032 「周囲への告知について」のコメント
032 「周囲への告知について」のコメント
齊藤コメント
雨野さんの文章を読んでいると、他者を敵か味方かで判断しているように見受けられます。
基本的信頼感が薄いと、判断の基準がどんどんとプリミティブなものになっていくようです。
敵か味方か、という基準が強くなると、コミュニケーションは生まれにくくなります。
以前紹介した高校生のF君は、所属する部活のメンバーに自分のことを告知しました。最初のうちは理解を示してくれた仲間や先輩達も、頻繁に指示を忘れたり、同じ間違いを繰り返すF君に苛立ちを感じ始め、しばらくすると「障害に甘えているのではないか」と責めるようになってしまいました。
悩んだF君は、一つ上の学年の先輩に相談しました。その先輩は、親身になって話を聞いてくれたそうです。また、聞いてくれただけでなく解決方法も一緒に考えてくれました。F君は「次から次へと指示されると、最後の指示しか頭に残っていないんです」と自分のことを説明しました。すると先輩は、ノートを持つことを勧めてくれました。F君に指示があったときは、手元にあるノートにすぐに書き込めるようにしたらどうだろうかと提案してくれたのです。さらには、一人だけノートを持っていては目立つので、コーチや監督には事前に伝えておいてくれたそうです。
F君がこの話を終えた後「齊藤先生、これで良かったのでしょうか?」と確認を求めてきました。私は「もちろんです」と答えました。そして「F君の話を聞いていて、すごいなあと思ったところは、自分の記憶の特性に気付いただけでなく、さらに相談に乗ってくれそうな先輩を試行錯誤せずに一度で見つけられたことだと思います」と言いました。F君は、きょとんとしていました。
自分を理解してくれそうな人を見つけるのは、簡単なことではありません。自分が何について相談したいのかが分かっていないと、それに適した相手を見つけることは不可能だからです。また、F君のように自分の特性を把握している人でも、「相手を信じる」気持ちがなければ相談までたどり着けません。「どうせ分かってくれないだろう」と否定的な気持ちで一杯な時に、他者に頼ろうとはしないでしょう。このように「相談する」というスキルは、獲得の難しいスキルの一つだと思います。
私が出会ってきた自閉症圏の方たちは、本当に困った時に自分一人で考える込む人たちが多いなあ、という印象を持っています。他者に頼る、助けを求めるということは、まず身に着けなければならないことだと私は思います。誰だって、人に助けられて日々を生きているわけです。心を低くして、他者に助けを求める。そして助けられたことを感謝して形に表してお返しする。この気持ちが育っていれば、社会に出たときに何とか生きていけるのではないかと私は思うのです。
F君のように、本当に困ったときに他者に相談できる人というのは、きっとそれまでの人生において、一緒に考え、助けてくれる人にたくさんめぐり合ってきたのだろうと想像できます。もっと想像するならば、F君のご両親や周りの人たちが、小さなF君の代わりにいろんな方々に相談しながら、他者に助けてもらう模範を示されてきたのだろうとも思うのです。両親が先に通ってくれた道なればこそ、後に続く子どもが、本当に困ったときに親の姿に自分を重ね合わせ、自然と相談できるようになったのだと思うのです。相談する力というのは、一丁一石に身につくものではないと私は思います。短期間のソーシャルスキルで、形は整うかもしれませんが、そのスキルを運用すること、相手に感謝の気持ちを持つことは、また別の話です。何年もの生活の積み重ねが必要です。
自立することを、人に迷惑をかけないことと教えている場面によく出会います。年齢などにもよりますが、小さいうちからあまりこのことを強調しすぎると、かえって人間同士が自然に助け合う姿を歪めて伝えてしまっているように思います。
「困っているんだね、手助けしてあげよう。でも次からは、自分で出来るように努力するんだよ」。一見筋が通っているように思うのですが、この精神を突き詰めると、実存的で孤独な個人を作り出してしまうような気がします。孤独な個人には信じるものがありません。完全な自由を獲得しますが、同時に心のよりどころを見失うことになります。
「困っているんだね。手助けしてあげよう。私にお返しはいらないよ。そのかわり、君が大きくなって同じように困っている人がいたら、助けてあげてほしい。できれば、自分が助けられて感謝しているということを話してくれるなら、もっといいな」。これだと、人と人のつながりが切れません。自己評価も下がりません。またこの声かけは助けられてきた過去の自分から人を助ける将来の自分へと、自己の成長を歴史的に展望する視点を子どもに与えています。歴史的な文脈の中に自己を位置づけることは、たくさんの他者に支えられながら今の自分が成り立っているという気持ちを育てる苗床になると思います
子どものソーシャルスキルの問題は、我々大人のソーシャルスキルの問題であると言えます。思いやりの気持ちを持って欲しいと願うならば、その子の前で私たちが、常に思いやりのある行動を、その子どもや周りの人に向けていることが必然となります。社会のために働いて欲しいと願うならば、まず私たちが他者の喜びを目標としてしっかりと働く姿を、子どもに映さねばなりません。
ソーシャルスキルや障害告知といったことが、技術論だけで終わるならば、大きな効果は望めないでしょう。子どもに向き合う私たちの日常の生活そのものをどのように構築していくかが問われているのだと思います。
F君は、普段、部活のメンバーに迷惑をかけて申し訳ないと思う気持ちから、誰よりも早くグラウンドに顔を出し、一人黙々と整備をしているのだそうです。F君を育てた家族や支援者たちの日々の過ごし方が表れていると思います。