2012年4月の記事一覧
041 想像力と会話
041 想像力と会話
From 雨野 To 齊藤 (2004年7月)
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A「××君のこと知ってる?」
私「はい」(知ってる)
A「○○に就職したんだよね」
私「うん」(ただのあいづち、知らない)
A「知ってるんだ」
私「、、、」
(僕が知っていることが既定の事実なら僕はどこでそれを知ったのだろうか、と考えている)
会話は進みやがて食い違う。
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A「函館のご両親は元気?」
私「、、、はい」
(函館に両親はいない。親戚はいるがその事をAさんにはいつ言っただろうか。誰か他の人の両親が函館にいるのだろうか。とにかく両親は元気だ)
A「こちらには来ないの?」
私「鼓膜の手術をしてから飛行機に乗れないんです」
A「函館から飛行機???」
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親知らず抜歯
歯科医「痛かったら教えてください」
私(ちょっと痛くなってきた。普通はこれくらいで言っていいのだろうか)
歯科医「もう少しですよ」
私(かなり痛くなってきた。これは一般的に、言ってもいいレベルかもしれない)
歯科医「はい、我慢してください」
私(とんでもない痛さだ。これは言わなければ)手をあげようとする
歯科医「これで最後だから動かないで。我慢して」
私(え!ガマン?そうなの?)限界越え記憶なし。数か月痺れ残る。
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ある会議
一同 活発な議論。
A「では雨野さんはどう思いますか?」
私「(熱弁)」
一同「、、、」
僕が何かいうと賛成も反対もしてもらえないのですがどうしてでしょうか?
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雇用主との会話
主「何を考えているんだ」
私(説明)こわくなる。
主「そんな事を聞いているんじゃない」
私(さらに資料や事実を並べる)かなしくなる。
主 怒る、やがてあきれる。
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とにかく相手の意図を読み違えるみたい。
想像力の障害とはこのことでしょうか?
これは自閉と非自閉の文化の違いではなく、想像力の機能の問題のような気がします
MRI でわかりますか?
「情報意図」は受け取れるけど「伝達意図」を受け取っていないのでしょう。
動物は、この二つがもしかしたら分かれていません
だからコミュニケーションがとれます。
人間はウソツキだなー。
040 冷静と情熱のあいだ(2)
040 冷静と情熱のあいだ(2)
From 雨野 To 齊藤
僕は人から愛想が良い、と愛想がないの両方の評価を受けます。
実はいいという評価をくれる人は、
その人自身が朗らかで、元気に近付いてくれる人です
「愛想がないことを悪いと評価する人は、
その人自身があまり表情をあらわしていないことが多いです。
(ミラーシステムは働いている。むしろ引きずられる?)
自分からの感情の発信がうまくできません。
(知と情の距離が遠い?)
人の話にはあまり反応しないのに、
相手の表情の読み取りはしています。
人が聞いてくれないとか怒っているとかが目に入ると困惑しますが、
相手が僕の表情を見て困っていることはその場ではあまり考慮されていません。
(だいたいよく見ていない。見ると迷うから)
考えて表情を作る事もあるし、ごく自然にできることもありますが、
一般的な無意識のサインの取り交わしとは、
わずかに違ってしまっているのではないかと思います。
愛想がなく疎遠でよそよそしい態度になってしまうことも多いと思います。
(近付きたくない)
それなのに言っている理屈だけはなんとなく正しいとしたら、
無意識にそれを受け取ってしまう相手は腹立たしいだけですね。
自分で修正する訓練をしても相手の無意識に訴えかけるのは難易度が高そうです。
わかっているとか、気にしない人ならいいのですが。
共同注意というのは、
私とあなたで同時に対象物をみていると言えそうですが、
これを視線が合うという場合で考えてみます。
1:あなたは私を見ている(あなた→「私」)
2:私を見ているあなたを私は見ています(あなた→「私」)←私
「私」に対する共同注意のメッセージのやりとり。
なんだかややこしいですが、
僕が、時々相手を見たところで1しか行われていないのだから、
(動物的、、、)
相手の心を想像したメッセージにはなっていないわけです。
わざと、ではなくてそうするのが自分にとって自然なのですが、
なんだろうか、これは。
(動物的な情動をコントロールするために知が突出する?)
理―――――◇―――――情
これ?
From 齊藤 To 雨野
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1:健常 理―――◇―――情
2:間違った自閉 理―◇―情
3:間違ったアスペ 理―――◇―情
4:アスペルガー 理―――――◇―――――情
カナー
5:動物 理――◇―――――情
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この図と解説は面白かったです。僕も、どこかで2や3のような印象をもっていたかも知
れない。反省。考え直します。
4の場合、情動が未分化なのだと捉えていいのかな。雨野さんは動物的と表現してる
けれども。感覚過敏を、「快-不快」の水準と結び付けているのは、「そうだよね!」と思いました。
情報処理モデルの問題としての感覚の問題ではなく、感覚を評価する下位の情動回路の暴走と捉えた方がいいんじゃないかと思っていたので。そうじゃないと掃除機の音は大丈夫なのにドライヤーの音は嫌いということがうまく説明できないもの。
>私とあなたで同時に対象物をみていると言えそうですが
>これを視線が合うという場合で考えてみます
>1:あなたは私を見ている(あなた→「私」)
>2:私を見ているあなたを私は見ています(あなた→「私」)←私
>「私」に対する共同注意のメッセージのやりとり
>なんだかややこしいですが
>僕が時々相手を見たところで1しか行われていないのだから
>(動物的、、、)
>相手の心を想像したメッセージにはなっていないわけです
相手の表情は読み取っているのに、相手の表情に影響を与えている自分の言動は、モニターされていないわけですね。すると、「相手→私→相手→・・・」というような自分と相手の相互作用ではないのですね。本当は相互的なやり取りのはずなのに、相手の情報だけだと、情報が分断されてしまいますね。
意識すればできるものなのでしょうか?
039 冷静と情熱のあいだ
039 冷静と情熱のあいだ
From 雨野 To 齊藤
こんにちは。
実行機能の問題 →スケジュール
(脳機能) |
統合ーマルチフォーカスー選択的注意の問題 →シングルフォーカス的指示
|
感覚の問題 →刺激の選択
(快、不快)
多少なりとも自分の実感のあるあたりから思い浮かべたので、
皮質下が無視されているのではと思います。
実行機能についてはいまいちわかっていないのですが、
運動の不器用さも長期計画の失敗も、
考えている要素が多い上に、
順位を決められないことに原因があるのではと思うのですが。
***
情と理について考える。
言葉の定義は大変あいまいに使っています。
1:健常 理―――◇―――情
2:間違った自閉 理―◇―情
3:間違ったアスペ 理―――◇―情
4:アスペルガー 理―――――◇―――――情
5:動物 理――◇―――――情
理と情のバランスがとれているのが健常者(1)だとして(そんな人いない)。
理性的でもなく情動も乏しい自閉像(2)を思い浮かべる人が多いように思います。
また無闇に才能があるのだと思っている人もいますが、
その場合でも情動の低さを想像している事があります(3)。
先日当事者の方の講演会に行ったら、
当事者に向かい「アスペルガーの人は愛情をもつことがあるのか」、
という質問をしている人がいました。はあ、、、。
説明や論理で物事を捉えつつ同時にある種の感覚過敏、
見なれない物や匂いに恐れや驚きがあるのは非常に動物的、情動的だと思います。
それと同時に理屈も好きというモデル(4)を考えてみました。
カナーの理はどこにくるでしょう。
健常者向けの知能テストではわからないかも。
理と情の間に距離があってあえて言えば薄くなっています。
それで健常者の考え方が理と情が混じっていて濃いように感じるのかも。
ちょっとムチャなことを書いているような気もしますが、
こんな事も考えたということで。
僕は電話に出るのが嫌いですが、
それは音ではなく不意のできごとがイヤだからです。
で、他の人もきっと同じようにイヤだろうと思うから、
かけるのも決意がいります。
電話にでることに抵抗のない人は、
僕も抵抗なく電話にでられると思っています。
お互いに自分の経験から相手の心を推測していますがハズレです。
1対1ならお互いにハズレ!と言っていればいいのですが、
電話にでられる人がもう一人現れると途端に僕の立場は、
常識も心もない人になってしまいます。
これから電話にでるのは頼れる人にお願いしようと思います。
少しは立場が回復できるでしょうか。
教育的介入が無駄ではないというところに辿り着きたかったのですが、
全然届きませんでした。
実行機能障害でした。
038 社会的判断における妥当性の問題について(4)
038 社会的判断における妥当性の問題について(4)
From 雨野To 齊藤
> 馬や犬と接する時に視線を外すというのは重要な信号です
> 相手に少し自由を与えるのです
僕も人間相手に視線をはずす時があるけど、その場合「戸惑い」「拒否」「後ろめたさ」など、ネガティブな感情を持ったときが多い気がします。あと、相手の迫力に圧倒されているとか。この場合は「恐怖」「敗北」という感情でしょうね。
一人で考えを整理するために意識的に視線を外すことはありますが、多用すると相手に良くない印象を与えてしまうので、気を使います(つまり相手の反を観察しながら、ということです)。
かといって、相手の目をじっと見据えるのは、失礼に当たる場合もあるので、時々視線を外しますが、それもタイミングに気を使います。相手が一番伝えたいと思って話しているところで、視線を外すと、真面目に聞いていないように思われるかもしれないからです。
「話すときには、目を合わせる」といった固定的な台本ではなく、場面と相手の反応に合わせて、臨機応変といったところでしょうか。
> 「あやふやなモデル」
> 実行機能の問題 →スケジュール
> |
> 統合ー選択的注意の問題ーマルチフォーカス →シングルフォーカス的指示
> |
> 感覚の問題 →刺激の選択(全ての低減ではなく)
僕自身は、「実行機能」は、対人的な相互作用を通して、構成されていると考えています(もちろんすべてではありませんが)。
実行機能を導いている機能はなんなのか」という疑問が湧いてきます。「実行機能」という小さなコビトが頭の中にいるわけではありませんよね。実行機能の実行機能というのを想定しなければならなくなります。「こうなると無限に、上位の管理システムを想定しなければならなくなります。閉じたシステムとして考えると、「実行機能」の実態がとてもあいまいなものになります。
社会的状況に合わせて適切なプランニングをしたり、必要のない刺激に向かう注意を抑制し、適切な刺激に注意を自動的に振り向けるといった機能は、長い期間の「学習」の結果なのではないかと思うのです。
定型発達児の場合、乳児の時から「社会的参照」「共同注意」を通して、他者の外界に対する情動的評価を基準にして、世界の心内モデルを構成したり、他者の注意の方向をモニターしたりしています。プランを立てるのかについても同じことが言えると思うのです。白紙の状態から、独力で考えるのではなく、その多くを他者を参照し、模倣するというあり方です。
この論に従うと自閉症圏の人は、選択的注意や実行機能そのものに機能の欠陥があるというよりも、それらの能力を獲得する土台が危弱であると言えます。
他者と経験を共有するという志向性がまずあることが前提になのではないかと思います。
雨野さんの「あやふやなモデル」には、主に皮質レベルの心理機能について列挙されているように見えます。皮質下のシステムは、どこに、どのように入ってくるのでしょうか?
どのように皮質と皮質下の機能がどのように影響しあっているのかについては、僕の浅い知識では何ともいえませんが、どうもそこにヒントがあるような気がしてならないのです。人が、他者に対してオープンなシステムであろうとすると、他者と物理的に交感する身体や身体反応としての情動が大切になってくると思うからです。
ぶっちゃけた言い方で言えば、情と理とのバランスということでしょうか。