雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

011 自閉症者は人の心が読めない?

011 自閉症者は人の心が読めない?

雨野カエラ


 自閉症者は人の心が読めないとしたら、非自閉症者は人の心が読めるというのだろうか。人の心が読めないと指摘をすることはあっても、心の読み方を教えてもらえないのはなぜなのだろうか。「心」とは何かということを、非自閉者はよく分かっているのだろうか。


 心は自分と相手との間に浮かぶハートだと思う。自分が相手との間に感じるもの。自閉者は自分と同じような心を相手も持っていると思う。同じような心だから自分の考えたことを相手も考えている、と思う。相手の考えたことを自分も考えていると思う。自分と物の間にも、自分と動物の間にも、心を感じることができる。非自閉者は自分と同じ心を持っていないから自閉者には心がない、と思っていないだろうか。


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齊藤コメント
 
 「我々アスペルガー症候群児・者は、心の理論の発達が遅れていると言われます。それは認めます。ではなぜ心の理論を持つ定型発達者は、我々が困っていることを理解できないのでしょうか」。定型発達者の持つ心の理論が、定型発達者にしか適用できないものだとしたら、その理論は普遍的なものではなく、相対的・限定的な意味合いを帯びることになります。


 雨野さんは、アスペルガー症候群にも心の理論はあるのだけれども、その理論を持つ人は少ないため、意思疎通の不都合が生じる。定型発達者は自分の心の理論が普遍的だと考えているので、意思疎通できない者を「心の理論がない」と判断するのだ、と考えているようです。


 私は、雨野さんに質問しました。「では、アスペルガー症候群同士ならば意思疎通は容易なのでしょうか」。すると「それは難しいと思います。一人一人が独自の理論を立てているので、共通点が少ないことのほうが多いと思います」と答えました。「宇宙の中の星と星との間くらい離れている」と笑いながら言っていました。「出会うこと自体少ないのだ」と。


 成人当事者のグループに参加した時のことです。進行役のセラピストの方は「はじめのうちは、会話が続かなくて大変でした。皆さん、他の人の話はきちんと聞いているのですが、共通の関心を持つ者同士で、質問したり、話題を提供することがほとんどなかったからです。進行役は、関連する事柄を見つけて、さりげなくつなげることに集中しなければなりませんでした」。


 数ヵ月後、久しぶりにそのグループを見学しました。以前のように、一人しゃべっては沈黙の繰り返しではなく、誰かがコメントを返すようになっていました。さらにその数ヵ月後には、和気藹々と楽しそうに世間話をする姿が見え始めました。そして2年後。近況を聞いたり、感想を言い合ったり、冗談を言ったり、とても自然な会話が繰り広げられるようになりました。表情もリラックスしていました。ゆっくりですが、確実な変化がそこにはありました。その様子を初めて見た人は、きっと当事者のグループとはすぐには気付かなかったでしょう。自閉症だから会話ができないのではありません。またする気がないのでもありません。おそらく彼らは、他者とつなぎ合わせてくれる人にめぐり会えなかったために、「一人」の世界に住まわざるを得なかったのだと思います。自閉症は一人が好きなのだからそっとそっとしておいてあげてと力説する専門家がいますが、彼らの姿をみていると、そうとばかりは言えないなあ、と思います。確かに一人の時間を、苦もなく過ごせる人はたくさんいます。でも、本当に孤独を愛しているわけではありません。孤独が好きならば、グループには通ってこないでしょうし、ましてや世間話を楽しむわけがないからです。


 私は、一人で暗く沈んでいる姿が自閉症の姿だと、それまで勘違いしたことに気付きました。彼らにも人を求める気持ちが、我々と同じようにあるのです。そして、長い時間はかかるけれど、互いに心を通い合わせた後は、明るくて社交的な側面を垣間見ることができるのです(積極奇異としてではなく)。


 さて、自閉症とはいったいなんなのでしょうか?確かに、彼らの感覚経験は私とは違うようですし、思考プロセスも興味深いと思うことは多々あります。しかし、丁寧に話し合うと、それらのことは互いを分ける溝ではなく、単なる違いとして了解が可能なことが多いように思えます。「そういう人なんだなあ」と一旦思ってしまうと、「自閉症ってなんなのだろう」と迷うことがしばしばあるのでした。


 アスペルガー症候群と診断されたお母さんと育児相談を定期的に行っています。そのお母さんも子育ての中で、子どもの反応が予想とあまりに違うことに直面し、それまでの自分の価値観を振り替えることが多くなりました。子どもの行動がうまく理解できなくてイライラしたともありましたが、徐々に理解を深め、それに伴ってお母さんの価値観も変容していきました。そんなある日、私と同じような問題意識を持っていたことが分かり、その話で盛り上がりました。「最近、自閉症ってなんのかって考えるんだよね。友達にもアスペルガーのお母さんがいてね。その人は『自分はアスペルガーだから、~できない』って言い方をする。でもそういう人って結局、変われないと思う。私だってずっと苦労してきたよ。でもね、子ども育てるためには、好き嫌いにかかわらず、求まられたように振舞わなきゃだめなのさ。キャラを作っちゃえば楽なのに。要はね、自閉症かどうかよりも、(自分に求められていることを)受け入れるかどうかが大事なのさ」。
 
 心の理論とは、自然発生的に生じる心の作用ではなく、他者とのコミュニケーションを積み重ねることによって、徐々に作り上げるものなのだと思います。

 先ほどの当事者のグループでも、セラピストという第三者の力を借りて、自分の発言と他者の発言が丁寧に結び合わされるという経験を通して、自分と他者の関係性について気付くようになったのです。自分が相手に求めること、そして相手から求められていることを。そしてそのような関係性についての理解が深まるに従い、自然な会話ができるようになったのです。自己と他者の同型性が前提となれば「相手は何が好きなんだろう?」「これを言ったら怒るかな?」などの推論過程が必要なくなるので、思ったことを意識の検閲なしに話すことができるからです。


 雨野さんのいう「心は自分と相手との間に浮かぶハートだと思う」は、このことを言い当てているのだと思います。以前に「社会性とは、自分と他者が似ていると思えることである」と述べていましたが、雨野さんは、この定義に従い(操作的定義)、人間以外のものにも、つまり同型性を感じ取れるものであれば、その対象と心を通い合わせることが可能であると考えているようです。


 しかしながら、一人一人の人間の持つ自由度の高さゆえ、共通の理論、規範を維持するには、我々は常にコミュニケーションをし、情報を更新し続けなくてはなりません。他者はいつも観察しなければならない対象なのです。したがって、人間に関する理論は、常に暫定的なものであり、普遍的な真理として構築するのは非常に困難です(極端な相対主義は無秩序を生みますが、程よい相対性は、柔軟性を生むことになります。社会的環境への適応度が飛躍的に上昇します)。物や動物は、一度その生態を理解すれば、適用範囲は広く、時間的にもほとんど変化しないでしょう(人間の一生のうちには)。しかし人間に関わる事象は、物や動物とは反対に短期的な「変化」が前提となります。人間に関する事象は非常に動的です。

 先ほどのアスペルガー症候群のお母さんは、子育てという先の見えない仕事に関わる中で、常に子どもの変化に注目し、日々、理解の仕方を更新し続けたに違いありません。つらい日々もあったに違いありません。切れそうになったことも幾度もありました。でも、「人は動的に変化している」と「それに応じて自分も変化する」ことを受け入れたとき、子育てが楽になっていきました。このお母さんは「今は子どもが可愛いし、生んでよかった」と言っています。


 「自分と相手との間に浮かぶハート」だからこそ、心は常にオープンなシステムであることが求められるのだと思います。自閉症かどうかよりも、他者に対して自分の心をオープンにできるかが大切なのではないかと思います。定型発達者の中にも、クローズなシステムで生活している人はたくさんいると思います(私は、その傾向があると思います)。自閉症者の中にも、オープンなシステムで生活している人は増えていると思います。だんだんとその境界はあいまいになっていくのだと思います。