037 社会的判断における妥当性の問題について(3)
037 社会的判断における妥当性の問題について(3)
From 雨野 To 齊藤 (2004年5月)
今日は「対外的なやる事」がいくつかあって、
朝からひとりでわめいていました(人がいるときはしません)、
一つのスケジュール欄にやる事が全部書き込んであるみたいでした。
作業の途中でしゃがんで固まって、
スケジュール欄を「今日やる事」と、
「明日以降にする事」(ずいぶん先まで)にやっとの思いで分けました。
「今日」の欄にも時間の目盛はなかったので、
順不同で詰め込んであることにはかわりません。
時間的な締め切りが来るまでどうしようどうしようと考えていました。
考えながら、なるほどこういう人には、
一つずつ順に予定を示してやるのが有効なのかと観察も自分でしていました。
ためになるなあ、自分。
> 論理と直感の間
これは後で、ちょっとどうかなあ?と思いましたが、
不要な情報がたくさんあって必要な情報が不足する事があるから、
穴があいたところを理屈で埋めようとする、のと、
もっと情報が少ない時は1つの断片から全体像を組み立ようとする、
の2種類で、あいだはないかも。
あまり言えてない。
今読んでいる本も3行につき5分くらい考え込んでしまうのでなかなか進まないです。
考えないで読むぞ、という決意で読み飛ばさなければ、なかなか最後まで読めません。
読みかけの本が手近なところに50冊くらい。
頭のなかの情報が整理できないのが現実にも及んでいます。
本、書類、服、予定、、、たくさんありすぎ。
> 馬と人は、なにが違う?
ヒトは表情と言動が一致しなかったり、言動と行動が別だったりしませんか?
そういう台本だったのかあ。
その上、台本なんてない、ということになってる台本?
(ボランティアの人が仕事を)イヤイヤやっているように見えると「やらなくていいよ」と言ってあげたくなります。
これは思いやりにならないらしい。
僕は、自分の知っていることは人も知っている。
自分ごときの知っている情報、知識は当然他の人は知っている。
と思っているかもしれません。
このことについて考えるのは難しいです。
自分の認知の外をつかまえるようとしているからか?
From 雨野 To 齊藤
雨まだ降っています。
さて、いろんな事を書いていますが、
自分がアスペルガーかどうかはよく分かりません。
聞いたこと、読んだことをなぞっているだけなのだろうか、と思う事もあります。
教室はいつも苦痛だったし、
診断前はもしかしたら化学物質過敏症かと思っていたから、
(しかしセンサーの過敏にしては反応があいまいだと思っていた)
それが自閉症だとしたら、
わざとそのようにふるまっている訳ではないのだろう。
グループケアについて説明を聞く。
お話を聞いた部屋は照明がなぜか暖色系で、
手元のプリントを見ていると窓からの昼光色と照明の暖色が入り混じる。
もしあの部屋で手元の紙を傾けている子どもがいたら
光を楽しんでいるのかもしれない(そんな子いないか?)。
馬や犬と接する時に視線を外すというのは重要な信号です。
相手に少し自由を与えるのです。
目線が合わないことは必ずしも悲しいことではありません。
表情を作るとか目線を合わせるとか書いてあるのが人の隠し持っている台本でしょうか?
馬や犬とは目線が合わないのも会話なのですが。
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「あやふやなモデル」
実行機能の問題 →スケジュール
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統合ー選択的注意の問題ーマルチフォーカス →シングルフォーカス的指示
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感覚の問題 →刺激の選択(全ての低減ではなく)
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たくさん考えたんだけどキリがないのでここまでにします。