雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

017 暗黙の了解ってどういうこと?

017 暗黙の了解ってどういうこと?


雨野カエラ


 暗黙の了解がわからないってどういうこと?その場のルールを壊すってこと?

ルールがわからないから、みんなと同じようにしたり、動けなかったり、自分に不利な条件に従ったり。本人の方が困っていることも多いんじゃないかな。


 宿題やテストの範囲がだいたいどこからどこまでか、何ページから何ページまでって言われなくてもみんなにはわかるみたいだ。誰がどの係をやるのかあらかじめ決まっているみたいだ。そして係になったら、いつからどんな仕事をするかよくわかってるみたいだ。僕は明確に示されてないことはよくわからなかった。だからみんなのまねをしてみた。その場の雰囲気を壊さぬよう動かないでいた。自分ではどうしてよいか判らないから、人の言うことに従った。うまく行くこともあったけど、そうでないこともたびたびあった。自分の本意でないことを続けるのは、つらさをどんどんためていくことだ。


 大人になるとこれはもっと厄介な形になる。


 ある職場を離れる時に上司に言われた。「お前の引っ越す先は都会だから、駐車場を借りるのがむずかしい。車は置いて行け」。僕は、そうなのかと思って従った。そしてこうも言われた。「もし駐車場のある家が借りられたら車は持っていけばいい」。


 引っ越して2週間程たってから、上司に車を持っていきたいと言うと「お前は車は『置いて』いくと言ったではないか、もう人に売った」。車の代金はもらえなかったし、自動車税も僕が払うことになった。


 あるボランティアのグループで、僕が仕事をメンバーに割り振ることになった。みんなは自分のやりたい仕事にそれぞれ立候補したので、その通りにお願いした。数ヶ月過ぎてもみんなはその仕事をやる気配がない。強制はいけないと思ったから何も言わなかった。ずっと後になってからこういう声を聞いた。「何をやればいいのか言われてない」。立候補したのに?「言わないで動くと思っているのか」とも言われた。詳しく指示されなければ何もやらないって、どうして教えてくれないの?みんなは言われなくちゃわからないっていうのに、僕は言われなくてもわからなくてはいけないの?みんなの間で決まっているルールは何?


 僕の話を聞いてもそれは約束や契約をしなかったから、と言われるだろう。でも僕は明示された言葉が約束だと思っているし、言葉で表されなかったことは約束してないことだと思うんだ。だからどんな簡単な話を決めるときも誰かがそばで、その場の暗黙のルールを確かめてほしい。


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齊藤コメント

 社会生活を営んでいると、慣れない人間関係の中でも、極力自然に振舞うことを要求されることが多くあります。Aという集団では許されることが、Bという集団では許可が必要だったりすることはよくあることです。しかし、この違いに気付くには、集団メンバーの振る舞いや言動の一部から、背景にあるルールの全体を想像するしかありません。

 前提として、Aという集団のルールには精通している必要があります。集団ルールAに精通しているからこそ、集団ルールBとのわずかな違いが意識化されるからです。では、どの集団のルールにも精通していなければどうなるでしょうか?

 数年前、当事者の勉強会の講師として招かれたことがありました。参加者はみんな当事者の方たちです。映画の登場人物の心情について話をしました。そのとき題材にしたのは小津安二郎監督の「秋刀魚の味」の中の、あるシーンでした。

 突然、思いを寄せている男性に婚約者がいること告げられる妹「岩下志麻」。告げたのは、父「笠智衆」と兄「佐田啓二」。告げられたときは、悲しい表情を見せずに気丈に振舞う妹でしたが、だんだんと悲しくなり、とうとううなだれてしまいます。そんな妹の姿を見て気の毒に思った父と兄は、別の男性とお見合いを勧めます。それを聞いた妹は、パッと頭を上げ、明るい表情で「お任せします」と言うのでした。

 妹の最後の表情について議論しました。事前の調査から、定型発達者者はこの表情を「なげやり」「自暴自棄」と答えることが多かったので、その結果を伝えました。すると、当事者の何人かが手を挙げて質問してくれました。「どうしてなげやりになるのですか?説明してください」というものでした。

 当事者の反応は主に二つに分かれました。一つ目は、混乱型。あれほど悲しんでいたのに、急に明るい表情になったことに対して、一貫した説明を見出せず、どっちが彼女の本心なのだろうか?と悩むのでした。悲しみと喜びという矛盾した感情が、同時に心に存在するわけがないから、どう解釈してよいか分からないと言うのです。

 二つ目は、「行動重視型」。明るい表情をしているのだから、見たとおりに気持ちを読み取ればよいのではないかと考えているグループでした。このグループの解釈によれば「前の男性への思いを断ち切って、新たな出会いを求めて前向きになっている」となります。

 さて、質問をしてきたのは「行動重視派」の人でした。どうして見たとおりに感情を読み取ろうとしないのか?という疑問です。なるほどもっともです。私は次のように答えました。

 「きっと、父親と兄を心配させたくなかったのだと思います。悲しみはすぐには消えないんです。感情って、ある瞬間、デジタルのように変化するとは考えにくいと思います。だから、この時の明るい表情は父と兄のために表面的に作ったものだと考えました。さらには、女性としての誇りもあったのかもしれません。もっと良い男性とめぐり合えるかもしれないという自分への自信のようなものです。前向きというのとは少し違います」。


 すると、その方は「先生はいつも、他の人のことを考えているんですね」とコメントしてくれました。たしかに「人に心配かけたくないという気持ち」や「誇り」は、他者へ向けた感情です。その方は「齊藤はそういう考え方をするんだあ」と納得したようにうなずいてくれました。しかしこれは、”理解”のうなずきであって、”共感”のうなずきではありませんでした。それは次のコメントでわかります。

 「先生、そんな生き方をしていたら疲れませんか?」というのです。これはとても面白いと思いました。「そうですね、疲れるときもあります」と答えると、「でしょう。だから先生、嫌なときは嫌って言っても良いと思いますよ。感情は素直に表現しても良いんですよ」とアドバイスをしてくれました。なるほど、一理あります。いや、私にとっては二理くらいありました。私は、なぜかそれ以上言い返せませんでした。すると、それまでただ議論を聞いていた他の参加者も加わるようになり、私にいろんな質問が投げかけられました。私は、何が正しいのか分からなくなって、しどろもどろになって必死に答えた記憶があります。

 勉強会が終わった後、最初に質問をしてくれた方が私に近づき「今日は楽しかったです」と声をかけてくれました。「ごめんね、なんだか今日はしどろもどろで、説明になってなかったね」というと、「それが面白かった」と言うのです。

 「いつも私たちは、集団ではマイナーの位置にいます。だから、あなたの言動が間違っている、変だと言われることが多いのです。でも、具体的に何が違っているか、何が変なのかわかりません。さらには、あなたはアスペルガーだからと、障害特性の説明をされるのですが、私は当事者なのでそれはよく分かっているんです。アスペルガーの特性を説明してもらっても、自分と定型発達者との違いは分からないんです。でも今日の勉強会は違いました。定型発達者としての齊藤先生の考え方や気持ちがよく分かるものだったからです。私たちに必要なのは、定型発達者の特性理解なのだと思います。障害特性についての勉強会よりも、定型発達とは何かを学べる勉強会が必要だと思いました」。
 
 
なるほどと思いました。しかし同時に、我々は彼らにきちんと説明できるほど「定型発達」について知っているのだろうか?と疑問が湧きました。定型発達者は、自分たちが思っているほど、自分たちのことを知っているわけではないのではないかと。アスペルガーの人たちのことを理解しにくいのは、もしかしたらそれが原因なのかもしれません。暗黙の了解について一番無自覚なのは、当の定型発達者なのですから。

 最後にその方は、

「先生、また私たちのサンドバックになってくれませんか?色々質問して、先生が困りながら答えるのを聞くのが一番勉強になるのです」。

「良いですよ」と言葉が喉まで出かけたとき、先ほど言葉が思い浮かびました。「嫌なときは嫌って言っても良いと思いますよ」という言葉を。

「嫌です!」。

「そうですよね」とその方は笑って許してくれました。