003 学校キライ(2)
003 学校キライ(2)
雨野カエラ
ある日、ハミガキ講習会があって全校児童が歯ブラシを持って体育館の床にぎゅうぎゅうに座っていた。先生の言う通りに歯ブラシを動かしたら前に座っている子にどうしてもぶつかる。その子はとても怖い顔をして僕をにらんだ。でも先生の言う通りにしなければならない。僕はいったいどうしたらいい?
整列と行進の練習をしていて先生が言う。
「あごをひけ!」
僕はその頃あごをひくというのがどういうことかわからなかった。できるかぎりあごが後ろに行くように努力した。僕を見つけて先生が怒鳴る。
「あごをひけというのがわからないのか!」
先生は僕のあごをつかみ無理に下げようとした。僕は反抗する気なんてまるでなかったのにどうしてそんなことをされなければならないのかわからなかった。体に触れる前に、あごをひくのがどういうことか分かるように説明してほしかったよ。
何が間違っていて何があっているのか。僕はさっぱり分からなくなってだんだんと学校がイヤになっていった。集団登校もみんなのようにふざけ合いながら学校まで行くのがとてもイヤだったから、登校班のみんなが出発してから遅刻ギリギリに行くようになった。これでは先生に呼び出される。
成績はそんなに悪くなかったけど、時々まったくできない科目があった。例えば筆算はできるのにそろばんはほとんど0点。できないとなったら本当にまるっきり理解できない。でも先生は僕が時々何も理解できなくなる事があるなんて思ってなかったらしい。4時間目がそろばんで、計算の終った人から給食ってなったことがあったけど僕は一問もできてなかった。その時は先生の真ん前の一番前の席だったけど、先生は僕が簡単な数問を解けないことに気付かなくて給食を食べはじめていた。
ペーパーテストでは答えられることが授業中に当てられると全く答えられなかった。主人公がその時どう思ったか、文章から抜き書きすることはできたけど、いく通りも答えがあるような場合は答えられない。何も言えずにいると、はやし立てられたり先生に答えを急かされたりして泣いた。
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齊藤コメント
ハミガキ講習会のエピソードは、どの範囲まで自分の判断で行動することが許されるのかについて迷っていることが原因のようです。雨野少年は、先生の指示に従っているのですが、ぎゅうぎゅうに並んでいるので、歯ブラシがどうしても前の子どもに当たってしまいます。ほんの少し体をかわせばよいのですが、先生の指示にはなかったので、思いもつかなかったのだと思います。「歯みがきをすれば相手に怒られる」と「歯みがきをしなければ先生に怒られる」。どっちを選択しても誰かを怒らせることになってしまいます。行動すれば必ずネガティブな結果が生じてしまう(と思っている)このような状況は、好ましくはない選択肢によって二重に拘束されている状況と読みとれます。
整列と行進のエピソードは、慣用句の理解の失敗と言えるでしょう。「あごをひけ」は文字通りの意味ではありません。この表現を知らない外国人が聞いたら、どんな想像をするでしょうか?私は「誰かのあごにロープをつけて、引っ張っているところ」を想像しました。「あごをひく」を正確に述べるとどうなるでしょうか?「視線を前に向けたまま、あごの先を首に近づける」となるでしょう。これでは子どもには分かりづらい表現なので、次のような説明はどうでしょう。「皆さん、返事をするときに頭をコクンと下げますね。やってみてください。そうですね。では今度は、軽くうなずいてみてください。ほんのわずか頭を下げるくらいです。そうして下げたところで、頭を元に戻さずに、ストップしてみてください。はい、そのまま先生を見てください」。分かりにくいですが、「あごをひく」という慣用句よりは、正確に行動を説明していると思います。このように説明してみると慣用的表現は、聞き手(読み手)に対し、複雑な意図の理解を要求していることになります。言葉とは、あいまいなものです。こういう場合、やはり雨野少年が望むやり方が一番ですね。やって見せれば、一瞬で理解が可能です。
コミュニケーションとは、流暢に言葉を操り、複雑な言語表現を理解しあうことではないのです。前提は分かり合うことなのです。分かり合えるのならば、どんな方法を使ったっていいのです。それが相手の理解の仕方に合わせるということなのだと思います。
ネガティブな結果しか予想できない二重拘束の状態、あいまいな言葉による指示への戸惑い。こんな状況が毎日続けば、頭が混乱してくるのも無理はありません。「何が間違っていて何があっているのか。僕はさっぱり分からなくなってだんだんと学校がイヤになっていった」という雨野さんの振り返りは、妥当なものだと私には思えます。まず、自分の判断・解釈に手ごたえがありません。さらに自分で考え、行動すればするほど周囲の人の反感をかってしまう状況は、少しずつ子どもを追い詰めていきます。
お互いの認識の前提がずれていることを、意識できれば悪循環は回避できるのですが。定型発達者はアスペルガー症候群者の前提を直感的には理解できませんし、アスペルガー症候群者もまた同様です。互いの立ち位置を確認することが大事なのですね。「スタート地点が違っているだけ」なのだと思います。
国語のペーパーテストの話は興味深いと思いました。空欄で提出された解答用紙を見て、教師はどう思ったでしょうか?「登場人物の気持ちが分からない子なんだな」とでも思ったかもしれません。でもそれは事実ではありません。
雨野さんは、単純に登場人物の心情理解が難しかったのではなかったからです。心情の推測はしていたのです。しかし、当てはまりそうな仮説が、たくさん思い浮かんでしまい、どれを選んだらよいかわからないというところに、雨野少年らしい困り方があったわけです。
心情理解は多様であったほうが良いのですが、国語のペーパーテストでは答えが決まっています。私も子どもの頃、返却されたテストの答えを見て、なぜそうなるのか分からなくて困った経験があったので、雨野少年のエピソードには共感するところがあります。
「作者の意図を答えなさい」。こういう設問もありますね。作者は本当に、テストの答えのような意図を持って物語を書いたのでしょうか?私には、どうしてもそうは思えないのです。言葉にならない経験。でもその経験に含まれる何かに、未だ意識化できていないその何かによって心を揺さぶられているからこそ、人は筆を取り物語るのだと思います。作者は、綿密に設計図を書いて、すべての文章を論理的に構成しているわけではないと思うのです。先の設問は、物語が書かれる以前に、明確な意図が事前にあったかのような雰囲気を漂わせています。でも事実は逆ではないでしょうか?物語るという行為を通して、そのとき経験していたことの意味が事後的に了解されうる、というのが物語る行為の本質だと思います。
すると「作者の意図を答える」という設問は文字通りの意味ではないのではないか、と私は思うのです。正確には「作者の意図についてのあなたの考えを述べなさい」が正しいのだと思います。主語は「作者」ではなく「解答者」なのですね。でもそのことは明示されていません。それは暗黙の了解だからです。「解答者」である自分自身を主語とするならば、解釈はしやすくなります。なぜなら他者である「作者」の考えには、いろんな可能性が考えられますが、「解答者」である自分自身の考えであれば、仮説はぐっと減るからです。すなわち複数の仮説の中から、可能性の高いものを絞り込むことができるのです。
雨野少年に必要だったのは、仮設を絞り込む枠組み、基準であったことがわかります。知的な能力が高い一方、他者の意図を推測することに難しさがある場合、当然論理的な推理能力を働かせて補おうとします。雨野少年は、いつもたくさんの仮説を考えていたのだと思います。このように知的能力とは分析には優れていますが、判断には不向きであるといえます。判断に必要な枠組み、基準はどこあるのでしょうか?またどこからやってくるのでしょうか?この問題については、またどこかで触れたいと思います。