雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

2011年11月の記事一覧

021  かんしゃくの構造

021  かんしゃくの構造


雨野カエラ

 

 自分がどんな会話の場面で怒ってしまうか、苦しい思いをするか判ってきたら、そういう心の構造を持つからそう思ってしまうのだと、怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思えるように少しなった。病識というのは大事だ。

 

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齊藤コメント


 感情にまつわることについて、数回に分けてお話をしたいと思います。


 学生と行った研究を紹介しながら、まずは「感情を言葉にすること」の難しさついて考えてみたいと思います。対象は、アスペルガー症候群・高機能自閉症(以下、AS)と診断された成人の方々でした。映画の一場面を見てもらい、そこに登場する人物の感情を推測し、名前をつけてもらいました。小津安二郎監督の「秋刀魚の味」という映画を選びました。小津映画は、役者の表情やしぐさが非常に繊細なので、「読み取る」ための刺激として適していると思ったのです。


 父と兄に呼ばれた娘・妹役の岩下志麻が、緊張した面持ちで居間に入ってくるところからシーンが始まります。その後、父と兄から聞かされた話は、彼女を動揺させるに十分な内容でした。想いを寄せている男性にすでに婚約者がいることを告げられたのです。平静を装いつつも、そのしぐさからかなり落胆していることがわかります。しかし彼女は、父と兄に心配をかけまいと、悲しさを押し隠し、明るく振舞うのでした。

 この数分間の映像を、ところどころでストップさせ、その時々の感情を言語報告してもらったのです。最初は音を消して(サイレント条件)、2回目は台詞が聞こえる状態(通常条件)で観ててもらいました。


 結果、AS群は定型発達者群(以下、NT群)に比べ、感情を言語化することが苦手なようでした。AS群の特徴を三つにまとめてみました。


①感情語を表出するのに長い時間がかかる。
 NT群とほぼ同じような言葉を選んでいる方もいました。ただその場合でも、「うーん」と考える時間がとても長いのでした。反対にNT群は、直感的に、パッと言葉が出てきます。AS群は、感情を言語化できないわけではないのだと思いますが、スピードはかなり遅いようです。日常場面でも映画でもそうですが、人間の感情は時々刻々と変化しますので、自動的・直感的に言葉へ翻訳できなければ、追いつけません。数分の短い場面でも、感情はコロコロ変わっているのです。だから、スピードは大切な要素になってくるのです。感情をすべて言葉にできた方でも、「難しかった」との感想が多くありました。


②台詞が聞こえないと、とたんに言語化が難しくなる。
 AS群にとって、台詞は相手の感情を推測するための重要な手がかりのようです。NT群の方にとっても、もちろん重要なのですが、他の手がかり(表情、しぐさ)の利用頻度と比較すると、AS群は言葉に依存する割合が高いようです。台詞が聞こえない条件で、AS群は興味深い反応を示しました。


 それは、登場人物に明確な表情やしぐさがない場合に「感情がない」と判断する割合が高まったことでした。「感情がない」とはどんな状態なのか尋ねてみたところ、「プラスマイナス0の状態」「ポジティブでもネガティブでもない状態」「何も考えていないこと」「普通の状態」「感情未満」「感情といえるまで成長していない」などの答えが返ってきました。中には、「文字通り、何もない」と答える人もいました。「感情がない状態に入ると、一旦リセットされるのだ」と言った人もいました。これでは前後の流れが断ち切られてしまいます。私は、このように名前のつかない空白地帯が、シーンの中に生じることに注目しました。短い場面であっても、名前が付かない空白が生じるということは、シーンの流れが寸断されてしまうことを意味します。局所的に意味が取れても、より大きな時間枠では統合できないのかもしれないと思いました。つまり理解が断片化していくのです。


 「『感情がない』ということはありえないことを知っている。けれども名前は見つからない」という方もいました。そこで「名前が見つからなければ、台詞を考えることはできますか?」とたずねると、案外多くの人が、答えることができました。しかも、NT群が答えた台詞と、内容的には大きな違いはありませんでした。でも「それを一言で表現すると?」と再度質問すると、また「うーん、難しい」と考え込んでしまうのでした。登場人物の気持ちを、台詞という形で具体的に表現できても、感情語を思い浮かべることは難しいようでした。


 雨野さんは「僕の内的世界では、情と理が離れている」と表現しましたが、なるほどうなずける話です。雨野さんの言葉を、この文脈で読み替えるならば、「僕が感じていることとそれを表現する言葉の世界はリンクしていない」ということになるでしょうか。


③登場人物の急激な感情変化に混乱する。
 すべての場面で、感情を言語化できたAS群の人でも、一貫したテーマの物語に統合できずに混乱する方がいました。


 前半の落胆した気持ちと後半の晴れやかな表情の間の心情変化を、統一的に理解することができないというものです。NT群の方は、表面的な明るい表情に惑わされることなく、落胆・悲しみの感情が背景にあることを想定していました(表情と感情の不一致を理解していたということです)。一方ASの方は、見たままの様子に忠実に名前をつける傾向がありました。つまり、ついさっきまでは深い深い悲しみに落ち込んでいたのだけれど、突如前向きに生きて行こうと決意するという風に、まるで急激な感情の変化が生じたかのように記述したのです。私がこの点について尋ねると「悲しいはずだったのに、急に笑顔になったので、頭が混乱しました。結局、悲しかったのかうれしかったのか、分からなくなったのです」と説明してくれました。


 以上のまとめは、被験者として参加してくださった方々と、実験後に語り合った内容をまとめたものです。感情を言語化できないということについて、被験者の一人(女性)と議論しました。なぜなのか?と疑問に思ったからです。当事者はどのような理由付けをするのか関心がありました。その被験者の方は次のように語ってくれました。

 「私はこれまで、目の前の作業に集中するために、自分の感情を置いてきました。作業を行うことと自分の気持ちをコントロールすることは同時にできないんです。自分が本当にやりたいことか、それは自分にとって楽しいことかなど、自分の気持ちと相談していたら、目の前の作業に取り掛かることができません。だから、感情は横に置いておく癖がついてしまいました。そしてそのまま大人になったのです」。


 彼女は「言語化できないのは、学習不足がその大きな原因」と言っていました。彼女は、自分の感情を他者に訴えることも、また反対に言語化してもらう経験も少なかったのだと思われます。

 
 人間の感情は、本来個別的な経験です。原経験をそのまま他者と共有することは困難です。NTはどうでしょうか。各自の経験はそれぞれに違うのに、「楽しかったよねえ」で、互いに満足することができます。友人の「楽しかったね」が、自分の「楽しかった」という感情とどれだけ類似しているのかなどはいちいち考えません。このように考えると、感情語を用いてコミュニケーションすることは、他者と共有できる程度の曖昧なラベリングのルールを運用することなのかもしれません。


 個別的な感情を正確に表現しようとすればするほど、適当な言葉が見つからないか、反対に冗長になってしまうと思います。このことから考えますと、感情語が見つからないASの人たちは、内的に起こっている自分の感情をとても正確に感じようとしている人たちのよう思えてきます。


 ASはありのままの感情を感じているけれども、他者との共有は難しく個人的な経験から離れられない人たちで、NTは社会で通用可能なものに加工された感情を意識する人たちであると対比することができるかもしれません。でもNTの感情は、他者と共有できるという利点を獲得した一方で、言葉というものに強く規定された抑圧的な状況にあるとも考えられます。


 彼女はまた、世間で行われているソーシャルスキルトレーニングに懐疑的でした。「私達に必要なのは、困ったときにどうしたらよいかを知ることではなく、自分が困っていることに気付き、さらにそれを他者が分かる言葉で訴えられることだ」と。どんな表現を使えば、相手に自分が期待する感情を生起させることができるのか?

 この問題について彼女は「選択肢を示して欲しい」と言っていました。我々がいくつかの感情語を候補として提示することによって、彼女は「ははあ~ん、こういう状況でNTはそういう感情を予測するのか。じゃあ、その選択肢の中で私の感情に一番近いのはこれだ!」という風に推論しながら学べるというわけです。自分の感じているありのままの感情とは完全にマッチしなくても、相手の共感と支援行動を引き出す言葉を獲得する瞬間です。


 ASの人たちは、感情がない人たちではありません。豊かな内的世界を持っています。NTの人が用いる感情語を知らないために、表出が妨げられている人たちなのかもしれません。この状態を打破するのは、互いがどの地点に立っているかを意識し、その距離を念頭に置きながら、たくさん語りあうことではないかと思います。


 私が行った研究は、決してASの方々の能力のくぼみを明らかにしようと思ったわけではありません。重要なのは、研究によって得られたデータを互いに共有し、互いの立場から解釈を行うこと。そして、二つの解釈の違いをどのようにしたら埋められるのかを考えること。その営みの中で「関係性に根ざした支援」が生まれてくるのだと思います。

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020 私の取扱説明書③

020 私の取扱説明書③


雨野カエラ


 教室の後ろで「がしゃーん!」と音がしたら、みんな一斉に振り返るだろうと思います。その時に何か考えていますか?反射的に思わず、とか「何かと思って・・・」とか?


 私は振り返りません。音がした。誰かが筆入れを落としたのだろう。位置と方位と音の感じから、そそっかしいXX君が落としたのかも。確認したところで何かが変わるわけでもない。板書をつづけます。


 気が付くと先生は話をやめ、クラス全員が振り返っています。みんなが見ているので仕方なく後ろを振り返ってみることもあります。地球人は非効率的で非論理的です、艦長。


 でも、人に関心がないわけではありません。XX君がそそっかしい事も知っています。筆入れが汚れたり壊れたりしてXX君が困ったりしないだろうか、とも思っています。みんなが後ろを見ていたら見る事もできます。それまでにたくさんの事を考えているので、パッと振り返る事ができないだけです。できないのはイカンといわれるとつらいなあ。


 「がしゃーん」と音がするのはカンペンの時代だからですよん。


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齊藤コメント

 サリーとアン課題について、雨野さんと議論したことがありました。「最後に、『サリーはどこを探すでしょうか』と質問されて、『えーっ!』と思いました。なぜなら、僕は隠されたボールの視点で物語を見ていたので」。


 雨野さんは「サリーとアン課題には、五つの視点がある」と言います。サリーとアン。そして、ボールとバスケットと箱の三つを合わせて五つです。事前に、物語を見る視点が示されていなければ、選択は自由なのではないか、と雨野さんは思っています。確かにそうです。

 しかしおそらく、定型発達児の多くは、誰に指定されなくても、サリーやアン(つまり人間)に視点を置くと予想されます。この違いはどこからくるのでしょうか?


 雨野さんは「サリーはどこを探すでしょうか?」と質問されて初めて、「ああ、これはサリーの物語なんだな」と気が付きました。そして雨野さんは、サリーの視点で物語見るために、頭の中でもう一度、観た映像を再生したのだそうです。ビデオみたいにです。時間はかかりましたが、結果は正答でした。


 再生するためには、大容量の記憶と高いイメージの操作性が必要です。雨野さんにはそれが可能でした。しかし映像を再生に失敗すれば、そこでアウトです。もしかしたら「サリーの視点で見てね」とあらかじめ伝えておけば、通過率は少し上がるかもしれませんね。


 さて、このエピソードを紹介したのは、次のことを押さえておきたいからです。


 「自閉症者の同一視は、人のみならず、環境に含まれる他の対象にも等確率で行われる可能性が高い」


 別のエピソードを紹介しましょう。小学1年生のアスペルガー症候群の男の子、D君です(知能は平均の上。言語性が特に高いお子さんでした)。ある日一枚の絵を見て、お話を作ってもらう課題を行いました。その絵は「自転車の前輪が外れて立ち往生している少年が、遠くからやってくる自動車に助けを求めるために、帽子を高く掲げて合図を出している」という内容でした。


 D君のお話は「(帽子を)手に持ってる。タイヤ、一個とれてる。こっちに車、来ている。おしまい」でした。絵の中の要点(帽子、前輪、車)には、ちゃんと注目していました。しかし、それらがつながって一つの物語に昇華せず、バラバラな記述で留まっています。


 「もう少しお話してよ」と私が頼むと、とても面倒そうに「もう話はないよ。全部話した」と言いました。しつこく頼んだところ、しぶしぶ承諾してくれました。


 「木、草、石。おしまい」

 あまりのシンプルな記述に、私はむしろ感動しました(笑)。物語に関連する三つの要点(帽子、前輪、車)に触れておきながら、次に「木、草、石」と来るとは予想していなかったからです。物語へと統合するのではなく、より局部的な記述への傾向性が強まっている点が興味深いと思いました。通常であれば「自閉症者は情報の統合困難を持つために生じた発話である」という解釈が当てはめられるのでしょうが、私はどうもそれだけではない気がしました。


 そこで、翌週、再び課題を行うことにしました。しかし、今度は一工夫しました。絵の中の少年の背中に、D君の名前を書き込んでおいたのです。最初、D君は「これ先週やったやつだ。もう、やだー」と言っていたのですが、そのうち自分の名前が書き込まれていることに気付きました。「あれ、僕の名前だ」と言いながら、じっと絵を見つめ始めたのです。数秒後、私は「D君さ、この男の子はなんて言ってると思う?台詞を考えてみて」と尋ねると、いとも簡単そうに「『助けてー』って言ってるに決まっているだろ」と答えてくれました。ちゃんと統合できるんです。ただし条件つきで。


 D君のエピソードは雨野さんのエピソードに通じていると思うのです。D君ははじめ、絵をどの視点で見てよいか決められなかったに違いありません。だから、絵の中に含まれるものを、もれなく均等に記述しようとしたのだと思います。しかし、二回目は違いました。背中に自分の名前が書かれているわけですから、自然に「少年の視点」が採択されました(=「自分の視点」と重なるためです)。その結果、ばらばらな情報が統合されるに至ったのだと推測しました。


 カンペンのエピソードで、雨野さんは、XX君の視点ではなく、カンペンの視点に立っていたのかもしれません。もしかしたら、情景をカメラで引いたときのように(パンフォーカスのような)、個別の対象に視点を焦点化させずに、環境全体に注意を払っていたのかもしれません。


 クラスメートや担任の先生はきっと、XX君の視点で事態を把握したのだと思います。XX君の視点で事態を把握するということは、XX君が感じたであろう驚きや恥ずかしさや困った気持ちが、一瞬にして自分の内部に伝播することを意味します。見るか見ないか迷っている暇もないほどに、思わずXX君の心理状態への同調が生じるのです。だから、まるで自分がカンペンを落としてしまったかのような錯覚のうちに、自分の姿を確認するようにXX君を見て、納得したくなるのです。


 一方雨野さんは、XX君の視点に個別に焦点化していなかったと考えると、この一瞬の伝播が生じなかったと思われます。だからこそ、クラスメートとは反対に、冷静に状況を分析することができていたのだと思います。

 雨野さんから見れば、定型発達者の行動が、非効率的・非論理的に見えるのは最もだと思います。授業のほうが大事、と板書を続ける雨野さんの行動は、授業中という文脈においては大変合理的な行動からです。普段は、私語をして先生の話を聞いていないと叱られるのに、カンペンを落とした人を振り返って見る場合は、誰にも注意されない。よく考えると不思議です。おそらく雨野さんには、この二つの事態の間の線引きがどこにあるのか推論するのが難しいでしょう。

 視点の選択の仕方には、その人が生きるための指針のようなものが含まれていると思います。我々は生きるのに必要な情報を、常に環境から取り込んでいるわけです。だとすると、その個人が生きる上で大切だと思うものに真っ先に関心を示すはずです。たとえ雨野さんが人間ではない他の対象に関心を示したとしても、きっとその対象を見なければならない切実な理由があるはずなのです。


 同一視する対象の選び方、または距離のとり方は、人それぞれなのだと思います。コミュニケーションをするときは、相手の視点がどこにあるのか、確認することが大事だと思います。自分の視点取りと違からといって、他者を否定するような行動はなるべく慎みたいと思います。常に視点の違いを想定し、視点の相違が明らかになった場合は、冷静に話し合う態度を持つことを心がけたいですね。個性の尊重とは、そういうことだと思います。

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019 私の取扱説明書②

019 私の取扱説明書②


雨野カエラ

 視覚、聴覚、味、匂い、触覚だけが入力情報ではありません。言葉、暑い寒い、痛み、姿勢、頭や腕や足の位置、疲れ、体のなかの痛み・・・。これらの情報の重要度を自動的に振り分けることも不得意なようです。不要な情報がたくさん入ってきたり、見落とす情報が多かったりします。やたらと疲れやすいのに、疲労に気付かないで行動しフラフラになります。


 出力も混乱します。急に不器用になったり、体が動かなくなったり、言葉がでなかったり。話に集中すると姿勢を保つことが困難になったりします。頭が支えきれなくなることもあります。やたらと冷えたり、肩や首が固まったりするのもそのアンバランスのせいでしょうか。物が持てなくなる感じ、ビックリハウス並のめまい、などとても不快です。もともと何かに取り組むまでに多くの段取りが必要なのに、いざ実際に体を動かそうとすると、このような困難に襲われることがあります。


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齊藤コメント
 
 ある暑い夏の日の勉強会。学内の会議ですっかり遅刻していた私は、焦っていました。雨野さんが待つ部屋のドアを勢いよく開けて「こんにちは。遅くなり、すいません。今日は暑いですね」と矢継ぎ早に言葉を繰り出しました。そして、席に座りました。


 雨野さんは目を閉じたまま、考えはじめたようです。私は「何を話そうか考えてるんだな」と思ったので、待つことにしました。それから5分ほど経っても雨野さんはそのままでしたので、私は時間つぶしに論文を読むことにしました。時々、雨野さんに目を向けてみましたが、変化はありませんでした。私は、だんだんと論文に集中し始めました。


 ふっと気がつくと、30分経過していました。そろそろディスカッションを始めようと思い「今日は何から話し始めましょうか。この30分間何をかんがえていたのですか?」と話しかけました、すると雨野さんは次のように答えました。


 「まず齊藤先生が突然入ってきてびっくりしました。先生の言ったことが聞き取れなかったので、頭の中で何度も再生してみました。10分くらい考えてようやく『今日は暑いですね』と言ったのだと分かりました。しかし、僕は暑くなかったので、どのように返答しようか迷ったのです。もし『僕は暑くありません』と答えると失礼になってしまいます。反対に『暑いですね』と答えると嘘になってしまいます。齊藤先生に『本当に暑い?』と聞き返される場合のことを考えてみましたが、なんと答えたらよいか余計に分からなくなりました。頭の中では、挨拶なのだから、相手と同じことを言えば良いのは分かっているのですが、なかなかそれができません。だから他に良い答え方がないだろうか?と考えていました」。


 私は30分間ひたすら考えていた、という事実にただ驚きました。雨野さんは、一生懸命に考えていたので、30分など、一瞬のことだったと思います。

 自分の声かけの仕方について考えました。雨野さんの思考を立ち止まらせてしまったのは明らかに、私の問いかけにあったからです。いつもなら、私は意識的にゆっくりと話すことを心がけていたのですが、この日は、焦っている自分に気付くことができず、冷静な対応が頭からすっぽりと抜け落ちてしまったのです(前回述べた満員電車のイメージはこのときできました)。


 このことについて、我々は議論しました。雨野さんは次のように解説してくれました。




キャスティングの失敗


 選択        → 保持 → 処理
 キャスティング   → 舞台 → 演出


*「舞台の大きさ=ワーキングメモリーの容量」として考える。
*キャスティングは、意識的コントロールの外と仮定。


 キャスティングディレクターの不在は感覚入力や思い付いた思考が選択なしに次々に舞台に上がろうとする状態です。


 絶対的な舞台の大きさがどうでも、キャスティングの問題があって舞台が窮屈なら相対的に舞台は小さくなります。一方、キャスティングに問題がなくても舞台が小さければやはり舞台は混雑します。


 キャスティングの問題がAS。
 舞台の(大きさの)問題がLD。




 「選択→保持→処理」は、情報処理過程のことをさしているのだと思います。一方「キャスティング→舞台→演出」は、情報処理過程をよりイメージできるように、舞台演出過程にパラフレーズしたものです。


 自閉症者は、心内にキャスティングを担当する者がいないのではないか?というのが雨野さんの仮説です。だから、いろんな俳優や台本や道具が舞台にどんどんと上がりこむ事態になります。放っておくと舞台はすぐに、俳優と台本と道具でぎゅうぎゅう詰めになってしまいます。


 舞台がいくら広くても(つまり記憶容量が大きくても)、俳優や台本や道具であふれかえってしまうのなら、結果的には、舞台がはじめから小さい人と現象的には同じ状況に陥ってしまうのです。つまり混雑してしまうということです。雨野さんは、舞台が生まれつき小さい人=学習障害の人と想定しているようです。


 しかし現象的には同じに見えても、困難を抱えている段階は違うのではないかと考えるところが、雨野さんの洞察の深いところです。自閉症者は、学習障害者に比べて、よりプリミティブな段階で困難を抱えていると感じているようでした。


 確かに支援の方法を考えると、雨野さんの仮説には一理あると思います。自閉症者にはまず、情報過多の状態からの情報の選別・区別が重要ですが(むしろそこを丁寧に支援すると後の段階はスムーズにいくのではないでしょうか)、学習障害者には情報の数の調節が重要だと私も思うからです。自閉症者は情報の質の問題を抱える人、学習障害者は情報の量の問題を抱える人と対比できそうです(あえて対比すればの話です)。

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018 私の取扱説明書①

018 私の取扱説明書①


雨野カエラ


 喫茶店で誰かと話をする時に大変さを感じますか?私は喫茶店に入ったとたん声を出す事もできなくなってしまうことがあります。目の前に座っている「あなた」のお話に集中できればいいのですが、

         照明             換気扇
 隣席の人の様子や声   タバコのにおい    窓の外、隣のビル
    ずっと向こうの席の人の身ぶり手ぶり   壁の絵
     ウェイトレスの動き          厨房の音と匂い
                床の模様      

などを見たり感じたりして、それをシャットアウトしながらあなたのお話にフォーカスを合わせる事が難しいことがあります。隣の人の声が大きかったらそれだけでめまいを感じるくらいの情報過多です。


 もし、うまく集中できたとしても、あなたは


        声のトーンを調節したり、表情を変えたり
        ゼスチャーを使ったり、髪の毛を触ったり
       珈琲を飲んだり、カップをカチャリと置いたり


 たくさんの情報を発信しています。それらには重要な意味があったり何の意味もなかったりするのでしょう。お話をうまく聞く事ができて、そこから文字にできる情報を抽出しても、そこには比喩や隠喩やいわずもがなの常識が含まれていて「文字どおり」ではありません。こうして多すぎる入力情報を処理している間に、話題は移り変わっていきます。


 私が何か言おうとする前には、文章や言い回しを推敲し、表情や身ぶりを考え、声の大きさと抑揚をコントロールし、隣席の人とウェイトレスの様子や位置を視野にいれて話しだします。しかし、話し出したときには本当に言いたかったことからはかけ離れています。不自然さを感じさせてしまうかもしれません。実のある話もできないまま店を出る時間になります。あまり喋らなかったのにぐったりと疲れています。


 たくさんの入力をカットする事は難しいので、その中にいても話を理解するために、わかりやすい話を少しずつしてください。目をつぶったり、目線をそらしたりするのは入力情報を減らして、あなたのお話に少しでも集中するためです。私が自然に話をするためにはありのままの自分を見せられること、意識的に自分をコントロールしなくてもいい状況が必要かもしれません。普段から自閉的でも許してもらえるといいなあ。その方がお互いのコミュニケーションが成功すると思う。
 
 こんなことで大変さや、疲労をかなり感じたりしています。


 ちなみに、隣の人の話しが自分に聞こえているということは、隣の人にも自分の声が聞こえているに違いないと私は思っています。


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齊藤コメント


 雨野さんが、私と対話を始めたのは、自分の特性を知るためでした。私を他者として対置することによって、自分の思考を相対化していったのです。


 記憶が定かではないのですが、議論を始めて1年くらいたった頃でしょうか、
雨野さんから以下のメールが届きました。


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・会話中に意識しているもの
  1:先生の話(文字にできる情報)
  2:表情
  3:身振り
  4:声色 
  5:前回の話
  6:今日のテーマ
  7:互いの関係
  8:壁の色
  9:空調
 10:本棚の本からの情報
 11:相手の立場に立つ
 12:人の気持ちを考える      など


 普通はいらない物を除き、重点を置く物を選び、ひとまとめの情報として判断する(個々の矛盾は無視される)。


 自分は個々の情報を個別に判定する。いらない情報について考えたり、数が多すぎて見落とす情報もある(全体の印象にはとらわれない)。


 ここまで書いてみて、普通の人は最初から一つの場面を10個に分けることがないのだと思いました。最初から情報が多すぎるのだから自閉症者には順序立てて整理された情報を渡すと理解しやすい。一つ一つの判断を間違うわけではないから。


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  どうやら、私との会話をきっかけにして、[自分の認知]を意識したようです。雨野さんは「齊藤先生は、壁の色や空調や本棚の本について話をしない。なぜだろう?聴こえたり、見えたりしているのだろうけれど、ただ話題としては触れないだけなのだろうか?」と疑問に思ったのだそうです。
 
 しかし何度も私と対話を重ねるうちに、一つの仮説が浮かび上がります。「会話に関係する以外のものは、齊藤先生には意識されていないのではないか?」という仮説が。自分が情報過多な世界に住んでいることを、自覚した瞬間です。


 雨野さんのメールには、12個の話題が書かれていますが、「など」がついていますので、細かいことを言えば、本当はまだまだあるのでしょう。進行中の会話とは関係のないたくさんの刺激、話題が、意識に氾濫していると想定すると、何気ない会話すら難しいのだ、という雨野さんの告白は十分了解できると思います。


 雨野さんは最初、私のことを「なんて頭の回転の速い人だろうと思った」そうです。なぜなら、齊藤もまた情報過多な世界に住んでいると思っていましたから、何を質問してもすぐに答えを返してくる私の計算能力に感心したのです。でも事実は違いますね。私の返答が雨野さんに比べて速かったのは、会話に関係するもの以外、意識に乗せていないからです。はじめから選択肢(情報のリソース)が絞り込まれていますから、そもそも計算が少なくて済むだけの話なのです。


 一方、雨野さんは、私よりもはるかに膨大な選択肢(情報リソース)の中から、必要な情報と不必要な情報を判断し分別しなければなりません。必要な情報が選別された後になってやっと、情報をつなぎ合わせ、意味を考えることができるのでうすが、ここまでくるには大変な時間がかかってしまいます。この作業を、会話中、切れ目なく行わなければならないとしたら、とても集中力を必要としますね。最後に書かれている「分かりやすい話を少しずつ」というのは、本当に切実な願いなのだと思います。


 雨野さんに話しかけるときの私のイメージを紹介します。雨野さんをほぼ満員電車の車両だと見立てるのです。ホームで待っているお客さんは、僕が次に伝えたい言葉に相当します。お客さんはどんどんと乗り込もうとしますが(どんどん話しかけたくなりますが)、一度に入り口に押しかけると、かえって混乱し乗り込むまでの時間がかかるだけでなく(思考的混乱)、ケガをする人が出るかもしれません(パニック)。危険なので、いっぺんに乗り込まないように一時ストップさせるのです(相手が理解するまで待つのです)。そして私は一呼吸置いて、車両の中の人に聞くのです。「まだ隙間はありますか?あるのならゆっくりで良いので詰めてください。詰め終わったら教えてください。合図の後、ホームにいるお客さんを少しだけ入れてみますね」。もし中のお客さんが「もう隙間はないぞー」とか「隙間を作るにはまだまだ時間がかかるぞー」と言われたときは、次の電車を待つことにします(つまりは、次回会ったときに話すのです)。安全運転が第一ですから。


 ちなみに私が待った時間の最長記録は30分でした。とてもしんどかった記憶があります。定型発達者って、待つの苦手ですよね。

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