雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

2012年3月の記事一覧

037 社会的判断における妥当性の問題について(3)

037 社会的判断における妥当性の問題について(3


From 雨野  To 齊藤 (20045月)


 

今日は「対外的なやる事」がいくつかあって、

朝からひとりでわめいていました(人がいるときはしません)、

一つのスケジュール欄にやる事が全部書き込んであるみたいでした。

作業の途中でしゃがんで固まって、

スケジュール欄を「今日やる事」と、

「明日以降にする事」(ずいぶん先まで)にやっとの思いで分けました。


「今日」の欄にも時間の目盛はなかったので、

順不同で詰め込んであることにはかわりません。

時間的な締め切りが来るまでどうしようどうしようと考えていました。

考えながら、なるほどこういう人には、

一つずつ順に予定を示してやるのが有効なのかと観察も自分でしていました。


ためになるなあ、自分。


>
論理と直感の間


これは後で、ちょっとどうかなあ?と思いましたが、

不要な情報がたくさんあって必要な情報が不足する事があるから、

穴があいたところを理屈で埋めようとする、のと、

もっと情報が少ない時は1つの断片から全体像を組み立ようとする、

の2種類で、あいだはないかも。


あまり言えてない。


今読んでいる本も3行につき5分くらい考え込んでしまうのでなかなか進まないです。

考えないで読むぞ、という決意で読み飛ばさなければ、なかなか最後まで読めません。
読みかけの本が手近なところに50冊くらい。

頭のなかの情報が整理できないのが現実にも及んでいます。


本、書類、服、予定、、、たくさんありすぎ。


>
馬と人は、なにが違う?


ヒトは表情と言動が一致しなかったり、言動と行動が別だったりしませんか?

そういう台本だったのかあ。

その上、台本なんてない、ということになってる台本?

(ボランティアの人が仕事を)イヤイヤやっているように見えると「やらなくていいよ」と言ってあげたくなります。

これは思いやりにならないらしい。


僕は、自分の知っていることは人も知っている。

自分ごときの知っている情報、知識は当然他の人は知っている。

と思っているかもしれません。

このことについて考えるのは難しいです。

自分の認知の外をつかまえるようとしているからか?



From
 雨野  To 齊藤


雨まだ降っています。

さて、いろんな事を書いていますが、

自分がアスペルガーかどうかはよく分かりません。

聞いたこと、読んだことをなぞっているだけなのだろうか、と思う事もあります。


教室はいつも苦痛だったし、

診断前はもしかしたら化学物質過敏症かと思っていたから、

(しかしセンサーの過敏にしては反応があいまいだと思っていた)

それが自閉症だとしたら、

わざとそのようにふるまっている訳ではないのだろう。


グループケアについて説明を聞く。

お話を聞いた部屋は照明がなぜか暖色系で、

手元のプリントを見ていると窓からの昼光色と照明の暖色が入り混じる。

もしあの部屋で手元の紙を傾けている子どもがいたら

光を楽しんでいるのかもしれない(そんな子いないか?)。

馬や犬と接する時に視線を外すというのは重要な信号です。

相手に少し自由を与えるのです。

目線が合わないことは必ずしも悲しいことではありません。

表情を作るとか目線を合わせるとか書いてあるのが人の隠し持っている台本でしょうか?

馬や犬とは目線が合わないのも会話なのですが。


***


「あやふやなモデル」


     実行機能の問題                                       →スケジュール

        |

統合ー選択的注意の問題ーマルチフォーカス     →シングルフォーカス的指示

        |

      感覚の問題                                            →刺激の選択(全ての低減ではなく)


***


たくさん考えたんだけどキリがないのでここまでにします。

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036 社会的判断における妥当性の問題について(2)

036 社会的判断における妥当性の問題について(2

From 雨野 To 齊藤 (20044月)


B
先生のところで3名の当事者の方と会う。

なんとなく楽しかったけれどあまり発言はできなかった。

最後に感想を聞かれて固まってしまいました。

何も浮かばなかったのではなく、

いくつもの解答が浮かび選べなかった。

シーンとして緊張感が高まってしまったので、

やっと「、、、おもしろかったです」と言いました。

「妥当な解釈の選択」はできていません。

その日、初めて紹介された先生がいて、

名前を忘れそうだからしっかり覚えようと意識したのですが、

最後には忘れていました。

ホワイトボードに書いてくれたら覚えていたのに。

先生がいなくなってから当事者 Bさんに聞いたら

覚えていませんでした。

2人で当事者のAさんに聞いてメモしました。

音で聞いただけのことは覚えていないということ自体が、

「認知の外」だったのでは、今までとても不利だったのでは?とか考えつつ、

ともかくいろんな人がいる、似ている人もいる、ということを知ることができたのは収穫でした。

***

普通の人は意識せずに、論理と直感の間を考える。自分はその端と端を考える。

間がない。

***

ダマシオを読みながら連想。

「こころ」は前頭葉に局在しない。前頭葉に機能の問題があっても「こころ」はある。

言葉のない子どもにも「こころ」はある。

前頭葉に辺縁系を含めてもまだ足りない。脳全体でも足りない。

脳障害児にも「こころ」がある。


神経系から脳や脊髄だけを取り出しても意味がない。手の先、足の先まで全ての神経が1つのシステムになっている。神経だけでなく、身体全てが私であり「こころ」だ。

さらに「こころ」は、個人の中ではなく、人と人との間にある。2人の人の間に浮かぶハート、他者との関係の中に「こころ」がある。それを見つめるのはやはり個人の主観であり、自閉症児の「こころ」と主観的に関係を見出せない人は、自閉症児には「こころ」がないと言うかもしれない。

僕は犬や馬と駆け引きをする。関係を見出す。主観的とはいえ、私たちの間には「こころ」がある。

とりとめのない連想でした。



From 
齊藤 To 雨野 (20044月)


こんにちは。ちょっと長いです。暇な時にでも読んでください。

シーンとして緊張感が高まってしまったので、

やっと「、、、おもしろかったです」と言いました。

「妥当な解釈の選択」はできていません。

 

感想は難しいですよね。何に照準を合わせてしゃべったらよいのか、判断しづらいからです。
僕の弟が子どもときに「先生の喜ぶこと言えばいいんだよ」と言っていたことがありました。
まあ、そうなんでしょうが、相手が何を喜ぶのか分からないから難しいんですよね。


雨野さんが、いくつもの感想を思い浮かべたのなら、浮かんだ順に話せばよかったのかもしれないですね。すべての感想が、一度に全部浮かぶわけじゃないですよね。最初に浮かんだ感想って、率直に感じたものに近いのではいでしょうか?思いついた順に記録してみたら、自己分析できるかもしれません。


音だけで聞いた事は覚えていないということ自体が、

認知の外だったのでは今までとても不利だったのでは?とか考えつつ、ともかく

いろんな人がいる、似ている人もいる、ということを知ることができたのは収穫でした。


なるほど。名前を覚えるためには、その人の雰囲気とかエピソードなどを、音声とともに

記憶する必要がありますよね。


僕は普段、子どもの発達相談をしています。子どもの名前は忘れているんだけど、遊んでいるうちに、過去のやり取りが蘇ってきて名前を思い出すということが、たまにあります。人の名前を記憶するには、自分がその人と関与し、五感を通して得た情報をまとめあげることが大事なのでないかと思います。または、意味づけができるかどうかが、鍵と言えるかもしれません。無意味な刺激を保持するのは、難しいことだと思います。

講義に出席する学生の名前を覚えるのが苦手です。講義は、一方的に話すだけなので、学生と関与する時間がほとんどないからだと思います。一方ゼミは、色々と話し合うことができるのでよく覚えることができます。 「よく遅刻してくる子」なんていう、エピソードがあると覚えたくなくても覚えられます。


人の名前を覚えるには、自分との関係性を意識することが重要みたいですね。

幼児期の自閉症の子で、友達と遊ぶようになったら、友達の名前を家で言うようになった、
ということを経験したことがありますが、これは言語能力、記憶力の発達というよりも、
関係性の発達が影響しているのだと思います。


普通の人は意識せずに論理と直感の間を考える。自分はその端と端を考える。

間がない。


 「間」が「ない」のでしょうか?それとも「つながりが弱い」のでしょうか?どちらでしょうか?


さらにこころは個人の中ではなく人と人との間にある。2人の人の間に浮かぶハー

ト、他者との関係の中にこころがある。それを見つめるのはやはり個人の主観であ

り、自閉症児のこころと主観的に関係を見出せない人は自閉症児には「こころ」が

ないと言うかもしれない。


本当にそうですね。お互いの主観的世界を、いかにすり合わせるかが大切だと思います。


音楽を演奏してる複数の奏者を考えてみます。例えばジャズ。コード進行とビートの
種類、お決まりのフレーズなんかは大雑把に決まっていますが、あとはアドリブ。演奏が成功する時って、お互いが溶け合うような感じになるわけです。なんにも打ち合わせしてないのに、息が合ってくる。決めのフレーズがぴったりしてくる、同じタイミングで盛り上がったり、ポーズする瞬間ってあるのです。人間関係もこれと同じなのではないかと思います。心が通じ合うと、まるで自分の考えていることが相手の考えていることに直接通じているような感覚。いわゆる「間主観性」ですね。


定型発達者と自閉症者は、同じ楽器を持っているのだと僕は思います。

ただ、何を演奏にするかには違いがあるかもしれません。


ところで先日、NHKで面白い番組をやっていました。

歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが、“鼓童”という和太鼓集団を演出するプロセスを追ったドキュメンタリー番組でした。1年以上かけて、演目を作り上げていくのですが、面白いのは楽譜がないのです。みんなそれぞれ、思い思いに演奏しながら、玉三郎さんの指揮のもと、即興的に作りあげていくのです。大変興味深かったです。


そのときの玉三郎さんの言葉が大変印象に残りました。


台詞は正確ではないですが、内容をまとめますと次のようなことを言っていました。

「自分勝手なアドリブはやめてください。それは自分だけが気持ちいいのであって、

お客様を置いていくことになるからです。大切なのは、台本です。
同じ台本、同じ言葉、同じ音、同じ間を共有しているという前提があって、初めてアドリブが生きてくるのです」。


ジャズの例に戻ると、同じコード進行、同じビート、共有するフレーズなどが、
台本に相当するのだと思います。
同じ台本を、お互いに持っているから、アドリブが許されるのだし、台本には書かれていなくても理解や予測が可能になるのだと思います。


そこで、雨野さんの以下の文章が気になりました。

僕は犬や馬と駆け引きをする。関係を見出す。主観的とはいえ私たちの間には「こころ」がある。

雨野さんにとって、馬と人は、どこが違うのでしょうか? 雨野さんからみて、人の持っている台本は、どんなところが分かりにくいのでしょうか?

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035 社会的判断における妥当性の問題について(1)

035 社会的判断における妥当性の問題について(1)

 今回から、雨野さんと私で交わしたメールを掲載します。今から約8年前のものです。


From
雨野 To 齊藤 (20044月)


厩舎にボランティアが来た時に、

自分がイヤだったり苦手だったりする仕事は頼まないんですね。

「自分がイヤな事は人もイヤだ。人の気持ちになりなさい」と、

教育されてきたからです。

ところがボランティアさんはそれでは不満なんです。

人によってイヤとか苦手は違う、というのが

反射的に指示を出す時には自分の考えには入ってこないみたいです。

じっくり考えてもピンときてないかもしれない。

これを専門家が「他者の気持ちがわからない」というのはわかるのですが、

一般の人に「人の気持ちがわからない」といわれたら、

そうしようとしてるだけに納得できません。

三つ組みからではない、

もっと良い説明がないかなと思います。

脳科学的な検査や研究をしている機関はS市にあるのでしょうか?



From
齊藤 To 雨野 (20044月)

こんにちは。まだまだ寒いですね。風邪などひいてはいませんか?


僕が、雨野さんのメールを読んで考えたことは、「社会的状況の解釈の妥当性もし
くは適切性を判断することの困難」ということです。雨野さんの「ピンとこない」という点が、ポイントだと思いました。

時間をかければ他者の意図を推測することは可能なのではないかと、雨野さんのメールを読むといつも思います。色々な解釈を挙げることはできるのだと思います。


しかし複数の解釈のうち、どの解釈が妥当なのか判断する段階で、立ち往生しているイメージが浮かんできたのです。どの解釈が妥当なのか、実感が伴っていないから「ピンとこない」のだと思うのです。「解釈すること」と「どの解釈を採用するのか」は機能的に区別しなければならないのではないかと思いました。


このように整理すると、他者の心を想像できないというのは、正確な表現ではないということになります。「想像できない」という表現には、前者の「解釈できない」というニュアンスのほうが強く含まれている気がするからです。


この考え方は、雨野さんの内的事実と一致しますか?


妥当性の判断において、論理だけでは結論が導き出せないものが多いと思います。妥当性を判断する心の働きを「直観」というのでしょうか。ならば「直観」とはなにか、考えなければなりません。


この点については、以前紹介したダマシオの著書「生存する脳」が一つのヒントになるかもしれないと考えています。もし読んでいたら、意見を聞かせてください。 


ダマシオの考え方を借りると、理性(論理)を支える情動や身体の役割が大事だということになります。社会的な状況を読み取り、ある解釈を施す際の、妥当性の基準はどこから来るのかという話です。ダマシオの主張するように、身体からなのでしょうか?


論理的に導き出せないとするならば、一体どこから?

 

僕は、他者とのやり取りの中で、絶えず互いの基準を相互参照しながら、調整が行われ共有されるものなのだと考えています。日常の対人関係を振り返ってみても、いつも阿吽の呼吸で意思疎通しているわけではありません。むしろ、ズレが生まれる場合の方が多いのではないでしょうか。


人間関係において、無駄とも思えるほどの長い時間、意見等の調整に心的努力を費やすのは、この調整が簡単ではないことを証明しているのではないでしょうか。
人と人のコミュニケーションにおいては、完璧な正しい解釈をして、正しい言動をしようと考えるよりも、他者の意図と自分の意図がズレているのではないかと、常にチェックする態度を維持することが大切だと思うのです。

さらにはズレたらそれでおしまいというのではなく、そのズレをどのように調整しあうのかに、コミュニケーションの醍醐味というか、面白さがあると思うのです。そういったやり取りをたくさん、他者と共有した形で経験するうちに、一般的な基準と言うものが、形成されてくる、というのが僕の考えです。そうやって他者と響きあう身体を形成していくのかもしれません。身体は、いわばコミュニケーションにおけるセンサー、アンテナということになります。

           ・「生存する脳-心と脳と身体の神秘-」 アントニオ・R・ダマシオ著 講談社

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034  「テクニカル」のコメントの続き

034 「テクニカル」のコメントの続き

齊藤コメント

 メールでの議論は、約1年間続きました。いろんな事柄について、意見や感想を交換しました。二人で共有する “知識”や“概念”ができました。 そろそろ会って話してもいいのではないかと私から提案し、大学のゼミ室で議論することにしました。


 二人だけではもったいないので、大学院生にも参加してもらいました。しかし、この院生、議論開始から20分ほどでウトウトと眠り始めてしまいました。院生を横目で気にしながら、その日の勉強会を終えました。院生にお灸をすえようと、なぜ眠ったのかと研究室で尋ねました。院生は「今日は眠ってしまってすいません。雨野さんと先生の話を聞いても内容がさっぱりわからないのです。日本語としては分かるのですが、何について話しているのかが全然わかりませんでした。すると急に眠気がきたのです。意味が分からないと、集中力が保てないものなのだとよく分かりました。普段のアスペルガーの方たちの気持ちが分かった気がします。雨野さんと先生の間に挟まった私は、まるで意味を喪失したアスペルガーと一緒だったのかもしれません」と言いました。


 叱ろうと思ったのですが、思わずなるほどと納得してしまいました。雨野さんと私にとって、なじみのある議論が、初めて聞いた院生にとっては、全く理解できないものだったわけです。雨野さんと私だけは、二人だけの“暗黙の了解”を共有していたのだと言えます。


 この時期、私はいつも「雨野さんならば、どのように考えるだろうか」と暇さえあれば想像していました。相手に同一化しようとすると考え方や動作が似てくるように、私も自然に、言葉遣いや思考の肌理が雨野さんに似てきました。似てきたことに気づいたのは、妻と口げんかすることが増えたことがきっかけでした。


 どういうことかと言いますと、家に帰って妻から一日あったことを、色々と聞くわけですが、なにせ短い時間にいっぺんに話そうとするわけですから、理路整然とは言い難いのです。その話し方が、いちいち気になり始めました。例を挙げますと、「主語が無い」「複数のエピソードが並行して語られている」「感情的な問題が優先されていて、問題解決は二の次」「時間的順序がバラバラ」「オチがない」などなど、雨野さんとのメールでは考えられないほどの言葉のあいまいさに苛立ちを感じるようになりました(妻がこれを読むときっと怒ると思われます)。なので、私はいちいち「それって誰の話でしょうか?」「その話にはどんな意味があるのでしょうか?」「先ほどの話と、今の話との関連は?どっちが原因なの?」などと、無粋な質問を夫婦の団欒において尋ねてしまうようになりました。

妻は、私の態度に怒り心頭。そりゃあそうです。自宅の茶の間で、愛する夫とただ会話を楽しみたいのであって、面接を受けているのではありませんから。私の目の前に仁王立ちになった妻は「あんたねえ、心理学をやっているくせに、人の心がわからないのおお!“今日は大変だったね”って共感しろ!」と怒鳴られる始末。「やれやれ」でした。


 この話を雨野さんにすると、ニコッと笑って「僕もそうなんです」とパートナーとのエピソードを話してくれました。雨野さんに慰められながら、「定型発達の会話は難しいね」と二人はしみじみ語りあったのでした。

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