雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

036 社会的判断における妥当性の問題について(2)

036 社会的判断における妥当性の問題について(2

From 雨野 To 齊藤 (20044月)


B
先生のところで3名の当事者の方と会う。

なんとなく楽しかったけれどあまり発言はできなかった。

最後に感想を聞かれて固まってしまいました。

何も浮かばなかったのではなく、

いくつもの解答が浮かび選べなかった。

シーンとして緊張感が高まってしまったので、

やっと「、、、おもしろかったです」と言いました。

「妥当な解釈の選択」はできていません。

その日、初めて紹介された先生がいて、

名前を忘れそうだからしっかり覚えようと意識したのですが、

最後には忘れていました。

ホワイトボードに書いてくれたら覚えていたのに。

先生がいなくなってから当事者 Bさんに聞いたら

覚えていませんでした。

2人で当事者のAさんに聞いてメモしました。

音で聞いただけのことは覚えていないということ自体が、

「認知の外」だったのでは、今までとても不利だったのでは?とか考えつつ、

ともかくいろんな人がいる、似ている人もいる、ということを知ることができたのは収穫でした。

***

普通の人は意識せずに、論理と直感の間を考える。自分はその端と端を考える。

間がない。

***

ダマシオを読みながら連想。

「こころ」は前頭葉に局在しない。前頭葉に機能の問題があっても「こころ」はある。

言葉のない子どもにも「こころ」はある。

前頭葉に辺縁系を含めてもまだ足りない。脳全体でも足りない。

脳障害児にも「こころ」がある。


神経系から脳や脊髄だけを取り出しても意味がない。手の先、足の先まで全ての神経が1つのシステムになっている。神経だけでなく、身体全てが私であり「こころ」だ。

さらに「こころ」は、個人の中ではなく、人と人との間にある。2人の人の間に浮かぶハート、他者との関係の中に「こころ」がある。それを見つめるのはやはり個人の主観であり、自閉症児の「こころ」と主観的に関係を見出せない人は、自閉症児には「こころ」がないと言うかもしれない。

僕は犬や馬と駆け引きをする。関係を見出す。主観的とはいえ、私たちの間には「こころ」がある。

とりとめのない連想でした。



From 
齊藤 To 雨野 (20044月)


こんにちは。ちょっと長いです。暇な時にでも読んでください。

シーンとして緊張感が高まってしまったので、

やっと「、、、おもしろかったです」と言いました。

「妥当な解釈の選択」はできていません。

 

感想は難しいですよね。何に照準を合わせてしゃべったらよいのか、判断しづらいからです。
僕の弟が子どもときに「先生の喜ぶこと言えばいいんだよ」と言っていたことがありました。
まあ、そうなんでしょうが、相手が何を喜ぶのか分からないから難しいんですよね。


雨野さんが、いくつもの感想を思い浮かべたのなら、浮かんだ順に話せばよかったのかもしれないですね。すべての感想が、一度に全部浮かぶわけじゃないですよね。最初に浮かんだ感想って、率直に感じたものに近いのではいでしょうか?思いついた順に記録してみたら、自己分析できるかもしれません。


音だけで聞いた事は覚えていないということ自体が、

認知の外だったのでは今までとても不利だったのでは?とか考えつつ、ともかく

いろんな人がいる、似ている人もいる、ということを知ることができたのは収穫でした。


なるほど。名前を覚えるためには、その人の雰囲気とかエピソードなどを、音声とともに

記憶する必要がありますよね。


僕は普段、子どもの発達相談をしています。子どもの名前は忘れているんだけど、遊んでいるうちに、過去のやり取りが蘇ってきて名前を思い出すということが、たまにあります。人の名前を記憶するには、自分がその人と関与し、五感を通して得た情報をまとめあげることが大事なのでないかと思います。または、意味づけができるかどうかが、鍵と言えるかもしれません。無意味な刺激を保持するのは、難しいことだと思います。

講義に出席する学生の名前を覚えるのが苦手です。講義は、一方的に話すだけなので、学生と関与する時間がほとんどないからだと思います。一方ゼミは、色々と話し合うことができるのでよく覚えることができます。 「よく遅刻してくる子」なんていう、エピソードがあると覚えたくなくても覚えられます。


人の名前を覚えるには、自分との関係性を意識することが重要みたいですね。

幼児期の自閉症の子で、友達と遊ぶようになったら、友達の名前を家で言うようになった、
ということを経験したことがありますが、これは言語能力、記憶力の発達というよりも、
関係性の発達が影響しているのだと思います。


普通の人は意識せずに論理と直感の間を考える。自分はその端と端を考える。

間がない。


 「間」が「ない」のでしょうか?それとも「つながりが弱い」のでしょうか?どちらでしょうか?


さらにこころは個人の中ではなく人と人との間にある。2人の人の間に浮かぶハー

ト、他者との関係の中にこころがある。それを見つめるのはやはり個人の主観であ

り、自閉症児のこころと主観的に関係を見出せない人は自閉症児には「こころ」が

ないと言うかもしれない。


本当にそうですね。お互いの主観的世界を、いかにすり合わせるかが大切だと思います。


音楽を演奏してる複数の奏者を考えてみます。例えばジャズ。コード進行とビートの
種類、お決まりのフレーズなんかは大雑把に決まっていますが、あとはアドリブ。演奏が成功する時って、お互いが溶け合うような感じになるわけです。なんにも打ち合わせしてないのに、息が合ってくる。決めのフレーズがぴったりしてくる、同じタイミングで盛り上がったり、ポーズする瞬間ってあるのです。人間関係もこれと同じなのではないかと思います。心が通じ合うと、まるで自分の考えていることが相手の考えていることに直接通じているような感覚。いわゆる「間主観性」ですね。


定型発達者と自閉症者は、同じ楽器を持っているのだと僕は思います。

ただ、何を演奏にするかには違いがあるかもしれません。


ところで先日、NHKで面白い番組をやっていました。

歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが、“鼓童”という和太鼓集団を演出するプロセスを追ったドキュメンタリー番組でした。1年以上かけて、演目を作り上げていくのですが、面白いのは楽譜がないのです。みんなそれぞれ、思い思いに演奏しながら、玉三郎さんの指揮のもと、即興的に作りあげていくのです。大変興味深かったです。


そのときの玉三郎さんの言葉が大変印象に残りました。


台詞は正確ではないですが、内容をまとめますと次のようなことを言っていました。

「自分勝手なアドリブはやめてください。それは自分だけが気持ちいいのであって、

お客様を置いていくことになるからです。大切なのは、台本です。
同じ台本、同じ言葉、同じ音、同じ間を共有しているという前提があって、初めてアドリブが生きてくるのです」。


ジャズの例に戻ると、同じコード進行、同じビート、共有するフレーズなどが、
台本に相当するのだと思います。
同じ台本を、お互いに持っているから、アドリブが許されるのだし、台本には書かれていなくても理解や予測が可能になるのだと思います。


そこで、雨野さんの以下の文章が気になりました。

僕は犬や馬と駆け引きをする。関係を見出す。主観的とはいえ私たちの間には「こころ」がある。

雨野さんにとって、馬と人は、どこが違うのでしょうか? 雨野さんからみて、人の持っている台本は、どんなところが分かりにくいのでしょうか?