C君「生きものに決まってるだろ」

私 「どこに住んでるの?」

C君「海」

私 「なるほどね。じゃあもう一つ質問。何の仲間?」

C君「甲殻類」

 最初に出てきたヒントは、見たものをそのまま叙述しているものでした。言わば究極の具象的表現です。しかし一方で「甲殻類」という高度な抽象語を正しく使用することもできるのです。ここが興味深いですね。C君の心の中にある概念地図は、具象と抽象の混沌ですね、(もちろん他者視点取得の問題も含まれていますが、今回のテーマではないので触れないでおきます)。

 C君は、ふざけていたわけではありません。真剣にヒントを考えてくれていました。真剣に説明しようとすればするほど、書かれているとおりのことをそのまま叙述しようとする、このようなC君の態度は、雨野さんの困ったことを具象でしか言い表せないというのと類似してるなあと思いました。


 ちなみにこのゲームは3ヶ月ほど続けましたが、いつも第一ヒントは視覚情報に関する叙述からはじまりました。しばらくすると、第二ヒントや第三ヒントで、抽象的なタームを用いるようにはなりました。しかし、最後まで優先順位そのものが変化するには至りませんでした(つまり「具体的な視覚情報→抽象語、カテゴリー語」の状態から、「抽象語、カテゴリー語→具体的な視覚情報」へと変化すること)。


 そして、彼が二年生のときに、再度、知能検査を行ったところ、「類似」の評価点は13点に跳ね上がりました。教育の効果が大きかったのだと思います。カテゴリーのルールを知識として学んだことによって、概念の再構成が行われたのでしょう。


 C君の説明は、とても肌理が細かいのです。まるで微細な部分までもがくっきり見えてしまう映像のようです。雨野さんはこのことを「アスペルガーは、認知のメッシュが細かい」と表現していました。パタン認知やカテゴリー化にとって重要度の低い情報であっても、見える人にとっては、対象を構成する重要な要素として捉らえている可能性があると思います。


 認知のメッシュというアイデアに関して、雨野さんは自身の聴覚経験を例に次のように説明してくれました。「僕は、他者の言葉が聞き取りにくいことがあります。音声の波形で言えば、細かい波までもが聞こえている感じです。だから、音声の全体的な雰囲気をつかみきれないで、相手が何と言ったのか分からなくなるのです」。聴力の問題ではなく、パタン認知における適切な感度の問題ですね。認知のメッシュが細かければ細かいほど(感度が高ければ高いほど)、パタン認知やカテゴリー化が難しいということを示しています。


 「風邪などを引いて体調が悪いときは、聴覚刺激への過敏性が低くなる気がします。環境のノイズ音が、あんまり気にならなくなるからです。そういう時の言葉の聞き取りはいくらか楽な気がします。また、子どものときに比べると、今のほうが過敏性は低下していると思います(このとき30歳代半ば)」。体調の低下や加齢によって感覚の閾値が上がると、ノイズ音が程よくフィルタリングされるのかもしれません。


 でもそのような変化を雨野さんは喜んでいる風でもなく「やっぱり、アスペルガーでいるときが楽しいです(感度の高い知覚を経験できること)。感覚が低下すると、あんまり面白くありません」などと言っていました。


 肌理の細かい「認知のメッシュ」は、物事を正確に経験することを可能にしますが、他の経験との弁別性を低くしてしまいます。全く同じ経験というものは存在しないからです。一回一回の経験が独立しているとも言えます。しかし、抽象とかパタン認知、カテゴリー化などの心理機能は、諸経験に共通する不変要素を見つけ出すことに等しいわけです。アスペルガー症候群の「一回性の経験」は、不変要素の抽出とは別の方向に導いていくことになります。具象でしか語れないということはそういうことなのではないかと思いました。

 
 つまり自閉性障害においては、感覚の感度の高さ(過敏性?)とカテゴリー的思考は反比例の関係にあるのではないか、というお話でした。