021 かんしゃくの構造
021 かんしゃくの構造
雨野カエラ
自分がどんな会話の場面で怒ってしまうか、苦しい思いをするか判ってきたら、そういう心の構造を持つからそう思ってしまうのだと、怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思えるように少しなった。病識というのは大事だ。
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齊藤コメント
感情にまつわることについて、数回に分けてお話をしたいと思います。
学生と行った研究を紹介しながら、まずは「感情を言葉にすること」の難しさついて考えてみたいと思います。対象は、アスペルガー症候群・高機能自閉症(以下、AS)と診断された成人の方々でした。映画の一場面を見てもらい、そこに登場する人物の感情を推測し、名前をつけてもらいました。小津安二郎監督の「秋刀魚の味」という映画を選びました。小津映画は、役者の表情やしぐさが非常に繊細なので、「読み取る」ための刺激として適していると思ったのです。
父と兄に呼ばれた娘・妹役の岩下志麻が、緊張した面持ちで居間に入ってくるところからシーンが始まります。その後、父と兄から聞かされた話は、彼女を動揺させるに十分な内容でした。想いを寄せている男性にすでに婚約者がいることを告げられたのです。平静を装いつつも、そのしぐさからかなり落胆していることがわかります。しかし彼女は、父と兄に心配をかけまいと、悲しさを押し隠し、明るく振舞うのでした。
この数分間の映像を、ところどころでストップさせ、その時々の感情を言語報告してもらったのです。最初は音を消して(サイレント条件)、2回目は台詞が聞こえる状態(通常条件)で観ててもらいました。
結果、AS群は定型発達者群(以下、NT群)に比べ、感情を言語化することが苦手なようでした。AS群の特徴を三つにまとめてみました。
①感情語を表出するのに長い時間がかかる。
NT群とほぼ同じような言葉を選んでいる方もいました。ただその場合でも、「うーん」と考える時間がとても長いのでした。反対にNT群は、直感的に、パッと言葉が出てきます。AS群は、感情を言語化できないわけではないのだと思いますが、スピードはかなり遅いようです。日常場面でも映画でもそうですが、人間の感情は時々刻々と変化しますので、自動的・直感的に言葉へ翻訳できなければ、追いつけません。数分の短い場面でも、感情はコロコロ変わっているのです。だから、スピードは大切な要素になってくるのです。感情をすべて言葉にできた方でも、「難しかった」との感想が多くありました。
②台詞が聞こえないと、とたんに言語化が難しくなる。
AS群にとって、台詞は相手の感情を推測するための重要な手がかりのようです。NT群の方にとっても、もちろん重要なのですが、他の手がかり(表情、しぐさ)の利用頻度と比較すると、AS群は言葉に依存する割合が高いようです。台詞が聞こえない条件で、AS群は興味深い反応を示しました。
それは、登場人物に明確な表情やしぐさがない場合に「感情がない」と判断する割合が高まったことでした。「感情がない」とはどんな状態なのか尋ねてみたところ、「プラスマイナス0の状態」「ポジティブでもネガティブでもない状態」「何も考えていないこと」「普通の状態」「感情未満」「感情といえるまで成長していない」などの答えが返ってきました。中には、「文字通り、何もない」と答える人もいました。「感情がない状態に入ると、一旦リセットされるのだ」と言った人もいました。これでは前後の流れが断ち切られてしまいます。私は、このように名前のつかない空白地帯が、シーンの中に生じることに注目しました。短い場面であっても、名前が付かない空白が生じるということは、シーンの流れが寸断されてしまうことを意味します。局所的に意味が取れても、より大きな時間枠では統合できないのかもしれないと思いました。つまり理解が断片化していくのです。
「『感情がない』ということはありえないことを知っている。けれども名前は見つからない」という方もいました。そこで「名前が見つからなければ、台詞を考えることはできますか?」とたずねると、案外多くの人が、答えることができました。しかも、NT群が答えた台詞と、内容的には大きな違いはありませんでした。でも「それを一言で表現すると?」と再度質問すると、また「うーん、難しい」と考え込んでしまうのでした。登場人物の気持ちを、台詞という形で具体的に表現できても、感情語を思い浮かべることは難しいようでした。
雨野さんは「僕の内的世界では、情と理が離れている」と表現しましたが、なるほどうなずける話です。雨野さんの言葉を、この文脈で読み替えるならば、「僕が感じていることとそれを表現する言葉の世界はリンクしていない」ということになるでしょうか。
③登場人物の急激な感情変化に混乱する。
すべての場面で、感情を言語化できたAS群の人でも、一貫したテーマの物語に統合できずに混乱する方がいました。
前半の落胆した気持ちと後半の晴れやかな表情の間の心情変化を、統一的に理解することができないというものです。NT群の方は、表面的な明るい表情に惑わされることなく、落胆・悲しみの感情が背景にあることを想定していました(表情と感情の不一致を理解していたということです)。一方ASの方は、見たままの様子に忠実に名前をつける傾向がありました。つまり、ついさっきまでは深い深い悲しみに落ち込んでいたのだけれど、突如前向きに生きて行こうと決意するという風に、まるで急激な感情の変化が生じたかのように記述したのです。私がこの点について尋ねると「悲しいはずだったのに、急に笑顔になったので、頭が混乱しました。結局、悲しかったのかうれしかったのか、分からなくなったのです」と説明してくれました。
以上のまとめは、被験者として参加してくださった方々と、実験後に語り合った内容をまとめたものです。感情を言語化できないということについて、被験者の一人(女性)と議論しました。なぜなのか?と疑問に思ったからです。当事者はどのような理由付けをするのか関心がありました。その被験者の方は次のように語ってくれました。
「私はこれまで、目の前の作業に集中するために、自分の感情を置いてきました。作業を行うことと自分の気持ちをコントロールすることは同時にできないんです。自分が本当にやりたいことか、それは自分にとって楽しいことかなど、自分の気持ちと相談していたら、目の前の作業に取り掛かることができません。だから、感情は横に置いておく癖がついてしまいました。そしてそのまま大人になったのです」。
彼女は「言語化できないのは、学習不足がその大きな原因」と言っていました。彼女は、自分の感情を他者に訴えることも、また反対に言語化してもらう経験も少なかったのだと思われます。
人間の感情は、本来個別的な経験です。原経験をそのまま他者と共有することは困難です。NTはどうでしょうか。各自の経験はそれぞれに違うのに、「楽しかったよねえ」で、互いに満足することができます。友人の「楽しかったね」が、自分の「楽しかった」という感情とどれだけ類似しているのかなどはいちいち考えません。このように考えると、感情語を用いてコミュニケーションすることは、他者と共有できる程度の曖昧なラベリングのルールを運用することなのかもしれません。
個別的な感情を正確に表現しようとすればするほど、適当な言葉が見つからないか、反対に冗長になってしまうと思います。このことから考えますと、感情語が見つからないASの人たちは、内的に起こっている自分の感情をとても正確に感じようとしている人たちのよう思えてきます。
ASはありのままの感情を感じているけれども、他者との共有は難しく個人的な経験から離れられない人たちで、NTは社会で通用可能なものに加工された感情を意識する人たちであると対比することができるかもしれません。でもNTの感情は、他者と共有できるという利点を獲得した一方で、言葉というものに強く規定された抑圧的な状況にあるとも考えられます。
彼女はまた、世間で行われているソーシャルスキルトレーニングに懐疑的でした。「私達に必要なのは、困ったときにどうしたらよいかを知ることではなく、自分が困っていることに気付き、さらにそれを他者が分かる言葉で訴えられることだ」と。どんな表現を使えば、相手に自分が期待する感情を生起させることができるのか?
この問題について彼女は「選択肢を示して欲しい」と言っていました。我々がいくつかの感情語を候補として提示することによって、彼女は「ははあ~ん、こういう状況でNTはそういう感情を予測するのか。じゃあ、その選択肢の中で私の感情に一番近いのはこれだ!」という風に推論しながら学べるというわけです。自分の感じているありのままの感情とは完全にマッチしなくても、相手の共感と支援行動を引き出す言葉を獲得する瞬間です。
ASの人たちは、感情がない人たちではありません。豊かな内的世界を持っています。NTの人が用いる感情語を知らないために、表出が妨げられている人たちなのかもしれません。この状態を打破するのは、互いがどの地点に立っているかを意識し、その距離を念頭に置きながら、たくさん語りあうことではないかと思います。
私が行った研究は、決してASの方々の能力のくぼみを明らかにしようと思ったわけではありません。重要なのは、研究によって得られたデータを互いに共有し、互いの立場から解釈を行うこと。そして、二つの解釈の違いをどのようにしたら埋められるのかを考えること。その営みの中で「関係性に根ざした支援」が生まれてくるのだと思います。