030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)
030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)
齊藤コメント
ある日I君は、ぷんぷんと怒って幼稚園から帰ってきました。理由は、友だちが約束を破ったからでした。I君の怒りをなだめようと、いつもなら説得を試みるのですが、この日のお母さんのアプローチは違っていました。
「ねえ、今、④の顔(怒り顔)になってるよ。鏡で見てみる?」と尋ねたのです。I君は怒ったまま「うん」と答えました。早速、お母さんは鏡を手渡しました。自分の顔を見たI君は「ほんとだ、④の顔だ。」と言いながら、思わずふっと笑いました。それを見て「あっ、②(微笑み)になった」と言いました。鏡を見ただけなのですが、気持ちが切り替わったようでした。
その後も、機嫌が良いままでした。本当に機嫌が直ったのだろうか?といぶかりながら「お母さん、友だちに電話してみようか?」と言ってみましたが、I君は「もういいよ」とあっさりしたものだったそうです。
問題は何も解決してはいないのです。友だちは約束を破ったままですし、その理由もわからないままなです。いつものI君ならば、納得するまでお母さんや友だちに説明を求めたことでしょう。でもこの日は違いました。なぜなのでしょうか?いつもと違う点と言えば、I君の意識が「他者の気持ち」ではなく「自分の気持ち」に向けられていたことです。
我々は「自分の気持ち」は自分が一番知っていると思いがちですが、決してそうではないということが、経験が積み重なるうちに気づく事実の一つです。「自分の気持ち」は、何かに媒介されなければ知り様がないのです。I君の気持ちを媒介したものは「鏡」でした。それゆえ「自分」が対象化されたのだと思います。ぷんぷんと怒っている時のI君の意識にあったものは、「他者」と「他者に関わること」のみだったのだと思います。だからすべての原因は、他者にあったのです。
I君の意識野には「自分」と「自分に関わること」が、すっぽり抜け落ちていたのではないかと私は思うのです。だから、決して他者にすべての責任を押しつけていたというわけではないと思います。「他者に責任を押しつけている」という表現には、押し付けている主体が隠れているので、一人ではなく、二人が想定されている表現ということになりますから。
そんなI君の内的世界に、鏡を通して「自分」と「自分に関わること」が逆流して流れ込んで来たのです。結果、自己意識が発動したのではないか。そう思えるのです。そうだと仮定すると、I君の気持ちの変化は、問題解決したからではなく、自己が捉えられるようになったから生じた結果なのではないかと考えられます。自己が客体化されたことによって、自己を操作できる位置を獲得したということです。
こんなエピソードもありました。運動会の練習で「よさこい」を練習していました。I君は、踊りを失敗をすると、いちいち落ち込みました。「僕なんか、いなくなればいいんだ」と床に突っ伏してしまうほどでした。先生は「大丈夫、I君はとても上手よ」と繰り返し褒めますが、I君は納得しません。「先生は褒めるけど、僕は失敗したじゃないか」と。
総練習を明日に控えた日の夕方。お母さんが相談に来ました。「当日、本番で失敗して泣き始めたら、全体の踊りが止まってしまいます。それを食い止める方法はないでしょうか?」。
なぜ先生に褒められても嬉しくないのか?について考えてみました。I君は、いつも先生を見て踊っています。正確にいうと先生だけを見て踊っているのだと思います。周りにいるクラスメートのことはほとんど見ていないのだと思います。だから、I君の基準は、いつも先生なのです。完璧な先生を基準にすれば、一度の失敗も許されないのは納得できます。反対に先生の視点からI君を想像してみました。先生の視野にはI君だけじゃなく、他のクラスメートが映っています。だからこそ先生は、I君が誰よりも真面目に取り組み、上手に踊れることを他の子どもとを比較することによって知っているのですが、I君は先生から見た自分というものを想像できません。ここに、両者のすれ違いが生じる原因があるのではないかと思いました。
もう一度まとめますと、I君は先生だけを見ている(自分が想像中にない)。一方、先生は、クラスメートの中の一人としてI君を見ている。見ているものが違うのです。共有しているものが違うのです。
そこで、お母さんに次のような提案をしました。先生に総練習の様子をビデオに撮ってもらい、クラスメートとI君を比較しながら、I君がちゃんとやれていることを確認してほしいと。つまり、I君が想像できない他者からみた自分の様子を、ビデオという道具を使って提供しようというアイデアです。ビデオを見ながらI君のできているところ、できていないところを家族で話し合ってもらいました。結果はうまく行きました。当日、3回失敗したのですが、落ち込んで地面に突っ伏すことなく、ニコニコと笑いながら踊り続けたそうです。
I君が苦手な想像とは、自分を想像することでした。もう少し正確に言うと、他者から見た自分を想像することのようです。雨野さんのいう想像力の欠如は、「自分というものの想像」にあるのかもしれません。