020 私の取扱説明書③
020 私の取扱説明書③
雨野カエラ
教室の後ろで「がしゃーん!」と音がしたら、みんな一斉に振り返るだろうと思います。その時に何か考えていますか?反射的に思わず、とか「何かと思って・・・」とか?
私は振り返りません。音がした。誰かが筆入れを落としたのだろう。位置と方位と音の感じから、そそっかしいXX君が落としたのかも。確認したところで何かが変わるわけでもない。板書をつづけます。
気が付くと先生は話をやめ、クラス全員が振り返っています。みんなが見ているので仕方なく後ろを振り返ってみることもあります。地球人は非効率的で非論理的です、艦長。
でも、人に関心がないわけではありません。XX君がそそっかしい事も知っています。筆入れが汚れたり壊れたりしてXX君が困ったりしないだろうか、とも思っています。みんなが後ろを見ていたら見る事もできます。それまでにたくさんの事を考えているので、パッと振り返る事ができないだけです。できないのはイカンといわれるとつらいなあ。
「がしゃーん」と音がするのはカンペンの時代だからですよん。
----
齊藤コメント
サリーとアン課題について、雨野さんと議論したことがありました。「最後に、『サリーはどこを探すでしょうか』と質問されて、『えーっ!』と思いました。なぜなら、僕は隠されたボールの視点で物語を見ていたので」。
雨野さんは「サリーとアン課題には、五つの視点がある」と言います。サリーとアン。そして、ボールとバスケットと箱の三つを合わせて五つです。事前に、物語を見る視点が示されていなければ、選択は自由なのではないか、と雨野さんは思っています。確かにそうです。
しかしおそらく、定型発達児の多くは、誰に指定されなくても、サリーやアン(つまり人間)に視点を置くと予想されます。この違いはどこからくるのでしょうか?
雨野さんは「サリーはどこを探すでしょうか?」と質問されて初めて、「ああ、これはサリーの物語なんだな」と気が付きました。そして雨野さんは、サリーの視点で物語見るために、頭の中でもう一度、観た映像を再生したのだそうです。ビデオみたいにです。時間はかかりましたが、結果は正答でした。
再生するためには、大容量の記憶と高いイメージの操作性が必要です。雨野さんにはそれが可能でした。しかし映像を再生に失敗すれば、そこでアウトです。もしかしたら「サリーの視点で見てね」とあらかじめ伝えておけば、通過率は少し上がるかもしれませんね。
さて、このエピソードを紹介したのは、次のことを押さえておきたいからです。
「自閉症者の同一視は、人のみならず、環境に含まれる他の対象にも等確率で行われる可能性が高い」
別のエピソードを紹介しましょう。小学1年生のアスペルガー症候群の男の子、D君です(知能は平均の上。言語性が特に高いお子さんでした)。ある日一枚の絵を見て、お話を作ってもらう課題を行いました。その絵は「自転車の前輪が外れて立ち往生している少年が、遠くからやってくる自動車に助けを求めるために、帽子を高く掲げて合図を出している」という内容でした。
D君のお話は「(帽子を)手に持ってる。タイヤ、一個とれてる。こっちに車、来ている。おしまい」でした。絵の中の要点(帽子、前輪、車)には、ちゃんと注目していました。しかし、それらがつながって一つの物語に昇華せず、バラバラな記述で留まっています。
「もう少しお話してよ」と私が頼むと、とても面倒そうに「もう話はないよ。全部話した」と言いました。しつこく頼んだところ、しぶしぶ承諾してくれました。
「木、草、石。おしまい」
あまりのシンプルな記述に、私はむしろ感動しました(笑)。物語に関連する三つの要点(帽子、前輪、車)に触れておきながら、次に「木、草、石」と来るとは予想していなかったからです。物語へと統合するのではなく、より局部的な記述への傾向性が強まっている点が興味深いと思いました。通常であれば「自閉症者は情報の統合困難を持つために生じた発話である」という解釈が当てはめられるのでしょうが、私はどうもそれだけではない気がしました。
そこで、翌週、再び課題を行うことにしました。しかし、今度は一工夫しました。絵の中の少年の背中に、D君の名前を書き込んでおいたのです。最初、D君は「これ先週やったやつだ。もう、やだー」と言っていたのですが、そのうち自分の名前が書き込まれていることに気付きました。「あれ、僕の名前だ」と言いながら、じっと絵を見つめ始めたのです。数秒後、私は「D君さ、この男の子はなんて言ってると思う?台詞を考えてみて」と尋ねると、いとも簡単そうに「『助けてー』って言ってるに決まっているだろ」と答えてくれました。ちゃんと統合できるんです。ただし条件つきで。
D君のエピソードは雨野さんのエピソードに通じていると思うのです。D君ははじめ、絵をどの視点で見てよいか決められなかったに違いありません。だから、絵の中に含まれるものを、もれなく均等に記述しようとしたのだと思います。しかし、二回目は違いました。背中に自分の名前が書かれているわけですから、自然に「少年の視点」が採択されました(=「自分の視点」と重なるためです)。その結果、ばらばらな情報が統合されるに至ったのだと推測しました。
カンペンのエピソードで、雨野さんは、XX君の視点ではなく、カンペンの視点に立っていたのかもしれません。もしかしたら、情景をカメラで引いたときのように(パンフォーカスのような)、個別の対象に視点を焦点化させずに、環境全体に注意を払っていたのかもしれません。
クラスメートや担任の先生はきっと、XX君の視点で事態を把握したのだと思います。XX君の視点で事態を把握するということは、XX君が感じたであろう驚きや恥ずかしさや困った気持ちが、一瞬にして自分の内部に伝播することを意味します。見るか見ないか迷っている暇もないほどに、思わずXX君の心理状態への同調が生じるのです。だから、まるで自分がカンペンを落としてしまったかのような錯覚のうちに、自分の姿を確認するようにXX君を見て、納得したくなるのです。
一方雨野さんは、XX君の視点に個別に焦点化していなかったと考えると、この一瞬の伝播が生じなかったと思われます。だからこそ、クラスメートとは反対に、冷静に状況を分析することができていたのだと思います。
雨野さんから見れば、定型発達者の行動が、非効率的・非論理的に見えるのは最もだと思います。授業のほうが大事、と板書を続ける雨野さんの行動は、授業中という文脈においては大変合理的な行動からです。普段は、私語をして先生の話を聞いていないと叱られるのに、カンペンを落とした人を振り返って見る場合は、誰にも注意されない。よく考えると不思議です。おそらく雨野さんには、この二つの事態の間の線引きがどこにあるのか推論するのが難しいでしょう。
視点の選択の仕方には、その人が生きるための指針のようなものが含まれていると思います。我々は生きるのに必要な情報を、常に環境から取り込んでいるわけです。だとすると、その個人が生きる上で大切だと思うものに真っ先に関心を示すはずです。たとえ雨野さんが人間ではない他の対象に関心を示したとしても、きっとその対象を見なければならない切実な理由があるはずなのです。
同一視する対象の選び方、または距離のとり方は、人それぞれなのだと思います。コミュニケーションをするときは、相手の視点がどこにあるのか、確認することが大事だと思います。自分の視点取りと違からといって、他者を否定するような行動はなるべく慎みたいと思います。常に視点の違いを想定し、視点の相違が明らかになった場合は、冷静に話し合う態度を持つことを心がけたいですね。個性の尊重とは、そういうことだと思います。