006 馬の心、人の心
006 馬の心、人の心
雨野カエラ
大きな音がきらいで、いつもの場所に物がないと驚き、いつも時間通りに生活し、時々パニックになる。まるで自閉症者みたいなもの、それは馬です。
馬を見ていると自閉症者との類似に気付きます。補食される動物と自閉症者の比較はテンプル・グランディンも行っています。僕はそこに「群れの動物」という点も加えて考えます。自閉症者は群れるのが嫌いなのではないかと言われる方もいるかもしれませんが、ここでいう「群れ」は、人間のように個の消えない「群れ」ではありません。補食される動物の群れとして考えるのです。群れの誰かが危険を発見するとそれは群れ全体の情報となります。群れはそれ全体が個です。そこには自他の区別が希薄です。自分の得た情報は全体が知っている情報。群れが得た情報は自分も知っている情報。群れが群れとして行動するためにはそういう本能が必要な気がします。
自閉症者は他者の意図を想像するのが苦手だと言われます。自分の思っていることを相手も全く同じように思っている、と思いがちだからです。そのことを「人の気持ちが分からない」「想像力がない」というのだとおもいますが、「思いやりがない」とか「創造性がない」というのと同じではありません。
僕は「言わないとわからない」というのがわからない事があります。自分の考えていることを相手も同じように考えているとしたら、言わないでも分かるはずですよね。他者は自分とは違うことを考えている場合がある、ということを認知できないのです。自分の知っている情報は相手も当然知っていると思いがちです。情報が同じなら同じ結論に「言わなくても」達するはずだと思ってしまいます。もちろん大きくなって、そのことは経験から得た知識として修正されていきますが、認知を変化させるところまではなかなか達しません。自分の思った通りにならない、それを受け入れるために、みんなのほうが何でもよく知っている、自分はいつも間違っているという認知を成長させてしまったりします。時には相手が間違っていることもあるし、また時には自分が間違っていることもあると言う認知には達しません。自分が正しいか、群れ全体が正しいかではなく、群れの認知としては常に一つのことなのです。
自閉症者は動物の群れの認知を持っているために、他者の考えを取り入れようとするのですが、他者は気まぐれでいつもバラバラなことを考えています。普通の人間の群れのなかでやっていくには自閉症者には苦労が多すぎます。
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齊藤コメント
「群れの動物」として思い浮かぶのは、例えば草食動物ですね。群れている動物は、まるで集団として意思を持っているかのような動きを見せることがあります。個と個が互いの意思を確認しながら、各瞬間に動く方向を決定しているのではなく、あたかも当然のように、各個体が一斉に向きを変える様子は、見ていて不思議なものです。
群れる動物たちにも、もちろん個体差はあるでしょうが、おそらく外部の刺激に対する認識の仕方や行動の選択は、人間に比べて類似度が高いのでしょう。認識パタンや行動パタンの自由度が低いとも言えます。そのように考えると、ある状況において、動物達が同じ行動を一斉にとることの解釈ができます。全体は個であり、個は全体であるゆえんです。
このことに関連する雨野さんのエピソードを紹介します。雨野さんの子どもの頃の話です。
目の前に椅子があります。雨野少年はその椅子に座りたいと考えています。しかし、クラスメートが先に座っていました。雨野さんは、座っているクラスメートの前にじっと立ちます(立っているだけです)。クラスメートは席を譲ってくれるそぶりを、一向に見せません。だんだんイライラしてきます。雨野少年は次のように考えます。「僕がその椅子に座りたいのを知っているはずなのに、知らないふりをして座っている。これはきっと意地悪をしているに違いない」。我慢しきれなくなった雨野少年は、そのクラスメートを突き飛ばしてしまいました。
二つ目のエピソードも子どもの頃の話です。ある日、クラスメートが昨夜見たTV番組について話しかけてきました。「雨野、昨日のTV面白かったな!」。しかし雨野少年は答えません。なぜなら雨野少年にとって、確認し合うまでもなく面白かったからでした。なぜ、自明な事実を改めて尋ねてくるのか、戸惑ったそうです。これはきっと僕をからかっているに違いない、と腹立たしい気持ちになったとのことです(話題を変えるとより分かりやすいかもしれません。例えば、私の妻がゾウの写真をみて、「ねえあなた、これゾウよね。あなたは何だと思う?」。バカにしてるのか?と一瞬思ってしまいます)。
この二つのエピソードを、クラスメート側から見るとどうなるでしょうか?ちょっと想像してみましょう。一つ目のエピソードから。
友達と楽しく会話をしていると、そこに雨野少年が近づいてきました。自分に話しかけるのかな?と思ったけれども、何かを話し始める気配はなく、ただ自分をじっと見つめているだけです。友達との会話を再開し、しばらくして振り返ると、雨野少年は先ほどと同じ場所に立って、自分をまだ見つめていました。驚きましたがどのように対応してよいかわからず戸惑っているうちに、いきなり突き飛ばされました。
二つ目のエピソードです。
昨日見たTV番組が面白かったので、朝、誰かと話そうとクラスを見渡すとすぐそばに雨野少年がいました。「昨日の○○見たか?」と尋ねると「見た」と言うので、早速「面白かったな!」と話しかけました。しかし雨野少年は黙ったまま返事をしてくれません。「見たか?」の質問にはちゃんと答えてくれたのに、なぜ黙っているのか不思議です。
かなり私の想像が入っていますが、やり取りは以上のようなものだったと思います。このようにそれぞれぞれの立場からエピソードを眺めてみると、心の内容が大きく違っていることに気付きます。雨野さんは、乱暴な性格だったわけでもなく、気難しい気分屋でもなかったわけです。相手の行動の裏にある意図を読んでいないことが原因だったのです。なぜ読まないかは、先ほどの「群れの動物」の例のごとく、自分と同じことを感じ、考えているはずだという雨野少年の強固な信念に基づいた結果なのでした。
自閉症スペクトラムの人たちは、共同注意に問題があるとよく言われます。結果として共同注意が成立していないというのは、確かにそうなのですが、雨野さんの話を聞くと、当事者の主観においては捉え方が違うようです。彼らはむしろ、プリミティブな意味合いにおいて、共同注意が成立していると思っているのかもしれません。なぜなら、自分と同じ対象に関心を持ち、同じように感じ、同じように考えていることを前提としているわけですから。これ以上の“共同”感覚はありません。ただし、自己の認識を他者にまで過剰に拡張した結果としての共同注意なので、客観的には“共同”は成立していません。自他を区別したあと、各々の注意を共同するところに、共同注意の本質があるわけですから。
以前相談していたアスペルガー症候群の子どもの話です。ある日、ウルトラマンの映画をお父さんと見に行きました。帰ってきてすぐに、一緒に映画を観ていないお母さんに「お母さん、どうしてウルトラマンはあそこでやられそうになったの?」と質問しました。お母さんは「観ていないから分からないわ。まずどんな話なのか説明してみて」と返答しましたが、腑に落ちない様子だったそうです。そして「ねえ、どうして」と質問を繰り返したそうです。お母さんは困ってしまいました。
小学校に入り、自分の好きなポケモンの話を、何十分でもクラスメートに話すようになりました。聞いてくれたクラスメート達もだんだんと敬遠するようになりました。私は「どうしていつもポケモンの話をするの?」と尋ねました。すると「だって僕が楽しい話だから。友達もきっと楽しいはず」と答えました。悪意があって話しているのではないことが分かります。自分と他者は同じなのです。自分が楽しいように、相手も同じくらい楽しいであろうと信じているのです。
しかしクラスメートに敬遠されるようになったことがきっかけで、この子どもはなぜ相手が僕の話を聞いてくれないのかと、考えるようになりました。ある日、お母さんに相談しました。「どうして誰も僕の話を聞いてくれないの?」。お母さんは答えました。「明日から、聞いて欲しい話があったら、まず『僕、これから○○の話をしたいんだけど、君は知ってる』って聞いてごらん。もし知らないって言ったら、話すのをやめたほうがいいわ。でも知ってるって言ったなら、あなたの話しを少しは聞いてくれるかもしれないわよ」。
次の日、素直にお母さんのアドバイスを実行に移しました。しばらくたったある日、「お母さん、あのね、知ってるって答えた人は、知らないって答えた人よりも長く話を聞いてくれるんだよ。そして、新しいことも教えてくれるときがあるとわかったよ」と報告してくれたそうです。誰彼かまわずポケモンの話しすることがぐっと減ったそうです。
すばらしいアドバイスだと思いませんか?私は、お母さんの洞察の深さに感動しました。わが子に必要な知識は「人によって興味や関心が違うこと」、「自分が好きなことが相手も好きだとは限らないこと」であることを見抜いていたのです。さらにこれらの事実を、身をもって気付かせるために”魔法の質問”を授け、じっと見守っていたのです。“自分と他者の心の内容は違う”。定型発達者にとっては自明中の自明な事実であっても、「群れの動物」的世界を持つ人たちにとって見れば(すべての自閉症スペクトラムがそうだと言っているわけではありませんが)、この事実は驚き以外のなにものでありません。
自分及び他者を発見する瞬間とは、自分の意図通りに他者が動いてくれないときだと思います。それまで、自分と他者は一緒だと固く信じていた子どもにとっては、安定していたはずの世界に“裂け目”ができたように感じる、一種の事件だと思います。でも、その裂け目を裂け目として放置するのではなく、ふさぎなおす努力をする過程で子どもは、コミュニケーションの必要性、効果的な表現の仕方を学んでいくのでしょう。この意味で、我々も自閉症スペクトラムの人たちも、学ぶ原理は一緒だと思います。違うのは“裂け目”の量であろうと、私は考えています。自閉症スペクトラムの子どもが、何とか折り合いをつけられそうだ、と思える程度の裂け目を我々が提供することが大切だと思うのです。療育や教育の効果は、この裂け目の量を子どもの発達合わせて見極められるかが鍵になるのだと思います。
雨野さんも、成長するに従い「伝えなければ自分の気持ちは相手に理解してもらえない」ことに気付いていきます。しかし、雨野さんの心の初期設定は「群れの動物」的心なので、いちいち自覚する必要があります。直感的には難しいと告白しているように、意識的な変換作業が必要になってきます。
この点が、支援をするときのポイントだと思います。コミュニケーションがずれているときに、どこの部分がどれくらいずれているのか、客観的に整理してあげることが、コミュニケーションをスムーズしていく上で必要です。上手な通訳者になること。支援の基本はここにあると思います。