雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

007 子どもの頃、好きだったもの

007 子どもの頃、好きだったもの


雨野カエラ

子どもの頃のことをもう少し書こう。

 好きだった物は、読書、動物、マンガ、アニメ、映画、一時期は電車。
ドリトル先生やムツゴロウさんの本をよく読んでいた。畑正憲さんの本は小学生が読むには大人向きのことも書いてあったように思う。片付け物ができないくせにマンガと本だけは1巻から順に並べていた。すると「几帳面だねえ」と部屋に入ってくる大人に言われる。僕は大事な本のことで干渉されることがいやだったから、それからはわざと乱雑に見えるように並び替えた。これなら自分の思うように並べられるし、大人に干渉されることもないからね。

 広辞苑や時刻表、電話帳を眺めるのも好きだった。中学生になってからは対談本をよく読んだ。対談を読んだ後は参加者の一人になりきって、頭の中で彼らと対談を続けられる。対談は現実の会話とは違い、後から書き起こされて整理されているからずっと論理的な会話が続けられる。どうしてみんな対談の人たちのように会話ができないのだろう。それならもっと会話も楽しいのにと思う。

 パソコンの雑誌を読むと気分が落ち着く。コンピューターのスペックを眺めていると、割り切れない人間のことを考えなくて済むからかな。

 集めていたものは、小さなネジ、リード線、ビー玉、パチンコ玉。
機械の分解が好きだった。ラジカセ、ビデオデッキ、フィルムの8ミリカメラ。分解の「気持ちよさ」にまかせてバラしていくので、組み上げた時には元通りにならず、たいてい最後にネジが余る。とくに精密ドライバーをつかって外すような小さなネジが好きでしまい込んでいた。発明家になりたかったよ。

 ビー玉は封じ込められた小さな泡を眺めたり、日にかざしてキラキラしているのを少しずつ角度を変えて楽しんだ。今でもビー玉がレールを転がっていくおもちゃが好きで、やはり太陽の光をあてながら見るときれいだ。今度、銀色の金属球がレールを転がり続ける、ちょっと前のおもちゃが復刻されると聞いて楽しみにしている。

 ブロックも大好きだった。必ずシンメトリーになるように作っていた。でも、これも大人に何か言われそうな気がして、わざと必ず非対称に作るようになった。今でもレゴのセットをたまに買う。

 持っていたおもちゃではミニカーを中心に、毎回同じ勧善懲悪ストーリーで遊んだ。おもちゃのお気に入りの順序は厳格に決まっていた。これはとても重要。

 アニメソングを録音したカセットをたくさん持っていた。やがてテレビで放送される映画をたくさん録画するようになった。どちらもリストをつくってまとめていたからかなりの本数になる。


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齊藤コメント

 雨野少年は、構造が明確なものが好きだったようです。対談本の話、コンピューターのスペック、勧善懲悪のストーリー、対称性のあるブロックなどがそうです。理解できることは安心につながります。「割り切れない人間のことを考えなくてもすむからかな」という本音からは、構造の見えない状況に対する不安が垣間見えます。

 対人的なやりとりをする上で、時間的な構造化は空間的な構造化よりも重要な気がします。自閉症の子ども達が「ボタンを押すと音が鳴る」「球を入れるとクルクルと回りながら落ちる」というような単純なおもちゃに没頭するのは、自己の動作とその結果の時間的な因果関係が捉えやすいからであろうと思います。

 自閉症の子どもと遊ぶと、やり取りが続かないばかりか、こちらに関心すら向けてもらえないことがあります。一方、おもちゃに没頭している姿をみると、なんだかさびしい気持ちになります。こういう場合、私のかかわり方の時間的構造が流動的で、子どもにとっては構造が見えにくいものになっているのだと思います。

 このことは遊びに限ったことではありません。普段の会話なども厳密に構造化されているわけではありません。むしろ、あいまいな表現、かみ合わない言葉のやり取りが頻繁に生じています。


 ある女性の当事者に、幼い頃の話を聞いたことがありました。

 「周囲に人がいることは分かっていたが、興味がなかった。自分とは関係のないものと思っていた。友達の遊びに加わっても、どんどん遊びが、グダグダになる。どう振舞って良いかわからなかった。結局、絵本などの自分好きなことをしていた」

 “どんどん遊びがグダグダになる”とは、おそらく目的やルール、方法の変更を指しているのだと思います。彼女は変更を楽しいとは思えず、“どう振舞って良いかわからなくなる”くらいに困ることだと思っていました。一緒に遊ぶことの意義が見出せない彼女が、一人遊びになるのは必然です。他者は構造を乱す者として捉えられています。だから自分とは関係ないものとして、彼女の世界から排除されていたようです。

 ある療育機関で実習した時のことです。6歳の自閉症の子どもとセラピスト(以下、Th.)が遊んでいるところを観察していました。

 その子どもは、おもちゃのレジスターで遊んでいました。隣にいるTh.にアイコンタクトすることなく、黙々とボタンを押していました。Th.は子どもの行動に効果音をつけたり、言語化したりと、途切れずに働きかけていました。そのような状態が、十数分間続きました。

 おそらく偶然ですが、お金を入れる一番大きな引き出しが勢いよく飛び出しました。黙々と遊んでいた自閉症の子どもの表情が変化しました。はっきりとした表情ではなかったのですが、驚きの感情が生じたように見えました。

 その時です。Th.が「わぁー!」と子どもの驚きを代弁するかのような声を出しながら、数回でんぐり返しをしたのです。一瞬、私は「なんだ!?」と思いました。引き出しが飛び出たことに驚いている暇もないうちに、大人(Th.)が派手なでんぐり返しを行ったのですから。それも連続で。

 ふとわれに返り、観察中であることを思い出し、子どもへ視線を移すと、引き出しが飛び出てくるボタンを再び押そうとしています。偶然かなと最初は思いましたが、その後も繰り返していたのでそうではないようです。ボタンが押されるたびに、Th.は最初のときと同じタイミング、同じ声の大きさ、同じ速度、同じ回数のでんぐり返しを、きっちりと再現して見せています。この間子どもは、Th.の方を見ていませんでした。視野のはしっこで確認している程度だったと思います。

 その後も、延々と続きました。子どもは明らかに、Th.を動かすために、そしてその予測が確かなものであるかを確かめるために繰り返しボタンを押しました(まるで実験しているようでした)。数回のセラピーが過ぎた後、子どもの行動に変化が起こりました。ボタンを押す前にニコッと笑ったのです。これは期待が成立したことを示唆します(僕がボタンを押せば、きっとこのおじさんはでんぐり返しをするぞ!)。他者が行動する前に、結果を予測するということはつまり、人の心を読もうとする態度と同じと言えます。

 しかし、ここまでくるには長い道のりが必要でした。Th.の正確な反応と何十回もの繰り返しの末に起きた変化でした。私ならばとっくに飽きて、子どもの期待とは違う反応を返し、子どもを落胆させていたでしょう。

 ニコッと笑った表情をTh.は見逃しませんでした。それまで、ボタンを押すのとほぼ同時にでんぐり返しをしていたのですが、少しポーズを置いてから回るように反応を修正したのです。すると、それまでTh.とアイコンタクトしなかったこの子どもは、「おかしいな」とでもいうように、初めてTh.の顔を見たのです。Th.は、子どもが自分に視線を向けてきたことを確認してから、でんぐり返しをしました。その後は再び、ほぼ同時のでんぐり返しを数回行い、時折、ポーズをとって期待を少しだけ裏切るという、変則的な遊び方に変わっていました(変則的といっても、ポーズはほんのわずかの時間です)。これをまた延々と続けたのです。

 するとポーズを置いたときに、アイコンタクトが明確に出現するようになりました。Th.は、徐々にですが「ボタン押し→でんぐり返し」という因果関係から、「Th.を見る→でんぐり返し」というように、要求の対象をモノではなく人へと導いていたのでした。子どもの側からすれば、最初のアイコンタクトは「あれ、おじさん壊れたのかな」くらいの感覚だったのかもしれません。しかし繰り返しの中で、子どもはボタンを押して相手をでんぐり返しさせるよりも、相手に視線を送るだけのほうが、はるかに便利なコミュニケーション手段であることに気付いていったのでしょう。ボタンを押すのと同時に、アイコンタクトすることが増え、かつ注視時間が長くなっていきました。


 アイコンタクトが安定してきたころ、Th.はあらたな変更を行いました。ポーズをより長く置くようにしたのです。子どもの反応も、それに応じて変わりました。Th.とアイコンタクトするときに、不快そうに発声をするようになったのです。「どうしていつものように回ってくれないの?早く回ってよ」とでも言いたげに。Th.は、「ごめんごめん」などと言いながら、タイミングを元に戻してでんぐり返しをして、一旦安心させます。しかしすぐにまた長いポーズをとります。当然子どもは怒ります。はっきりと怒った声で、感情を伴った要求をするようになりました。

 数週間前であれば、Th.は期待通りに動かなければ、すぐに他者を回避し一人遊びを開始していたでしょう。でも今は違います。怒りながらもしつこく要求するようになったのです。関係に“粘り”が出てきたのです。

 ここまでの流れを簡単におさらいしてみましょう。子どもが他者を操作しようとする手段の変遷です。おもちゃにばかり集中していた子どもが、だんだんと人を動かす面白さに気付き、道具的な要求の仕方から感情を伴う発声を用いた要求の仕方に変化しています。


一人遊び

ボタンを押して他者を動かす

視線を送って他者を動かす

感情を伴った発声で他者を動かす。


 Th.は、要求の仕方を子どもに教えたことは一度もありません。互いの行動が関連し合っていることを丁寧に粘り強く示し(時間的な反応の正確さは本当にすごいものでした)、子どもに期待を抱かせるようにしただけです。

 他者への期待が確かなものになるにつれて、他者と共有する台本が形成されていきました。この台本こそ、雨野さんが対談本の例で述べていた、対人的なやり取りにおける時間的な構造化なのだと思います。台本が共有されれば、自閉症の子どもも見通しがつくようになり、次の結果に確信が持てるようになるので、安心して要求行動が増えてくるのです。他者の反応への信頼感が、子どもの要求を高めていったのです。重要なのは、台本を子どもと一緒に作り上げることです。

 基本となる台本を作り上げた後、Th.は台本を修正することに工夫を凝らします。台本を修正された子どもは「どうなっているんだ!台本どおりやってくれ」と言わんばかりに、Th.に感情・意図を訴えるようになります。同じ台本を共有していても、自分と他者では、その運用や解釈は違うものです。Th.は、ポーズを置くことや、ポーズの長さを変化させることで、子どもの台本の解釈に揺さぶりをかけたのです。このTh.に学ぶべきは、台本の変更のアイデアの繊細さと多様さ、そして子どもの反応への感度の高さです。ほんのわずかな落胆も見逃さない観察力です。

 やりすぎれば回避されます。変化が子どもにとって小さすぎれば、他者はずっと道具のままです。

 “同じ台本を共有しつつも、解釈は色々とある”。この子どもが学んだのは。他者と自分の心の違いについてだと思います。しかし違っていても、台本の構造自体が崩れているわけではないので、驚きはするでしょうが、なんとか元に戻そうとします。つまり他者に修正の修正をしてくれるように交渉しようとする意図が生まれるわけです。

 私が学生時代、このTh.に何度も注意されたことの一つに「おもちゃに負けるな。おもちゃより人間のほうが面白いと思わせるように遊びなさい」というものがありました。おもちゃを操作する時に感じる明確な時間的構造を、他者とのやり取りのなかでも構築することができれば、子どもが楽しめる範囲でという条件付ではありますが、不規則な、もしくは予測不可能な変化(反構造)を生じさせ、ものごとの結果には多様性があることを伝えていくことは可能だと思うのです。構造と反構造がバランスよく対立するその間に、感情や意図というものが育つのだと思います。構造しかない静的な世界ばかりでは、自他の区別が未分化なままで育ちません。しっかりした構造を形成することがでればできるほど、大胆な反構造を子どもに提示することができるのと私は考えます。このTh.の遊びには、二つの側面が絶妙なバランスで機能していたといえます。

 構造と反構造が、時々刻々と図と地が反転するように表れるとき、構造が基準となり、次に表れる反構造との差分を認識することが可能になります。反構造が構造に吸収されるわけです。新奇な経験であっても分類することが可能になります(見通しのない状況での不安の軽減)。また反構造の次に表れた構造は、反構造の影響を受けて、新たな構造に変化するきっかけを得るかもしれません。より複雑な環境に対応できるよう新しい構造にバージョンアップされるのです(こだわり、同一性保持の軽減)。

 構造(台本)と反構造(不確定な事態)との往復の中に身を置く人間は、少しずつ自分と環境との相互作用という目に見えない一次元、上の構造に気付いていくのだと思います。