雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

019 私の取扱説明書②

019 私の取扱説明書②


雨野カエラ

 視覚、聴覚、味、匂い、触覚だけが入力情報ではありません。言葉、暑い寒い、痛み、姿勢、頭や腕や足の位置、疲れ、体のなかの痛み・・・。これらの情報の重要度を自動的に振り分けることも不得意なようです。不要な情報がたくさん入ってきたり、見落とす情報が多かったりします。やたらと疲れやすいのに、疲労に気付かないで行動しフラフラになります。


 出力も混乱します。急に不器用になったり、体が動かなくなったり、言葉がでなかったり。話に集中すると姿勢を保つことが困難になったりします。頭が支えきれなくなることもあります。やたらと冷えたり、肩や首が固まったりするのもそのアンバランスのせいでしょうか。物が持てなくなる感じ、ビックリハウス並のめまい、などとても不快です。もともと何かに取り組むまでに多くの段取りが必要なのに、いざ実際に体を動かそうとすると、このような困難に襲われることがあります。


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齊藤コメント
 
 ある暑い夏の日の勉強会。学内の会議ですっかり遅刻していた私は、焦っていました。雨野さんが待つ部屋のドアを勢いよく開けて「こんにちは。遅くなり、すいません。今日は暑いですね」と矢継ぎ早に言葉を繰り出しました。そして、席に座りました。


 雨野さんは目を閉じたまま、考えはじめたようです。私は「何を話そうか考えてるんだな」と思ったので、待つことにしました。それから5分ほど経っても雨野さんはそのままでしたので、私は時間つぶしに論文を読むことにしました。時々、雨野さんに目を向けてみましたが、変化はありませんでした。私は、だんだんと論文に集中し始めました。


 ふっと気がつくと、30分経過していました。そろそろディスカッションを始めようと思い「今日は何から話し始めましょうか。この30分間何をかんがえていたのですか?」と話しかけました、すると雨野さんは次のように答えました。


 「まず齊藤先生が突然入ってきてびっくりしました。先生の言ったことが聞き取れなかったので、頭の中で何度も再生してみました。10分くらい考えてようやく『今日は暑いですね』と言ったのだと分かりました。しかし、僕は暑くなかったので、どのように返答しようか迷ったのです。もし『僕は暑くありません』と答えると失礼になってしまいます。反対に『暑いですね』と答えると嘘になってしまいます。齊藤先生に『本当に暑い?』と聞き返される場合のことを考えてみましたが、なんと答えたらよいか余計に分からなくなりました。頭の中では、挨拶なのだから、相手と同じことを言えば良いのは分かっているのですが、なかなかそれができません。だから他に良い答え方がないだろうか?と考えていました」。


 私は30分間ひたすら考えていた、という事実にただ驚きました。雨野さんは、一生懸命に考えていたので、30分など、一瞬のことだったと思います。

 自分の声かけの仕方について考えました。雨野さんの思考を立ち止まらせてしまったのは明らかに、私の問いかけにあったからです。いつもなら、私は意識的にゆっくりと話すことを心がけていたのですが、この日は、焦っている自分に気付くことができず、冷静な対応が頭からすっぽりと抜け落ちてしまったのです(前回述べた満員電車のイメージはこのときできました)。


 このことについて、我々は議論しました。雨野さんは次のように解説してくれました。




キャスティングの失敗


 選択        → 保持 → 処理
 キャスティング   → 舞台 → 演出


*「舞台の大きさ=ワーキングメモリーの容量」として考える。
*キャスティングは、意識的コントロールの外と仮定。


 キャスティングディレクターの不在は感覚入力や思い付いた思考が選択なしに次々に舞台に上がろうとする状態です。


 絶対的な舞台の大きさがどうでも、キャスティングの問題があって舞台が窮屈なら相対的に舞台は小さくなります。一方、キャスティングに問題がなくても舞台が小さければやはり舞台は混雑します。


 キャスティングの問題がAS。
 舞台の(大きさの)問題がLD。




 「選択→保持→処理」は、情報処理過程のことをさしているのだと思います。一方「キャスティング→舞台→演出」は、情報処理過程をよりイメージできるように、舞台演出過程にパラフレーズしたものです。


 自閉症者は、心内にキャスティングを担当する者がいないのではないか?というのが雨野さんの仮説です。だから、いろんな俳優や台本や道具が舞台にどんどんと上がりこむ事態になります。放っておくと舞台はすぐに、俳優と台本と道具でぎゅうぎゅう詰めになってしまいます。


 舞台がいくら広くても(つまり記憶容量が大きくても)、俳優や台本や道具であふれかえってしまうのなら、結果的には、舞台がはじめから小さい人と現象的には同じ状況に陥ってしまうのです。つまり混雑してしまうということです。雨野さんは、舞台が生まれつき小さい人=学習障害の人と想定しているようです。


 しかし現象的には同じに見えても、困難を抱えている段階は違うのではないかと考えるところが、雨野さんの洞察の深いところです。自閉症者は、学習障害者に比べて、よりプリミティブな段階で困難を抱えていると感じているようでした。


 確かに支援の方法を考えると、雨野さんの仮説には一理あると思います。自閉症者にはまず、情報過多の状態からの情報の選別・区別が重要ですが(むしろそこを丁寧に支援すると後の段階はスムーズにいくのではないでしょうか)、学習障害者には情報の数の調節が重要だと私も思うからです。自閉症者は情報の質の問題を抱える人、学習障害者は情報の量の問題を抱える人と対比できそうです(あえて対比すればの話です)。