雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

2011年9月の記事一覧

012 具象と抽象~認知のメッシュ~

012 具象と抽象~認知のメッシュ~


雨野カエラ


 抽象的な事を言いたいのに、具象でしか言い表わせないことがあります。何か困っている?と聞かれて具体的な事で答えるのですが、実は困っているのはその一点だけでなく「その事に代表されるような」もっと大変な事だったりします。なんだ、そんなことかと思ってもその裏にある表現できない問題を汲み取る必要があります。


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齊藤コメント

 今から十数年前、アスペルガー症候群の年長児、C君に知能検査を実施しました。この検査の中に「類似」という検査がありました。二つの単語の似ているところを答えるというものです。C君は、一問も正答しませんでした。語彙は豊富ですし、記憶力も抜群であるにもかかわらずです。例えば、水族館に行くと学名まで丸暗記してくるくらいです。そんなC君がどうして、0点なのか不思議ですね。その理由はどの問題においても、C君は「全然似ていない」と強く主張したためでした。

 標準化された検査ですから、実際の問題をここに書き記すわけにはいきませんので、例を挙げて説明します。例えばこんな問題です。「松田聖子と小泉今日子はどこが似ている?」(すいません、キョンキョンのファンなのです)。答えは「アイドル!」ですね。しかし、C君は違いました。C君の答え方を真似てみると次のようになります。「その二人は似ていません。顔も違いますし年齢も違います。出身地も違いますし、身長や体重も違います。ヒット曲も違います。だから、全然似ていません」という具合でした。

 C君とは、スリーヒントクイズをよくやっていました。絵カードを私の額に掲げます。私は、絵カードの絵を見ることはできません。絵はC君の位置からしか見えません。ヒントを出すのはC君です。絵の見えない私に、三つ以内のヒントで当てさせる、というゲームです。あるとき、私は「エビ」のカードを引きました。

 (机の上にあるカードの山から一枚引いて)

私 「よし、C君、ヒント出して」

C君「うーんとね、(絵を指差しながら)ここに線が三本。ここには線が二本。そしてここはね、シューッとなってる」(自信満々な態度で私の反応を待っている)

私 「ここってどこ?線が何本って言われてもわかんないよ」

C君「えー、どうしてわかんないの。だから、こ・こ・の線が三本なの!そして、ここが二本なの!わかった?」

私  「ぜんっぜん、わかりません!」

C君「もー、どうしてわかんないの。イライラするなあ」

私 「じゃあさ、これは生き物?生き物じゃない?」

C君「生きものに決まってるだろ」

私 「どこに住んでるの?」

C君「海」

私 「なるほどね。じゃあもう一つ質問。何の仲間?」

C君「甲殻類」

 最初に出てきたヒントは、見たものをそのまま叙述しているものでした。言わば究極の具象的表現です。しかし一方で「甲殻類」という高度な抽象語を正しく使用することもできるのです。ここが興味深いですね。C君の心の中にある概念地図は、具象と抽象の混沌ですね、(もちろん他者視点取得の問題も含まれていますが、今回のテーマではないので触れないでおきます)。

 C君は、ふざけていたわけではありません。真剣にヒントを考えてくれていました。真剣に説明しようとすればするほど、書かれているとおりのことをそのまま叙述しようとする、このようなC君の態度は、雨野さんの困ったことを具象でしか言い表せないというのと類似してるなあと思いました。


 ちなみにこのゲームは3ヶ月ほど続けましたが、いつも第一ヒントは視覚情報に関する叙述からはじまりました。しばらくすると、第二ヒントや第三ヒントで、抽象的なタームを用いるようにはなりました。しかし、最後まで優先順位そのものが変化するには至りませんでした(つまり「具体的な視覚情報→抽象語、カテゴリー語」の状態から、「抽象語、カテゴリー語→具体的な視覚情報」へと変化すること)。


 そして、彼が二年生のときに、再度、知能検査を行ったところ、「類似」の評価点は13点に跳ね上がりました。教育の効果が大きかったのだと思います。カテゴリーのルールを知識として学んだことによって、概念の再構成が行われたのでしょう。


 C君の説明は、とても肌理が細かいのです。まるで微細な部分までもがくっきり見えてしまう映像のようです。雨野さんはこのことを「アスペルガーは、認知のメッシュが細かい」と表現していました。パタン認知やカテゴリー化にとって重要度の低い情報であっても、見える人にとっては、対象を構成する重要な要素として捉らえている可能性があると思います。


 認知のメッシュというアイデアに関して、雨野さんは自身の聴覚経験を例に次のように説明してくれました。「僕は、他者の言葉が聞き取りにくいことがあります。音声の波形で言えば、細かい波までもが聞こえている感じです。だから、音声の全体的な雰囲気をつかみきれないで、相手が何と言ったのか分からなくなるのです」。聴力の問題ではなく、パタン認知における適切な感度の問題ですね。認知のメッシュが細かければ細かいほど(感度が高ければ高いほど)、パタン認知やカテゴリー化が難しいということを示しています。


 「風邪などを引いて体調が悪いときは、聴覚刺激への過敏性が低くなる気がします。環境のノイズ音が、あんまり気にならなくなるからです。そういう時の言葉の聞き取りはいくらか楽な気がします。また、子どものときに比べると、今のほうが過敏性は低下していると思います(このとき30歳代半ば)」。体調の低下や加齢によって感覚の閾値が上がると、ノイズ音が程よくフィルタリングされるのかもしれません。


 でもそのような変化を雨野さんは喜んでいる風でもなく「やっぱり、アスペルガーでいるときが楽しいです(感度の高い知覚を経験できること)。感覚が低下すると、あんまり面白くありません」などと言っていました。


 肌理の細かい「認知のメッシュ」は、物事を正確に経験することを可能にしますが、他の経験との弁別性を低くしてしまいます。全く同じ経験というものは存在しないからです。一回一回の経験が独立しているとも言えます。しかし、抽象とかパタン認知、カテゴリー化などの心理機能は、諸経験に共通する不変要素を見つけ出すことに等しいわけです。アスペルガー症候群の「一回性の経験」は、不変要素の抽出とは別の方向に導いていくことになります。具象でしか語れないということはそういうことなのではないかと思いました。

 
 つまり自閉性障害においては、感覚の感度の高さ(過敏性?)とカテゴリー的思考は反比例の関係にあるのではないか、というお話でした。
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011 自閉症者は人の心が読めない?

011 自閉症者は人の心が読めない?

雨野カエラ


 自閉症者は人の心が読めないとしたら、非自閉症者は人の心が読めるというのだろうか。人の心が読めないと指摘をすることはあっても、心の読み方を教えてもらえないのはなぜなのだろうか。「心」とは何かということを、非自閉者はよく分かっているのだろうか。


 心は自分と相手との間に浮かぶハートだと思う。自分が相手との間に感じるもの。自閉者は自分と同じような心を相手も持っていると思う。同じような心だから自分の考えたことを相手も考えている、と思う。相手の考えたことを自分も考えていると思う。自分と物の間にも、自分と動物の間にも、心を感じることができる。非自閉者は自分と同じ心を持っていないから自閉者には心がない、と思っていないだろうか。


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齊藤コメント
 
 「我々アスペルガー症候群児・者は、心の理論の発達が遅れていると言われます。それは認めます。ではなぜ心の理論を持つ定型発達者は、我々が困っていることを理解できないのでしょうか」。定型発達者の持つ心の理論が、定型発達者にしか適用できないものだとしたら、その理論は普遍的なものではなく、相対的・限定的な意味合いを帯びることになります。


 雨野さんは、アスペルガー症候群にも心の理論はあるのだけれども、その理論を持つ人は少ないため、意思疎通の不都合が生じる。定型発達者は自分の心の理論が普遍的だと考えているので、意思疎通できない者を「心の理論がない」と判断するのだ、と考えているようです。


 私は、雨野さんに質問しました。「では、アスペルガー症候群同士ならば意思疎通は容易なのでしょうか」。すると「それは難しいと思います。一人一人が独自の理論を立てているので、共通点が少ないことのほうが多いと思います」と答えました。「宇宙の中の星と星との間くらい離れている」と笑いながら言っていました。「出会うこと自体少ないのだ」と。


 成人当事者のグループに参加した時のことです。進行役のセラピストの方は「はじめのうちは、会話が続かなくて大変でした。皆さん、他の人の話はきちんと聞いているのですが、共通の関心を持つ者同士で、質問したり、話題を提供することがほとんどなかったからです。進行役は、関連する事柄を見つけて、さりげなくつなげることに集中しなければなりませんでした」。


 数ヵ月後、久しぶりにそのグループを見学しました。以前のように、一人しゃべっては沈黙の繰り返しではなく、誰かがコメントを返すようになっていました。さらにその数ヵ月後には、和気藹々と楽しそうに世間話をする姿が見え始めました。そして2年後。近況を聞いたり、感想を言い合ったり、冗談を言ったり、とても自然な会話が繰り広げられるようになりました。表情もリラックスしていました。ゆっくりですが、確実な変化がそこにはありました。その様子を初めて見た人は、きっと当事者のグループとはすぐには気付かなかったでしょう。自閉症だから会話ができないのではありません。またする気がないのでもありません。おそらく彼らは、他者とつなぎ合わせてくれる人にめぐり会えなかったために、「一人」の世界に住まわざるを得なかったのだと思います。自閉症は一人が好きなのだからそっとそっとしておいてあげてと力説する専門家がいますが、彼らの姿をみていると、そうとばかりは言えないなあ、と思います。確かに一人の時間を、苦もなく過ごせる人はたくさんいます。でも、本当に孤独を愛しているわけではありません。孤独が好きならば、グループには通ってこないでしょうし、ましてや世間話を楽しむわけがないからです。


 私は、一人で暗く沈んでいる姿が自閉症の姿だと、それまで勘違いしたことに気付きました。彼らにも人を求める気持ちが、我々と同じようにあるのです。そして、長い時間はかかるけれど、互いに心を通い合わせた後は、明るくて社交的な側面を垣間見ることができるのです(積極奇異としてではなく)。


 さて、自閉症とはいったいなんなのでしょうか?確かに、彼らの感覚経験は私とは違うようですし、思考プロセスも興味深いと思うことは多々あります。しかし、丁寧に話し合うと、それらのことは互いを分ける溝ではなく、単なる違いとして了解が可能なことが多いように思えます。「そういう人なんだなあ」と一旦思ってしまうと、「自閉症ってなんなのだろう」と迷うことがしばしばあるのでした。


 アスペルガー症候群と診断されたお母さんと育児相談を定期的に行っています。そのお母さんも子育ての中で、子どもの反応が予想とあまりに違うことに直面し、それまでの自分の価値観を振り替えることが多くなりました。子どもの行動がうまく理解できなくてイライラしたともありましたが、徐々に理解を深め、それに伴ってお母さんの価値観も変容していきました。そんなある日、私と同じような問題意識を持っていたことが分かり、その話で盛り上がりました。「最近、自閉症ってなんのかって考えるんだよね。友達にもアスペルガーのお母さんがいてね。その人は『自分はアスペルガーだから、~できない』って言い方をする。でもそういう人って結局、変われないと思う。私だってずっと苦労してきたよ。でもね、子ども育てるためには、好き嫌いにかかわらず、求まられたように振舞わなきゃだめなのさ。キャラを作っちゃえば楽なのに。要はね、自閉症かどうかよりも、(自分に求められていることを)受け入れるかどうかが大事なのさ」。
 
 心の理論とは、自然発生的に生じる心の作用ではなく、他者とのコミュニケーションを積み重ねることによって、徐々に作り上げるものなのだと思います。

 先ほどの当事者のグループでも、セラピストという第三者の力を借りて、自分の発言と他者の発言が丁寧に結び合わされるという経験を通して、自分と他者の関係性について気付くようになったのです。自分が相手に求めること、そして相手から求められていることを。そしてそのような関係性についての理解が深まるに従い、自然な会話ができるようになったのです。自己と他者の同型性が前提となれば「相手は何が好きなんだろう?」「これを言ったら怒るかな?」などの推論過程が必要なくなるので、思ったことを意識の検閲なしに話すことができるからです。


 雨野さんのいう「心は自分と相手との間に浮かぶハートだと思う」は、このことを言い当てているのだと思います。以前に「社会性とは、自分と他者が似ていると思えることである」と述べていましたが、雨野さんは、この定義に従い(操作的定義)、人間以外のものにも、つまり同型性を感じ取れるものであれば、その対象と心を通い合わせることが可能であると考えているようです。


 しかしながら、一人一人の人間の持つ自由度の高さゆえ、共通の理論、規範を維持するには、我々は常にコミュニケーションをし、情報を更新し続けなくてはなりません。他者はいつも観察しなければならない対象なのです。したがって、人間に関する理論は、常に暫定的なものであり、普遍的な真理として構築するのは非常に困難です(極端な相対主義は無秩序を生みますが、程よい相対性は、柔軟性を生むことになります。社会的環境への適応度が飛躍的に上昇します)。物や動物は、一度その生態を理解すれば、適用範囲は広く、時間的にもほとんど変化しないでしょう(人間の一生のうちには)。しかし人間に関わる事象は、物や動物とは反対に短期的な「変化」が前提となります。人間に関する事象は非常に動的です。

 先ほどのアスペルガー症候群のお母さんは、子育てという先の見えない仕事に関わる中で、常に子どもの変化に注目し、日々、理解の仕方を更新し続けたに違いありません。つらい日々もあったに違いありません。切れそうになったことも幾度もありました。でも、「人は動的に変化している」と「それに応じて自分も変化する」ことを受け入れたとき、子育てが楽になっていきました。このお母さんは「今は子どもが可愛いし、生んでよかった」と言っています。


 「自分と相手との間に浮かぶハート」だからこそ、心は常にオープンなシステムであることが求められるのだと思います。自閉症かどうかよりも、他者に対して自分の心をオープンにできるかが大切なのではないかと思います。定型発達者の中にも、クローズなシステムで生活している人はたくさんいると思います(私は、その傾向があると思います)。自閉症者の中にも、オープンなシステムで生活している人は増えていると思います。だんだんとその境界はあいまいになっていくのだと思います。

 

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010 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き(2)

010 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き(2)


齊藤コメント

 前回、「想像力の障害」という場合の「想像力」とは「身体的状況を仮想的に再現できる力」なのではないかと述べました。ということは、この力が弱い人は、実際の場面から離れてソーシャルスキルを学んだとしても、身体的状況とは乖離したままということになります。


 ある当事者は「SST(ソーシャルスキルトレーニング)で、スキルを学んだとしても、現実には使えないことが多いのです。なぜなら、援助を求めるスキルを学んだとしても、そもそも自分が困っていることに気付けないから、覚えたスキルを使えないからです」と教えてくれました。これはスキルを学ぶときに、対応する身体的状況の賦活がとても弱かったか、もしくはスキルとは関係のない身体的状況をマッチングしてしまったと考えることができます。


 この方は「リアルタイムにフィードバックをもらうことが必要」であると言っていました。つまり、身体的状況が賦活しているそのときに、言葉によってラベリングしてもらえれば、自分の内的な状況を意識的に把握することができるのではないかということなのです。前回のB君のエピソードで言えば、B君が相手にぶつかって申し訳ないと強く感じている時の行動が、客観的に見て適切であるかどうか、適切であればどのくらい適切であるのかを、そばにいる支援者がモニターし、丁寧に伝えていくことが重要ということになります。


 もしB君にそのようなフィードバックが繰り返し与えられていれば、B君は同じような状況に陥ったとき、胸がどきどきする感じや相手の表情の変化などを手がかりにして、過去に実行して成功したスキルを適切に引き出せることになったのかもしれません。


 ここでもう一度、雨野さんのエピソードに戻りたいと思います。相手が転んでしまったときにどんな働きかけをしたらよいのか迷ってしまうという話でした。結論から言えば、これにもやはり「身体的状況を仮想的に再現する力」が関与しているのではないかと思うのです。


 自分が転んだとき、そばにいる他者にどのように対応して欲しいかについて迷う人は少ないと思います(助けてor見ないで)。その時に生じている身体的状況が、選択の余地をぐっと狭めるからです。では他者が転んだときはどうでしょう。間髪いれずに反応を繰り出せる人は、転んだ時とその後の身体的な動き(表情を含む)をみるだけで、(無意識に)同様の身体的状況を自己の内部に写像せしめることができる人であると言えます。

 間髪いれずに反応できる人は、行動オプションの選択において、状況分析が論理的かつ速いのではなく、転んだ本人と同様の身体的状況になることによって「それしかありえない」という確信を持っているのだと思います。言葉の世界、論理の世界では、多数の選択肢が生じますが、身体の世界・感情の世界ではつねに最適な解が一つ選び取られるのだと思います。雨野さんは、相手の身体的状況をスムーズに自己内部に写像できなかったので、それを補う形で論理が働き、しかも論理が過剰に働いたおかげで、可能性の低い選択肢をも増やしてしまったのだと考えることができます。

 雨野さんは「本当は心配されたくないのかどうか、どうやってわかる?声を掛けられたくないのか、掛けて欲しいのか。何か言うとすればなんて言えばいいのか。どうやって選べばいいのだろうか?」と我々に問いかけています。今の私であれば「他者の身体的状況を自己に写像する能力が人間には備わっているのである。論理が決めるのではなく、その時、仮想的に賦活された身体的状況がひとりでに決めるのである。」と答えるでしょう(雨野さんはきっと「よくわからない」と言うと思いますが)。


 ここまで述べてきたことは、近年「ミラーニューロン」というキーワードで盛んに議論されている問題です。我々は、他者の運動を知覚すると同時に、同じ運動を脳内で再現しているということが分かっています(実際には運動をしていなくてもです)。相手の運動を知覚する領域と自分が同じ運動を表出する領域は重なっているのです。つまり相手のしぐさ、表情を見るだけで、自己の内部に同じようなしぐさや表情が仮想的に生じているわけです。ミラーニューロンによって我々は、他者の振る舞いを見ているだけで、推論を経なくとも、同じ心の状態に至ることができるということになります。とすると他者の心は推論によって「知る」ものではなく、直感的に「分かる」もの、ということになります。


 内田樹先生は自身のブログの中で次のように述べます。長いですが引用します。
 
『例えば、怒りという感情は、怒っている人間の表情や声の出し方や身ぶりを模倣することによって内面化し、学習される。子どもの内面に感情がまずあって、それが身体表現に外化するのではない。他人の身体表現を模倣し、それが伴う情動が内面化した結果、感情が生まれるのである。子どもの感情が豊かになる過程を仔細に観察していればわかる。他人の身体表現の模倣に熟達するにつれて、子どもたちの感情は深まり、多様化する。感情は他人の外形を模倣することで発生するわけであるから、外形抜きの「純粋感情」などというものは存在しない。人類が致死性のウィルスで絶滅して、あなたが「人類最後の一人」になったときのことを想像して欲しい。あなたは自分が「人類最後の一人」になったことでたいへん腹を立てている。たぶん、その怒りをゴミ箱を蹴飛ばしたり、机をひっくり返したりして表現するはずである。だが、どうしてあなたはそんなときにも「誰が見ても、それとわかる怒りの定型」を忠実になぞるのか?誰も見ていないのだから、そんなことをする必要は全然ないのである。純然たる怒りの感情だけがあって、それを身体化しなくても誰も困らない(見ている人は誰もいないのだから)。でも、誰も見ていない場所においてでさえ、私たちは見ている人がいれば「ああ、この人は怒っているのだな」とわかるような感情表現を外形化する。外形化せざるを得ない。というのは、身体表現抜きで輪郭のはっきりした感情を維持することが私たちにはできないからである。感情とは(観客がいないと意味をなさない)社会的な記号なのである。そして、強い感情表現は、それを見ている他者のミラーニューロンを賦活させるから、他者のうちに同質の感情を作りだす。』(内田樹の研究室、「感情表現について」2011年8月10日)。

 自閉症スペクトラムを取り巻く、感情認識・表現 および他者理解・自己理解の問題とぴったりと符号していると思います。感情の起源は、他者の身体化・外形化された感情表現であるという考察は、私にはとても納得できるものでした。他者の模倣が少ないまま成長すれば、他者の感情のみならず自己の感情すら明確なものにはならないわけです。感情表現が豊かにならないのも同様です。


 しかしこの認識は、雨野さんの持つ認識とは全く反対でありました。雨野さんは、自分だけの概念、自分だけの気持ち、自分だけの言葉を必死に探そうとしていた時期がありました。「自分の心の中を見つめてみて、人から学んだものを一つ一つ排除していきました。するとどんな言葉も他者からもらったものばかりであることに気付きました。僕は、玉ねぎみたいなものです。僕の中心には僕がいません。僕は一体どこにいるのでしょうか」。


 内田先生の考察によれば、純粋な自分(純粋感情がないのですから)は存在しないことになります。他者が、言葉や身体を通して外形化したものを取り入れ、さらにそれを内化する過程で、自己と他者を発見していくことになります。自己と他者の起源は全く同根なのです。雨野さんは「定型発達者の使用する言葉は、獲得したその瞬間からすでに他者性を帯びているのだと思います」と考察していたことがありましたが、まさにそうなのだと思います。しかし、雨野さんは論理的には理解できても感覚的には納得できず、長く黙り込んでいたことを思い出しました。

 

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009 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き

009 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き


齊藤コメント

 大学で相談しているアスペルガー症候群の中学生A君の話です。

 A君は幼少期から、TVなどで登場人物が落ちたり、転んだりする場面を見ると、ゲラゲラと笑ってしまうのでした。中学生になった今も、笑ってしまうことがあります。

 先日、家族で映画館に行きました。主人公は一生懸命に山を登っていたのですが、最後の場面で力尽きて落ちてしまいました。この場面で、A君は笑ってしまったのです。悲しい場面にも関わらず、大きな声で笑ってしまったので、家族は「大変恥ずかしい思いをした」とのことでした。
 

 なぜA君は、笑ってしまうのでしょうか。その時、何を思っているのでしょうか?A君は「純粋に面白いんだ。どうしても笑っちゃうんだ」と言います。どうやら“映像”として面白いと感じているようです。しかも文脈とは関係なく、その場面だけに反応しているように思えます。
 

 A君の名誉のために言いますが、普段は、優しい人です。悲しんでいる人の気持ちを知りながら、それを笑うような冷たい人間ではないのです。家族が悲しんでいれば、慰めの言葉をかけたりすることもあります(ただし、明示的な表情や言葉での宣言が必要という条件付きではありますが)。


 しかし上記のエピソードが示すのは、感情の推測よりも、知覚している現象に心が奪われてしまうことがあるということです。このことから、A君は他者から誤解を受けることが時々あります。


 次のようなエピソードもありました。ある相談日。その日は“登場人物の気持ちを台詞にしてみよう”という課題を行っていました。私が「(絵の中の人物を指差しながら)この人は今、トイレで用を足しています。(少し間を置いて)するとその時、何度もノックしながら「開けてくれ」と訴える人が現れました。さて、中に入っている人はどんな気持ちになったでしょうか。気持ちを台詞にしてみましょう」と問題を提示しました。すると彼は「うーん、わからない」と答えました。


 そこで私は、床の一点を指差して「ここが便器です。A君、座ってください。そして周りはぐるっと、壁になっています。目をつぶって想像してください」と指示しました。A君は、戸惑いながらも指示に従ってくれました。次に「今、あなたは、ウ○コをしています。はい、想像の中でしてみてください。」と伝えました。しかし恥ずかしがって演技してくれなかったので(まあ、当然ですが)、私も一緒に腰をかがめて「うーん、うーん」とうなりました(かなりリアルにです)。すると彼もつられてうなり始めました。気分が十分に高まった頃に、私が「ドンドンドン(ドアをノックする音)、開けてくれ!」と大声で怒鳴りました。すると彼は、「うわー、やめてくれよ、は、入ってますよー、あーびっくりするなあ、もー」と台詞を言ってくれました。台詞を話す間合い、その韻律はとても自然でした。言語による状況説明だけでは答えられなかったのに、具体的にシュミレーションすると、自然に台詞が口をついて出たのはなぜでしょうか?


 もう一つ関連すると思われるエピソードを紹介します。ある特別支援学級(中学校)で行われていたソーシャルスキルトレーニングの授業中のことです。設定は「あなたは自動販売機でジュースを買おうとしています。しかし、お金を入れるのに手間取ってしまい、後ろに長い列ができてしまいました。他の利用者に迷惑になるので『すいません、どうぞお先に』と次の方に譲ることにした」という場面でした(なかなか複雑です)。


 高機能自閉症のB君は、一歩身を引きながら流暢に決められた台詞を述べ、スムーズに譲ることができました。他のクラスメートも、上手にこなしていました。無事終わったとおもいきや、その後の反省会で、あるクラスメートがB君の態度について指摘をしました。「B君は、ちゃんと話すことができていたけど、少し笑っていた。気持ちがこもっていない」という内容でした。なかなか鋭い指摘です。確かに他のクラスメートは、態度も声色も申し訳なさそうに演技をしていました。一方、B君はそれとは対照的に、堂々と胸を張り、明るい表情で、さわやかに台詞をしゃべっていました。和気藹々とした教室の雰囲気にはマッチしているのですが、想定している場面には少し違和感があります。つまりこの状況では、謝罪の意思表示が必要だからです。“堂々とさわやか”なのは、ちょっと違いますね。


 担任の先生は、このクラスメートの意見を尊重し、B君に再演してもらうことにしました。しかし、何度やっても“堂々”かつ“さわやか”なので、クラスメート達は「そうじゃない」「もっと気持ちをこめて」と次第に指導に熱が入ってきました。最初は明るかったB君も何度もダメだしをされるので、徐々に悲しそうな表情と声色になってきました。かなりつらくなって本当に悲しそうに言えたとき、クラスメート達は「それ、その感じ」とOKを出しました。


 クラスメート達は台詞の正確さや流暢性といった言語的・非身体的な情報よりも、表情や声色や姿勢といった非言語的・身体的な情報に注意を向けていたことが分かります。幸か不幸か、繰り返されるダメだしに本当に悲しくなったB君は、最後の最後にクラスメート達が望む身体的情報を表現することができました(もっとも内実は別種の感情が生じていたのですが、「悲しい」という点では一致していますね)。堂々と胸を張っていた姿勢が、わずかに猫背に。明るい表情が、眉毛の両端が下がり悲しそうな表情に。さわやかなしゃべり方が、声は小さく、短調に。


 その後、興味深いことが観察されました。授業が終わって片付けをしているときのことです。すっかり肩を落とし、下ばかりを見て掃除をしていたB君はクラスメートに強くぶつかってしまったのです。先ほどの授業の様子を踏まえれば、B君はきっと、儀礼的に明るく「すいません」と言って、すぐに掃除をし始めるのではないかと思いました。しかい、実際は違いました。「あ、す、すいません」と焦った感じで、すぐに謝っています。相手のクラスメートは「いいよいいよ」と気にする風でもなくその場を立ち去ろうとします。B君は、それでは申し訳ないと思ったのか、相手の正面に回りこんで、顔を見ながら「大丈夫、ごめんね」と誠意をこめて謝っていたのです。丁寧に頭も下げています。先ほど、何度もやり直しをさせられていたB君とは思えないほどに、自然な振舞いでした。このギャップはなんなのだろう?と思いました。


 この背景には「仮想場面と現実場面の違い」が関係していそうです。言語のみの状況説明や教室内で行われるソーシャルスキルトレーニングは、いわば現実ではありません。子ども達は「まるでその場にいるかのような状態を具体的に想像」することによって、不足している情報を自力で補わなければなりません。A君とB君はどちらも仮想的な状況で、この不足している情報を補うことができずにいたようです。では不足している情報とは何か?


 もう一度振り返ってみましょう。A君の場合は、リアルにウ○コをするフリを繰り返し行うことによって(下品ですいません)、“まるで本当に○○しているかのような”身体的状態を内的に賦活させました。B君の場合は、ドンと相手にぶつかった時の肩に感じた衝撃を直接に経験しています。どちらも、ある状況に対応する身体的状態が賦活したときに、期待する言動が行われているようです。


 診断基準のひとつにある「想像力の障害」とはなんなのだろうか?と、私はずっと疑問でした。なぜなら、視覚的なイメージとしては、彼らは十分すぎるくらい想像している場合があるからです。雨野さんにも「僕らは想像できないのではありません。想像が標準的ではないということが問題なのです。これは、想像力の障害なのですか?」と問われて、うまく返答できなかったことがありました。


 A君とB君のエピソードが示すことは次のことです。


  「想像力の障害」という場合の「想像力」とは「身体的状況を仮想的に再現できる力」。

 次回、もう少しこのテーマについて考えたいと思います。

 

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