009 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き
009 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き
齊藤コメント
大学で相談しているアスペルガー症候群の中学生A君の話です。
A君は幼少期から、TVなどで登場人物が落ちたり、転んだりする場面を見ると、ゲラゲラと笑ってしまうのでした。中学生になった今も、笑ってしまうことがあります。
先日、家族で映画館に行きました。主人公は一生懸命に山を登っていたのですが、最後の場面で力尽きて落ちてしまいました。この場面で、A君は笑ってしまったのです。悲しい場面にも関わらず、大きな声で笑ってしまったので、家族は「大変恥ずかしい思いをした」とのことでした。
なぜA君は、笑ってしまうのでしょうか。その時、何を思っているのでしょうか?A君は「純粋に面白いんだ。どうしても笑っちゃうんだ」と言います。どうやら“映像”として面白いと感じているようです。しかも文脈とは関係なく、その場面だけに反応しているように思えます。
A君の名誉のために言いますが、普段は、優しい人です。悲しんでいる人の気持ちを知りながら、それを笑うような冷たい人間ではないのです。家族が悲しんでいれば、慰めの言葉をかけたりすることもあります(ただし、明示的な表情や言葉での宣言が必要という条件付きではありますが)。
しかし上記のエピソードが示すのは、感情の推測よりも、知覚している現象に心が奪われてしまうことがあるということです。このことから、A君は他者から誤解を受けることが時々あります。
次のようなエピソードもありました。ある相談日。その日は“登場人物の気持ちを台詞にしてみよう”という課題を行っていました。私が「(絵の中の人物を指差しながら)この人は今、トイレで用を足しています。(少し間を置いて)するとその時、何度もノックしながら「開けてくれ」と訴える人が現れました。さて、中に入っている人はどんな気持ちになったでしょうか。気持ちを台詞にしてみましょう」と問題を提示しました。すると彼は「うーん、わからない」と答えました。
そこで私は、床の一点を指差して「ここが便器です。A君、座ってください。そして周りはぐるっと、壁になっています。目をつぶって想像してください」と指示しました。A君は、戸惑いながらも指示に従ってくれました。次に「今、あなたは、ウ○コをしています。はい、想像の中でしてみてください。」と伝えました。しかし恥ずかしがって演技してくれなかったので(まあ、当然ですが)、私も一緒に腰をかがめて「うーん、うーん」とうなりました(かなりリアルにです)。すると彼もつられてうなり始めました。気分が十分に高まった頃に、私が「ドンドンドン(ドアをノックする音)、開けてくれ!」と大声で怒鳴りました。すると彼は、「うわー、やめてくれよ、は、入ってますよー、あーびっくりするなあ、もー」と台詞を言ってくれました。台詞を話す間合い、その韻律はとても自然でした。言語による状況説明だけでは答えられなかったのに、具体的にシュミレーションすると、自然に台詞が口をついて出たのはなぜでしょうか?
もう一つ関連すると思われるエピソードを紹介します。ある特別支援学級(中学校)で行われていたソーシャルスキルトレーニングの授業中のことです。設定は「あなたは自動販売機でジュースを買おうとしています。しかし、お金を入れるのに手間取ってしまい、後ろに長い列ができてしまいました。他の利用者に迷惑になるので『すいません、どうぞお先に』と次の方に譲ることにした」という場面でした(なかなか複雑です)。
高機能自閉症のB君は、一歩身を引きながら流暢に決められた台詞を述べ、スムーズに譲ることができました。他のクラスメートも、上手にこなしていました。無事終わったとおもいきや、その後の反省会で、あるクラスメートがB君の態度について指摘をしました。「B君は、ちゃんと話すことができていたけど、少し笑っていた。気持ちがこもっていない」という内容でした。なかなか鋭い指摘です。確かに他のクラスメートは、態度も声色も申し訳なさそうに演技をしていました。一方、B君はそれとは対照的に、堂々と胸を張り、明るい表情で、さわやかに台詞をしゃべっていました。和気藹々とした教室の雰囲気にはマッチしているのですが、想定している場面には少し違和感があります。つまりこの状況では、謝罪の意思表示が必要だからです。“堂々とさわやか”なのは、ちょっと違いますね。
担任の先生は、このクラスメートの意見を尊重し、B君に再演してもらうことにしました。しかし、何度やっても“堂々”かつ“さわやか”なので、クラスメート達は「そうじゃない」「もっと気持ちをこめて」と次第に指導に熱が入ってきました。最初は明るかったB君も何度もダメだしをされるので、徐々に悲しそうな表情と声色になってきました。かなりつらくなって本当に悲しそうに言えたとき、クラスメート達は「それ、その感じ」とOKを出しました。
クラスメート達は台詞の正確さや流暢性といった言語的・非身体的な情報よりも、表情や声色や姿勢といった非言語的・身体的な情報に注意を向けていたことが分かります。幸か不幸か、繰り返されるダメだしに本当に悲しくなったB君は、最後の最後にクラスメート達が望む身体的情報を表現することができました(もっとも内実は別種の感情が生じていたのですが、「悲しい」という点では一致していますね)。堂々と胸を張っていた姿勢が、わずかに猫背に。明るい表情が、眉毛の両端が下がり悲しそうな表情に。さわやかなしゃべり方が、声は小さく、短調に。
その後、興味深いことが観察されました。授業が終わって片付けをしているときのことです。すっかり肩を落とし、下ばかりを見て掃除をしていたB君はクラスメートに強くぶつかってしまったのです。先ほどの授業の様子を踏まえれば、B君はきっと、儀礼的に明るく「すいません」と言って、すぐに掃除をし始めるのではないかと思いました。しかい、実際は違いました。「あ、す、すいません」と焦った感じで、すぐに謝っています。相手のクラスメートは「いいよいいよ」と気にする風でもなくその場を立ち去ろうとします。B君は、それでは申し訳ないと思ったのか、相手の正面に回りこんで、顔を見ながら「大丈夫、ごめんね」と誠意をこめて謝っていたのです。丁寧に頭も下げています。先ほど、何度もやり直しをさせられていたB君とは思えないほどに、自然な振舞いでした。このギャップはなんなのだろう?と思いました。
この背景には「仮想場面と現実場面の違い」が関係していそうです。言語のみの状況説明や教室内で行われるソーシャルスキルトレーニングは、いわば現実ではありません。子ども達は「まるでその場にいるかのような状態を具体的に想像」することによって、不足している情報を自力で補わなければなりません。A君とB君はどちらも仮想的な状況で、この不足している情報を補うことができずにいたようです。では不足している情報とは何か?
もう一度振り返ってみましょう。A君の場合は、リアルにウ○コをするフリを繰り返し行うことによって(下品ですいません)、“まるで本当に○○しているかのような”身体的状態を内的に賦活させました。B君の場合は、ドンと相手にぶつかった時の肩に感じた衝撃を直接に経験しています。どちらも、ある状況に対応する身体的状態が賦活したときに、期待する言動が行われているようです。
診断基準のひとつにある「想像力の障害」とはなんなのだろうか?と、私はずっと疑問でした。なぜなら、視覚的なイメージとしては、彼らは十分すぎるくらい想像している場合があるからです。雨野さんにも「僕らは想像できないのではありません。想像が標準的ではないということが問題なのです。これは、想像力の障害なのですか?」と問われて、うまく返答できなかったことがありました。
A君とB君のエピソードが示すことは次のことです。
「想像力の障害」という場合の「想像力」とは「身体的状況を仮想的に再現できる力」。
次回、もう少しこのテーマについて考えたいと思います。