雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

008 理解することと行動することのあいだ

008 理解することと行動することのあいだ


雨野カエラ

 一緒に歩いている誰かが、凍った道で転ぶ。僕は何も言わない。すると彼は怒る。感情がないのかと非難する。でも声を掛けられてうれしいかどうか、本当は心配されたくないのかどうか、どうやってわかる?声を掛けられたくないのか、掛けて欲しいのか。何か言うとすればなんて言えばいいのか。どうやって選べばいいのだろうか?本当は心配しているのに。

 子どもの時から自分は心の冷たい人間なのではないかと思っていた。心のないロボットなのではないかと思っていた。みんなと同じ様に声を掛けることができなかったから。まわりからそう言われるから。

 目の前で転んだ人がいるとするだろ。人の立場に立って考えなさいってよく言われるから、そう考える。自分が転んだらどう思うか。声を掛けて助けおこしてもらいたい時もあるし、見なかったことにしてほしい時もある。どちらかは決められない。それで何も言えないでいると人の気持ちがわからない人って言われてしまうんだ。自分がその人の立場だったら、と想像するだけでは足りないらしい。

 他人は自分の考えている以外のことも考えている。そこが自分には足りないんだ。でもそのことを想像するのは難しい。もしかしたら僕に足りない脳の機能って、そのことなのかもしれない。相手の立場に立って考えれば考える程、考えてもみなかった答えを返され、ショックを受ける。相手のことを心配しているのに人の気持ちがまるでわからないと非難されることは、とても悲しい。思いもよらない意見や批判や干渉を受けることは、真剣に相手のことを考えていただけに衝撃を受ける。

 心配していることを相手に言わなければ伝わらない。そう思えないことが問題なんだ。だって人が転んだ場面では心配するのが当然だろ。だから心配している。僕はひどい人間ではない。だから当然そう思っていると「相手も思っている」と考える。ほら、ここなんだ。だから人の気持ちを考えるテストをすると成績がよくない。そのことを想像力がないって言うらしい。思いやりがなくって、空想もできない、というのとはちょっと違うよ。

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齊藤コメント

 この文章を読んだとき、以前読んだ論文を思い出しました。


 Travis(2001)は、言語能力の高い自閉症スペクトラム児童を対象に、社会的場面における理解力と行動力との関連を調べました。

 結果、関心のあるおもちゃに相手の注意を向けようとする者(共同注意を開始する能力)及び、紙芝居中の登場人物の感情とそれを観ている自分の感情が同一と捉える傾向の高い者(共感性)が、向社会的行動(自発的に他者を助ける行動など)や友達との遊びを積極的に行うことが分かりました。

 
一方、心の理論課題などで測られるような推論能力との関係は低いことが分かりました。

 雨野さんのように、客観的な分析能力を持っている方でも、現実の生活、特に対人場面では苦労しています。知識や論理的な推論能力が現実の社会的な行動と相関しない、というTravisらの結果は、確かに当てはまりそうです。雨野さんは、相手の感情の推測は行っています。しかし、どの解釈が適しているのかの最終判断ができないので困っているのです。


 関心を持つ対象に相手の注意を向けようとする共同注意行動の背景には、「学校キライ(4)」で書いた「他者(世界)を動かす有能感」がなければいけません。雨野さんによる発達障害の定義は、この有能感が持てないことが中核となっています。相手が自分の期待通りに行動してくれるという確信が得られないので、頭の中の仮説で終わってしまうのです。「行動」まで、たどりつけません。

 「会話が途切れれば、何か違う話題を提供しなければとは思っているんです。でも、『そんな話をしたいんじゃない』とか『お前の言っていることはわからない』などと言われるのではないかと、ネガティブな想像ばかりが思い浮かんでしまい、結局言い出せません。黙ったままになります」。

 これに関して、雨野さんの世界観をあらわす文章を紹介します。

「私」は世界に含まれていない。
「私」は観測者。
「私」はナレーター。
「私」は映画を見ている視聴者。
          
世界に対しては、「傍観者」
世界に「私」はいない。
 「世界は私だ」の感覚。
定型発達者は「私は世界だ」と思う人たち。

 
映画を見ている視聴者という喩えは、分かりやすいですね。映画の中で、人が転んでも、席を立って助けに行く人はいません。登場人物に働きかけても、こちらに応答してくれたり、ストーリーが変化すると思っているわけではありませんから。


 次に、登場人物と同一の感情が、自分にも生じていると感じる力(共感性)について考えてみたいと思います。

 ある日、雨野さんは「齊藤先生は、人に褒められると楽しいですか?」と尋ねてきました。私は「うれしいですね」と答えました。しかし、彼は「僕はあまりうれしくありません。自分と似ていない人に褒められても、それが褒めることに値するのかどうか分からないからです。僕は、自分と他者は似ているとは思えないのです」。

 だから彼は「正の報酬をもらおうとして行動するのではなく、負の報酬を避けるように行動するようにしている」と言います。相手を怒られないように、悲しませないようにと。

 先ほど、現実はまるで映画のようだ、という雨野さんの世界観についてお話しましたが、常にこのような世界観に埋没しているわけではありません。このような世界観が強まるのは、対人的なトラブルがあった後のような、ひどく落ち込んだときが多いようです。

 「この世界に身体を持つことはつらいことです。なぜなら、他者の評価は、僕という物理的に存在に向かって行われるからです。ネガティブな評価に耐えられなくなったときは、意識の中で身体を消していく想像を行います。すべてを消すわけではありません。世界を眺めるのは楽しいので、眼球は残します。自分が眼球そのものになるまで、身体を消していく想像を続けます」。

 この作業が行われないとどうなるか?他者はどんどんと自分に向けてメッセージを送ってきます。すると、

 「他者のインフレが生じる」
 「あらゆるものに他者を感じる」


 ようになるというです。おそらく、自分が伝えようとしたことと他者の応答との間に対応関係が認められないことによって(時には自己を完全否定されてしまう経験によって)、「他者の応答=自己を写像したもの」というタグがはずれ、他者からの一方的な写像を感じることになるのだろうと思います。「自分」がなくなっていく不安を感じているのかもしれません。

 
雨野さんは、このような話をしたあと、社会性について以下の文章を黒板に書きました。

「社会性とは、自分と他者は似ていると思えることである」と。



Travis,L, Sigman,M & Ruskin,E  2001  Links Between Social Understanding and Social Behavior in Verbally Able Children with Autism  Jounal of Autism and Developmental Disorder  Vol.31 No.2  119-130

2011/08/30
コミュニケーションって、本当に難しいですね。
単に、アスペルガーの人側の問題だけではない気がします。

全ての人間、生物(?)にとって、情報や感情のやりとり
というのは、複雑かつ容易には思い通りにはいかないもの
なのだろうな・・・と感じます。