2011年10月の記事一覧
017 暗黙の了解ってどういうこと?
017 暗黙の了解ってどういうこと?
雨野カエラ
暗黙の了解がわからないってどういうこと?その場のルールを壊すってこと?
ルールがわからないから、みんなと同じようにしたり、動けなかったり、自分に不利な条件に従ったり。本人の方が困っていることも多いんじゃないかな。
宿題やテストの範囲がだいたいどこからどこまでか、何ページから何ページまでって言われなくてもみんなにはわかるみたいだ。誰がどの係をやるのかあらかじめ決まっているみたいだ。そして係になったら、いつからどんな仕事をするかよくわかってるみたいだ。僕は明確に示されてないことはよくわからなかった。だからみんなのまねをしてみた。その場の雰囲気を壊さぬよう動かないでいた。自分ではどうしてよいか判らないから、人の言うことに従った。うまく行くこともあったけど、そうでないこともたびたびあった。自分の本意でないことを続けるのは、つらさをどんどんためていくことだ。
大人になるとこれはもっと厄介な形になる。
ある職場を離れる時に上司に言われた。「お前の引っ越す先は都会だから、駐車場を借りるのがむずかしい。車は置いて行け」。僕は、そうなのかと思って従った。そしてこうも言われた。「もし駐車場のある家が借りられたら車は持っていけばいい」。
引っ越して2週間程たってから、上司に車を持っていきたいと言うと「お前は車は『置いて』いくと言ったではないか、もう人に売った」。車の代金はもらえなかったし、自動車税も僕が払うことになった。
あるボランティアのグループで、僕が仕事をメンバーに割り振ることになった。みんなは自分のやりたい仕事にそれぞれ立候補したので、その通りにお願いした。数ヶ月過ぎてもみんなはその仕事をやる気配がない。強制はいけないと思ったから何も言わなかった。ずっと後になってからこういう声を聞いた。「何をやればいいのか言われてない」。立候補したのに?「言わないで動くと思っているのか」とも言われた。詳しく指示されなければ何もやらないって、どうして教えてくれないの?みんなは言われなくちゃわからないっていうのに、僕は言われなくてもわからなくてはいけないの?みんなの間で決まっているルールは何?
僕の話を聞いてもそれは約束や契約をしなかったから、と言われるだろう。でも僕は明示された言葉が約束だと思っているし、言葉で表されなかったことは約束してないことだと思うんだ。だからどんな簡単な話を決めるときも誰かがそばで、その場の暗黙のルールを確かめてほしい。
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齊藤コメント
社会生活を営んでいると、慣れない人間関係の中でも、極力自然に振舞うことを要求されることが多くあります。Aという集団では許されることが、Bという集団では許可が必要だったりすることはよくあることです。しかし、この違いに気付くには、集団メンバーの振る舞いや言動の一部から、背景にあるルールの全体を想像するしかありません。
前提として、Aという集団のルールには精通している必要があります。集団ルールAに精通しているからこそ、集団ルールBとのわずかな違いが意識化されるからです。では、どの集団のルールにも精通していなければどうなるでしょうか?
数年前、当事者の勉強会の講師として招かれたことがありました。参加者はみんな当事者の方たちです。映画の登場人物の心情について話をしました。そのとき題材にしたのは小津安二郎監督の「秋刀魚の味」の中の、あるシーンでした。
突然、思いを寄せている男性に婚約者がいること告げられる妹「岩下志麻」。告げたのは、父「笠智衆」と兄「佐田啓二」。告げられたときは、悲しい表情を見せずに気丈に振舞う妹でしたが、だんだんと悲しくなり、とうとううなだれてしまいます。そんな妹の姿を見て気の毒に思った父と兄は、別の男性とお見合いを勧めます。それを聞いた妹は、パッと頭を上げ、明るい表情で「お任せします」と言うのでした。
妹の最後の表情について議論しました。事前の調査から、定型発達者者はこの表情を「なげやり」「自暴自棄」と答えることが多かったので、その結果を伝えました。すると、当事者の何人かが手を挙げて質問してくれました。「どうしてなげやりになるのですか?説明してください」というものでした。
当事者の反応は主に二つに分かれました。一つ目は、混乱型。あれほど悲しんでいたのに、急に明るい表情になったことに対して、一貫した説明を見出せず、どっちが彼女の本心なのだろうか?と悩むのでした。悲しみと喜びという矛盾した感情が、同時に心に存在するわけがないから、どう解釈してよいか分からないと言うのです。
二つ目は、「行動重視型」。明るい表情をしているのだから、見たとおりに気持ちを読み取ればよいのではないかと考えているグループでした。このグループの解釈によれば「前の男性への思いを断ち切って、新たな出会いを求めて前向きになっている」となります。
さて、質問をしてきたのは「行動重視派」の人でした。どうして見たとおりに感情を読み取ろうとしないのか?という疑問です。なるほどもっともです。私は次のように答えました。
「きっと、父親と兄を心配させたくなかったのだと思います。悲しみはすぐには消えないんです。感情って、ある瞬間、デジタルのように変化するとは考えにくいと思います。だから、この時の明るい表情は父と兄のために表面的に作ったものだと考えました。さらには、女性としての誇りもあったのかもしれません。もっと良い男性とめぐり合えるかもしれないという自分への自信のようなものです。前向きというのとは少し違います」。
すると、その方は「先生はいつも、他の人のことを考えているんですね」とコメントしてくれました。たしかに「人に心配かけたくないという気持ち」や「誇り」は、他者へ向けた感情です。その方は「齊藤はそういう考え方をするんだあ」と納得したようにうなずいてくれました。しかしこれは、”理解”のうなずきであって、”共感”のうなずきではありませんでした。それは次のコメントでわかります。
「先生、そんな生き方をしていたら疲れませんか?」というのです。これはとても面白いと思いました。「そうですね、疲れるときもあります」と答えると、「でしょう。だから先生、嫌なときは嫌って言っても良いと思いますよ。感情は素直に表現しても良いんですよ」とアドバイスをしてくれました。なるほど、一理あります。いや、私にとっては二理くらいありました。私は、なぜかそれ以上言い返せませんでした。すると、それまでただ議論を聞いていた他の参加者も加わるようになり、私にいろんな質問が投げかけられました。私は、何が正しいのか分からなくなって、しどろもどろになって必死に答えた記憶があります。
勉強会が終わった後、最初に質問をしてくれた方が私に近づき「今日は楽しかったです」と声をかけてくれました。「ごめんね、なんだか今日はしどろもどろで、説明になってなかったね」というと、「それが面白かった」と言うのです。
「いつも私たちは、集団ではマイナーの位置にいます。だから、あなたの言動が間違っている、変だと言われることが多いのです。でも、具体的に何が違っているか、何が変なのかわかりません。さらには、あなたはアスペルガーだからと、障害特性の説明をされるのですが、私は当事者なのでそれはよく分かっているんです。アスペルガーの特性を説明してもらっても、自分と定型発達者との違いは分からないんです。でも今日の勉強会は違いました。定型発達者としての齊藤先生の考え方や気持ちがよく分かるものだったからです。私たちに必要なのは、定型発達者の特性理解なのだと思います。障害特性についての勉強会よりも、定型発達とは何かを学べる勉強会が必要だと思いました」。
なるほどと思いました。しかし同時に、我々は彼らにきちんと説明できるほど「定型発達」について知っているのだろうか?と疑問が湧きました。定型発達者は、自分たちが思っているほど、自分たちのことを知っているわけではないのではないかと。アスペルガーの人たちのことを理解しにくいのは、もしかしたらそれが原因なのかもしれません。暗黙の了解について一番無自覚なのは、当の定型発達者なのですから。
最後にその方は、
「先生、また私たちのサンドバックになってくれませんか?色々質問して、先生が困りながら答えるのを聞くのが一番勉強になるのです」。
「良いですよ」と言葉が喉まで出かけたとき、先ほど言葉が思い浮かびました。「嫌なときは嫌って言っても良いと思いますよ」という言葉を。
「嫌です!」。
「そうですよね」とその方は笑って許してくれました。
016 葉を見て森を見ず
016 葉を見て森を見ず
雨野カエラ
木を見て森を見ず、って知ってる?
最初の問診で「木を見て森を見ず、ということがよくありますか」とドクターに尋ねられた。僕は、“ウンウン”考えてやっとのこと答えた。「そうですね」って。一見、会話が成立しているように思える。正常な会話のようだ。木も森も何かの喩えなのだろう。それが何かはあえて特定しないでもよいのだろう。それはわかる。
同時にこうも考えていた。僕は、冬の木が好き。森を見る時は、木も枝も葉っぱも見る。冬は、枝や残った葉の上に雪がつもり、輪郭のコントラストがはっきりする。葉の輪郭は枝の、枝の輪郭は木の、木の輪郭は森の輪郭をフラクタルに構成する。木を見て森を見ずというより、「葉を見て森を見ず」です。だから答えは「(まあ)そうですね」になった。こんな一見、普通なのに実は食い違う答えが、やがて人とのコミュニケーションのほころびになっていく。支援者でさえ、そこにどんな溝があるのか気付かない。「大丈夫。会話は成立しているよ」という励ましは、きちんと見ていないということになる。
この文章を書くにあたっては、自分の「自閉の認知」を捉まえなければならなかった。それは集中できる時間と環境の条件がとても限られていることだったり、自分の知っていることぐらいは、周りのみんなはとっくにお見通しだと思っていることだったり、文章が自己エコラリア(繰り返し)になりがちなことだったり、どれだけ書けば良いのか誰かに定量化してもらわないと判らないことだったりした。せっかく書くことが.みんなとっくに知っていることだとしたら、書く意味なんて見出せないし、全く誰も知らない新しいことを書くのはとっても大変なことだろう。
自閉の人たちはあまり閉じていない。どちらかというと開いている。自分の知っていることはみんなも知っていると思っているし、みんなの知っていることは自分も知っていると思っている。とってもオープンな認知。これは「群れ」スタイルだと思う。かつてテンプル・グランディンは自閉の人を捕食される動物に喩えた。僕がイメージするのは「捕食される動物の『群れ』」。群れの中ではクローズではなくオープン。自閉症という言葉から連想されるイメージからジャンプして、離れながらこの文章を読み始めてほしい。
ぼく?僕もなんとか自分の思い込みからトムソンガゼルみたいにジャンプして離れてみるよ。
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齊藤コメント
「木を見て森を見ず」ではなくて、「葉を見て森を見ず」。前回考察した微分的思考のイメージが分かりやすく表現されていると思いました。局所時間、局所空間への注目の高さを表しています。雨野さんはよく、「定型発達者とASでは、言葉の周波数が違う」と言っていました。「ASは高周波なんだ」みたいなことを。たしかに、ASの人と話していると、非常に丁寧な言葉遣いをしようと努力していると感じることがあります。礼儀という尺度から分かる類のものではなく、正確に言葉を選ぼうとする態度の強さのことを指します。だからASの人の言葉って、表現の肌理がきっと細かいのだと思うのです。一方、我々定型発達者の言っていることは、ASの人から見ると、肌理が粗く、外れてはいないんだけども、しっくりも来ないといったことになるのでしょう。そういえば、雨野さんと出会って一年くらいたった頃「齊藤先生も高周波な言葉を話せるようになってきましたね」と褒めてもらったことがありました。そのときは、うれしかったものです。
さて、本題はここからです。最後の文章を読んで私は、クリプキの「暗黙の中の跳躍」という言葉を思い浮かべました。意味を確定する行為は、暗闇へ命がけで跳躍するのに等しいことだということを示すメタファーです。私達は、どの瞬間においても選択を迫られています。一つ一つの事例について、100%の確証を持って選択している人はいないでしょうが、ここぞ!という場面では、我々は「エイヤッ!」と確証のないまま選択を強いられることになります。その選択がどんな結果をもたらすか皆目分からないときは、この「エイヤッ!」度は高まります。ネガティブな結果が想像されるときはさらに高まります。
数年前、学会出席のためにロンドンを訪れました(初の海外でした!)。ある日、込み合っている地下鉄に乗り合わせました。すると私の目の前に、髭が立派で、スーツも上等なアラブ系のおじさんが立っていました。目が合ったので笑顔を返しました。一旦視線をはずしたあと、再び、何気なくそのおじさんの方へ顔を向けると、なんと!僕をニヤニヤ笑いながら見ているではありませんか!(視野の端っこで確認していたのです)。知らない振りをしましたが、おじさんの視線は僕から外れません。「あー、どうしよう。なんか気持ち悪い」と直感的に感じました。
数分後、思わず目が合ってしまいました(おじさんの位置が変化したのを見逃していたのです)。私は笑顔のまま固まっていると、好意なのか敵意なのか分からない“素敵な”スマイルを浮かべながら「Are you Japanese?」と声をかけてきました。「Ye,Ye, Yes…」と、しどろもどろになりながら答えました。おじさんは次の質問をするべく、口元を動かそうとしています。その瞬間の私の心の内容を実況中継しますと「やばい、襲われる!このおじさんは、アラブの大富豪で、慰み者として僕を誘惑しているのではないか?僕ってそんなに魅力的?いやいや、そんなことを考えている場合でない」。そんな妄想が頭を駆け巡りました(人は、恐怖に陥ると何でも想像する生き物ですね)。私はこの不気味なおじさんから一刻も早く逃げたいと思ったのですが、地下鉄ですからそうもいきません。おじさんの熱烈?な視線を感じつつ、目的地に着くのを今か今かと待っていたのでした。
日本だったら、私はこんな風にはなりません。言語も習慣も文化も違う相手だったからこそ、恐怖を感じたのだと思います。日本ではなくロンドンだったから、そして日本人ではなくアラブ人だったために、相手の意図を確定することが難しかったわけです。相手の意図が見えないというのは、こんなに怖いものかと思いました。この時、おじさんのスマイルを見たままに「好意」として解釈することは、そのときの私にとってはまさに「暗闇の中の跳躍」に匹敵することでした。なぜなら、その解釈は私の想定を超えた選択肢だったからです。自分の認知の外に出るのは、難しいだけでなく、勇気が必要です。もしかしたら、アラブのおじさんはアジアから来た青年に「ロンドンヘいらっしゃい」と歓迎の意を示したかったのかもしれませんし、昔日本に旅行したことがあってなつかしくなり、日本について会話したかったのかもしれません。しかしながら繰り返しますが、その時の私にとって、その選択肢は「暗闇」に属すことだったのです。
言葉の使い方も感覚経験も違うと感じ、他者との同型性を見つけられないと告白する雨野さんは、日本人として日本にいても、まるで外国で一人ぼっちでいる旅行者のようだと思いました。この時の経験をいつも、雨野さんの日常に重ね合わせています。雨野さんは、普段の生活のいたるところで「暗闇の中の跳躍」が求められている状態だったとしたら。
話は少し変わりますが、暗黙の了解との出会いは、日常における異文化との出会いです。自分が文脈に合わない発言や行動をしているのはなんとなく分かるけれど、それを正しく、独力で意識するのは、大変難しいことです。なぜなら「もしかしたら~なのかもしれない」という、確信のない解釈はその人にとっては「暗闇」に属する解釈だからです。「さあ、跳んでごらん」と言われても、そう信用できるものではありません。よほどの信頼関係がないとダメです。
自閉症の人たちは暗黙の了解が身についていない、とよく言われます、しかし、信頼感と丁寧な説明がなされない状況では、そもそも自閉症であるかにないかに関わらず、なかなか身に付かないのではないかと思います。他者への信頼もない、結果についての丁寧な説明もなければ、あとは「思い切って跳ぶ」という個人の無謀な勇気に頼るしかないのです。これじゃあ、運の良い人しか成長できないことになってしまいます。
さて、雨野さんは文章を書くことで、自分の「自閉の認知」を捉える必要が生じました。文章を書く行為とは、読み手(他者)を想定する行為ですから、頭の中ではいつも誰かと対話していることになります。「文章が自己エコラリア(繰り返し)になりがち」と述べているように、自己の認知の内側に留まっている限りは、他者に伝えたいテーマや伝わる表現は生まれません。認知の外に、思い切って飛び出すときに初めて、「客観的な自己」が自分の視野に入ってきて、さらには他者との関係の網の目に含まれる自己が俯瞰されるのだと思います。
「暗闇」に自分を投げ出し、表現している雨野さんの文章に対して、何かしらのリアクションを返すのは、人間として私が果たすべき礼儀であると感じます。そして、「暗闇に跳んだ」雨野さんに、どんな着地点を提供できるかが私に課せられたとても大切な責務であると思うのです。
周囲の人間に信頼感を持てないと常日頃感じている人達が訴える言葉や行為を、「暗闇の中への跳躍」として捉える感度が我々にあったならば、彼ら彼女らは今よりはもっと救われていたのではないかと思います。信頼関係が薄くなっているこの世の中、自己を開示するのはとても勇気のいることです。その勇気ある行為を“常識”の名のもとに、単純に序列化してしまうのでは、その人の未来がありません。
一般的に、子どもが開示した事象は、その子どもにとっては「個別」的なことです。大人にとっては、常識に属する範疇の事柄であっても、その子どもにとっては一回性の経験であることを、大人が承認することが重要だと思います。個性を尊重するということはそういうことです。そのためには、子どもの言葉や行為が原則的には常に「暗闇の中への跳躍」であるとの想像力が大人には必要です。我々だって子どものときは、その跳躍を「よくやった」「うん、よくわかるよ。私も昔はそうだった」と受け止めてくれる大人が傍にいたのではないでしょうか?そのような大人の一言で、我々は成長できたのではないでしょうか?今我々は「子どもの跳躍を受け止める立場」いるのだという自覚が改めて必要なのだと思います。
蛇足ですが、「暗闇の中への跳躍」だとちょっと暗い気持ちになりますが、「トムソンガゼルみたいにジャンプ」するなら、なんかうまくいきそうな気がしますよね。
015 結末はいつも一つ
015 結末はいつも一つ
雨野カエラ
この場面ではこうなるはずという答えは一つ。それは論理的に状況を考えているから。必ずこうなるはずと思っている。だから違う答えを他者がもたらすとも思っていないし、そうされた時には世界が揺らぐ。他者も論理に従っていると思っているのだ。その論理は自分が考えだした物ではなく外からもたらされたもの。外律的にもたらされたものだと思っている。過去に誰かが言ったこと。何かで読んだもの見たもの。自分勝手ではなく外からもたらされた情報に従って論理的に公平に考えた結果を他者はいとも簡単に覆す。パニックやかんしゃくの原因はそれだ。
僕はヴァルカン人ではない。アスペルガーの人はスタートレックに出てくるスポックやデータに例えられることがある。論理を重んじ、感情を捨てたヴァルカン人やアンドロイドみたいな会話をするからだろう。でもスポックはヴァルカン人ではなくヴァルカン人と地球人のハーフだ。スポックはそのために大いに苦しみ「悩む」。アンドロイドのデータは人間を理解し近付こうとして多くを学び、もしかすると「傷付いたり」している。僕はスポックやデータが大好きだし、それに例えられることもうれしく思う。
いくつかのエピソードを書き連ねて、そこに共通する何かがあることに気付いた。それが自閉症の原因を指し示すものになるかどうかはわからないけど、自分がかんしゃくやパニックをおこしそうになった時に、その場でその原因を探る理論を考えるようにしたら、少しは楽になった。
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齊藤コメント
私の大学時代の恩師から聞いた話です。ある幼児の自閉症のお子さんが、買い物の往復で、いつも同じルートを通らないとパニックになるので困っているとのことでした。私の恩師は「では明日から、毎日違うルートを通るようにしてください」とアドバイスしたそうです。数日間は、泣き叫んでいたようですが、1週間を過ぎた頃、ピタッと止んだのだそうです。
子どもの心の中で一体何が起きたのでしょうか?人はすぐに“こだわり”と片付けてしまいますが、決して「このルートじゃなきゃ嫌だ」という好みの問題ではなかったと私は思います。きっと、目的地にはたった一つのルートでしか到達できないという前提がこの子どもの中にあったのだと思います。従いますと、いつと違うルートは、いつもと違う目的地に行くことを意味します。そりゃあ、怒るに決まっています。不安になるに決まっています。これはもう本人にしてみれば“こだわり”ではなく、正当な自己防衛行動です。「今すぐ自転車から降ろしてくれえ。俺を元の場所に戻してくれえ。俺が行きたいのはそこじゃあないんだああ!」という心の叫びを、表面的な現象だけを捉えて、“こだわり”だとか、“パニック”などラベリングされるなんて、もしこれが自分だったらと思うと、なんか悲しくなってきませんか?
恩師は、子どもが持っている命題を経験によって修正しようと試みたのだと思います(少々、荒療治ですが)。「別のルートを通ると、一時的には不安になるけれども、最終的には目的地に着いて安心した」という経験を間断なく繰り返すことによって、目的地に到達するには複数のルートが存在するという認識に至らせることに成功したのだと思います。ピタッと泣き止んだ、ということは、すなわち命題が修正されたことを意味しているのだと思います。この点が“慣れた”というのと違うところです。“慣れる”のであれば、もっとゆるやかな変化が生じるであろうと思います。泣きが徐々に小さくなったり、泣いたり泣かなかったりする時期が続いて、というふうに。
ある日を境に変わったというのは、子どもの認識が顕在的・意識的に修正されたことを意味しているのだと思います。ということは、言葉を発しない自閉症の子どもの心の中にも、ちゃんとしたルール、論理があるということになります。小さい子どもだからとか、自閉症だからとかいうバイアスが我々にあって、そのために高次なルールなどを持っているわけがないと考えてしまうと、子どもの行動は不可解なものにしか映りません。どの子どもにも、その子どもなりのルールが必ずあるのです。こだわったり、パニクッたりするのは、子どもの持つルールでは、環境をコントロールできなくなっているときなのだと思います。
自閉症の人って、一度の経験をすぐにルール化(論理化)する傾向があるのではないでしょうか。論理化への動機が我々より強いともいえます(スポックはまさにそうですよね)。たとえて言うならば、データ数が十分ではない状態で、無理にモデルを作ろうとしている研究者に似ています。少ないデータで作られたモデルは、精度が低いので予測しない事象が表れます。だから予測しない事象に対しては、別のモデルを立てなければならない。しかし、そのモデルも精度が低いので・・・。以下、繰り返しとなります。結局、状況に応じたたくさんのモデルを抱えることになります。これでは、モデルの意味がなくなってしまいます。自閉症の子どもの心の中では、論理化という高次な機能が作動しているにも関わらず、構築したモデルの予測範囲が限定的なので、外部から観察すると、環境依存的で1対1対応の行動法則しかもっていないように見えるのだと思います(この点では、逆に完璧を求めすぎて、データを集めてばかりで、モデル化をしない研究者とも似ています)。
ある一定期間、事象の変化とそのバリエーションを、論理化への衝動を抑えつつ、観察する目を持たなければなりません。しかし自閉症の人は、凝縮された時間内で生じる事象を、瞬く間に「論理」として理解しようとします。この意味で、微分的に現象を眺める人だと言えます。まるで瞬間接着剤みたいです。瞬間接着剤は「点」をつけるにはとても便利ですが、「面」をつけるには不向きです。塗っている先から、どんどんと乾いていくからです。このように乾燥の速さと接着できる面積が限定的であるということとは表裏一体の関係です。微分的思考も同様で、刹那的時間内に生じる現象に対する論理化への強い衝動が、長時間、目の前の現象をボーっと観察することを妨げているのかも知れません。自閉症の人に苦手なのは、積分的な思考ということになります。
青い色は、ほとんどの人にとって「青」です。しかしながらその青い色が「美しい」のかどうかについては、“人ぞれぞれ”です。心理学の分野でも、知覚心理学と社会心理学では、被験者のサンプル数が大きく違います。社会心理学のサンプル数は、とても大きいわけです。“人それぞれ”の現象には、たくさんの要因が絡んでいます。だから、“人それぞれ”の現象の背後に潜む法則を抽出するためには、抽出したい法則とは関係のない要因を相殺する必要が生じます。相殺しなければならない要因が増えれば増えるほど、たくさんのサンプルが必要になるのです。このように社会心理学のデフォルト値は、その人がどこに属しているかによって違っているわけですから、それらの事情を広く捉えなければなりません。
一方、知覚心理学は、生理学的基盤の影響が強い現象について扱う学問です。知覚心理学が高次な心理機能と関与しないということを言っているわけではありません。デフォルト値が身体に設定されているということは、人類皆、同じデフォルト値を持っていると考えるのが自然だと言っているわけです。一人の人間に当てはまることは、他の人間にも当てはまる可能性が高いと想定されるわけです。
人によって、知覚経験が大きく違うんだったら、コミュニケーションが不可能な事態に陥るでしょう。Aという人の知覚経験とBという人の知覚経験の類似性は高いわけです。と、ここまで考えてくると、雨野さんの、モデルの立て方って、知覚経験を元にして得られる論理化の方法に似ている気がします。青は、いつも「青」であり、誰にとっても「青」であるというスタンスです。
社会的な事象に対しても、知覚経験と親和性の高いモデルを適用していると考えると、雨野さんの“驚き”“怒り”“不安”が理解できると思いませんか?相手の髪型が変わることや、部屋の家具の位置が変わること、いつものスケジュールの順番が変わったり、先生の言うことが毎日に違うと言ったこと。これらをすべて、知覚経験を元にしたモデルで捉えると、ほとんどカオスにみえるのではないでしょうか?何一つ確かではないからです。
「おばあちゃんがある日、黒い髪を紫に染めた」。
知覚的には大きな変化ですが、我々は、あんまり驚きませんね。心臓が止まるほどではないし、その人が変わってしまったとも思わない。
では、次はどうでしょう。
「朝起きてみたら、太陽が紫だった」(カフカのパクリです)。
私だったら、びっくりしすぎて踊り始めるかもしれません。そして、踊りつかれた後、世界が終わるのか?と暗澹たる気持ちになることでしょう。
こんなとき、普通の大人ならなんていうでしょうか。
「それがどうしたの?太陽が紫だっていいじゃない?気にしないの!」
「えー!」。これは一種のサスペンスホラーです。“世にも奇妙な物語”です。世界の安定性が崩壊しそうな予感に圧倒されます。私だったら、次のように言って欲しいと思います。
「あんた、太陽が紫に見えてるね。そう、あんたは間違ってないよ。太陽は紫になったのさ。でも大丈夫、太陽が紫になってもあんたは死なないよ。安心しな。それに明日は、ピンクかもしれないよ。もう太陽は、一色じゃいられなくなったのさ。でも大丈夫。明日も私のところへおいで。一緒にピンクの太陽見ながら、太陽がなぜ色を変えようと思ったのかについて考えようじゃないか」。
カーク提督は、スポックの親友でした。スポックが理解不能な状況に直面したとき、カーク提督は果敢にその状況に立ち向かい、想像もしなかった方法で解決していくのです。カーク提督の行動を通してスポックは、“論理の外”があることに気付き、また同時に“論理の外”の世界も、自分の意思でコントロールすることが可能であるということを学んだのだと思います。
冒頭の自閉症の子どものお母さんは、きっと子どもにとってのカーク提督になれたのだと思います。我々も、カーク提督になりたいものですね。もう一度、スタートレックを観ようっと。
014 「感覚について」のコメントの続き
014 「感覚について」のコメントの続き
齊藤コメント
親の会での本人活動のときのこと。サンバ隊を呼ぼうということになりました。聴覚過敏の子どもも多くいたのですが、チャレンジしてみようということになったのです。本格的な団体なので、体育館は音の洪水となることが予想されました。
演奏者はとても上手に、子ども達を演奏に引き込んでくれました。一つ一つの楽器を鳴らしてみたり、子どもに鳴らせてみたり。小さな音から大きな音へ、少ない楽器から多くの楽器へと徐々に音を増やしていったりしてくれました。それでも、その段階で耳をふさぎながら、早々に体育館を立ち去った子どもはいました。
いよいよ全員で楽器を持って演奏しようということになりました。おそらく音の大きさや多さは最大限になるはずです。さて何人飛び出るのだろうかと、構えていると、数分経っても、飛び出る子どもはほとんどいません。恐る恐るという感じですが、演奏者に促されながら自分でも音を出しています。あちこちでそのような様子が見られました。
私も圧倒されそうなくらいの音なったときに、面白いことが起こりました。聴覚過敏の強いお子さんが、その音の洪水のなかで、カウベルを一心不乱に叩きまくっているのです。顔をよく見ると、完全に陶酔しています(笑)。頭を上下に振りながら、演奏者と一緒にリズムに没頭しているのです。他にもそのような子どもが何人もいました。
過敏性には、安全や意味が密接に結びついているものなのではないか?とその時、思いました。その音が聞こえても、何も起こらない、自分に危害が加えられない、死なない(安全の獲得)。さらには「その音は、~である」というふうに言葉で説明できること(意味の獲得)。誰だって、未知の刺激には警戒を示します。安全なのか、また一体何であるのかが判明しなければ、ますます感度を上げて少しの変化ももらすまいと敏感になることでしょう。つまり子ども達の過敏性の背景には、安全と意味の喪失があるのでないかと考えたのです。
数年前の講義のときのこと。その日は自閉症者の感覚世界について話をしました。感想のレポートを眺めていると、驚きの気持ちを持ったという内容が大半でした。でもその中に「私はそのような世界を努力して求めている」と書いてあるものがあり、目が止まりました。所属をみたら美術専攻(絵画)の学生でした。その学生曰く「芸術とは、既存の枠組みをはずして、ありのままの世界を描写できるのか?」が大切なのだそうです。意味的な枠組みのない状態で世界を眺めてみると、どんな風に見えたり聴こえたりするのか?言葉や概念を血肉としている私にはもはや到達できない世界なのかもしれません。でも芸術家の卵であるこの学生は、その枠組みを意識し、なんとか排除しようと努力しているのです。新しい表現のために。
意味的な枠組みを伴わない感覚とは、決して心地よいものではないのではないか?と思います。“何であるのか”把握できないのです。それは自分を脅かすものの予兆かもしれないのです。
私は、1歳半くらいの時の記憶があります。その記憶に含まれているものは、現在の私であれば、ほとんど言葉で表現できるものばかりです。タイムスリップして、1歳半の私が見たり聞いたりしたものを追体験したとしても、それは日常のありふれた経験であり、すぐに忘れてしまうでしょう。でも、幼かった私にとってその時の経験に含まれる色もにおいも音も触感も、グロテスクなほど生生しい質感を持っていました。例えば、近所の家の古い物置に大きな漬物樽がありました(大きくなってから知りました)。私はその物置に、何度か恐る恐る近づいたことがあります。すると暗い入り口の内側から、すえたようなにおいが鼻をつきます。「漬物が発酵しているにおい」+「物置のカビのにおい」なわけですが、そんな分析は私には不可能でした。「なんじゃこりゃあ」(松田優作みたいに)と私は、びっくり仰天し、しばらくその場に立ち竦んでいました。その時の匂いは、いつでも思い出すことができます。快と不快の境界にいるような不思議な気分と共に。
何度も繰り返されることによって、自分の身体に危害が加えられないことが分かれば、安心して感度を下げられるようになります。しかし、この場合は長い緊張を強いられることになります。人は生れ落ちてからたくさんの経験をしなければなりません。その一つ一つの経験について、試行錯誤していたのでは、時間がいくらあっても足りません。またそのような長い緊張に、生理的に耐えられなくなることも考えられます。
もっと効率よく、そして早く安心する方法はないでしょうか?それには、すでにその感覚を経験済の他者に、意味を教えてもらうことが一番の近道なのではないかと思います。だから対人関係が薄ければ、また言葉の世界に入らなければ、感覚経験に意味が付与されません。この意味で、自閉症の人たちは、意味(言葉)以前の純粋な感覚経験の世界に長く留まった人たちといえるのではないでしょうか。発達のスタートラインに近い人たちだとも言えるかもしれません。「意味以前の世界を持っている人たちだと感じた」と言うのは先ほどの美術科の学生の言葉です。
ちなみに、私は1歳半の頃以降の記憶は、しばらくありません。きっと、言葉の世界に入ったことによって、生生しい経験から遠ざかったのだと思います。
013 感覚について
013 感覚について
雨野カエラ
嗅覚
僕は人工的な匂いが苦手。車の芳香剤、整髪料、お化粧のにおい。人によっては体臭がすっかり人工的なにおいと結びついてしまっている人もいる。そういう人と同じ部屋で過ごすのは苦痛だ。人が集まるところでは身構えておかないと、うっかりたくさんのにおいを吸ってしまったらそこにはもういられなくなる。犬や馬のにおいは平気だ。
触覚
そっと触れられると逃げ出したくなる。触れられないのが一番だけど逃げ出せないのならしっかり触ってください。部屋で一緒にテレビを見ていると仲良くなった女の子はそっと触ってきたりするものだ。それを避けたり振払ったりするとあとからとても面倒な言い訳が必要になる。そんなときは、僕はとてもくすぐったがりだからやめてほしいとか、それが無理ならしっかり触れてくれるように頼む。たたんだ布団の下に体を入れると重くていい感じだ。体が大きくなってからは足だけ布団の下に入れてしっかりとした重さを感じるとほっとする。
味覚
人工的な調味料で具合が悪くなることがある。頭が痛くなるのもあるし、食べたとたん、微かな吐き気を感じる物もある。パッケージを見るとうまみ調味料がたくさん使われている物が多い。子どもの頃は酸っぱい物がまるっきり苦手だったけれど、だんだん食べられるようになってきた。
聴覚
単に音の大小を騒がしく感じるのではない。大きな音はきらいだがそれよりもザワザワとした感じ。音の構成要素が多い時に苦しい。講演会が始まる前のざわめき。休み時間の喧噪。映画が始まる前のおしゃべり、街中の賑やかさ。
僕は耳栓を使う時もあるけど、耳の中が痛くなるので最近はノイズキャンセリングヘッドホンを使うようにしている。高級品は分からないが僕の持っているランクのヘッドホンでは周りのノイズは軽減される物のノイズを打ち消すためのノイズが大きく聞こえる。再生する音楽をそれに打ち勝つくらい騒がしい物にすればいいのかもしれないけど、僕がよく聞くのは静かなピアノソロのCDが多いからそうもいかない。今プレイヤーに入っているのはグレン・グールド、エレーヌ・グリモー、デビッド・ヘルフゴッドだ。擬似的にでもシーンとした状況をつくり出せるのは騒がしい場所ではとても助かる。ヘッドホンをしていればあまり話し掛けられる事もないし、ストレスを軽減するのに大いに役立っている。
人間が発音できるのは小さな頃から聞き馴染んだ音だけだという。自閉症児が聴覚に特有のプロフィールをもつとすれば、彼が発語できるかできないか、どのような発音をするか、おのずと限られてくるのだろう。
発音できる自閉症者のやや高い声は外から聞こえる誰かの声を自分の頭蓋内で正確な高さで再現しようとしたものではないのだろうか。僕の声は何度も聞き返される。それは僕の聴覚プロフィールにちょっとしたずれがあって、その再現を正確にしようとする。あまり人に聞き取りやすい音を再現できないのではないかと思うことがある。実際にそういう理論もあるようだが全ての自閉症者にあてはまるものではないのだろう。
最初は僕のいう事が突拍子もなくて、難しいからみんな聞き返すのだろうと思っていたけど、簡単な一言さえも何度も聞き返されるので、僕はすっかり喋るのがイヤになり、僕の体から神様に何か奪われなければならない事になったら、声を奪って欲しいと思うようになった。子どもの時からずっとそう思っている。
視覚
繰り返し幾何学パターン。一見幾何学的でなくてもフラクタルが隠れている。
僕の目に映るもの。眼球の表面の傷。サングラスのフレーム。帽子のひさし。自分の鼻。自分の服の襟。近くに降る雪。地面の雪。積もった雪のグラデーション。遠くに降る雪。葉っぱの上に積もる雪。細い枝の一本一本。中くらいの枝。太い枝。木の幹。木々の並び。雲。空。
近くに降る雪と遠くに降る雪を網膜という平面に映して、どうして僕は奥行きを知るのだろう。雪の降り方は繰り返される二度とないパターン。始まりはどこ。終りはいつ。僕が歩くと目に映る景色が揺れる。近くにある景色と遠くにある景色が違う速さで揺れる。
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齊藤コメント
アスペルガー症候群のお母さんと相談したときのこと。「子どもの声が耳に痛くてつらい」という主訴でした。「うるさい」を通り越して「痛い」のだそうです。雨野さんのようにノイズキャンセル機能内臓のヘッドフォンを試してみたけれど、役に立たなかったそうです。耳栓も、カットされない周波数の音はビンビンと聞こえてくるのでダメでした。「じゃあ、大音量で音楽を聴けばどう?」と言うと「それはダメ、音楽に集中しちゃって、家事が手につかなくなるんだもの」。なるほど。さてどうしよう!
「そんな時、どうしてるの?」と尋ねたら、「頭の中を楽しい音楽で一杯にするんです」。興味深いので「どんな音楽?」と尋ねると、「笑点のオープニング」。思わず笑ってしまいました。かなりストレスフルな状況下で、♪チャッチャラ、チャラララッ、チャッチャッ、パフ~。「だってそれ好きなんだもん」。お母さんは恥ずかしそうにしてました。
以下は、その後の会話です。
母:「でも、笑点のオープニングは短いから、1分何秒かで終わっちゃうんですよ(実際に、計ってみたら、1分18秒でした)。それが終ったら、次の曲を流したいんだけれど、他に良い曲がなくて。先生、何か良い曲ない?」。
私は、具体的に“1分何秒”と時間を述べているところが気になりました。だって普通、時間を覚えている人って少ないでしょう?そこで、
私:「1分何秒ってさ、毎回再生したらそれくらいになるの?話聞いていると、ビデオ再生するみたいに聴こえるんだよね」。
母:「そりゃそうだよ。エッ、先生は違うの?」。
私:「全然。メロディーは局部的にしか再生できないし。音も映像もぼんやりしているけどなあ」。
母:「私は、映像もきっちり再生できるよ。だからね、笑点を頭の中で流すと、だいたい同じ時間が経過しているの。実際のオープニングの長さと同じくらいに」。
私:「それはすごいなあ」。
母:「これすごいの?みんなは違うの?」
私:「あんまりいないと思うけどなあ」。
母:「私さ、昔から一度見た本は頭の中でページめくれたんだよね。
だから、登下校で教科書見て、後は頭の中で繰り返してたもん。家で勉強したことなかったよ」。
私:「それはうらやましい」。
母:「そうかあ、私の感覚って人と違うんだね。だから子どもの声も気になるんだね。じゃあさ、他のお母さんは子どもの声とかどうしてるの?」
私:「やっぱりうるさいとは思っているよ。でもね、痛くはない。それに、家事に没頭すれば、耳には入ってこないときもある。うるさくても何とかやり過ごせていると思うなあ」。
母:「へえ、みんなはそうなんだあ。みんなもつらいのかと思ってた」。
私:「うん、疲れるけどつらいというほどでもない。似ているようだけど、
その違いは大きいと思うよ」。
次の相談日。
私:「何か良い曲見つかった?」
母:「見つからなかった」。
私:「僕もあれから考えたんだけどさ。もう、リピートするしかないんじゃない?笑点」。
母:「やっぱり?それしかないよね。うん、それでやってみるかな」。
感覚を持って、感覚を制すといったところでしょうか。その後、子どもも成長し、大きな声を出すことも減ってきて、何とかこの問題については乗り越えたのでした。
感覚って共有しずらいものです。色々情報交換してみないと、分からないことってたくさんあります。大人であるお母さんは、自分の感覚経験について自覚できますが、これが子どもだったならば、自分と他者の感覚の違いなんて思いもよらないことでしょうし、気付いたとしてもどのように表現してよいかも分からないでしょう。人の感覚世界には多様性があるんです。多様性に恐怖や違和感を持ってしまうと、そこからは何も生まれません。感覚の世界はそのまま、味わってみるのが一番面白いと思います。
次回も続きです。