010 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き(2)
010 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き(2)
齊藤コメント
前回、「想像力の障害」という場合の「想像力」とは「身体的状況を仮想的に再現できる力」なのではないかと述べました。ということは、この力が弱い人は、実際の場面から離れてソーシャルスキルを学んだとしても、身体的状況とは乖離したままということになります。
ある当事者は「SST(ソーシャルスキルトレーニング)で、スキルを学んだとしても、現実には使えないことが多いのです。なぜなら、援助を求めるスキルを学んだとしても、そもそも自分が困っていることに気付けないから、覚えたスキルを使えないからです」と教えてくれました。これはスキルを学ぶときに、対応する身体的状況の賦活がとても弱かったか、もしくはスキルとは関係のない身体的状況をマッチングしてしまったと考えることができます。
この方は「リアルタイムにフィードバックをもらうことが必要」であると言っていました。つまり、身体的状況が賦活しているそのときに、言葉によってラベリングしてもらえれば、自分の内的な状況を意識的に把握することができるのではないかということなのです。前回のB君のエピソードで言えば、B君が相手にぶつかって申し訳ないと強く感じている時の行動が、客観的に見て適切であるかどうか、適切であればどのくらい適切であるのかを、そばにいる支援者がモニターし、丁寧に伝えていくことが重要ということになります。
もしB君にそのようなフィードバックが繰り返し与えられていれば、B君は同じような状況に陥ったとき、胸がどきどきする感じや相手の表情の変化などを手がかりにして、過去に実行して成功したスキルを適切に引き出せることになったのかもしれません。
ここでもう一度、雨野さんのエピソードに戻りたいと思います。相手が転んでしまったときにどんな働きかけをしたらよいのか迷ってしまうという話でした。結論から言えば、これにもやはり「身体的状況を仮想的に再現する力」が関与しているのではないかと思うのです。
自分が転んだとき、そばにいる他者にどのように対応して欲しいかについて迷う人は少ないと思います(助けてor見ないで)。その時に生じている身体的状況が、選択の余地をぐっと狭めるからです。では他者が転んだときはどうでしょう。間髪いれずに反応を繰り出せる人は、転んだ時とその後の身体的な動き(表情を含む)をみるだけで、(無意識に)同様の身体的状況を自己の内部に写像せしめることができる人であると言えます。
間髪いれずに反応できる人は、行動オプションの選択において、状況分析が論理的かつ速いのではなく、転んだ本人と同様の身体的状況になることによって「それしかありえない」という確信を持っているのだと思います。言葉の世界、論理の世界では、多数の選択肢が生じますが、身体の世界・感情の世界ではつねに最適な解が一つ選び取られるのだと思います。雨野さんは、相手の身体的状況をスムーズに自己内部に写像できなかったので、それを補う形で論理が働き、しかも論理が過剰に働いたおかげで、可能性の低い選択肢をも増やしてしまったのだと考えることができます。
雨野さんは「本当は心配されたくないのかどうか、どうやってわかる?声を掛けられたくないのか、掛けて欲しいのか。何か言うとすればなんて言えばいいのか。どうやって選べばいいのだろうか?」と我々に問いかけています。今の私であれば「他者の身体的状況を自己に写像する能力が人間には備わっているのである。論理が決めるのではなく、その時、仮想的に賦活された身体的状況がひとりでに決めるのである。」と答えるでしょう(雨野さんはきっと「よくわからない」と言うと思いますが)。
ここまで述べてきたことは、近年「ミラーニューロン」というキーワードで盛んに議論されている問題です。我々は、他者の運動を知覚すると同時に、同じ運動を脳内で再現しているということが分かっています(実際には運動をしていなくてもです)。相手の運動を知覚する領域と自分が同じ運動を表出する領域は重なっているのです。つまり相手のしぐさ、表情を見るだけで、自己の内部に同じようなしぐさや表情が仮想的に生じているわけです。ミラーニューロンによって我々は、他者の振る舞いを見ているだけで、推論を経なくとも、同じ心の状態に至ることができるということになります。とすると他者の心は推論によって「知る」ものではなく、直感的に「分かる」もの、ということになります。
内田樹先生は自身のブログの中で次のように述べます。長いですが引用します。
『例えば、怒りという感情は、怒っている人間の表情や声の出し方や身ぶりを模倣することによって内面化し、学習される。子どもの内面に感情がまずあって、それが身体表現に外化するのではない。他人の身体表現を模倣し、それが伴う情動が内面化した結果、感情が生まれるのである。子どもの感情が豊かになる過程を仔細に観察していればわかる。他人の身体表現の模倣に熟達するにつれて、子どもたちの感情は深まり、多様化する。感情は他人の外形を模倣することで発生するわけであるから、外形抜きの「純粋感情」などというものは存在しない。人類が致死性のウィルスで絶滅して、あなたが「人類最後の一人」になったときのことを想像して欲しい。あなたは自分が「人類最後の一人」になったことでたいへん腹を立てている。たぶん、その怒りをゴミ箱を蹴飛ばしたり、机をひっくり返したりして表現するはずである。だが、どうしてあなたはそんなときにも「誰が見ても、それとわかる怒りの定型」を忠実になぞるのか?誰も見ていないのだから、そんなことをする必要は全然ないのである。純然たる怒りの感情だけがあって、それを身体化しなくても誰も困らない(見ている人は誰もいないのだから)。でも、誰も見ていない場所においてでさえ、私たちは見ている人がいれば「ああ、この人は怒っているのだな」とわかるような感情表現を外形化する。外形化せざるを得ない。というのは、身体表現抜きで輪郭のはっきりした感情を維持することが私たちにはできないからである。感情とは(観客がいないと意味をなさない)社会的な記号なのである。そして、強い感情表現は、それを見ている他者のミラーニューロンを賦活させるから、他者のうちに同質の感情を作りだす。』(内田樹の研究室、「感情表現について」2011年8月10日)。
自閉症スペクトラムを取り巻く、感情認識・表現 および他者理解・自己理解の問題とぴったりと符号していると思います。感情の起源は、他者の身体化・外形化された感情表現であるという考察は、私にはとても納得できるものでした。他者の模倣が少ないまま成長すれば、他者の感情のみならず自己の感情すら明確なものにはならないわけです。感情表現が豊かにならないのも同様です。
しかしこの認識は、雨野さんの持つ認識とは全く反対でありました。雨野さんは、自分だけの概念、自分だけの気持ち、自分だけの言葉を必死に探そうとしていた時期がありました。「自分の心の中を見つめてみて、人から学んだものを一つ一つ排除していきました。するとどんな言葉も他者からもらったものばかりであることに気付きました。僕は、玉ねぎみたいなものです。僕の中心には僕がいません。僕は一体どこにいるのでしょうか」。
内田先生の考察によれば、純粋な自分(純粋感情がないのですから)は存在しないことになります。他者が、言葉や身体を通して外形化したものを取り入れ、さらにそれを内化する過程で、自己と他者を発見していくことになります。自己と他者の起源は全く同根なのです。雨野さんは「定型発達者の使用する言葉は、獲得したその瞬間からすでに他者性を帯びているのだと思います」と考察していたことがありましたが、まさにそうなのだと思います。しかし、雨野さんは論理的には理解できても感覚的には納得できず、長く黙り込んでいたことを思い出しました。