雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

024 自開ということ

024 自開ということ

雨野カエラ


 たくさんの感覚入力、ビジュアルドライブに左右されること、これらは全部自閉というより「自開」。アスペルガー症候群の人はたくさんの感覚入力をうまく取捨選択できずにいるようです。視覚優位やビジュアルドライブと言って、見た物、見た文字に左右されることも多いようです。外からの情報は正しいと思っているからそれにとても左右されます。こんな感じだから閉じている自閉ではなく「自開」です。


齊藤コメント

 「自開」とは、雨野さん固有の表現です。自分が自閉者であることを自覚したときから、「自閉」という語感に違和感を覚えていたようです。「私の取扱説明書」に描かれているような世界、つまり文脈に関連した情報と無関連な情報を等しく扱い、様々なものにフォーカスをあわせてしまう状態は(マルチフォーカス)、環境のあらゆる刺激に対して自己が開かれているからこそ生じる現象なのだ、と雨野さんは主張したいのだと思います。私は、初めて「自開」という言葉を聞いたとき、「なるほどなあ」と思いました。当事者の実感に即した理解には、当事者の語りに耳を傾けることが欠かせません。

雨野さんから観察すると定型発達者が「自閉」に見えるそうです。なぜかというと、定型発達者は、文脈に関係のない情報にフォーカスをあわせてないからです。無視されたその情報は、それでもなお存在しているのに、まるで存在しないかのようにふるまう様子を、雨野さんは「その情報に対して自らを閉じている」と考えます。

定型発達者から、アスペルガー症候群当事者を観察すると「自閉」と感じる。けれど反対に、アスペルガー症候群当事者から定型発達者を観察すると、こちらも相手を「自閉」と感じている。「自閉」という言葉は、どちらか一方のみが感じるという非対称なものではないのかもしれません。

 

「自開」ということの例を、雨野さんの文章でさらに見てみましょう。


雨野カエラ

 

 バロン・コーエンさんによると自閉圏の人たちには「心の理論」の障害があるという。他者の「心が読めない」ということらしいのだが、ではどうやって定型発達の人たちは他人の心を「読んで」いるのだろう。心が読めるようになってみようと思って心の理論について書かれている本を読んだけど、どこにもそれは書かれていなかった。定型発達の人にとって「あまりにあたりまえだから」なのだそうだ。「人の心が読める」人なんて本当にいるの?本当はわかっていないんじゃないの?だとしたら心の理論の障害って何?

 サリーとアン課題について考えてみよう。サリーはその場を離れている間、本当にアンのしたことを「見ていなかった」と言えるのだろうか。窓から見ていた可能性は?その場を離れた、あるいは外に出たという可能性は示されているが「見ていなかった」という事実は明示されていない。また、出題の前に誰の視点で物語を見るのかも明示されていない。

 サリーは見ていたかもしれないし、見ていなかったかもしれない。
 アンは見ていた。ビー玉は自分がどこにいるか知っている。
 「箱」も知っているだろう。「かご」は知らないかもしれない。
 物語を外から見る第三者にとってもビー玉の在り処は自明だ。

 ビー玉がどこにあるか判らないとしたら、確率的にはどこにあってもおかしくない。量子論的にはとても正しい。前の記述で一番確率が高いのは「箱」になる。


齊藤コメント

 量子論的には正しいというのは、「シュレーディンガー猫」のことを指しているのだと思います。専門家ではないので、解釈が間違っているかもしれないのだけれども、コメントしてみようと思います。

今、あなたの目の前に箱があります。この箱の中には、放射性原子と放射線を検出すると毒ガスを発生する機械、それと生きた猫が入っています。原子が分裂すると放射線が発生しますが、いつ分裂が始まるかはわかりません。さて、ふたをされて外部からは猫を観察できないとき、箱の中にいる猫は死んでいると思いますか、生きていると思いますか。

 量子力学おいて「原子の状態」は、観察者が観察したその時に決定されることになっていますので、観察者が箱の外から観察しているときには、猫は「生きてもいるとも言えるし、死んでもいるとも言える」というふうに、「重なり合った状態」にあると言うのです。猫の生死が決定されるのは、箱を開けて観察者が中を見たその瞬間なのです。それまでは、二つの状態が並列的に存在すると仮定されています。箱を開ける前と後では世界が違うのです。この矛盾はまだ解けていません。パラドクスのままです。雨野さんは、「観察するまで事象は決定されない」という部分に、関心を持ったのでしょう。

この理論でいうと、可能性の数だけたくさんの世界が同時に存在するということになります。「多世界解釈」というやつです。SFなどでよくモチーフにされるテーマです。雨野さんのサリーとアン課題の解釈は、多世界解釈であると言えます。

 

雨野カエラ


 定型発達の人たちは明示されていない条件を自動的に判断しているのだと思う。サリーはきっと「見ていなかった」のだろうし、その「見ていなかったサリーの視点」で「物語」を自動的に判断する。自閉圏の人たちの正解率を上げるにはそれらの条件を明示すればよいのだろうと思う。それで心の理論を得たことになるだろうか。心を読むとは何だろう。


齊藤コメント

 雨野さんからみると定型発達者は、他者の心を確率的に判断するのではく(つまり量子力学的に判断するのではなく)、決定論的な確信を持って判断しているように感じているようです。多世界解釈ではなく、一つの解釈で成り立っているような世界に見えるのかもしれません。


雨野カエラ


 心の理論が障害されている人たちはだから自分勝手にふるまうのだと思ってはいないだろうか。定型発達の人たちは自分を中心に「心の理論」を駆使している。自閉圏の人たちは「自分中心」で、そのうえ「心の理論」が壊れているのだと思ってはいないだろうか。自閉圏の人たちの視点はサリーやアンであったり第三者であったり、ビー玉であったり箱であったりかごであったりする。だからこの課題を確率的に間違うことがある。実は自分中心という視点がないのが自閉圏の人たちなのだと思う。全てが自分であり、同時に(だから)どれも自分ではないのだ。そこに中心はない。


齊藤コメント

 
物理現象においてはとても不思議なパラドクスですが、心理現象であれば「多世界解釈」はもしかしたら成り立つかもしれないと思いました(量子力学は全くの素人ですから、頓珍漢なことを言っているかもしれませんがご了承ください)。

人の心が、ある解釈に収束するのはどの時点なのか?

こんな経験はありませんか?長い間、一人で悩んでいたことが、家族や友人と対話をする中で、すとんと一つの解釈に落ちることがあります。それまで、あーでもない、こーでもないと考えられる限りの可能性と未来の状態を想定していたのにも関わらずです。

このように私たちの心には、たくさんの解釈が同時に存在しているのだと思います。相手のことを好きでもあるし嫌いでもあるといったような矛盾した感情を同時に持つことは不思議なことではありません。「やっぱり好き」もしくは「やっぱりキライ」と気持ちが決定されるのは、相手との対話・関わりを通した後です。

自分を「原子」に例えると、自分の心の状態を一つの状態に遷移させるためには、他者に観察してもらう、他者に関わってもらうことが必要なのかもしれません。