雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

雨野カエラのエッセイ

001 はじめに

001 はじめに


雨野カエラ

 まず知ってもらいたいのは自閉症者でも知的障害者でも、定型発達者でも、本人に見えている世界がその人にとってノーマルで普通であたりまえだってこと。あなたが自分の見ている世界のことを正常で標準の世界だと思っているのと同じくらいに。

 そしてあなたと僕たちを隔てる明確な線はどこにも見えないってこと。

 初めて聞いた時はびっくりするような感覚のちがいがあったとしても、ヒトの感覚を越えたものが見えたり聞こえたりはしない。あなたの感覚と同じ線上に僕たちはいる。本当は感覚ではなく認知の違いなんだと思う。認知の違いってうまく説明できないけど、同じ大きさの音でも気になったり気にならなかったりすることかな。僕はとてもたくさんのことを気にしなければならない。気のせいじゃなく現実のこととして。

 この人たち(アスペルガー症候群)は知覚過敏だなんてどこかで聞いた人は、この部屋は眩しいでしょうと言って、薄暗い部屋で話をしようとするけど、みんながみんな眩しいと思うわけじゃない。普通の人が気にするような「明るいか暗いか」ではなくもっと細かい基準。僕の場合は、照明器具の種類や数や配置によってサングラスをかけたりかけなかったりする。それがわからない人たちは照明器具にこだわりがあるんだなんて納得の仕方をするけど、意味のないこだわりじゃない。そのことに前もって気をつけていないと話に集中できなかったり、気分がわるくなったり、家に帰ってからとてもイライラしたりするんだ。だから感覚のことについては勝手に想像するより本人に聞いてみるのがいちばん。先回りして選択の幅を狭めるより、本人の様子をしっかり見てきめたほうがいいと思う。歩いて五分の距離をみんなと一緒に車に乗らなかった時に、僕が人と車に乗るのがいやなのだとみんなに説明してくれた人がいる。でもはずれ。大抵の人と一緒に車に乗ることはできる。ただ五分の散歩を楽しみたかっただけなんだ。先回りしないで本人の意見を聞いてほしい。

 僕たちとのあいだに線を引こうとするのとは逆に、何を言っても、定型発達者も同じだよと言う人もいる。歩み寄りは素晴らしいけれど、何でもそれで理解しようとするのは間違っている。突然の出来事が苦手なんですと言ったら、誰でも突然、事故にあったらびっくりするよ、みんな同じ、気にすることないと言ってくれる。でも僕の言う突然の出来事はチャイムが鳴ることや電話が突然かかってくること。誰かに声をかけられること、先の見えない話をすること(それをコミュニケーションというらしい)。それだけで事故の知らせを聞いたくらいびっくりしたりイヤな気持ちになったりするとしたら本当に毎日たいへんだと思わない?

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齊藤コメント

 雨野さんとの初めての出会いは、印象的でした。彼は、帽子を目深にかぶり、サングラス姿で現れました(それには理由があったのですが)。お互い緊張しつつ、机をはさんで対角線上に座りました。しばらくの沈黙のあと、雨野さんは「僕の周りには、援助する人といじめる人の二種類しかいませんでした」と語り始めました。僕がどのように返答してよいか考え込んでいたら、「この人たちは、僕にとっては同じ人たちです」と加えておっしゃいました。私は、援助する人”と“いじめる人”が同じとはどういうことであろうと、また考え込んでしまったのでした。考えても答えが見つからなかったので「どのような意味で同じなのですか?」と率直に尋ねました。すると雨野さんは「いじめる人は、僕が何を感じ何を考えているかを考えない人たちです。そして援助する人も、僕が何で困っているのかを考えずに(確認せずに)アドバイスをしたり支援をしたりします。本当は困っていないことに対して、どんどんと支援が進んでいくことがありました」と説明してくれました。我々定型発達者とアスペルガー症候群者は、連続線上にあるものですが、困っているポイントが微妙に違っていることは確かです。雨野さんの話は、支援をする際、主観で相手を一方的に解釈することの危険性について気付かせてくれます。

 雨野さんはこれまでたくさんのアドバイスと支援を受けてきたに違いありません。また雨野さんは大変勉強熱心なかたですから、関連図書には精通していました。つまり障害に関する知識、専門家が口にするパターン的な支援方法についての知識は豊かでした。僕は雨野さんに対し、何を提供することできるだろうかと相談開始早々、困ったことを記憶しています。困った僕をみかねたように雨野さんは「僕は生活する上で、意味がわからないことがたくさんあります。そのことを周囲の人に尋ねることはできません。なぜなら、彼らは理由を説明してくれるのではなく、評価することが多いからです。僕が知りたいのは、評価(良いか悪いか、上手か下手か)ではなく、(行為・習慣の)意味なのです」とおっしゃいました。確かにそうです。日常の行為や習慣について、その意味を我々はあまり意識していません。改めて説明するとなると難しいことが多いと思います。
 
 「例えばどんなことの意味がわからないのですか?」と尋ねると「挨拶です。挨拶は何のためにするのでしょうか?普段、僕は挨拶をすることができます。しかし、その意味は分かりません。意味が分からないので、ぎこちなくなってしまっていると思います。挨拶の意味を説明してくれませんか?」と言いました。早速、頭の中でいくつか定義してみましたが、どれも挨拶の一側面を記述するものばかりでした。定義をいくら積み重ねても、かならず説明しきれない余白が残ってしまいます。はたして挨拶を定義することは可能なのだろうか?とも思いました。なぜなら挨拶は、どちらかというと感情的・身体的な交感なのではないかと思ったからです。なので、定義することを放棄することにしました。「僕は挨拶の意味をきちんと定義づけることができないようです。おそらく、他の人々にとってもそうなのだと思います」と苦しい説明をしました。すると雨野さんは「意味を説明できないのに、皆さんは自然に挨拶をしているということですか?」と驚いた様子でした。雨野さんはしばらく考えた後に「わかりました。僕はこれまで挨拶の意味が分からないばかりに、挨拶が得意でないと思ってきましたが、どうやら逆なのですね。僕は意味を考えすぎていたのかもしれません。言葉で定義できないと行動できないのが僕なのですね」と納得した様子でした。

 雨野さんはこのとき、他者(定型発達)を理解したと同時に、自己(アスペルガー症候群)も理解したのだと思います。相談とは、人と人がコミュニケートすることによって、お互いの共通点と相違点が分かるようなあり方が大切なんだなと改めて実感しました。僕は、雨野さんの捉え方に興味を持ち、驚き、そして同じように雨野さんも私の捉え方に興味を持ち、そして驚いたのでした。雨野さんの文章の冒頭にあるように、我々はもっとたくさん、そして深く対話する必要性があるようです。お互いを分ける明確な境界線は見えないわけですから。

 ちなみに、雨野さんが帽子とサングラスをかけていた理由は、私との会話に集中するために、余計な刺激に注意が向かないようにとの意図があったのでした。帽子のつばによって視野の上の部分はさえぎり、さらにサングラスによって目の前の風景に枠を設ける効果があったのです。その意図が分かれば、なるほどと納得できますが、雨野さんの意図を理解しない人は、なんて礼儀を知らない人間なのだろうと思うでしょう。そして「人前では帽子とサングラスをとりなさい」と一方的に注意をするだけに終わってしまうでしょう。これでは雨野さんのなぞは永遠に解けないのだけは確かです。他者の内面へ想像力を働かせなければならないのは、アスペルガー症候群の方たちだけではありません。同じくらい我々も想像する必要があるのです。

 

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