013 感覚について
013 感覚について
雨野カエラ
嗅覚
僕は人工的な匂いが苦手。車の芳香剤、整髪料、お化粧のにおい。人によっては体臭がすっかり人工的なにおいと結びついてしまっている人もいる。そういう人と同じ部屋で過ごすのは苦痛だ。人が集まるところでは身構えておかないと、うっかりたくさんのにおいを吸ってしまったらそこにはもういられなくなる。犬や馬のにおいは平気だ。
触覚
そっと触れられると逃げ出したくなる。触れられないのが一番だけど逃げ出せないのならしっかり触ってください。部屋で一緒にテレビを見ていると仲良くなった女の子はそっと触ってきたりするものだ。それを避けたり振払ったりするとあとからとても面倒な言い訳が必要になる。そんなときは、僕はとてもくすぐったがりだからやめてほしいとか、それが無理ならしっかり触れてくれるように頼む。たたんだ布団の下に体を入れると重くていい感じだ。体が大きくなってからは足だけ布団の下に入れてしっかりとした重さを感じるとほっとする。
味覚
人工的な調味料で具合が悪くなることがある。頭が痛くなるのもあるし、食べたとたん、微かな吐き気を感じる物もある。パッケージを見るとうまみ調味料がたくさん使われている物が多い。子どもの頃は酸っぱい物がまるっきり苦手だったけれど、だんだん食べられるようになってきた。
聴覚
単に音の大小を騒がしく感じるのではない。大きな音はきらいだがそれよりもザワザワとした感じ。音の構成要素が多い時に苦しい。講演会が始まる前のざわめき。休み時間の喧噪。映画が始まる前のおしゃべり、街中の賑やかさ。
僕は耳栓を使う時もあるけど、耳の中が痛くなるので最近はノイズキャンセリングヘッドホンを使うようにしている。高級品は分からないが僕の持っているランクのヘッドホンでは周りのノイズは軽減される物のノイズを打ち消すためのノイズが大きく聞こえる。再生する音楽をそれに打ち勝つくらい騒がしい物にすればいいのかもしれないけど、僕がよく聞くのは静かなピアノソロのCDが多いからそうもいかない。今プレイヤーに入っているのはグレン・グールド、エレーヌ・グリモー、デビッド・ヘルフゴッドだ。擬似的にでもシーンとした状況をつくり出せるのは騒がしい場所ではとても助かる。ヘッドホンをしていればあまり話し掛けられる事もないし、ストレスを軽減するのに大いに役立っている。
人間が発音できるのは小さな頃から聞き馴染んだ音だけだという。自閉症児が聴覚に特有のプロフィールをもつとすれば、彼が発語できるかできないか、どのような発音をするか、おのずと限られてくるのだろう。
発音できる自閉症者のやや高い声は外から聞こえる誰かの声を自分の頭蓋内で正確な高さで再現しようとしたものではないのだろうか。僕の声は何度も聞き返される。それは僕の聴覚プロフィールにちょっとしたずれがあって、その再現を正確にしようとする。あまり人に聞き取りやすい音を再現できないのではないかと思うことがある。実際にそういう理論もあるようだが全ての自閉症者にあてはまるものではないのだろう。
最初は僕のいう事が突拍子もなくて、難しいからみんな聞き返すのだろうと思っていたけど、簡単な一言さえも何度も聞き返されるので、僕はすっかり喋るのがイヤになり、僕の体から神様に何か奪われなければならない事になったら、声を奪って欲しいと思うようになった。子どもの時からずっとそう思っている。
視覚
繰り返し幾何学パターン。一見幾何学的でなくてもフラクタルが隠れている。
僕の目に映るもの。眼球の表面の傷。サングラスのフレーム。帽子のひさし。自分の鼻。自分の服の襟。近くに降る雪。地面の雪。積もった雪のグラデーション。遠くに降る雪。葉っぱの上に積もる雪。細い枝の一本一本。中くらいの枝。太い枝。木の幹。木々の並び。雲。空。
近くに降る雪と遠くに降る雪を網膜という平面に映して、どうして僕は奥行きを知るのだろう。雪の降り方は繰り返される二度とないパターン。始まりはどこ。終りはいつ。僕が歩くと目に映る景色が揺れる。近くにある景色と遠くにある景色が違う速さで揺れる。
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齊藤コメント
アスペルガー症候群のお母さんと相談したときのこと。「子どもの声が耳に痛くてつらい」という主訴でした。「うるさい」を通り越して「痛い」のだそうです。雨野さんのようにノイズキャンセル機能内臓のヘッドフォンを試してみたけれど、役に立たなかったそうです。耳栓も、カットされない周波数の音はビンビンと聞こえてくるのでダメでした。「じゃあ、大音量で音楽を聴けばどう?」と言うと「それはダメ、音楽に集中しちゃって、家事が手につかなくなるんだもの」。なるほど。さてどうしよう!
「そんな時、どうしてるの?」と尋ねたら、「頭の中を楽しい音楽で一杯にするんです」。興味深いので「どんな音楽?」と尋ねると、「笑点のオープニング」。思わず笑ってしまいました。かなりストレスフルな状況下で、♪チャッチャラ、チャラララッ、チャッチャッ、パフ~。「だってそれ好きなんだもん」。お母さんは恥ずかしそうにしてました。
以下は、その後の会話です。
母:「でも、笑点のオープニングは短いから、1分何秒かで終わっちゃうんですよ(実際に、計ってみたら、1分18秒でした)。それが終ったら、次の曲を流したいんだけれど、他に良い曲がなくて。先生、何か良い曲ない?」。
私は、具体的に“1分何秒”と時間を述べているところが気になりました。だって普通、時間を覚えている人って少ないでしょう?そこで、
私:「1分何秒ってさ、毎回再生したらそれくらいになるの?話聞いていると、ビデオ再生するみたいに聴こえるんだよね」。
母:「そりゃそうだよ。エッ、先生は違うの?」。
私:「全然。メロディーは局部的にしか再生できないし。音も映像もぼんやりしているけどなあ」。
母:「私は、映像もきっちり再生できるよ。だからね、笑点を頭の中で流すと、だいたい同じ時間が経過しているの。実際のオープニングの長さと同じくらいに」。
私:「それはすごいなあ」。
母:「これすごいの?みんなは違うの?」
私:「あんまりいないと思うけどなあ」。
母:「私さ、昔から一度見た本は頭の中でページめくれたんだよね。
だから、登下校で教科書見て、後は頭の中で繰り返してたもん。家で勉強したことなかったよ」。
私:「それはうらやましい」。
母:「そうかあ、私の感覚って人と違うんだね。だから子どもの声も気になるんだね。じゃあさ、他のお母さんは子どもの声とかどうしてるの?」
私:「やっぱりうるさいとは思っているよ。でもね、痛くはない。それに、家事に没頭すれば、耳には入ってこないときもある。うるさくても何とかやり過ごせていると思うなあ」。
母:「へえ、みんなはそうなんだあ。みんなもつらいのかと思ってた」。
私:「うん、疲れるけどつらいというほどでもない。似ているようだけど、
その違いは大きいと思うよ」。
次の相談日。
私:「何か良い曲見つかった?」
母:「見つからなかった」。
私:「僕もあれから考えたんだけどさ。もう、リピートするしかないんじゃない?笑点」。
母:「やっぱり?それしかないよね。うん、それでやってみるかな」。
感覚を持って、感覚を制すといったところでしょうか。その後、子どもも成長し、大きな声を出すことも減ってきて、何とかこの問題については乗り越えたのでした。
感覚って共有しずらいものです。色々情報交換してみないと、分からないことってたくさんあります。大人であるお母さんは、自分の感覚経験について自覚できますが、これが子どもだったならば、自分と他者の感覚の違いなんて思いもよらないことでしょうし、気付いたとしてもどのように表現してよいかも分からないでしょう。人の感覚世界には多様性があるんです。多様性に恐怖や違和感を持ってしまうと、そこからは何も生まれません。感覚の世界はそのまま、味わってみるのが一番面白いと思います。
次回も続きです。