2011年7月の記事一覧
003 学校キライ(2)
003 学校キライ(2)
雨野カエラ
ある日、ハミガキ講習会があって全校児童が歯ブラシを持って体育館の床にぎゅうぎゅうに座っていた。先生の言う通りに歯ブラシを動かしたら前に座っている子にどうしてもぶつかる。その子はとても怖い顔をして僕をにらんだ。でも先生の言う通りにしなければならない。僕はいったいどうしたらいい?
整列と行進の練習をしていて先生が言う。
「あごをひけ!」
僕はその頃あごをひくというのがどういうことかわからなかった。できるかぎりあごが後ろに行くように努力した。僕を見つけて先生が怒鳴る。
「あごをひけというのがわからないのか!」
先生は僕のあごをつかみ無理に下げようとした。僕は反抗する気なんてまるでなかったのにどうしてそんなことをされなければならないのかわからなかった。体に触れる前に、あごをひくのがどういうことか分かるように説明してほしかったよ。
何が間違っていて何があっているのか。僕はさっぱり分からなくなってだんだんと学校がイヤになっていった。集団登校もみんなのようにふざけ合いながら学校まで行くのがとてもイヤだったから、登校班のみんなが出発してから遅刻ギリギリに行くようになった。これでは先生に呼び出される。
成績はそんなに悪くなかったけど、時々まったくできない科目があった。例えば筆算はできるのにそろばんはほとんど0点。できないとなったら本当にまるっきり理解できない。でも先生は僕が時々何も理解できなくなる事があるなんて思ってなかったらしい。4時間目がそろばんで、計算の終った人から給食ってなったことがあったけど僕は一問もできてなかった。その時は先生の真ん前の一番前の席だったけど、先生は僕が簡単な数問を解けないことに気付かなくて給食を食べはじめていた。
ペーパーテストでは答えられることが授業中に当てられると全く答えられなかった。主人公がその時どう思ったか、文章から抜き書きすることはできたけど、いく通りも答えがあるような場合は答えられない。何も言えずにいると、はやし立てられたり先生に答えを急かされたりして泣いた。
-------
齊藤コメント
ハミガキ講習会のエピソードは、どの範囲まで自分の判断で行動することが許されるのかについて迷っていることが原因のようです。雨野少年は、先生の指示に従っているのですが、ぎゅうぎゅうに並んでいるので、歯ブラシがどうしても前の子どもに当たってしまいます。ほんの少し体をかわせばよいのですが、先生の指示にはなかったので、思いもつかなかったのだと思います。「歯みがきをすれば相手に怒られる」と「歯みがきをしなければ先生に怒られる」。どっちを選択しても誰かを怒らせることになってしまいます。行動すれば必ずネガティブな結果が生じてしまう(と思っている)このような状況は、好ましくはない選択肢によって二重に拘束されている状況と読みとれます。
整列と行進のエピソードは、慣用句の理解の失敗と言えるでしょう。「あごをひけ」は文字通りの意味ではありません。この表現を知らない外国人が聞いたら、どんな想像をするでしょうか?私は「誰かのあごにロープをつけて、引っ張っているところ」を想像しました。「あごをひく」を正確に述べるとどうなるでしょうか?「視線を前に向けたまま、あごの先を首に近づける」となるでしょう。これでは子どもには分かりづらい表現なので、次のような説明はどうでしょう。「皆さん、返事をするときに頭をコクンと下げますね。やってみてください。そうですね。では今度は、軽くうなずいてみてください。ほんのわずか頭を下げるくらいです。そうして下げたところで、頭を元に戻さずに、ストップしてみてください。はい、そのまま先生を見てください」。分かりにくいですが、「あごをひく」という慣用句よりは、正確に行動を説明していると思います。このように説明してみると慣用的表現は、聞き手(読み手)に対し、複雑な意図の理解を要求していることになります。言葉とは、あいまいなものです。こういう場合、やはり雨野少年が望むやり方が一番ですね。やって見せれば、一瞬で理解が可能です。
コミュニケーションとは、流暢に言葉を操り、複雑な言語表現を理解しあうことではないのです。前提は分かり合うことなのです。分かり合えるのならば、どんな方法を使ったっていいのです。それが相手の理解の仕方に合わせるということなのだと思います。
ネガティブな結果しか予想できない二重拘束の状態、あいまいな言葉による指示への戸惑い。こんな状況が毎日続けば、頭が混乱してくるのも無理はありません。「何が間違っていて何があっているのか。僕はさっぱり分からなくなってだんだんと学校がイヤになっていった」という雨野さんの振り返りは、妥当なものだと私には思えます。まず、自分の判断・解釈に手ごたえがありません。さらに自分で考え、行動すればするほど周囲の人の反感をかってしまう状況は、少しずつ子どもを追い詰めていきます。
お互いの認識の前提がずれていることを、意識できれば悪循環は回避できるのですが。定型発達者はアスペルガー症候群者の前提を直感的には理解できませんし、アスペルガー症候群者もまた同様です。互いの立ち位置を確認することが大事なのですね。「スタート地点が違っているだけ」なのだと思います。
国語のペーパーテストの話は興味深いと思いました。空欄で提出された解答用紙を見て、教師はどう思ったでしょうか?「登場人物の気持ちが分からない子なんだな」とでも思ったかもしれません。でもそれは事実ではありません。
雨野さんは、単純に登場人物の心情理解が難しかったのではなかったからです。心情の推測はしていたのです。しかし、当てはまりそうな仮説が、たくさん思い浮かんでしまい、どれを選んだらよいかわからないというところに、雨野少年らしい困り方があったわけです。
心情理解は多様であったほうが良いのですが、国語のペーパーテストでは答えが決まっています。私も子どもの頃、返却されたテストの答えを見て、なぜそうなるのか分からなくて困った経験があったので、雨野少年のエピソードには共感するところがあります。
「作者の意図を答えなさい」。こういう設問もありますね。作者は本当に、テストの答えのような意図を持って物語を書いたのでしょうか?私には、どうしてもそうは思えないのです。言葉にならない経験。でもその経験に含まれる何かに、未だ意識化できていないその何かによって心を揺さぶられているからこそ、人は筆を取り物語るのだと思います。作者は、綿密に設計図を書いて、すべての文章を論理的に構成しているわけではないと思うのです。先の設問は、物語が書かれる以前に、明確な意図が事前にあったかのような雰囲気を漂わせています。でも事実は逆ではないでしょうか?物語るという行為を通して、そのとき経験していたことの意味が事後的に了解されうる、というのが物語る行為の本質だと思います。
すると「作者の意図を答える」という設問は文字通りの意味ではないのではないか、と私は思うのです。正確には「作者の意図についてのあなたの考えを述べなさい」が正しいのだと思います。主語は「作者」ではなく「解答者」なのですね。でもそのことは明示されていません。それは暗黙の了解だからです。「解答者」である自分自身を主語とするならば、解釈はしやすくなります。なぜなら他者である「作者」の考えには、いろんな可能性が考えられますが、「解答者」である自分自身の考えであれば、仮説はぐっと減るからです。すなわち複数の仮説の中から、可能性の高いものを絞り込むことができるのです。
雨野少年に必要だったのは、仮設を絞り込む枠組み、基準であったことがわかります。知的な能力が高い一方、他者の意図を推測することに難しさがある場合、当然論理的な推理能力を働かせて補おうとします。雨野少年は、いつもたくさんの仮説を考えていたのだと思います。このように知的能力とは分析には優れていますが、判断には不向きであるといえます。判断に必要な枠組み、基準はどこあるのでしょうか?またどこからやってくるのでしょうか?この問題については、またどこかで触れたいと思います。
002 学校キライ(1)
002 学校キライ(1)
雨野カエラ
朝の学校は騒がしくて大キライだった。先生が来るまでの十数分の間に、いつも気分が悪くなった。“席に座って静かに待ちましょう”なんて決まりを守る子どもは僕以外に誰もいない。みんなおしゃべりをしたり走り回ったり、騒がしさを何とかしてくれる先生はなかなか来ない。
下を向いて騒がしさに耐えていると誰かがその様子を見て僕を保健室に連れていく。保健の先生はなぜだか僕の名前を間違って覚えていて、でも先生が呼ぶのならそれが正しいと思うから訂正しなかった。
授業が始まってしばらくしてから僕は“しーん”となった校舎を歩き、教室にそっと戻る。毎日のことなので誰も気にしない。先生も何も言わない。三十分くらい授業は進んでいるけど、それで困ったことはなかった。
休み時間も耐えるのがたいへんだ。僕は外に遊びに行かないし、席を離れてトイレにいくこともない。外に出て授業が始まるまでに戻れなかったら大変だし、誰かの隣でトイレを使うなんて考えられない。自分の席に座り、図書館で借りた本を必死で読む。誰にも声をかけられたくない。休み時間をなんとかやり過ごす。
学校の給食はなかなか喉をとおらない。ゆっくり食べたいけどみんなより遅くなってはいけない。パンはまるっきり残して他のおかずを急いで食べる。日によっては昼休みに掃除が始まることがある。食べるのが遅い生徒は舞い上がるホコリの中で給食を食べなければならない。
小学校で僕は毎日必ず泣いた。理由はよくわからない。間違うことが怖かったのかな。先生にあてられて間違うと泣いた。誰かに小さなことを指摘されると泣いた。自分が間違うなんてことがあるとは思っていなかったからかもしれない。うまくいかないと泣いた。もしかしたら誉められても慰められても泣いたかもしれない。きっと何も干渉されたくなかったんだ。何か言われるってことは、僕のやり方がまるっきり間違っていると言われているように聞こえたんだ。だから何も言われないように、怒られないように学校では先生の言う通りにした。
-------
齊藤コメント
集団生活には、目に見えない暗黙の了解があります。先生の指示もクラスメートの行動も、実は暗黙の了解に則った振る舞いなのですが、その存在に気付いていない人から見れば、矛盾が多く戸惑うこともあったでしょう。
朝の教室は、これから始まる授業への緊張もあってか、憩いの時間でもあります。「席に座って静かに待ちましょう」というきまりは、みんな承知しているとは思うのですが、先生が来るまでの間は、友達同士の会話を楽しむことが優先されていたのでしょう(先生やって来る雰囲気を察知すれば、すぐにそのきまりを遂行できるように心の準備をしながら)。
雨野さんは、大人になるまで「会話とは、問題解決に必要な情報交換をするための行為」だと考えていました。たとえば、自分に知識やスキルがないときに質問するなどがそれにあたります。もちろんそのような会話を我々もするのですが、家族や友達といった身近な人物との日常会話は、体験を共有し、同じ感情を分かち合う目的で行う場合が多いと思います。雨野さんの少年時代のエピソードに「小学校の頃クラスメート同士が、昨晩見たテレビ番組について話し合っているのですが、微妙に会話がずれているのです。それでもなおその二人は楽しそうに会話を続けているのが不思議でした」というのがあります。情報交換が会話の目的であると考える雨野少年から見ると、二人は別々の話をしているのにもかかわらずコミュニケーションが成立している状態を、どのように説明すればよいのか分からず惑ったのだと思います。だから朝の騒がしさは、いっそう受け入れがたいものになります。きまりをまもらないクラスメート。何の目的で交わされているのか意味がつかめない会話の嵐。その中で雨野少年は、居心地の悪さを強く感じることになったのだと思います。
保健室の先生が自分の名前を間違って呼んだのに先生がそう呼ぶのだから正しいと思った、という箇所に、私はコミュニケーションの外側で生活している雨野少年の孤独を感じました(主観的に“さびしい”と思うこととは別です)。雨野少年は、もちろん自分の本名を知っています。では、なぜこのように思ったのでしょうか。たぶん、他者との関係性の中に自己が位置づけられていなければ、自分がどのような存在と認識されようと、それほど重要なことではなかったということなのではないでしょうか。正しく呼ばれようと、間違って呼ばれようと、相手が自分の内面を理解してくれるのでなければ、名前そのものには意味がないわけです。自分という物理的な存在を、他の人間から識別できるだけの記号があれば十分です。名前とは本来、他者との関係性の中で育まれ、そして定位された心理的存在としての大切なしるしであるはずです。子どもの内面世界を、周囲の人間が誠実に映し出していかないと、自己の存在及びその発達は、一種の幻影のような空ろなものとなってしまうことを示唆します。
休み時間の過ごし方についてです。「授業が始まる時間までに戻れなかったら大変だし」という箇所に目が止まりました。この世の中は、不確定なことが生じるのは確かですが、定型発達者は、ほんの数分の休み時間の間に予想もつかない大事件が起こるとは考えません。昨日と同じ休み時間が、今日も続くと確信していますし(確信しているので、安心して教室を離れるのです。もしからしたらその事件を期待している子どももいるかもしれません)、明日の休み時間に対しても、同様の予測をしていることでしょう。
雨野さんは「1ヶ月とか1年のスケジュールを立てることはとても難しいことです。その間に何が起こるかわからないからです。起こりえることを頭の中で想像し、その対応を考えるだけで頭の中はすぐに一杯になってしまいます。僕が確信を持って予測できるのは、10分先くらいです」と話していたことがありました。これに対して、僕は次のように返答しました。「定型発達者が、手帳に予定を書き込むときに、100%実行するつもりでいるとは限りません。病気になるかもしれないし、他の予定が入ることもどこかで予想しているのです。スケジュールを立てるとは、事実を書くことではなく、ある意味“希望”を書くことだと思います」。雨野さんは、理解してくれました。
給食の時間は、食べるだけでなくクラスメートと会話する時間でもあります。雨野少年の悩みは、食べることと会話をすることを同時に行えないことでした。会話に集中すると、食べることができません。食べることに集中すると、今度は会話がおろそかになり、「おい、聴いているのか?」と相手の怒りを買ってしまうのです。一つのことに集中できればこなせることも、複数の作業を同時にこなさなければならないと、上手に対応できないようです。授業中も同じようなことが起こります。先生に「姿勢を正しくしなさいといわれると、姿勢ばかりに意識が向き、先生の話が聞けなくなることがたびたびあったそうです。雨野少年が一番集中しているときは、実は姿勢がだらしないときだったとは、当時の先生は思いもよらないことだったと思います。
最後の文章は、切実です。他者の意図が読めない状態で、注意されたり、指導されたりの日々が続いています。意図が読めないわけですから、どのように振舞えばよいかいくら考えても答えは出てきません。「自分で考えなさい」はよく聞くフレーズですが、この声かけは雨野少年には「途方にくれなさい」とでも聞こえたと思います。「僕のやり方が全く間違っていたと聞こえた」とあるように、具体的にどのように振舞えばよいのかが呈示されると、とても助かるのです。可能であれば、その意味も含めて。アスペルガー症候群の子どもの中に、叱られないように表面上適応的に振舞う子どもが少なくないのは、以上のような理由あるからなのです。この場合、「自分で考えても分からないんだよ。困った時は人に相談しようね」がおそらく最も適切な声かけだと思います。
001 はじめに
001 はじめに
雨野カエラ
まず知ってもらいたいのは自閉症者でも知的障害者でも、定型発達者でも、本人に見えている世界がその人にとってノーマルで普通であたりまえだってこと。あなたが自分の見ている世界のことを正常で標準の世界だと思っているのと同じくらいに。
そしてあなたと僕たちを隔てる明確な線はどこにも見えないってこと。
初めて聞いた時はびっくりするような感覚のちがいがあったとしても、ヒトの感覚を越えたものが見えたり聞こえたりはしない。あなたの感覚と同じ線上に僕たちはいる。本当は感覚ではなく認知の違いなんだと思う。認知の違いってうまく説明できないけど、同じ大きさの音でも気になったり気にならなかったりすることかな。僕はとてもたくさんのことを気にしなければならない。気のせいじゃなく現実のこととして。
この人たち(アスペルガー症候群)は知覚過敏だなんてどこかで聞いた人は、この部屋は眩しいでしょうと言って、薄暗い部屋で話をしようとするけど、みんながみんな眩しいと思うわけじゃない。普通の人が気にするような「明るいか暗いか」ではなくもっと細かい基準。僕の場合は、照明器具の種類や数や配置によってサングラスをかけたりかけなかったりする。それがわからない人たちは照明器具にこだわりがあるんだなんて納得の仕方をするけど、意味のないこだわりじゃない。そのことに前もって気をつけていないと話に集中できなかったり、気分がわるくなったり、家に帰ってからとてもイライラしたりするんだ。だから感覚のことについては勝手に想像するより本人に聞いてみるのがいちばん。先回りして選択の幅を狭めるより、本人の様子をしっかり見てきめたほうがいいと思う。歩いて五分の距離をみんなと一緒に車に乗らなかった時に、僕が人と車に乗るのがいやなのだとみんなに説明してくれた人がいる。でもはずれ。大抵の人と一緒に車に乗ることはできる。ただ五分の散歩を楽しみたかっただけなんだ。先回りしないで本人の意見を聞いてほしい。
僕たちとのあいだに線を引こうとするのとは逆に、何を言っても、定型発達者も同じだよと言う人もいる。歩み寄りは素晴らしいけれど、何でもそれで理解しようとするのは間違っている。突然の出来事が苦手なんですと言ったら、誰でも突然、事故にあったらびっくりするよ、みんな同じ、気にすることないと言ってくれる。でも僕の言う突然の出来事はチャイムが鳴ることや電話が突然かかってくること。誰かに声をかけられること、先の見えない話をすること(それをコミュニケーションというらしい)。それだけで事故の知らせを聞いたくらいびっくりしたりイヤな気持ちになったりするとしたら本当に毎日たいへんだと思わない?
-------
齊藤コメント
雨野さんとの初めての出会いは、印象的でした。彼は、帽子を目深にかぶり、サングラス姿で現れました(それには理由があったのですが)。お互い緊張しつつ、机をはさんで対角線上に座りました。しばらくの沈黙のあと、雨野さんは「僕の周りには、援助する人といじめる人の二種類しかいませんでした」と語り始めました。僕がどのように返答してよいか考え込んでいたら、「この人たちは、僕にとっては同じ人たちです」と加えておっしゃいました。私は、援助する人”と“いじめる人”が同じとはどういうことであろうと、また考え込んでしまったのでした。考えても答えが見つからなかったので「どのような意味で同じなのですか?」と率直に尋ねました。すると雨野さんは「いじめる人は、僕が何を感じ何を考えているかを考えない人たちです。そして援助する人も、僕が何で困っているのかを考えずに(確認せずに)アドバイスをしたり支援をしたりします。本当は困っていないことに対して、どんどんと支援が進んでいくことがありました」と説明してくれました。我々定型発達者とアスペルガー症候群者は、連続線上にあるものですが、困っているポイントが微妙に違っていることは確かです。雨野さんの話は、支援をする際、主観で相手を一方的に解釈することの危険性について気付かせてくれます。
雨野さんはこれまでたくさんのアドバイスと支援を受けてきたに違いありません。また雨野さんは大変勉強熱心なかたですから、関連図書には精通していました。つまり障害に関する知識、専門家が口にするパターン的な支援方法についての知識は豊かでした。僕は雨野さんに対し、何を提供することできるだろうかと相談開始早々、困ったことを記憶しています。困った僕をみかねたように雨野さんは「僕は生活する上で、意味がわからないことがたくさんあります。そのことを周囲の人に尋ねることはできません。なぜなら、彼らは理由を説明してくれるのではなく、評価することが多いからです。僕が知りたいのは、評価(良いか悪いか、上手か下手か)ではなく、(行為・習慣の)意味なのです」とおっしゃいました。確かにそうです。日常の行為や習慣について、その意味を我々はあまり意識していません。改めて説明するとなると難しいことが多いと思います。
「例えばどんなことの意味がわからないのですか?」と尋ねると「挨拶です。挨拶は何のためにするのでしょうか?普段、僕は挨拶をすることができます。しかし、その意味は分かりません。意味が分からないので、ぎこちなくなってしまっていると思います。挨拶の意味を説明してくれませんか?」と言いました。早速、頭の中でいくつか定義してみましたが、どれも挨拶の一側面を記述するものばかりでした。定義をいくら積み重ねても、かならず説明しきれない余白が残ってしまいます。はたして挨拶を定義することは可能なのだろうか?とも思いました。なぜなら挨拶は、どちらかというと感情的・身体的な交感なのではないかと思ったからです。なので、定義することを放棄することにしました。「僕は挨拶の意味をきちんと定義づけることができないようです。おそらく、他の人々にとってもそうなのだと思います」と苦しい説明をしました。すると雨野さんは「意味を説明できないのに、皆さんは自然に挨拶をしているということですか?」と驚いた様子でした。雨野さんはしばらく考えた後に「わかりました。僕はこれまで挨拶の意味が分からないばかりに、挨拶が得意でないと思ってきましたが、どうやら逆なのですね。僕は意味を考えすぎていたのかもしれません。言葉で定義できないと行動できないのが僕なのですね」と納得した様子でした。
雨野さんはこのとき、他者(定型発達)を理解したと同時に、自己(アスペルガー症候群)も理解したのだと思います。相談とは、人と人がコミュニケートすることによって、お互いの共通点と相違点が分かるようなあり方が大切なんだなと改めて実感しました。僕は、雨野さんの捉え方に興味を持ち、驚き、そして同じように雨野さんも私の捉え方に興味を持ち、そして驚いたのでした。雨野さんの文章の冒頭にあるように、我々はもっとたくさん、そして深く対話する必要性があるようです。お互いを分ける明確な境界線は見えないわけですから。
ちなみに、雨野さんが帽子とサングラスをかけていた理由は、私との会話に集中するために、余計な刺激に注意が向かないようにとの意図があったのでした。帽子のつばによって視野の上の部分はさえぎり、さらにサングラスによって目の前の風景に枠を設ける効果があったのです。その意図が分かれば、なるほどと納得できますが、雨野さんの意図を理解しない人は、なんて礼儀を知らない人間なのだろうと思うでしょう。そして「人前では帽子とサングラスをとりなさい」と一方的に注意をするだけに終わってしまうでしょう。これでは雨野さんのなぞは永遠に解けないのだけは確かです。他者の内面へ想像力を働かせなければならないのは、アスペルガー症候群の方たちだけではありません。同じくらい我々も想像する必要があるのです。