2012年3月の記事一覧
035 社会的判断における妥当性の問題について(1)
035 社会的判断における妥当性の問題について(1)
今回から、雨野さんと私で交わしたメールを掲載します。今から約8年前のものです。
From 雨野 To 齊藤 (2004年4月)
厩舎にボランティアが来た時に、
自分がイヤだったり苦手だったりする仕事は頼まないんですね。
「自分がイヤな事は人もイヤだ。人の気持ちになりなさい」と、
教育されてきたからです。
ところがボランティアさんはそれでは不満なんです。
人によってイヤとか苦手は違う、というのが
反射的に指示を出す時には自分の考えには入ってこないみたいです。
じっくり考えてもピンときてないかもしれない。
これを専門家が「他者の気持ちがわからない」というのはわかるのですが、
一般の人に「人の気持ちがわからない」といわれたら、
そうしようとしてるだけに納得できません。
三つ組みからではない、
もっと良い説明がないかなと思います。
脳科学的な検査や研究をしている機関はS市にあるのでしょうか?
From 齊藤 To 雨野 (2004年4月)
こんにちは。まだまだ寒いですね。風邪などひいてはいませんか?
僕が、雨野さんのメールを読んで考えたことは、「社会的状況の解釈の妥当性もしくは適切性を判断することの困難」ということです。雨野さんの「ピンとこない」という点が、ポイントだと思いました。
時間をかければ他者の意図を推測することは可能なのではないかと、雨野さんのメールを読むといつも思います。色々な解釈を挙げることはできるのだと思います。
しかし複数の解釈のうち、どの解釈が妥当なのか判断する段階で、立ち往生しているイメージが浮かんできたのです。どの解釈が妥当なのか、実感が伴っていないから「ピンとこない」のだと思うのです。「解釈すること」と「どの解釈を採用するのか」は機能的に区別しなければならないのではないかと思いました。
このように整理すると、他者の心を想像できないというのは、正確な表現ではないということになります。「想像できない」という表現には、前者の「解釈できない」というニュアンスのほうが強く含まれている気がするからです。
この考え方は、雨野さんの内的事実と一致しますか?
妥当性の判断において、論理だけでは結論が導き出せないものが多いと思います。妥当性を判断する心の働きを「直観」というのでしょうか。ならば「直観」とはなにか、考えなければなりません。
この点については、以前紹介したダマシオの著書「生存する脳」が一つのヒントになるかもしれないと考えています。もし読んでいたら、意見を聞かせてください。
ダマシオの考え方を借りると、理性(論理)を支える情動や身体の役割が大事だということになります。社会的な状況を読み取り、ある解釈を施す際の、妥当性の基準はどこから来るのかという話です。ダマシオの主張するように、身体からなのでしょうか?
論理的に導き出せないとするならば、一体どこから?
僕は、他者とのやり取りの中で、絶えず互いの基準を相互参照しながら、調整が行われ共有されるものなのだと考えています。日常の対人関係を振り返ってみても、いつも阿吽の呼吸で意思疎通しているわけではありません。むしろ、ズレが生まれる場合の方が多いのではないでしょうか。
人間関係において、無駄とも思えるほどの長い時間、意見等の調整に心的努力を費やすのは、この調整が簡単ではないことを証明しているのではないでしょうか。人と人のコミュニケーションにおいては、完璧な正しい解釈をして、正しい言動をしようと考えるよりも、他者の意図と自分の意図がズレているのではないかと、常にチェックする態度を維持することが大切だと思うのです。
さらにはズレたらそれでおしまいというのではなく、そのズレをどのように調整しあうのかに、コミュニケーションの醍醐味というか、面白さがあると思うのです。そういったやり取りをたくさん、他者と共有した形で経験するうちに、一般的な基準と言うものが、形成されてくる、というのが僕の考えです。そうやって他者と響きあう身体を形成していくのかもしれません。身体は、いわばコミュニケーションにおけるセンサー、アンテナということになります。
・「生存する脳-心と脳と身体の神秘-」 アントニオ・R・ダマシオ著 講談社