雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

015 結末はいつも一つ

015 結末はいつも一つ


雨野カエラ


 この場面ではこうなるはずという答えは一つ。それは論理的に状況を考えているから。必ずこうなるはずと思っている。だから違う答えを他者がもたらすとも思っていないし、そうされた時には世界が揺らぐ。他者も論理に従っていると思っているのだ。その論理は自分が考えだした物ではなく外からもたらされたもの。外律的にもたらされたものだと思っている。過去に誰かが言ったこと。何かで読んだもの見たもの。自分勝手ではなく外からもたらされた情報に従って論理的に公平に考えた結果を他者はいとも簡単に覆す。パニックやかんしゃくの原因はそれだ。


 僕はヴァルカン人ではない。アスペルガーの人はスタートレックに出てくるスポックやデータに例えられることがある。論理を重んじ、感情を捨てたヴァルカン人やアンドロイドみたいな会話をするからだろう。でもスポックはヴァルカン人ではなくヴァルカン人と地球人のハーフだ。スポックはそのために大いに苦しみ「悩む」。アンドロイドのデータは人間を理解し近付こうとして多くを学び、もしかすると「傷付いたり」している。僕はスポックやデータが大好きだし、それに例えられることもうれしく思う。


 いくつかのエピソードを書き連ねて、そこに共通する何かがあることに気付いた。それが自閉症の原因を指し示すものになるかどうかはわからないけど、自分がかんしゃくやパニックをおこしそうになった時に、その場でその原因を探る理論を考えるようにしたら、少しは楽になった。


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齊藤コメント


 私の大学時代の恩師から聞いた話です。ある幼児の自閉症のお子さんが、買い物の往復で、いつも同じルートを通らないとパニックになるので困っているとのことでした。私の恩師は「では明日から、毎日違うルートを通るようにしてください」とアドバイスしたそうです。数日間は、泣き叫んでいたようですが、1週間を過ぎた頃、ピタッと止んだのだそうです。


 子どもの心の中で一体何が起きたのでしょうか?人はすぐに“こだわり”と片付けてしまいますが、決して「このルートじゃなきゃ嫌だ」という好みの問題ではなかったと私は思います。きっと、目的地にはたった一つのルートでしか到達できないという前提がこの子どもの中にあったのだと思います。従いますと、いつと違うルートは、いつもと違う目的地に行くことを意味します。そりゃあ、怒るに決まっています。不安になるに決まっています。これはもう本人にしてみれば“こだわり”ではなく、正当な自己防衛行動です。「今すぐ自転車から降ろしてくれえ。俺を元の場所に戻してくれえ。俺が行きたいのはそこじゃあないんだああ!」という心の叫びを、表面的な現象だけを捉えて、“こだわり”だとか、“パニック”などラベリングされるなんて、もしこれが自分だったらと思うと、なんか悲しくなってきませんか?

 
 恩師は、子どもが持っている命題を経験によって修正しようと試みたのだと思います(少々、荒療治ですが)。「別のルートを通ると、一時的には不安になるけれども、最終的には目的地に着いて安心した」という経験を間断なく繰り返すことによって、目的地に到達するには複数のルートが存在するという認識に至らせることに成功したのだと思います。ピタッと泣き止んだ、ということは、すなわち命題が修正されたことを意味しているのだと思います。この点が“慣れた”というのと違うところです。“慣れる”のであれば、もっとゆるやかな変化が生じるであろうと思います。泣きが徐々に小さくなったり、泣いたり泣かなかったりする時期が続いて、というふうに。


 ある日を境に変わったというのは、子どもの認識が顕在的・意識的に修正されたことを意味しているのだと思います。ということは、言葉を発しない自閉症の子どもの心の中にも、ちゃんとしたルール、論理があるということになります。小さい子どもだからとか、自閉症だからとかいうバイアスが我々にあって、そのために高次なルールなどを持っているわけがないと考えてしまうと、子どもの行動は不可解なものにしか映りません。どの子どもにも、その子どもなりのルールが必ずあるのです。こだわったり、パニクッたりするのは、子どもの持つルールでは、環境をコントロールできなくなっているときなのだと思います。


 自閉症の人って、一度の経験をすぐにルール化(論理化)する傾向があるのではないでしょうか。論理化への動機が我々より強いともいえます(スポックはまさにそうですよね)。たとえて言うならば、データ数が十分ではない状態で、無理にモデルを作ろうとしている研究者に似ています。少ないデータで作られたモデルは、精度が低いので予測しない事象が表れます。だから予測しない事象に対しては、別のモデルを立てなければならない。しかし、そのモデルも精度が低いので・・・。以下、繰り返しとなります。結局、状況に応じたたくさんのモデルを抱えることになります。これでは、モデルの意味がなくなってしまいます。自閉症の子どもの心の中では、論理化という高次な機能が作動しているにも関わらず、構築したモデルの予測範囲が限定的なので、外部から観察すると、環境依存的で1対1対応の行動法則しかもっていないように見えるのだと思います(この点では、逆に完璧を求めすぎて、データを集めてばかりで、モデル化をしない研究者とも似ています)。


 ある一定期間、事象の変化とそのバリエーションを、論理化への衝動を抑えつつ、観察する目を持たなければなりません。しかし自閉症の人は、凝縮された時間内で生じる事象を、瞬く間に「論理」として理解しようとします。この意味で、微分的に現象を眺める人だと言えます。まるで瞬間接着剤みたいです。瞬間接着剤は「点」をつけるにはとても便利ですが、「面」をつけるには不向きです。塗っている先から、どんどんと乾いていくからです。このように乾燥の速さと接着できる面積が限定的であるということとは表裏一体の関係です。微分的思考も同様で、刹那的時間内に生じる現象に対する論理化への強い衝動が、長時間、目の前の現象をボーっと観察することを妨げているのかも知れません。自閉症の人に苦手なのは、積分的な思考ということになります。


 青い色は、ほとんどの人にとって「青」です。しかしながらその青い色が「美しい」のかどうかについては、“人ぞれぞれ”です。心理学の分野でも、知覚心理学と社会心理学では、被験者のサンプル数が大きく違います。社会心理学のサンプル数は、とても大きいわけです。“人それぞれ”の現象には、たくさんの要因が絡んでいます。だから、“人それぞれ”の現象の背後に潜む法則を抽出するためには、抽出したい法則とは関係のない要因を相殺する必要が生じます。相殺しなければならない要因が増えれば増えるほど、たくさんのサンプルが必要になるのです。このように社会心理学のデフォルト値は、その人がどこに属しているかによって違っているわけですから、それらの事情を広く捉えなければなりません。


 一方、知覚心理学は、生理学的基盤の影響が強い現象について扱う学問です。知覚心理学が高次な心理機能と関与しないということを言っているわけではありません。デフォルト値が身体に設定されているということは、人類皆、同じデフォルト値を持っていると考えるのが自然だと言っているわけです。一人の人間に当てはまることは、他の人間にも当てはまる可能性が高いと想定されるわけです。


 人によって、知覚経験が大きく違うんだったら、コミュニケーションが不可能な事態に陥るでしょう。Aという人の知覚経験とBという人の知覚経験の類似性は高いわけです。と、ここまで考えてくると、雨野さんの、モデルの立て方って、知覚経験を元にして得られる論理化の方法に似ている気がします。青は、いつも「青」であり、誰にとっても「青」であるというスタンスです。


 社会的な事象に対しても、知覚経験と親和性の高いモデルを適用していると考えると、雨野さんの“驚き”“怒り”“不安”が理解できると思いませんか?相手の髪型が変わることや、部屋の家具の位置が変わること、いつものスケジュールの順番が変わったり、先生の言うことが毎日に違うと言ったこと。これらをすべて、知覚経験を元にしたモデルで捉えると、ほとんどカオスにみえるのではないでしょうか?何一つ確かではないからです。

 
「おばあちゃんがある日、黒い髪を紫に染めた」。


 知覚的には大きな変化ですが、我々は、あんまり驚きませんね。心臓が止まるほどではないし、その人が変わってしまったとも思わない。
 では、次はどうでしょう。


 「朝起きてみたら、太陽が紫だった」(カフカのパクリです)。


 私だったら、びっくりしすぎて踊り始めるかもしれません。そして、踊りつかれた後、世界が終わるのか?と暗澹たる気持ちになることでしょう。

 こんなとき、普通の大人ならなんていうでしょうか。


 「それがどうしたの?太陽が紫だっていいじゃない?気にしないの!」

 「えー!」。これは一種のサスペンスホラーです。“世にも奇妙な物語”です。世界の安定性が崩壊しそうな予感に圧倒されます。私だったら、次のように言って欲しいと思います。
 
 「あんた、太陽が紫に見えてるね。そう、あんたは間違ってないよ。太陽は紫になったのさ。でも大丈夫、太陽が紫になってもあんたは死なないよ。安心しな。それに明日は、ピンクかもしれないよ。もう太陽は、一色じゃいられなくなったのさ。でも大丈夫。明日も私のところへおいで。一緒にピンクの太陽見ながら、太陽がなぜ色を変えようと思ったのかについて考えようじゃないか」。


 カーク提督は、スポックの親友でした。スポックが理解不能な状況に直面したとき、カーク提督は果敢にその状況に立ち向かい、想像もしなかった方法で解決していくのです。カーク提督の行動を通してスポックは、“論理の外”があることに気付き、また同時に“論理の外”の世界も、自分の意思でコントロールすることが可能であるということを学んだのだと思います。


 冒頭の自閉症の子どものお母さんは、きっと子どもにとってのカーク提督になれたのだと思います。我々も、カーク提督になりたいものですね。もう一度、スタートレックを観ようっと。