雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

038 社会的判断における妥当性の問題について(4)

038 社会的判断における妥当性の問題について(4



From 雨野To 齊藤



> 馬や犬と接する時に視線を外すというのは重要な信号です

> 相手に少し自由を与えるのです

 

僕も人間相手に視線をはずす時があるけど、その場合「戸惑い」「拒否」「後ろめたさ」など、ネガティブな感情を持ったときが多い気がします。あと、相手の迫力に圧倒されているとか。この場合は「恐怖」「敗北」という感情でしょうね。

 

一人で考えを整理するために意識的に視線を外すことはありますが、多用すると相手に良くない印象を与えてしまうので、気を使います(つまり相手の反を観察しながら、ということです)。

かといって、相手の目をじっと見据えるのは、失礼に当たる場合もあるので、時々視線を外しますが、それもタイミングに気を使います。相手が一番伝えたいと思って話しているところで、視線を外すと、真面目に聞いていないように思われるかもしれないからです。

「話すときには、目を合わせる」といった固定的な台本ではなく、場面と相手の反応に合わせて、臨機応変といったところでしょうか。

> 「あやふやなモデル」

>      実行機能の問題              →スケジュール

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> 統合ー選択的注意の問題ーマルチフォーカス →シングルフォーカス的指示

>         |

>       感覚の問題                →刺激の選択(全ての低減ではなく)

僕自身は、「実行機能」は、対人的な相互作用を通して、構成されていると考えています(もちろんすべてではありませんが)。

実行機能を導いている機能はなんなのか」という疑問が湧いてきます。「実行機能」という小さなコビトが頭の中にいるわけではありませんよね。実行機能の実行機能というのを想定しなければならなくなります。「こうなると無限に、上位の管理システムを想定しなければならなくなります。閉じたシステムとして考えると、「実行機能」の実態がとてもあいまいなものになります。

社会的状況に合わせて適切なプランニングをしたり、必要のない刺激に向かう注意を抑制し、適切な刺激に注意を自動的に振り向けるといった機能は、長い期間の「学習」の結果なのではないかと思うのです。  
 

定型発達児の場合、乳児の時から「社会的参照」「共同注意」を通して、他者の外界に対する情動的評価を基準にして、世界の心内モデルを構成したり、他者の注意の方向をモニターしたりしています。プランを立てるのかについても同じことが言えると思うのです。白紙の状態から、独力で考えるのではなく、その多くを他者を参照し、模倣するというあり方です。


この論に従うと自閉症圏の人は、選択的注意や実行機能そのものに機能の欠陥があるというよりも、それらの能力を獲得する土台が危弱であると言えます。


他者と経験を共有するという志向性がまずあることが前提になのではないかと思います。


雨野さんの「あやふやなモデル」には、主に皮質レベルの心理機能について列挙されているように見えます。皮質下のシステムは、どこに、どのように入ってくるのでしょうか?

どのように皮質と皮質下の機能がどのように影響しあっているのかについては、僕の浅い知識では何ともいえませんが、どうもそこにヒントがあるような気がしてならないのです。人が、他者に対してオープンなシステムであろうとすると、他者と物理的に交感する身体や身体反応としての情動が大切になってくると思うからです。

 

ぶっちゃけた言い方で言えば、情と理とのバランスということでしょうか。