027 客観的事実と常識的概念(2)
027 客観的事実と常識的概念(2)
雨野カエラ
受動型の人は特に外からもたらされた事柄を事実として扱ってしまう。非自閉の人が何気なく口にした一言も客観的事実だと思い信じてしまう。それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ。
自分の信念と相手の言葉が相違しているときは混乱が倍加する。どちらも事実として扱うと論理が衝突してしまい、混乱や思考の停止が起こってしまう。どちらかを切り捨てるか、新たな理屈を作るか、どちらにしても矛盾をはらむ事になる。
ソーシャルストーリーズやコミック会話といった客観的事実の提示という方法は彼らの理解を助け、自ら混乱を収束させ得るのだろう。
齊藤コメント
ある幼稚園でのこと。自閉症のHちゃん(受動型)が園庭で遊んでいました。夏の暑い日でした。Hちゃんは、乾いたアスファルトにジョウロで水をたらし、その模様を楽しんでいました。
畑に水を撒きたいと思った先生が、Hちゃんを見つけ「Hちゃん、畑の野菜に水を撒いて」と声をかけました。Hちゃんはすぐに反応し、畑のほうへ歩き出しました。しかし、少し様子が変でした。というのも「畑に水。畑に水」と繰り返しながら歩いていたからです。動きがややかたく、表情は無表情に近いものでした。
畑に到着しました。Hちゃんは素直に、先生に指示された場所に水を撒いていきます。先生もその姿を見て喜び「上手ね」とか「ありがとう」と声をかけていました。しかし、やはり様子が変です。さっきよりも声高に「畑に水、畑に水」と繰り返しています。あまり楽しそうではありません。
水を撒き終え、元の場所に戻ってきました。Hちゃんは、ニコニコしながら、ジョウロで遊び始めました。しかし、数分後、先生は再び「Hちゃん、畑に水を撒いて」と指示しました。Hちゃんはすぐに反応し、畑に向かって歩き始めました。今度は、初めから様子が違っていました。「畑に水」を大声で繰り返し始めたのです。水を撒いている間もしばらくそれは続きました。徐々に「金切り声」に近くなっていったころ、Hちゃんは突如、ジョウロを投げ出し、その場から逃げるように走り出していました。先生は、あっけにとられてHちゃんを目で追っていました。
Hちゃんは、アスファルトの模様を見ていたかったに違いがありませ。しかし、先生の指示が聞こえてきました。Hちゃんにとっては、外部からの指示は、従わなければならないことだったのでしょう。Hちゃんは、同時には満たすことのできない二つ要求の狭間で葛藤します。「畑に水」と何度も繰り返していたのは、目標を見失わないように自分をコントロールするためだったのかもしれません。1回目はなんとか持ちこたえましたが、2回目は限界を超えてしまいました。畑に水を撒くことも、ジョウロで遊ぶことも両方を放棄することで解決するしか方法はなかったのでしょう。
子どもが「素直に指示に従う」姿を見ると、大人は納得してくれたと勘違いしてしまいがちです。Hちゃんの反応があまりにも素直だったので、先生は「Hちゃんも、畑に水を撒きたいのだ」と思ってしまったのでしょう。
Hちゃんが「畑に水」と、先生の指示を繰り返していることを、欲求の表現とみるか?葛藤のコントロールとみるか?難しいかもしれませんが、指示に従うこと=本人の欲求=自発性、ではないことを留意する必要があったのでしょう。
ちなみに雨野さんが信頼できるものの順番は、①外部に存在する文字、②自分で言語化できたもの、③言語化できない自分の気持ち、となるそうです。
雨野さんは「それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ」と述べています。ここが重要だと思いました。
雨野さんは、自分は客観的事実を話していると思っています。だから他者も同じように常に事実を話していると思うのです。自分と他者を同類であると認識するからこそ、そのような誤解が生じているのです。同じ場所・同じ時間に二つの異なる事実は存在しえません。だから混乱するのです。どちからが事実ではないか、もしくはどちらも事実ではない可能性があるわけですが、そのことを把握する術がないと混乱は続きます。その術の一つとして、ソーシャルストーリーやコミック会話があるのだと思います。
定型発達者にとっては、これらの方法を通じて自閉症者に、世の中の客観的事実を伝えているように思えますが、伝えているのは実は定型発達者の主観的想像の方なのかもしれません。定型発達者の言動には、主観が含まれていることが理解できれば、混乱はひどくならなくて済みます。なぜなら事実は一つというルールは守られるからです。
定型発達者が、ソーシャルストーリーやコミック会話などの方法を通じて、世の中の客観的事実を伝えているという誤解を強めると、それはそれで自閉症者に混乱を与えてしまうことに注意しなければなりません。定型発達者が自身の主観的想像に気付かず「これは100%事実なのです」という態度で説明すると、場合によっては、自閉症者の持つ客観的事実との葛藤が強まることがあるからです。ソーシャルストーリーやコミック会話を作成する人によって、微妙に内容が違うわけですが、このこと自体、伝えている内容が客観的事実ではないことを示しています。客観的事実であればいつも内容は同じはずですから。だからこそ「これには世の中の客観的事実と私の主観的想像が含まれています。ここの部分は私の主観的想像なのですが~」と前置きをして説明する態度が大切だと思います。
これらの方法による支援の最終目標は、自閉症者自身にも主観があるのだということに気付いてもらうことだと私は思っています。雨野さんの言葉には客観的事実だけでなく、主観的想像も含まれているのですから。私にはそう思えるのです。主観的想像にはたくさんの解釈が存在します。その解釈の統合を目指すところに、コミュニケーションの必要性が生まれるのです。客観的事実しかない世界には、経験の共有は生まれにくいと思います。互いに話さなくても、経験の中身は一緒なのですから。
雨野さんは「言語化できない自分の気持ち」が一番信頼できないと言います。これは悲しいことだと思います。「言語化できない自分の気持ち」のなかにこそ、雨野さんの本質が含まれていると思うからです。自己の主観的想像を味わってくれる他者との出会いが、自分を発見し、自分を大切にする感覚を養うものだと私は信じたいと思います。