雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

雨野カエラのエッセイ

041 想像力と会話

041 想像力と会話

 

From 雨野  To 齊藤 (20047月)

 

********************************

 

A「××君のこと知ってる?」

私「はい」(知ってる)

A「○○に就職したんだよね」

私「うん」(ただのあいづち、知らない)

A「知ってるんだ」

私「、、、」

 (僕が知っていることが既定の事実なら僕はどこでそれを知ったのだろうか、と考えている)

会話は進みやがて食い違う。

 

********************************

 

A「函館のご両親は元気?」

私「、、、はい」

 (函館に両親はいない。親戚はいるがその事をAさんにはいつ言っただろうか。誰か他の人の両親が函館にいるのだろうか。とにかく両親は元気だ)

A「こちらには来ないの?」

私「鼓膜の手術をしてから飛行機に乗れないんです」

A「函館から飛行機???」

 

********************************

 

親知らず抜歯

歯科医「痛かったら教えてください」

私(ちょっと痛くなってきた。普通はこれくらいで言っていいのだろうか)

歯科医「もう少しですよ」

私(かなり痛くなってきた。これは一般的に、言ってもいいレベルかもしれない)

歯科医「はい、我慢してください」

私(とんでもない痛さだ。これは言わなければ)手をあげようとする

歯科医「これで最後だから動かないで。我慢して」

私(え!ガマン?そうなの?)限界越え記憶なし。数か月痺れ残る。

 

********************************

 

ある会議

一同 活発な議論。

A「では雨野さんはどう思いますか?」

私「(熱弁)」

一同「、、、」

僕が何かいうと賛成も反対もしてもらえないのですがどうしてでしょうか?

 

********************************

 

雇用主との会話

主「何を考えているんだ」

私(説明)こわくなる。

主「そんな事を聞いているんじゃない」

私(さらに資料や事実を並べる)かなしくなる。

主 怒る、やがてあきれる。

 

********************************

 

とにかく相手の意図を読み違えるみたい。

想像力の障害とはこのことでしょうか?

これは自閉と非自閉の文化の違いではなく、想像力の機能の問題のような気がします

MRI でわかりますか?

「情報意図」は受け取れるけど「伝達意図」を受け取っていないのでしょう。

動物は、この二つがもしかしたら分かれていません

だからコミュニケーションがとれます。

人間はウソツキだなー。

 

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040 冷静と情熱のあいだ(2)

040 冷静と情熱のあいだ(2)

 

 

From 雨野  To 齊藤

 

僕は人から愛想が良い、と愛想がないの両方の評価を受けます。

実はいいという評価をくれる人は、

その人自身が朗らかで、元気に近付いてくれる人です

「愛想がないことを悪いと評価する人は、

その人自身があまり表情をあらわしていないことが多いです。

(ミラーシステムは働いている。むしろ引きずられる?)

 

自分からの感情の発信がうまくできません。

(知と情の距離が遠い?)

 

人の話にはあまり反応しないのに、

相手の表情の読み取りはしています。

人が聞いてくれないとか怒っているとかが目に入ると困惑しますが、

相手が僕の表情を見て困っていることはその場ではあまり考慮されていません。

(だいたいよく見ていない。見ると迷うから)

 

考えて表情を作る事もあるし、ごく自然にできることもありますが、

一般的な無意識のサインの取り交わしとは、

わずかに違ってしまっているのではないかと思います。

愛想がなく疎遠でよそよそしい態度になってしまうことも多いと思います。

(近付きたくない)

 

それなのに言っている理屈だけはなんとなく正しいとしたら、

無意識にそれを受け取ってしまう相手は腹立たしいだけですね。

自分で修正する訓練をしても相手の無意識に訴えかけるのは難易度が高そうです。

わかっているとか、気にしない人ならいいのですが。

 

共同注意というのは、

私とあなたで同時に対象物をみていると言えそうですが、

これを視線が合うという場合で考えてみます。

 

1:あなたは私を見ている(あなた→「私」)

2:私を見ているあなたを私は見ています(あなた→「私」)←私

 

「私」に対する共同注意のメッセージのやりとり。

なんだかややこしいですが、

僕が、時々相手を見たところで1しか行われていないのだから、

(動物的、、、)

 

相手の心を想像したメッセージにはなっていないわけです。

わざと、ではなくてそうするのが自分にとって自然なのですが、

なんだろうか、これは。

(動物的な情動をコントロールするために知が突出する?)

 

理―――――◇―――――情

 

これ?

 

 

From 齊藤  To 雨野

 

----------------------------------------------------------------------------

 

 

  1:健常           理―――◇―――情

 

  2:間違った自閉        理―◇―情

 

  3:間違ったアスペ    理―――◇―情

 

  4:アスペルガー   理―――――◇―――――情

   カナー

 

  5:動物             理――◇―――――情

 

----------------------------------------------------------------------------

 

この図と解説は面白かったです。僕も、どこかで2や3のような印象をもっていたかも知

れない。反省。考え直します。

 

4の場合、情動が未分化なのだと捉えていいのかな。雨野さんは動物的と表現してる

けれども。感覚過敏を、「快-不快」の水準と結び付けているのは、「そうだよね!」と思いました。

情報処理モデルの問題としての感覚の問題ではなく、感覚を評価する下位の情動回路の暴走と捉えた方がいいんじゃないかと思っていたので。そうじゃないと掃除機の音は大丈夫なのにドライヤーの音は嫌いということがうまく説明できないもの。

 

>私とあなたで同時に対象物をみていると言えそうですが

>これを視線が合うという場合で考えてみます

>1:あなたは私を見ている(あなた→「私」)

>2:私を見ているあなたを私は見ています(あなた→「私」)←私

>「私」に対する共同注意のメッセージのやりとり

>なんだかややこしいですが

>僕が時々相手を見たところで1しか行われていないのだから

>(動物的、、、)

>相手の心を想像したメッセージにはなっていないわけです

 

相手の表情は読み取っているのに、相手の表情に影響を与えている自分の言動は、モニターされていないわけですね。すると、「相手→私→相手→・・・」というような自分と相手の相互作用ではないのですね。本当は相互的なやり取りのはずなのに、相手の情報だけだと、情報が分断されてしまいますね。

 

意識すればできるものなのでしょうか?

 

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039 冷静と情熱のあいだ

039 冷静と情熱のあいだ


From 雨野  To 齊藤

こんにちは。

             実行機能の問題       →スケジュール

      (脳機能)     |

 統合ーマルチフォーカスー選択的注意の問題 →シングルフォーカス的指示

        |

      感覚の問題                 →刺激の選択

      (快、不快)


多少なりとも自分の実感のあるあたりから思い浮かべたので、

皮質下が無視されているのではと思います。

実行機能についてはいまいちわかっていないのですが、

運動の不器用さも長期計画の失敗も、

考えている要素が多い上に、

順位を決められないことに原因があるのではと思うのですが。

***


情と理について考える。

言葉の定義は大変あいまいに使っています。


1:
健常                         理―――◇―――情


2:
間違った自閉           理―◇―情


3:
間違ったアスペ      理―――◇―情


4:
アスペルガー   理―――――◇―――――情

5:動物                理――◇―――――情

理と情のバランスがとれているのが健常者(1)だとして(そんな人いない)。

理性的でもなく情動も乏しい自閉像(2)を思い浮かべる人が多いように思います。

また無闇に才能があるのだと思っている人もいますが、

その場合でも情動の低さを想像している事があります(3)

先日当事者の方の講演会に行ったら、

当事者に向かい「アスペルガーの人は愛情をもつことがあるのか」、

という質問をしている人がいました。はあ、、、。


説明や論理で物事を捉えつつ同時にある種の感覚過敏、

見なれない物や匂いに恐れや驚きがあるのは非常に動物的、情動的だと思います。

それと同時に理屈も好きというモデル(4)を考えてみました。

カナーの理はどこにくるでしょう。
健常者向けの知能テストではわからないかも。

理と情の間に距離があってあえて言えば薄くなっています。

それで健常者の考え方が理と情が混じっていて濃いように感じるのかも。

ちょっとムチャなことを書いているような気もしますが、

こんな事も考えたということで。


僕は電話に出るのが嫌いですが、

それは音ではなく不意のできごとがイヤだからです。

で、他の人もきっと同じようにイヤだろうと思うから、

かけるのも決意がいります。

電話にでることに抵抗のない人は、

僕も抵抗なく電話にでられると思っています。


お互いに自分の経験から相手の心を推測していますがハズレです。

1対1ならお互いにハズレ!と言っていればいいのですが、

電話にでられる人がもう一人現れると途端に僕の立場は、

常識も心もない人になってしまいます。

これから電話にでるのは頼れる人にお願いしようと思います。

少しは立場が回復できるでしょうか。


教育的介入が無駄ではないというところに辿り着きたかったのですが、

全然届きませんでした。

実行機能障害でした。

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038 社会的判断における妥当性の問題について(4)

038 社会的判断における妥当性の問題について(4



From 雨野To 齊藤



> 馬や犬と接する時に視線を外すというのは重要な信号です

> 相手に少し自由を与えるのです

 

僕も人間相手に視線をはずす時があるけど、その場合「戸惑い」「拒否」「後ろめたさ」など、ネガティブな感情を持ったときが多い気がします。あと、相手の迫力に圧倒されているとか。この場合は「恐怖」「敗北」という感情でしょうね。

 

一人で考えを整理するために意識的に視線を外すことはありますが、多用すると相手に良くない印象を与えてしまうので、気を使います(つまり相手の反を観察しながら、ということです)。

かといって、相手の目をじっと見据えるのは、失礼に当たる場合もあるので、時々視線を外しますが、それもタイミングに気を使います。相手が一番伝えたいと思って話しているところで、視線を外すと、真面目に聞いていないように思われるかもしれないからです。

「話すときには、目を合わせる」といった固定的な台本ではなく、場面と相手の反応に合わせて、臨機応変といったところでしょうか。

> 「あやふやなモデル」

>      実行機能の問題              →スケジュール

>         |

> 統合ー選択的注意の問題ーマルチフォーカス →シングルフォーカス的指示

>         |

>       感覚の問題                →刺激の選択(全ての低減ではなく)

僕自身は、「実行機能」は、対人的な相互作用を通して、構成されていると考えています(もちろんすべてではありませんが)。

実行機能を導いている機能はなんなのか」という疑問が湧いてきます。「実行機能」という小さなコビトが頭の中にいるわけではありませんよね。実行機能の実行機能というのを想定しなければならなくなります。「こうなると無限に、上位の管理システムを想定しなければならなくなります。閉じたシステムとして考えると、「実行機能」の実態がとてもあいまいなものになります。

社会的状況に合わせて適切なプランニングをしたり、必要のない刺激に向かう注意を抑制し、適切な刺激に注意を自動的に振り向けるといった機能は、長い期間の「学習」の結果なのではないかと思うのです。  
 

定型発達児の場合、乳児の時から「社会的参照」「共同注意」を通して、他者の外界に対する情動的評価を基準にして、世界の心内モデルを構成したり、他者の注意の方向をモニターしたりしています。プランを立てるのかについても同じことが言えると思うのです。白紙の状態から、独力で考えるのではなく、その多くを他者を参照し、模倣するというあり方です。


この論に従うと自閉症圏の人は、選択的注意や実行機能そのものに機能の欠陥があるというよりも、それらの能力を獲得する土台が危弱であると言えます。


他者と経験を共有するという志向性がまずあることが前提になのではないかと思います。


雨野さんの「あやふやなモデル」には、主に皮質レベルの心理機能について列挙されているように見えます。皮質下のシステムは、どこに、どのように入ってくるのでしょうか?

どのように皮質と皮質下の機能がどのように影響しあっているのかについては、僕の浅い知識では何ともいえませんが、どうもそこにヒントがあるような気がしてならないのです。人が、他者に対してオープンなシステムであろうとすると、他者と物理的に交感する身体や身体反応としての情動が大切になってくると思うからです。

 

ぶっちゃけた言い方で言えば、情と理とのバランスということでしょうか。

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037 社会的判断における妥当性の問題について(3)

037 社会的判断における妥当性の問題について(3


From 雨野  To 齊藤 (20045月)


 

今日は「対外的なやる事」がいくつかあって、

朝からひとりでわめいていました(人がいるときはしません)、

一つのスケジュール欄にやる事が全部書き込んであるみたいでした。

作業の途中でしゃがんで固まって、

スケジュール欄を「今日やる事」と、

「明日以降にする事」(ずいぶん先まで)にやっとの思いで分けました。


「今日」の欄にも時間の目盛はなかったので、

順不同で詰め込んであることにはかわりません。

時間的な締め切りが来るまでどうしようどうしようと考えていました。

考えながら、なるほどこういう人には、

一つずつ順に予定を示してやるのが有効なのかと観察も自分でしていました。


ためになるなあ、自分。


>
論理と直感の間


これは後で、ちょっとどうかなあ?と思いましたが、

不要な情報がたくさんあって必要な情報が不足する事があるから、

穴があいたところを理屈で埋めようとする、のと、

もっと情報が少ない時は1つの断片から全体像を組み立ようとする、

の2種類で、あいだはないかも。


あまり言えてない。


今読んでいる本も3行につき5分くらい考え込んでしまうのでなかなか進まないです。

考えないで読むぞ、という決意で読み飛ばさなければ、なかなか最後まで読めません。
読みかけの本が手近なところに50冊くらい。

頭のなかの情報が整理できないのが現実にも及んでいます。


本、書類、服、予定、、、たくさんありすぎ。


>
馬と人は、なにが違う?


ヒトは表情と言動が一致しなかったり、言動と行動が別だったりしませんか?

そういう台本だったのかあ。

その上、台本なんてない、ということになってる台本?

(ボランティアの人が仕事を)イヤイヤやっているように見えると「やらなくていいよ」と言ってあげたくなります。

これは思いやりにならないらしい。


僕は、自分の知っていることは人も知っている。

自分ごときの知っている情報、知識は当然他の人は知っている。

と思っているかもしれません。

このことについて考えるのは難しいです。

自分の認知の外をつかまえるようとしているからか?



From
 雨野  To 齊藤


雨まだ降っています。

さて、いろんな事を書いていますが、

自分がアスペルガーかどうかはよく分かりません。

聞いたこと、読んだことをなぞっているだけなのだろうか、と思う事もあります。


教室はいつも苦痛だったし、

診断前はもしかしたら化学物質過敏症かと思っていたから、

(しかしセンサーの過敏にしては反応があいまいだと思っていた)

それが自閉症だとしたら、

わざとそのようにふるまっている訳ではないのだろう。


グループケアについて説明を聞く。

お話を聞いた部屋は照明がなぜか暖色系で、

手元のプリントを見ていると窓からの昼光色と照明の暖色が入り混じる。

もしあの部屋で手元の紙を傾けている子どもがいたら

光を楽しんでいるのかもしれない(そんな子いないか?)。

馬や犬と接する時に視線を外すというのは重要な信号です。

相手に少し自由を与えるのです。

目線が合わないことは必ずしも悲しいことではありません。

表情を作るとか目線を合わせるとか書いてあるのが人の隠し持っている台本でしょうか?

馬や犬とは目線が合わないのも会話なのですが。


***


「あやふやなモデル」


     実行機能の問題                                       →スケジュール

        |

統合ー選択的注意の問題ーマルチフォーカス     →シングルフォーカス的指示

        |

      感覚の問題                                            →刺激の選択(全ての低減ではなく)


***


たくさん考えたんだけどキリがないのでここまでにします。

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036 社会的判断における妥当性の問題について(2)

036 社会的判断における妥当性の問題について(2

From 雨野 To 齊藤 (20044月)


B
先生のところで3名の当事者の方と会う。

なんとなく楽しかったけれどあまり発言はできなかった。

最後に感想を聞かれて固まってしまいました。

何も浮かばなかったのではなく、

いくつもの解答が浮かび選べなかった。

シーンとして緊張感が高まってしまったので、

やっと「、、、おもしろかったです」と言いました。

「妥当な解釈の選択」はできていません。

その日、初めて紹介された先生がいて、

名前を忘れそうだからしっかり覚えようと意識したのですが、

最後には忘れていました。

ホワイトボードに書いてくれたら覚えていたのに。

先生がいなくなってから当事者 Bさんに聞いたら

覚えていませんでした。

2人で当事者のAさんに聞いてメモしました。

音で聞いただけのことは覚えていないということ自体が、

「認知の外」だったのでは、今までとても不利だったのでは?とか考えつつ、

ともかくいろんな人がいる、似ている人もいる、ということを知ることができたのは収穫でした。

***

普通の人は意識せずに、論理と直感の間を考える。自分はその端と端を考える。

間がない。

***

ダマシオを読みながら連想。

「こころ」は前頭葉に局在しない。前頭葉に機能の問題があっても「こころ」はある。

言葉のない子どもにも「こころ」はある。

前頭葉に辺縁系を含めてもまだ足りない。脳全体でも足りない。

脳障害児にも「こころ」がある。


神経系から脳や脊髄だけを取り出しても意味がない。手の先、足の先まで全ての神経が1つのシステムになっている。神経だけでなく、身体全てが私であり「こころ」だ。

さらに「こころ」は、個人の中ではなく、人と人との間にある。2人の人の間に浮かぶハート、他者との関係の中に「こころ」がある。それを見つめるのはやはり個人の主観であり、自閉症児の「こころ」と主観的に関係を見出せない人は、自閉症児には「こころ」がないと言うかもしれない。

僕は犬や馬と駆け引きをする。関係を見出す。主観的とはいえ、私たちの間には「こころ」がある。

とりとめのない連想でした。



From 
齊藤 To 雨野 (20044月)


こんにちは。ちょっと長いです。暇な時にでも読んでください。

シーンとして緊張感が高まってしまったので、

やっと「、、、おもしろかったです」と言いました。

「妥当な解釈の選択」はできていません。

 

感想は難しいですよね。何に照準を合わせてしゃべったらよいのか、判断しづらいからです。
僕の弟が子どもときに「先生の喜ぶこと言えばいいんだよ」と言っていたことがありました。
まあ、そうなんでしょうが、相手が何を喜ぶのか分からないから難しいんですよね。


雨野さんが、いくつもの感想を思い浮かべたのなら、浮かんだ順に話せばよかったのかもしれないですね。すべての感想が、一度に全部浮かぶわけじゃないですよね。最初に浮かんだ感想って、率直に感じたものに近いのではいでしょうか?思いついた順に記録してみたら、自己分析できるかもしれません。


音だけで聞いた事は覚えていないということ自体が、

認知の外だったのでは今までとても不利だったのでは?とか考えつつ、ともかく

いろんな人がいる、似ている人もいる、ということを知ることができたのは収穫でした。


なるほど。名前を覚えるためには、その人の雰囲気とかエピソードなどを、音声とともに

記憶する必要がありますよね。


僕は普段、子どもの発達相談をしています。子どもの名前は忘れているんだけど、遊んでいるうちに、過去のやり取りが蘇ってきて名前を思い出すということが、たまにあります。人の名前を記憶するには、自分がその人と関与し、五感を通して得た情報をまとめあげることが大事なのでないかと思います。または、意味づけができるかどうかが、鍵と言えるかもしれません。無意味な刺激を保持するのは、難しいことだと思います。

講義に出席する学生の名前を覚えるのが苦手です。講義は、一方的に話すだけなので、学生と関与する時間がほとんどないからだと思います。一方ゼミは、色々と話し合うことができるのでよく覚えることができます。 「よく遅刻してくる子」なんていう、エピソードがあると覚えたくなくても覚えられます。


人の名前を覚えるには、自分との関係性を意識することが重要みたいですね。

幼児期の自閉症の子で、友達と遊ぶようになったら、友達の名前を家で言うようになった、
ということを経験したことがありますが、これは言語能力、記憶力の発達というよりも、
関係性の発達が影響しているのだと思います。


普通の人は意識せずに論理と直感の間を考える。自分はその端と端を考える。

間がない。


 「間」が「ない」のでしょうか?それとも「つながりが弱い」のでしょうか?どちらでしょうか?


さらにこころは個人の中ではなく人と人との間にある。2人の人の間に浮かぶハー

ト、他者との関係の中にこころがある。それを見つめるのはやはり個人の主観であ

り、自閉症児のこころと主観的に関係を見出せない人は自閉症児には「こころ」が

ないと言うかもしれない。


本当にそうですね。お互いの主観的世界を、いかにすり合わせるかが大切だと思います。


音楽を演奏してる複数の奏者を考えてみます。例えばジャズ。コード進行とビートの
種類、お決まりのフレーズなんかは大雑把に決まっていますが、あとはアドリブ。演奏が成功する時って、お互いが溶け合うような感じになるわけです。なんにも打ち合わせしてないのに、息が合ってくる。決めのフレーズがぴったりしてくる、同じタイミングで盛り上がったり、ポーズする瞬間ってあるのです。人間関係もこれと同じなのではないかと思います。心が通じ合うと、まるで自分の考えていることが相手の考えていることに直接通じているような感覚。いわゆる「間主観性」ですね。


定型発達者と自閉症者は、同じ楽器を持っているのだと僕は思います。

ただ、何を演奏にするかには違いがあるかもしれません。


ところで先日、NHKで面白い番組をやっていました。

歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが、“鼓童”という和太鼓集団を演出するプロセスを追ったドキュメンタリー番組でした。1年以上かけて、演目を作り上げていくのですが、面白いのは楽譜がないのです。みんなそれぞれ、思い思いに演奏しながら、玉三郎さんの指揮のもと、即興的に作りあげていくのです。大変興味深かったです。


そのときの玉三郎さんの言葉が大変印象に残りました。


台詞は正確ではないですが、内容をまとめますと次のようなことを言っていました。

「自分勝手なアドリブはやめてください。それは自分だけが気持ちいいのであって、

お客様を置いていくことになるからです。大切なのは、台本です。
同じ台本、同じ言葉、同じ音、同じ間を共有しているという前提があって、初めてアドリブが生きてくるのです」。


ジャズの例に戻ると、同じコード進行、同じビート、共有するフレーズなどが、
台本に相当するのだと思います。
同じ台本を、お互いに持っているから、アドリブが許されるのだし、台本には書かれていなくても理解や予測が可能になるのだと思います。


そこで、雨野さんの以下の文章が気になりました。

僕は犬や馬と駆け引きをする。関係を見出す。主観的とはいえ私たちの間には「こころ」がある。

雨野さんにとって、馬と人は、どこが違うのでしょうか? 雨野さんからみて、人の持っている台本は、どんなところが分かりにくいのでしょうか?

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035 社会的判断における妥当性の問題について(1)

035 社会的判断における妥当性の問題について(1)

 今回から、雨野さんと私で交わしたメールを掲載します。今から約8年前のものです。


From
雨野 To 齊藤 (20044月)


厩舎にボランティアが来た時に、

自分がイヤだったり苦手だったりする仕事は頼まないんですね。

「自分がイヤな事は人もイヤだ。人の気持ちになりなさい」と、

教育されてきたからです。

ところがボランティアさんはそれでは不満なんです。

人によってイヤとか苦手は違う、というのが

反射的に指示を出す時には自分の考えには入ってこないみたいです。

じっくり考えてもピンときてないかもしれない。

これを専門家が「他者の気持ちがわからない」というのはわかるのですが、

一般の人に「人の気持ちがわからない」といわれたら、

そうしようとしてるだけに納得できません。

三つ組みからではない、

もっと良い説明がないかなと思います。

脳科学的な検査や研究をしている機関はS市にあるのでしょうか?



From
齊藤 To 雨野 (20044月)

こんにちは。まだまだ寒いですね。風邪などひいてはいませんか?


僕が、雨野さんのメールを読んで考えたことは、「社会的状況の解釈の妥当性もし
くは適切性を判断することの困難」ということです。雨野さんの「ピンとこない」という点が、ポイントだと思いました。

時間をかければ他者の意図を推測することは可能なのではないかと、雨野さんのメールを読むといつも思います。色々な解釈を挙げることはできるのだと思います。


しかし複数の解釈のうち、どの解釈が妥当なのか判断する段階で、立ち往生しているイメージが浮かんできたのです。どの解釈が妥当なのか、実感が伴っていないから「ピンとこない」のだと思うのです。「解釈すること」と「どの解釈を採用するのか」は機能的に区別しなければならないのではないかと思いました。


このように整理すると、他者の心を想像できないというのは、正確な表現ではないということになります。「想像できない」という表現には、前者の「解釈できない」というニュアンスのほうが強く含まれている気がするからです。


この考え方は、雨野さんの内的事実と一致しますか?


妥当性の判断において、論理だけでは結論が導き出せないものが多いと思います。妥当性を判断する心の働きを「直観」というのでしょうか。ならば「直観」とはなにか、考えなければなりません。


この点については、以前紹介したダマシオの著書「生存する脳」が一つのヒントになるかもしれないと考えています。もし読んでいたら、意見を聞かせてください。 


ダマシオの考え方を借りると、理性(論理)を支える情動や身体の役割が大事だということになります。社会的な状況を読み取り、ある解釈を施す際の、妥当性の基準はどこから来るのかという話です。ダマシオの主張するように、身体からなのでしょうか?


論理的に導き出せないとするならば、一体どこから?

 

僕は、他者とのやり取りの中で、絶えず互いの基準を相互参照しながら、調整が行われ共有されるものなのだと考えています。日常の対人関係を振り返ってみても、いつも阿吽の呼吸で意思疎通しているわけではありません。むしろ、ズレが生まれる場合の方が多いのではないでしょうか。


人間関係において、無駄とも思えるほどの長い時間、意見等の調整に心的努力を費やすのは、この調整が簡単ではないことを証明しているのではないでしょうか。
人と人のコミュニケーションにおいては、完璧な正しい解釈をして、正しい言動をしようと考えるよりも、他者の意図と自分の意図がズレているのではないかと、常にチェックする態度を維持することが大切だと思うのです。

さらにはズレたらそれでおしまいというのではなく、そのズレをどのように調整しあうのかに、コミュニケーションの醍醐味というか、面白さがあると思うのです。そういったやり取りをたくさん、他者と共有した形で経験するうちに、一般的な基準と言うものが、形成されてくる、というのが僕の考えです。そうやって他者と響きあう身体を形成していくのかもしれません。身体は、いわばコミュニケーションにおけるセンサー、アンテナということになります。

           ・「生存する脳-心と脳と身体の神秘-」 アントニオ・R・ダマシオ著 講談社

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034  「テクニカル」のコメントの続き

034 「テクニカル」のコメントの続き

齊藤コメント

 メールでの議論は、約1年間続きました。いろんな事柄について、意見や感想を交換しました。二人で共有する “知識”や“概念”ができました。 そろそろ会って話してもいいのではないかと私から提案し、大学のゼミ室で議論することにしました。


 二人だけではもったいないので、大学院生にも参加してもらいました。しかし、この院生、議論開始から20分ほどでウトウトと眠り始めてしまいました。院生を横目で気にしながら、その日の勉強会を終えました。院生にお灸をすえようと、なぜ眠ったのかと研究室で尋ねました。院生は「今日は眠ってしまってすいません。雨野さんと先生の話を聞いても内容がさっぱりわからないのです。日本語としては分かるのですが、何について話しているのかが全然わかりませんでした。すると急に眠気がきたのです。意味が分からないと、集中力が保てないものなのだとよく分かりました。普段のアスペルガーの方たちの気持ちが分かった気がします。雨野さんと先生の間に挟まった私は、まるで意味を喪失したアスペルガーと一緒だったのかもしれません」と言いました。


 叱ろうと思ったのですが、思わずなるほどと納得してしまいました。雨野さんと私にとって、なじみのある議論が、初めて聞いた院生にとっては、全く理解できないものだったわけです。雨野さんと私だけは、二人だけの“暗黙の了解”を共有していたのだと言えます。


 この時期、私はいつも「雨野さんならば、どのように考えるだろうか」と暇さえあれば想像していました。相手に同一化しようとすると考え方や動作が似てくるように、私も自然に、言葉遣いや思考の肌理が雨野さんに似てきました。似てきたことに気づいたのは、妻と口げんかすることが増えたことがきっかけでした。


 どういうことかと言いますと、家に帰って妻から一日あったことを、色々と聞くわけですが、なにせ短い時間にいっぺんに話そうとするわけですから、理路整然とは言い難いのです。その話し方が、いちいち気になり始めました。例を挙げますと、「主語が無い」「複数のエピソードが並行して語られている」「感情的な問題が優先されていて、問題解決は二の次」「時間的順序がバラバラ」「オチがない」などなど、雨野さんとのメールでは考えられないほどの言葉のあいまいさに苛立ちを感じるようになりました(妻がこれを読むときっと怒ると思われます)。なので、私はいちいち「それって誰の話でしょうか?」「その話にはどんな意味があるのでしょうか?」「先ほどの話と、今の話との関連は?どっちが原因なの?」などと、無粋な質問を夫婦の団欒において尋ねてしまうようになりました。

妻は、私の態度に怒り心頭。そりゃあそうです。自宅の茶の間で、愛する夫とただ会話を楽しみたいのであって、面接を受けているのではありませんから。私の目の前に仁王立ちになった妻は「あんたねえ、心理学をやっているくせに、人の心がわからないのおお!“今日は大変だったね”って共感しろ!」と怒鳴られる始末。「やれやれ」でした。


 この話を雨野さんにすると、ニコッと笑って「僕もそうなんです」とパートナーとのエピソードを話してくれました。雨野さんに慰められながら、「定型発達の会話は難しいね」と二人はしみじみ語りあったのでした。

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033 テクニカル

雨野カエラ

 自閉症者の支援は、気持ちだけではどうにもならない。本人を支えようとするポジティブな気持ちは勿論必要なのだけれど、支援の技術なしに関わろうとする人がなんと多いことか。理解するということと思いやりをもって接することは同義ではない。「ロマンティックな自閉症」が好きな人たちにはウケがよくないのかもしれないけど、支援の「テクニック」「技術」がとってもとっても重要なのだ。


 社会性の障害があるということと「誰でも社会では苦労するさ」というような事柄は、同じように語られるべきではない。支援者はよく考えなければならない。本人もまたそれを混同しないようできる限り考えなければならない。


 他者の意図がわからないということは思いやりを持てないという意味ではない。思いやりを持っていても、意図を読み違えて相手に迷惑をかけることがあるもしれない。本人は、そこに注意がいるだろう。一方、支援者は本人が多くの場合、意図の分からない大勢の人たちに囲まれて過ごしている状態にあることを忘れてはならない。


 それが頑固であるとかこだわりであるとかいった単なる指摘は(理解がその程度では)本人にとっては拷問にしかならない。



齊藤コメント


 雨野さんと知り合った頃、メールでやり取りしていました。抽象的な議論をしていましたから、口頭で話し合うだけではイメージの共有が難しいと互いに判断したためです。

文章ならば、言葉をじっくり練ることができます。


 私は、できる限り丁寧に文章を組み立てることに注意を払っていましたが、ある日、時間がなかったので校正もろくにせずに送信してしまったことがありました。いつもならすぐに返信があるのですが、なかなか返ってきません。2週間ほどすぎても返信がなかったので、こちらからメールをしました。


 するとすぐに返信がありました。メールには、返信できなかった理由が書いてありました。私の文章に意味の繫がらない箇所があって、何度も読み返していたのだそうです。


 指摘された文章を再度読んでみると、なるほど繫がっていません。文章の流れは保たれているものの、一つ一つの文章がきっちりと論理的に編まれているわけではないので、局部的にみると非論理的に感じられるのでした。雨野さんは、そこに引っかかったのです。


 私は、曖昧な文章を書いて送ったことをまず謝りました。その上で、「わからないと思ったらすぐに連絡してくれれば良かったのに」と書き送りました。すると「齊藤先生が、意味の通らない文章を書くとは思っていなかったのです。先生の文章は正しいと思っていたので、理解できないのは自分のせいだと思っていました」と返事がありました。雨野さんの言葉への態度は、とても精密なのだなと感じました。


 数日後、非論理的な文章が苦手な理由について「一貫性のない文章」という題されたメールで解説してくれました。


 文章に[真 T(true)]と[偽 or あいまい F(false)]が混在した時に、(僕の頭は)フリーズするか整合性のとれない部分を消去するようです。順番に文章を読んでいって、


            ここでフリーズ
                   ↓
           …T T T T T T  F  t t t t t t t …                                           
                       ↑
             ここから新規(F以前は消去)


 ラージ「T」が連続しているのは、論理的に整合的であることを示しています。しかし、そこに「F」という曖昧な表現が混入します。すると、ラージ「T」と「F」が、矛盾しますので処理が中断してしまいます。つまり、フリーズが生じます。でも立ち止まってばかりはいられません。これが、相手の話であれば、どんどんと話題は進んでいきまので、処理を前進させなければなりません。「F」とスモール「t」は、やはり矛盾するのですが、かまわず処理を進めていきます。スモール「t」が連続してくると一安心です。論理的に繫がっていて意味が分かるからです。しかしながら、ラージ「T」および「F」の記憶は失われます。意味的、論理的に繋がらない文章は断片化し、記憶に残りにくいからでしょう。または断片化しているので、想起(検索)できないだけなのかもしれません。雨野さんは、論理的に曖昧な文章を読んだり聞いたりすると、いつも最後の文章しか頭に残っていないと言います。「ここからは新規」と記述されているのはそういう意味です。


 このメールを受けて、文章の構成には、特別の配慮をすることにしました。何度も読み返しては、意味の繫がらないところはないかどうか入念にチェックしました。すると、論理的によく構成されたメールを送信すると、返信が早いことが分かりました。私の文章が変化したことによって、意思疎通がよりスムーズになったのです。雨野さんとコミュニケーションする、コツを学んだような気がしました。


 余談ですが、「私は、せっかちでおっちょこちょいです。論理的ではない文章は、実は始終書いているのです。だから、次回から曖昧な文章に出会った時は、雨野さんの読解力がないからと判断せず、齊藤の文章力のなさと考えてもらえますか」とお願いしたところ、「今回のことで、よくわかりました。齊藤先生のメールに関しては基準を変更しました。曖昧な文章に出会っても、もう大丈夫です」と言ってくれました。それからは、僕の曖昧な文章にもよくつきあってくださり、雨野さんが思う解釈を返信してくれるようになりました。お互いを理解し、文章の書き方、読み取り方を修正した結果、コミュニケーションがよりスムーズになったのでした。

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032  「周囲への告知について」のコメント

032 「周囲への告知について」のコメント


齊藤コメント

 雨野さんの文章を読んでいると、他者を敵か味方かで判断しているように見受けられます。
 基本的信頼感が薄いと、判断の基準がどんどんとプリミティブなものになっていくようです。
 敵か味方か、という基準が強くなると、コミュニケーションは生まれにくくなります。

 以前紹介した高校生のF君は、所属する部活のメンバーに自分のことを告知しました。最初のうちは理解を示してくれた仲間や先輩達も、頻繁に指示を忘れたり、同じ間違いを繰り返すF君に苛立ちを感じ始め、しばらくすると「障害に甘えているのではないか」と責めるようになってしまいました。


 悩んだF君は、一つ上の学年の先輩に相談しました。その先輩は、親身になって話を聞いてくれたそうです。また、聞いてくれただけでなく解決方法も一緒に考えてくれました。F君は「次から次へと指示されると、最後の指示しか頭に残っていないんです」と自分のことを説明しました。すると先輩は、ノートを持つことを勧めてくれました。F君に指示があったときは、手元にあるノートにすぐに書き込めるようにしたらどうだろうかと提案してくれたのです。さらには、一人だけノートを持っていては目立つので、コーチや監督には事前に伝えておいてくれたそうです。


 F君がこの話を終えた後「齊藤先生、これで良かったのでしょうか?」と確認を求めてきました。私は「もちろんです」と答えました。そして「F君の話を聞いていて、すごいなあと思ったところは、自分の記憶の特性に気付いただけでなく、さらに相談に乗ってくれそうな先輩を試行錯誤せずに一度で見つけられたことだと思います」と言いました。F君は、きょとんとしていました。


 自分を理解してくれそうな人を見つけるのは、簡単なことではありません。自分が何について相談したいのかが分かっていないと、それに適した相手を見つけることは不可能だからです。また、F君のように自分の特性を把握している人でも、「相手を信じる」気持ちがなければ相談までたどり着けません。「どうせ分かってくれないだろう」と否定的な気持ちで一杯な時に、他者に頼ろうとはしないでしょう。このように「相談する」というスキルは、獲得の難しいスキルの一つだと思います。


 私が出会ってきた自閉症圏の方たちは、本当に困った時に自分一人で考える込む人たちが多いなあ、という印象を持っています。他者に頼る、助けを求めるということは、まず身に着けなければならないことだと私は思います。誰だって、人に助けられて日々を生きているわけです。心を低くして、他者に助けを求める。そして助けられたことを感謝して形に表してお返しする。この気持ちが育っていれば、社会に出たときに何とか生きていけるのではないかと私は思うのです。


 F君のように、本当に困ったときに他者に相談できる人というのは、きっとそれまでの人生において、一緒に考え、助けてくれる人にたくさんめぐり合ってきたのだろうと想像できます。もっと想像するならば、F君のご両親や周りの人たちが、小さなF君の代わりにいろんな方々に相談しながら、他者に助けてもらう模範を示されてきたのだろうとも思うのです。両親が先に通ってくれた道なればこそ、後に続く子どもが、本当に困ったときに親の姿に自分を重ね合わせ、自然と相談できるようになったのだと思うのです。相談する力というのは、一丁一石に身につくものではないと私は思います。短期間のソーシャルスキルで、形は整うかもしれませんが、そのスキルを運用すること、相手に感謝の気持ちを持つことは、また別の話です。何年もの生活の積み重ねが必要です。


 自立することを、人に迷惑をかけないことと教えている場面によく出会います。年齢などにもよりますが、小さいうちからあまりこのことを強調しすぎると、かえって人間同士が自然に助け合う姿を歪めて伝えてしまっているように思います。

 「困っているんだね、手助けしてあげよう。でも次からは、自分で出来るように努力するんだよ」。一見筋が通っているように思うのですが、この精神を突き詰めると、実存的で孤独な個人を作り出してしまうような気がします。孤独な個人には信じるものがありません。完全な自由を獲得しますが、同時に心のよりどころを見失うことになります。


 「困っているんだね。手助けしてあげよう。私にお返しはいらないよ。そのかわり、君が大きくなって同じように困っている人がいたら、助けてあげてほしい。できれば、自分が助けられて感謝しているということを話してくれるなら、もっといいな」。これだと、人と人のつながりが切れません。自己評価も下がりません。またこの声かけは助けられてきた過去の自分から人を助ける将来の自分へと、自己の成長を歴史的に展望する視点を子どもに与えています。歴史的な文脈の中に自己を位置づけることは、たくさんの他者に支えられながら今の自分が成り立っているという気持ちを育てる苗床になると思います

 

子どものソーシャルスキルの問題は、我々大人のソーシャルスキルの問題であると言えます。思いやりの気持ちを持って欲しいと願うならば、その子の前で私たちが、常に思いやりのある行動を、その子どもや周りの人に向けていることが必然となります。社会のために働いて欲しいと願うならば、まず私たちが他者の喜びを目標としてしっかりと働く姿を、子どもに映さねばなりません。

 ソーシャルスキルや障害告知といったことが、技術論だけで終わるならば、大きな効果は望めないでしょう。子どもに向き合う私たちの日常の生活そのものをどのように構築していくかが問われているのだと思います。


 F君は、普段、部活のメンバーに迷惑をかけて申し訳ないと思う気持ちから、誰よりも早くグラウンドに顔を出し、一人黙々と整備をしているのだそうです。F君を育てた家族や支援者たちの日々の過ごし方が表れていると思います。

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031 周囲への告知について

031  周囲への告知について

雨野カエラ

 
周りには告知をすべき人とそうでない人がいる。

 告知しなくてもよい人は、まず世の中の大半の人。深い関わりのない人たちには告げなくてもよい。自閉圏の人たちの情報が正しく世間に広まった後に知らせることによって配慮してもらえる。例えば、突然の訪問やセールスをやめてくれるのなら知らせるメリットはありそうだが、その周知の日はまだ近くはない。訪ねてきた郵便配達員にいちいち教えることはない。

 告知をしなくてよい人たちの中には身近な人たちの一部も入る。どちらにしろ変わらぬ付き合いをしてくれる友人には改めて告げることはないかもしれない。親戚一同にも特に発表しなくてもよいだろう。これで人類の大半はリストから外せる。


 自分の生活や仕事に関わりがあって、告知をすべき人には大きく分けて2種類の人たちがいる。先天的に「自閉を理解できる人」と先天的に「理解できない人」だ。先天的というのはちょっとしたジョークだ。理解できる人たちは少数だから大事にしよう。


 理解できない人はさらに2グループに分けられる。まず障害や自閉症といった言葉をよく思わない人だ。このグループからは離れよう。人類はいっぱいいるから離れても構わない。もう一つのグループは善意はあるけれども、どうしても理解できない人たちだ。これは少々やっかいだ。この人たちは好意的だけど、なにかと障害にかこつけた解釈の仕方をする。あなたのことが心配だからという理由で、頼んでもいないのに他の人に配慮を求めたり、障害のことを言ってまわったりする。でも善意からしていることだ。彼らが真に理解をしてくれるまではとても時間がかかる。理解のないまま人生を終えるかもしれないから、告知をすべきかそうでないかは、よく考えなければならない。時間はかかるが、後天的な理解の可能性がないわけではない。

 そのためには、少数の「理解できる人たち」の力も借りよう。こちらの言葉や表現が足りなくても大半は理解してくれる人たちのことだ。でも何も伝えなくてよいわけではない。この人たちにはがんばってなんとか表現してみよう。きっと応えてくれると信じよう。

*今週は、齊藤が出張のためコメントが間に合いません。次週、書きます。

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030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)

030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)


齊藤コメント

ある日I君は、ぷんぷんと怒って幼稚園から帰ってきました。理由は、友だちが約束を破ったからでした。I君の怒りをなだめようと、いつもなら説得を試みるのですが、この日のお母さんのアプローチは違っていました。

「ねえ、今、④の顔(怒り顔)になってるよ。鏡で見てみる?」と尋ねたのです。I君は怒ったまま「うん」と答えました。早速、お母さんは鏡を手渡しました。自分の顔を見たI君は「ほんとだ、④の顔だ。」と言いながら、思わずふっと笑いました。それを見て「あっ、②(微笑み)になった」と言いました。鏡を見ただけなのですが、気持ちが切り替わったようでした。

 その後も、機嫌が良いままでした。本当に機嫌が直ったのだろうか?といぶかりながら「お母さん、友だちに電話してみようか?」と言ってみましたが、I君は「もういいよ」とあっさりしたものだったそうです。

 問題は何も解決してはいないのです。友だちは約束を破ったままですし、その理由もわからないままなです。いつものI君ならば、納得するまでお母さんや友だちに説明を求めたことでしょう。でもこの日は違いました。なぜなのでしょうか?いつもと違う点と言えば、I君の意識が「他者の気持ち」ではなく「自分の気持ち」に向けられていたことです。

 我々は「自分の気持ち」は自分が一番知っていると思いがちですが、決してそうではないということが、経験が積み重なるうちに気づく事実の一つです。「自分の気持ち」は、何かに媒介されなければ知り様がないのです。I君の気持ちを媒介したものは「鏡」でした。
それゆえ「自分」が対象化されたのだと思います。ぷんぷんと怒っている時のI君の意識にあったものは、「他者」と「他者に関わること」のみだったのだと思います。だからすべての原因は、他者にあったのです。

 I君の意識野には「自分」と「自分に関わること」が、すっぽり抜け落ちていたのではないかと私は思うのです。だから、決して他者にすべての責任を押しつけていたというわけではないと思います。「他者に責任を押しつけている」という表現には、押し付けている主体が隠れているので、一人ではなく、二人が想定されている表現ということになりますから。

 そんなI君の内的世界に、鏡を通して「自分」と「自分に関わること」が逆流して流れ込んで来たのです。結果、自己意識が発動したのではないか。そう思えるのです。そうだと仮定すると、I君の気持ちの変化は、問題解決したからではなく、自己が捉えられるようになったから生じた結果なのではないかと考えられます。自己が客体化されたことによって、自己を操作できる位置を獲得したということです。

 こんなエピソードもありました。運動会の練習で「よさこい」を練習していました。I君は、踊りを失敗をすると、いちいち落ち込みました。「僕なんか、いなくなればいいんだ」と床に突っ伏してしまうほどでした。先生は「大丈夫、I君はとても上手よ」と繰り返し褒めますが、I君は納得しません。「先生は褒めるけど、僕は失敗したじゃないか」と。

 総練習を明日に控えた日の夕方。お母さんが相談に来ました。「当日、本番で失敗して泣き始めたら、全体の踊りが止まってしまいます。それを食い止める方法はないでしょうか?」。

 なぜ先生に褒められても嬉しくないのか?について考えてみました。I君は、いつも先生を見て踊っています。正確にいうと先生だけを見て踊っているのだと思います。周りにいるクラスメートのことはほとんど見ていないのだと思います。だから、I君の基準は、いつも先生なのです。完璧な先生を基準にすれば、一度の失敗も許されないのは納得できます。反対に先生の視点からI君を想像してみました。先生の視野にはI君だけじゃなく、他のクラスメートが映っています。だからこそ先生は、I君が誰よりも真面目に取り組み、上手に踊れることを他の子どもとを比較することによって知っているのですが、I君は先生から見た自分というものを想像できません。ここに、両者のすれ違いが生じる原因があるのではないかと思いました。

 もう一度まとめますと、I君は先生だけを見ている(自分が想像中にない)。一方、先生は、クラスメートの中の一人としてI君を見ている。見ているものが違うのです。共有しているものが違うのです。

 そこで、お母さんに次のような提案をしました。先生に総練習の様子をビデオに撮ってもらい、クラスメートとI君を比較しながら、I君がちゃんとやれていることを確認してほしいと。つまり、I君が想像できない他者からみた自分の様子を、ビデオという道具を使って提供しようというアイデアです。ビデオを見ながらI君のできているところ、できていないところを家族で話し合ってもらいました。結果はうまく行きました。当日、3回失敗したのですが、落ち込んで地面に突っ伏すことなく、ニコニコと笑いながら踊り続けたそうです。

 I君が苦手な想像とは、自分を想像することでした。もう少し正確に言うと、他者から見た自分を想像することのようです。雨野さんのいう想像力の欠如は、「自分というものの想像」にあるのかもしれません。

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029 「想像力の欠如」のコメントの続き

029 「想像力の欠如」のコメントの続き

齊藤コメント

I君のお母さんは、いろんな表情の顔の絵を描いて、居間の壁に貼ることにしました。①口を開けて笑っている顔、②口を閉じて微笑んでいる顔、③真顔(無表情)、④怒っている顔、⑤泣いている顔の五つです。親しみが湧くようにと、I君の弟の顔に似せて描きました。

表情に合う気持ちを書き入れようとしたとき、I君が近寄ってきました。お母さんは「表情のお勉強のために絵を描いているのよ」と説明すると、I君は絵を見ながら表情に合う気持ちを述べ始めました。どれも表情に合っているものばかりでした。お母さんは、I君の言ったことを顔の周りに書き込んでいきました。面白かったのは、③(無表情)へのコメントの量でした。他の表情に比べると3倍くらい多いのです。③(無表情)は感情を推測するための手がかりがないので、色々な解釈の可能性を含んでいます。I君は、たくさんの推測をしていることがわかりました。

居間に絵を貼り出した次の日から変化がありました。幼稚園から帰ってきたI君は、友達や先生の表情について報告するようになったのです。「~君は、いつも②(微笑み)と③(無表情)と④(怒り顔)だ。もっと①が増えればいいのに」とか「~先生はいつも③(無表情)だ。だから、(指示の意味が)わからない」などとです。それまで、他者の顔など注目することのなかったI君が、お母さんと作った絵をきっかけに観察を始めることになったのです。

観察の目は家族にも向けられました。I君のお父さんは、とても優しいお父さんなのですが、眉間にいつもしわが寄っています。テレビを観ているお父さんを横目で見ながら「お父さんは怒っているの?」とお母さんに尋ねます。お母さんは、絵を指して「そうね、表情は④に見えるわね。でもね、心は②よ。Iのことを怒っているんじゃないの。お父さんは、Iのこと大好きよ」と答えました。I君はそれからしばらく、お父さんの顔を見て不安になると「お父さんは、顔は④だけど心は②」と自分を納得させるためにつぶやくのでした。

I君にとってこの絵は、自分の認識を整理するための枠組みになりました。枠組みが整えられたことで、I君は、普段の生活で目にする表情を分類できるようになりました。表情の差異に気付いたということです。

 

I君の観察の正確さを物語るエピソードです。「~先生はね。ボール見るときは、②(微笑み)だけど、僕を見るときは、③(無表情)が多いよ」と言ったことがあります。これはどういうことかというと、おそらく先生はまず、I君のそばでボールを使って遊んでみたのでしょう。I君が興味を持つように笑いながら。そして次に、I君がどんな反応をしているのか気になり、視線をボールからI君に移したとき、先生は遊んでいることを忘れて観察することに意識が向いたことによって、楽しげな表情から真剣なまなざしに変わったのだと思います。この違いをI君は見分けていたということです。

もう一つ重要だったことは、かならずお母さんからのコメントがあったことです。絵を互いに共有しながら、表情やそのときのエピソードについてI君とお母さんは色々と語り合うわけです。I君はお母さんのコメントの中に、自分と似ているものあるけれど、それと同時に違うものもあることに気付いていきます。つまり表情の差異に加えて、解釈の差異にも気付いていくのです。

 ある日のこと。I君は幼稚園から帰ってくるなり「お母さん、世の中の人って③(無表情)が多いんだよ。知ってた」と、何か大きな発見をしたとでも言いたげな雰囲気で話し始めました。確かにそうです。特に大人の顔は。I君は続けて「でもね、お母さんは、顔は③でも心はあるよね。ということは、他の人も、無表情のときでも心はあるの?」と尋ねてきたそうです。お母さんは「そうよ。無表情でも心はいつもあるのよ」と答えました。I君は「そうかあ」と言ったきり、何か深く考えているようでした。

 お母さんの表情と気持ちについては、絵を通じてたくさん語り合ってきました。だから、無表情のときでもお母さんには心があるということを、I君は理解したのです。その認識を、今、他者にも広げようとしているようです。

 このエピソードと前後して、幼稚園からトラブルの連絡がパタッと来なくなりました。どうやら相手をしつこく押したりすることが減ったようです。お母さんと話し合って考えたことは、きっと相手の表情に注意が向くようになり、「表情は楽しそうに見えるけれど、心はもしかしたら悲しんだり怒っていたりするかもしれない」というI君とって新たな想像が生まれたからではないか、ということでした。

 “ない”ものへの想像力が大切です。以前、クリプキの「暗黙の中の跳躍」を引用してお話したことです(「016 葉を見て森を見ず」参照)。感情を読むには、見たままの情報をそのまま解釈することではない、という気付きが必要です。心の二重性に気付くということです。見たものをそのまま捉え、分類することは、自閉症者のほうがむしろ優れていかもしれません。見えないものが“ある”と気付くこと。このことを自覚することの意義が、早期療育の中で強調されても良い気がします。

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028想像力の欠如

028 想像力の欠如


雨野カエラ

 想像力の障害という言葉から、想像力の欠如を思い浮かべていませんか。空想力や創造する力が全くない訳ではありません。でも、これから何が起こるのかという予定はしっかりと教えてほしいし、その予定の変更もいやです。何かについて定型発達の人と違った狭い範囲の想定をしているかもしれません。一番の問題は本当の意味の「他者」というのを想像するのも苦手なのかもしれない。ただ、とにかく欠如ではないと思っています。定型発達の人の想像もしないやり方を思いつくのは、時に自閉圏の人たちではありませんか。そうなると想像力の障害があるのはどちらでしょう。

アスペルガー症候群の人の考える他者は「本当の他者」ではないのだと思う。自分の中で考えた他者。それを乗り越えて考えることができない。これが想像力の障害なのかな。

自分の考えた他者だから、自分に都合のいいように考えていると思われてしまうだろうか?しかし、成長と共にそれは修正されていく。大人になったアスペルガー症候群の人は辛い目にたくさんあってきている。自分の中の他者は常に自分を律する人のようになってしまう。たとえ本当はその人が自分に怒りを感じていないとしても、そうは思っていない他者を想像できないのだ。本当の心は聞いてみるまではわからない。そう自分に言い聞かせても、最悪の他者の対応を想像してしまう。それでは心を聞きに行くことさえためらってしまう。想像ができないのではない。想像が間違ってしまうのだ。

定型発達の人はどうやってそれを乗り越えるのだろう。本当に人の心がわかるのだろうか。キーになるのは身振りや表情が読めるかどうかといったことではないと思う。定型発達の人が持つ「あいまいエンジン」がある程度の心の読みを可能にしているのだろうと僕は考えている。


齊藤コメント


 「身振りや表情が読めるかどうかといったことではないと思う」ということから考えてみたいと思います。

 BaronCohen(1995d)は、「目から心を読み取る」心理実験をしました。実験協力者に目の部分だけが切り抜かれた写真を提示し、それに対応する感情語を選択してもらいました。結果、自閉症群は定型発達群に比べ、有意に成績が低かったのでした。

 

目の部分だけをよく見ると、そんなに多くの手がかりはありません。にもかかわらず、定型発達者はなぜ正答できるのでしょうか?私は、写真を眺めながら考えてみました。目の表情を読み取っているというよりも、「その目にふさわしい全体の表情を思い浮かべ、その表情をもとに感情を推測している」のでないかと思いました。自閉症群は、全体の表情を構築することができないために、成績が低いのではないかということです。すると自閉症群が利用できる手がかりは「目」しかないのです。しかし「目」そのものにはそれほど情報が含まれているわけではないので、誤認する確率は高くなるというわけです。

部分的情報から全体のありようを推測し、想像すること。この実験では、この能力が試されている気がします。表情の一部から全体を推測するためには、理論(ルール)が必要です。さらに理論(ルール)を構築するためには、たくさんのデータが集積されていることが前提になります。定型発達者と自閉症者の成績の差の背景に、データ(経験数)規模の違いが大きく影響していると私は考えています。

次に、経験と表情の読み取りについて、事例を元に考えていきたいと思います。

 幼稚園年長のI君(アスペルガー症候群)は、友達を押したり、叩いたりしてはトラブルを起こしていました。毎日、幼稚園から電話がかかってくるようになり、お母さんが困って相談に訪れました。

 まず、叩かれた相手がどんな気持ちになったか推測ができているか確認してもらいました。お母さんに尋ねられたI君は「きっと腹が立っているし、悲しい気持ちになっていると思う」と答えました。お母さんは「それだけわかっているのに、どうして叩くのかしら」と不思議に思いました。

もう少し話を聞いてみると、新しい事実が出てきました。友達を叩くのは、別の友達の指示によって行われていたのでした。翌日、幼稚園の先生に確認してもらったところ、本人の話の通りであることがわかりました。

この話をしていたとき、I君がちょっと気になる発言をしたとお母さんは言いました。I君は「でも、あいつ(I君に指示する友達)、笑ってるんだよなあ」と言ったのだそうです。この発言からI君の心の中を推測してみました。そして、次のように仮説しました。I君は「叩いてこい」という言葉がネガティブな内容を含んでいることは理解できます。しかし、その言葉がニコニコと笑顔で話されているので、表情(ポジティブ)と言葉(ネガティブ)が矛盾してしまうのです。I君は、その矛盾をうまく統合できなかったのではないかと思ったのです。うまく統合できないI君は、表情を優先しているようです。

お母さんは「そういえば・・・」と言いながら、「幼稚園に表情の少ない先生がいるんですけど、その先生の指示にはほとんど従わないのです」と話してくれました。どうやら、言葉の意味(メタメッセージによって言葉の意味は変化します)を理解する上で、I君にとって表情は大切な手がかりのようです。先生の指示に反抗していたのでも無視していたのでなく、無表情ゆえに意味が汲み取れなかったのでしょう。

さて、しばらくしてまた、表情の読み取りに関連するトラブルが発生しました。押し合ったり追いかけ合ったりという遊びを子どもはよくするわけですが、I君はどうもしつこいらしいのです。相手の子どもがもう止めたいと思っていても、それに気付かずに続けてしまうので、とうとう我慢できずに、相手の子どもは泣いたり、逃げたりしてしまうのです。

I君は、相手に意地悪をしたいのではないようです。なぜなら、相手が泣いたり、逃げたりした瞬間、ピタッと行動を止めるからです。それだけではありません。「僕なんていなくなっちゃえばいいんだ」と自責の念を抱え、深く落ち込んでしまうのです。I君は、相手が泣いたり、逃げたりなど、はっきりとした感情表現が行われる限りにおいては、相手の気持ちが変化したことに気付くことはできるのです。だから、相手がはっきりと感情表現を行わないということは、相手もきっと楽しいだろうと思って、機嫌よく遊んでいるだけなのです。機嫌よく遊んでいる最中、突然相手が、自分を回避してきたらどんな気持ちになるでしょう。びっくりして、混乱するでしょう。I君の落ち込み方は、まさしく混乱がふさわしいのでした。

この件について、お母さんと次のような話をしました。明確な感情表現(パターン的な表現)は理解することが可能なのだけれど、わずかな表情変化などは読み取りにくいのかもしれない。「0」と「1」の間にある中間的な感情の存在に気付くかどうかが鍵になるのではないか?と。

この話をした後、お母さんは家庭である実践をされるのですが、それはまた来週にお話をいたします。

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027 客観的事実と常識的概念(2)

027 客観的事実と常識的概念(2)

雨野カエラ

 受動型の人は特に外からもたらされた事柄を事実として扱ってしまう。非自閉の人が何気なく口にした一言も客観的事実だと思い信じてしまう。それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ。


 自分の信念と相手の言葉が相違しているときは混乱が倍加する。どちらも事実として扱うと論理が衝突してしまい、混乱や思考の停止が起こってしまう。どちらかを切り捨てるか、新たな理屈を作るか、どちらにしても矛盾をはらむ事になる。


 ソーシャルストーリーズやコミック会話といった客観的事実の提示という方法は彼らの理解を助け、自ら混乱を収束させ得るのだろう。



齊藤コメント

 ある幼稚園でのこと。自閉症のHちゃん(受動型)が園庭で遊んでいました。夏の暑い日でした。Hちゃんは、乾いたアスファルトにジョウロで水をたらし、その模様を楽しんでいました。


 畑に水を撒きたいと思った先生が、Hちゃんを見つけ「Hちゃん、畑の野菜に水を撒いて」と声をかけました。Hちゃんはすぐに反応し、畑のほうへ歩き出しました。しかし、少し様子が変でした。というのも「畑に水。畑に水」と繰り返しながら歩いていたからです。動きがややかたく、表情は無表情に近いものでした。


 畑に到着しました。Hちゃんは素直に、先生に指示された場所に水を撒いていきます。先生もその姿を見て喜び「上手ね」とか「ありがとう」と声をかけていました。しかし、やはり様子が変です。さっきよりも声高に「畑に水、畑に水」と繰り返しています。あまり楽しそうではありません。

 水を撒き終え、元の場所に戻ってきました。Hちゃんは、ニコニコしながら、ジョウロで遊び始めました。しかし、数分後、先生は再び「Hちゃん、畑に水を撒いて」と指示しました。Hちゃんはすぐに反応し、畑に向かって歩き始めました。今度は、初めから様子が違っていました。「畑に水」を大声で繰り返し始めたのです。水を撒いている間もしばらくそれは続きました。徐々に「金切り声」に近くなっていったころ、Hちゃんは突如、ジョウロを投げ出し、その場から逃げるように走り出していました。先生は、あっけにとられてHちゃんを目で追っていました。


 Hちゃんは、アスファルトの模様を見ていたかったに違いがありませ。しかし、先生の指示が聞こえてきました。Hちゃんにとっては、外部からの指示は、従わなければならないことだったのでしょう。Hちゃんは、同時には満たすことのできない二つ要求の狭間で葛藤します。「畑に水」と何度も繰り返していたのは、目標を見失わないように自分をコントロールするためだったのかもしれません。1回目はなんとか持ちこたえましたが、2回目は限界を超えてしまいました。畑に水を撒くことも、ジョウロで遊ぶことも両方を放棄することで解決するしか方法はなかったのでしょう。


 子どもが「素直に指示に従う」姿を見ると、大人は納得してくれたと勘違いしてしまいがちです。Hちゃんの反応があまりにも素直だったので、先生は「Hちゃんも、畑に水を撒きたいのだ」と思ってしまったのでしょう。


 Hちゃんが「畑に水」と、先生の指示を繰り返していることを、欲求の表現とみるか?葛藤のコントロールとみるか?難しいかもしれませんが、指示に従うこと=本人の欲求=自発性、ではないことを留意する必要があったのでしょう。

 ちなみに雨野さんが信頼できるものの順番は、①外部に存在する文字、②自分で言語化できたもの、③言語化できない自分の気持ち、となるそうです。


 雨野さんは「
それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ」と述べています。ここが重要だと思いました。

 雨野さんは、自分は客観的事実を話していると思っています。だから他者も同じように常に事実を話していると思うのです。自分と他者を同類であると認識するからこそ、そのような誤解が生じているのです。同じ場所・同じ時間に二つの異なる事実は存在しえません。だから混乱するのです。どちからが事実ではないか、もしくはどちらも事実ではない可能性があるわけですが、そのことを把握する術がないと混乱は続きます。その術の一つとして、ソーシャルストーリーやコミック会話があるのだと思います。


 定型発達者にとっては、これらの方法を通じて自閉症者に、世の中の客観的事実を伝えているように思えますが、伝えているのは実は定型発達者の主観的想像の方なのかもしれません。定型発達者の言動には、主観が含まれていることが理解できれば、混乱はひどくならなくて済みます。なぜなら事実は一つというルールは守られるからです。

定型発達者が、ソーシャルストーリーやコミック会話などの方法を通じて、世の中の客観的事実を伝えているという誤解を強めると、それはそれで自閉症者に混乱を与えてしまうことに注意しなければなりません。定型発達者が自身の主観的想像に気付かず「これは100%事実なのです」という態度で説明すると、場合によっては、自閉症者の持つ客観的事実との葛藤が強まることがあるからです。ソーシャルストーリーやコミック会話を作成する人によって、微妙に内容が違うわけですが、このこと自体、伝えている内容が客観的事実ではないことを示しています。客観的事実であればいつも内容は同じはずですから。だからこそ「これには世の中の客観的事実と私の主観的想像が含まれています。ここの部分は私の主観的想像なのですが~」と前置きをして説明する態度が大切だと思います。


 これらの方法による支援の最終目標は、自閉症者自身にも主観があるのだということに気付いてもらうことだと私は思っています。雨野さんの言葉には客観的事実だけでなく、主観的想像も含まれているのですから。私にはそう思えるのです。主観的想像にはたくさんの解釈が存在します。その解釈の統合を目指すところに、コミュニケーションの必要性が生まれるのです。客観的事実しかない世界には、経験の共有は生まれにくいと思います。互いに話さなくても、経験の中身は一緒なのですから。

雨野さんは「言語化できない自分の気持ち」が一番信頼できないと言います。これは悲しいことだと思います。「言語化できない自分の気持ち」のなかにこそ、雨野さんの本質が含まれていると思うからです。自己の主観的想像を味わってくれる他者との出会いが、自分を発見し、自分を大切にする感覚を養うものだと私は信じたいと思います。

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スーパー健常者、スーパー大人

あけましておめでとうございます。

今年もアスペルガー症候群について思うところを、徒然なるままに述べていきたいと思います。

026 スーパー健常者、スーパー大人

雨野カエラ
 
 
施設の職員は利用者のお手本になろうとするあまり本当の自分を忘れて

健常者よりも健常者らしくふるまうスーパー健常者になってしまいがちです。

 
学校の先生は子どものお手本になろうとするあまり本当の自分を忘れて

大人を越えたスーパー大人の役割をしてしまいがちです。

 役割も大事ですが、なりきりすぎはよくありません。


齊藤コメント

 

 ある中学校の先生の実践を紹介します。色々なことを教えてもらった先生でした。

 
この先生は、はじめてアスペルガー症候群の生徒(G君)を担任することになりました。G君の行動に最初は驚いたそうですが、日々、丁寧にかかわりを持つことで、少しずつ理解を深めていったそうです。G君も先生のことを信頼していました。私が特に勉強になったのは、G君をめぐるクラスメートとの対話でした。


 「G君と接している時に、自分がどういう感情になっているのか、またどういう気持ちを持って接しているかということを、クラスメートに言葉で説明するんです。「G君の行動は、先生には腹立つなあ」などと、正直に。でもそれだけじゃないんです。次に「どうしてG君はそのような行動を取ったのか、考えてみよう」と投げかけるんです。理由が分かれば、腹が立った気持ちが、「あー、そうなんだ」と安心の気持ちに変わるかもしれないから。私は、G君の行動や気持ちを考えることは、生徒にとって大切な経験だと思うんです。生徒との対話は、G君が困った行動をしたその時、その場で行います。「G君、今、教室から出て行ったけど、どうしてだと思う?」なんて。すると考え出すんですよね。生徒のほうがしっかりしてる(笑)。色んな意見が出るんです。ある生徒が「こうだと思う」と言えば、別の生徒が「いや、こうじゃないのか?」とか」。

 「そうやって、担任が疑問を抱いて悩んでいる姿や試行錯誤している姿を、意図的にクラスメートに見せていくんです」。

 「自分の仮説を生徒達に伝えると、私と違う仮説を持っている生徒は「うーん」と首をかしげていたり、一方、私と同じ仮説の生徒は「うんうん、そう思う」と同意してくれたり。その場で議論をしちゃうんです。「イライラしていたんじゃないか?」とか「テンション高かっただけじゃないか」とか。そんな風に生徒と対話をしてきました。「G君は問題だよね」という責める雰囲気ではなく、みんなで分析する雰囲気になっていきました。分析しようとする姿勢は、相手を理解しようとすることだと思う」。

 「日常的に生徒達とG君について対話をしていると、情報提供の数が格段に増えるんですよ。「こんなことしていたよ」とか「こんなことされた」とか。そういう情報があふれ出すと、担任はすごく楽になります。G君を常に見ている生徒、反対に、普段ほとんど関わっていないのに、でもちゃんと見ている生徒。そういう生徒の方が鋭いことを言ったりするんです」。

 解説することはほとんどないでしょう。先生の言葉を読み返してもらえれば、意味が十分に分かると思います。中学校で教師は、時には強いリーダーシップを発揮しなければならないときがあるでしょう。そんな状況のなかで、教師自身の試行錯誤を見せることは、勇気がいることだったと思います。
 
 
この先生は、雨野さんのいうところの「スーパー大人」ではないですね。G君に対しても、クラスメートに対しても、対話のチャンネルが開かれているからです。

 

 ある日、学校を訪問し、授業を参観させていただきました。G君は、何かに誘われるように席を立ち、教室内を歩き出しましたが、それで動揺するクラスメートは誰ひとりいませんでした。でも、無視しているわけではありません。次の指示が出たときに、一番そばにいた生徒が、小声で「G君、座ろう」と一言、簡潔に声をかけました。G君はそれをきっかけに、我に返り、授業に戻っていきました。

 

 先生は、インタビューの中で、色々なエピソードをあげながらG君の気持ちを語っておりました。
まずは入学当初、よく遅刻をしていたことについてです。

 

 「雨降りの日は,学校に到着する時間が特に遅いんです。傘を差すと、周りの風景が遮断されて、自分の世界に入りやすいんじゃないかと思うんです。僕も何か分かるような気がするんです」。

 風景もよく見て楽しんで欲しいし、学校にも遅刻しないで来て欲しい。この二つを同時に満たすために、先生は、どうされたか?


 G君にアラーム付の時計を持たせて言ったのです。「G君、この時計のアラームがなるまでは、いつもどおり草や虫を見てて大丈夫。でもアラームが鳴ったら、朝の会まであと5分ということです。鳴ったら走ってね」と。作戦は成功しました。


 先生は、玄関で心配しながら待っていたそうです。でも時間通り玄関に現れたG君を笑顔で迎えることができたのだそうです。

 次は、冬のある日の授業中、G君が窓の外をボーッと眺めているときの先生の読み取りです。

「授業中、G君が窓の外を見ているんです。雪が降ってないか気にしているんだろうと思いました。「いつになったら、雪が降るんだろう」なんて考えているんだろうかって。すると、席を立って歩き出しました。でも予想していたから、注意しようと思う気持ちにはなりませんでした。ただフラフラしているだけだと思っっていたら、「何してるんだ、座りなさい」と注意していたと思うのですが、「G君、雪好きだもんな。今日は良い天気だな。空を見上げているってことは、雪降ってこないなぁって思っているんだろうなって気持ちを想像していたら、確認が済めばそのうち戻るだろうってことも想像できる。そして、本当に戻るんですよ。G君のそのような行動をいちいち取り上げて、指導の対象にしない。そのレベルのことは、今頑張ることじゃない。今頑張るのはそこじゃないと思ったんです」。

 豊かな読み取りだなあと思いました。この先生の豊かな読み取りに触れ、たくさんの対話を積み重ねたクラスメートたちもまたいろんなことを学んでいたのだと思います。

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025 客観的事実と常識的概念

025 客観的事実と常識的概念

雨野カエラ

 僕の目から見ると非自閉の人々は、客観的事実よりも常識的概念を優先させているように見える。それは科学的でも物理的でもなく、この点において非自閉の人々は自閉圏の人々よりもミスをおかしやすいようにも見える。この齟齬がまずコミュニケーションの壁となる。

 さらに問題になるのは次のようなこと。自分の内にある信念も自閉圏の人は論理的に導かれた客観的事実として扱ってしまう。客観的事実なのだから他者にもそれが自明であると思ってしまう。外にある本来の事実も内にある「事実」も自明のことなのに他の人たちはどうしてわからないのだろう、わかってくれないのだろう。これがストレスになりかんしゃくにつながる。

 自閉の人たちは自分勝手にただ自己を主張しているのではない。あくまで客観的事実(と思っている)ことを表現しているにすぎない。外も内も事実として同列であり、その意味においては自閉の人たちは「開いている」。


齊藤コメント

 アスペルガー症候群の高校生F君との会話です。普段の悩みを色々と相談するために大学を訪れました。

 

F君「このあいだ、サラリーマンが出てくるマンガを読んだんです。そのサラリーマは遅刻したために、上司にひたすら謝っていました。そのとき、自分はこんな謝り方をしてこなかったなあ、と思いました」

齊藤「これまで、F君はどんな謝り方をしていたの?」

F君「僕は、わざと遅刻したわけではないということを相手にわかってもらうために、遅刻した
理由を詳しく説明していたんです。例えば、目覚まし時計が壊れていたとか」

齊藤「余計に相手は怒らない?」

F君「そうなんです。説明すれば説明するほど怒りますね。ちゃんと説明しているのに、どうして怒るのかわからないんです。別のマンガを見ていたら、僕みたいな謝り方をしている主人公がいました。遅れた理由をずっと説明しているんです」

齊藤「その主人公はどうなったの?」

F君「その後も、すごく叱られていました。僕と一緒です。僕の謝り方が間違っていたのはわかったんですが、どうして『すいません』と言い続けるのが良いのか、よく分からないんです。どうしてなんですか?」

齊藤「難しい質問だね。そうだなあ、怒っている人を燃えている家に、そしてF君を消防官にた  
    とえてみよう」

F君「はい」

齊藤「遅刻は“故意”ではないと説明する姿勢は、とても事実を重んじているように思える。F君にとっては、事実が大事なんだよ、きっと。火事の喩えでいえば、何が原因で火事になったのだろうと考えることに似ているかもしれない。もし消防官がホースも持たずに、燃えさかる家の中に入って現場を検証しようとするとどうなるかな?

F君「燃えちゃいますよ~」

齊藤「そうだよね。燃えちゃうよね。F君の謝り方はそれに似ていると思うんだ。実際、F君はもっと怒られて、大変なことになってきたでしょ。現場検証するためには、まず何をしなければならない?」

F君「えーと、火を消す、ですね」

齊藤「そうだよね。現場検証をすることは間違ってはいないんだよ。ただ、物事の順序の問題なんだ。怒っている人にとって、遅刻の理由はもはや二の次なんだ。『俺は怒っているんだ』ということ自体をF君に伝えたいわけ。『俺は、怒ってるんだぞ。心配もしたし、時間も損した。どうしてくれるのだ。お前は俺の気持ち分かっているのか!』ってね。だから、『すいません』って何度も謝るのは、火に水をかける作業に似ているんだ」

F君「あー、そうなんだ。人間って結構面倒ですね」

齊藤「ははは、そうだね。人は感情で動く生き物でもあるからね。相手の感情を想定してコミュニケーションはしなければならないんだ。事実だけで納得する人ばかりではないんだよ。『すいません』と頭を下げることで、自分がきちんと反省していることを態度で表すことになる。すると、相手の怒りの感情は徐々に収まってくるわけ。機嫌を取り戻した相手は、心に余裕ができるから、『で、どうして遅れたんだ?』と聞いてくるかもしれない。そのときに理由を話せば相手は怒らないよ」

F君「もし質問されなかったら、どうすれば良いですかね?」

齊藤「それは相手が理由に関心がないということだから、もう一度謝って、丁寧にお辞儀をして、その場から立ち去るのがいいんじゃないかな?F君の遅刻した理由が、故意ではなく不可抗力によるものだったとしても、理由に関心を持たない人には、必要のない情報なんだ。必要のない情報を説明することで、再び相手の時間を奪ってしまうと、また怒りが起動してしまうかもしれない」

F君「わー、それは怖いですね。なるほど。すごく分かりやすかったです。先生、メモ用紙とペンを借りてもいいですか?」

F君は、メモ用紙に「怒った人には、まず消火」と書いていました。

ニコニコとして、納得した様子でした。


 

今年はここで終わりです。読んでくださった方々ありがとうございました。
来年1月2日は、お正月のためお休みといたします。
1月9日から再開です。
来年もよろしくお願いいたします。

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024 自開ということ

024 自開ということ

雨野カエラ


 たくさんの感覚入力、ビジュアルドライブに左右されること、これらは全部自閉というより「自開」。アスペルガー症候群の人はたくさんの感覚入力をうまく取捨選択できずにいるようです。視覚優位やビジュアルドライブと言って、見た物、見た文字に左右されることも多いようです。外からの情報は正しいと思っているからそれにとても左右されます。こんな感じだから閉じている自閉ではなく「自開」です。


齊藤コメント

 「自開」とは、雨野さん固有の表現です。自分が自閉者であることを自覚したときから、「自閉」という語感に違和感を覚えていたようです。「私の取扱説明書」に描かれているような世界、つまり文脈に関連した情報と無関連な情報を等しく扱い、様々なものにフォーカスをあわせてしまう状態は(マルチフォーカス)、環境のあらゆる刺激に対して自己が開かれているからこそ生じる現象なのだ、と雨野さんは主張したいのだと思います。私は、初めて「自開」という言葉を聞いたとき、「なるほどなあ」と思いました。当事者の実感に即した理解には、当事者の語りに耳を傾けることが欠かせません。

雨野さんから観察すると定型発達者が「自閉」に見えるそうです。なぜかというと、定型発達者は、文脈に関係のない情報にフォーカスをあわせてないからです。無視されたその情報は、それでもなお存在しているのに、まるで存在しないかのようにふるまう様子を、雨野さんは「その情報に対して自らを閉じている」と考えます。

定型発達者から、アスペルガー症候群当事者を観察すると「自閉」と感じる。けれど反対に、アスペルガー症候群当事者から定型発達者を観察すると、こちらも相手を「自閉」と感じている。「自閉」という言葉は、どちらか一方のみが感じるという非対称なものではないのかもしれません。

 

「自開」ということの例を、雨野さんの文章でさらに見てみましょう。


雨野カエラ

 

 バロン・コーエンさんによると自閉圏の人たちには「心の理論」の障害があるという。他者の「心が読めない」ということらしいのだが、ではどうやって定型発達の人たちは他人の心を「読んで」いるのだろう。心が読めるようになってみようと思って心の理論について書かれている本を読んだけど、どこにもそれは書かれていなかった。定型発達の人にとって「あまりにあたりまえだから」なのだそうだ。「人の心が読める」人なんて本当にいるの?本当はわかっていないんじゃないの?だとしたら心の理論の障害って何?

 サリーとアン課題について考えてみよう。サリーはその場を離れている間、本当にアンのしたことを「見ていなかった」と言えるのだろうか。窓から見ていた可能性は?その場を離れた、あるいは外に出たという可能性は示されているが「見ていなかった」という事実は明示されていない。また、出題の前に誰の視点で物語を見るのかも明示されていない。

 サリーは見ていたかもしれないし、見ていなかったかもしれない。
 アンは見ていた。ビー玉は自分がどこにいるか知っている。
 「箱」も知っているだろう。「かご」は知らないかもしれない。
 物語を外から見る第三者にとってもビー玉の在り処は自明だ。

 ビー玉がどこにあるか判らないとしたら、確率的にはどこにあってもおかしくない。量子論的にはとても正しい。前の記述で一番確率が高いのは「箱」になる。


齊藤コメント

 量子論的には正しいというのは、「シュレーディンガー猫」のことを指しているのだと思います。専門家ではないので、解釈が間違っているかもしれないのだけれども、コメントしてみようと思います。

今、あなたの目の前に箱があります。この箱の中には、放射性原子と放射線を検出すると毒ガスを発生する機械、それと生きた猫が入っています。原子が分裂すると放射線が発生しますが、いつ分裂が始まるかはわかりません。さて、ふたをされて外部からは猫を観察できないとき、箱の中にいる猫は死んでいると思いますか、生きていると思いますか。

 量子力学おいて「原子の状態」は、観察者が観察したその時に決定されることになっていますので、観察者が箱の外から観察しているときには、猫は「生きてもいるとも言えるし、死んでもいるとも言える」というふうに、「重なり合った状態」にあると言うのです。猫の生死が決定されるのは、箱を開けて観察者が中を見たその瞬間なのです。それまでは、二つの状態が並列的に存在すると仮定されています。箱を開ける前と後では世界が違うのです。この矛盾はまだ解けていません。パラドクスのままです。雨野さんは、「観察するまで事象は決定されない」という部分に、関心を持ったのでしょう。

この理論でいうと、可能性の数だけたくさんの世界が同時に存在するということになります。「多世界解釈」というやつです。SFなどでよくモチーフにされるテーマです。雨野さんのサリーとアン課題の解釈は、多世界解釈であると言えます。

 

雨野カエラ


 定型発達の人たちは明示されていない条件を自動的に判断しているのだと思う。サリーはきっと「見ていなかった」のだろうし、その「見ていなかったサリーの視点」で「物語」を自動的に判断する。自閉圏の人たちの正解率を上げるにはそれらの条件を明示すればよいのだろうと思う。それで心の理論を得たことになるだろうか。心を読むとは何だろう。


齊藤コメント

 雨野さんからみると定型発達者は、他者の心を確率的に判断するのではく(つまり量子力学的に判断するのではなく)、決定論的な確信を持って判断しているように感じているようです。多世界解釈ではなく、一つの解釈で成り立っているような世界に見えるのかもしれません。


雨野カエラ


 心の理論が障害されている人たちはだから自分勝手にふるまうのだと思ってはいないだろうか。定型発達の人たちは自分を中心に「心の理論」を駆使している。自閉圏の人たちは「自分中心」で、そのうえ「心の理論」が壊れているのだと思ってはいないだろうか。自閉圏の人たちの視点はサリーやアンであったり第三者であったり、ビー玉であったり箱であったりかごであったりする。だからこの課題を確率的に間違うことがある。実は自分中心という視点がないのが自閉圏の人たちなのだと思う。全てが自分であり、同時に(だから)どれも自分ではないのだ。そこに中心はない。


齊藤コメント

 
物理現象においてはとても不思議なパラドクスですが、心理現象であれば「多世界解釈」はもしかしたら成り立つかもしれないと思いました(量子力学は全くの素人ですから、頓珍漢なことを言っているかもしれませんがご了承ください)。

人の心が、ある解釈に収束するのはどの時点なのか?

こんな経験はありませんか?長い間、一人で悩んでいたことが、家族や友人と対話をする中で、すとんと一つの解釈に落ちることがあります。それまで、あーでもない、こーでもないと考えられる限りの可能性と未来の状態を想定していたのにも関わらずです。

このように私たちの心には、たくさんの解釈が同時に存在しているのだと思います。相手のことを好きでもあるし嫌いでもあるといったような矛盾した感情を同時に持つことは不思議なことではありません。「やっぱり好き」もしくは「やっぱりキライ」と気持ちが決定されるのは、相手との対話・関わりを通した後です。

自分を「原子」に例えると、自分の心の状態を一つの状態に遷移させるためには、他者に観察してもらう、他者に関わってもらうことが必要なのかもしれません。

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023   「021かんしゃくの構造」のコメントの続き(2)

023   「021かんしゃくの構造」のコメントの続き(2)


齊藤コメント


 原初的な感情は「快-不快」です。心地よいか、心地よくないかの二側面しかありません。一方、世界は複雑です。ゆえに、複雑な世界に住む人間の経験もまた複雑なはずです。しかしその複雑な経験を「快-不快」の二つの水準でしか捉えられないとしたら、大変不便な生活になるだろうな、と思います。世の中、白か黒しかないモノトーンな世界になってしまうからです。


 かんしゃくとは、自分の経験を二分化することしかできないことによるものなのではないかと思います。快と不快の連続線上には、本当はたくさんの目盛りを刻むことができるはずです。多様な感情を経験することは、人格内にかえって矛盾を生み、分裂を引き起こすように思えますが、そうではないと思います。

  
 複雑な経験を複雑なままに経験するには、それに対応する感情も肌理の細かいものである必要があると思います。感情が肌理細やかに分かれていると、経験の意味づけも細かくなっていくのだと思います。このように感情の発達とは、新しいカテゴリーの感情を獲得するというよりは、獲得している感情を社会的状況に合わせて細かく区分することなのではないかと私は考えています。


 私の長男が2歳の時の話です。夕方、眠たくなるとギャーギャーとわめき散らすことがありました。たくさん遊んで身体的な疲労があった日は、もっとひどくなりました。物を投げたり、母親を叩いたりとまるで八つ当たりです。そのたびに叱られるので、暴れ具合はいよいよ激しくなるのでした。


 ある日うちの妻は、叱るのではなく、暴れて泣いている長男に近づき「ソラ(長男の名前です)、あのね、ソラはね、今、眠たいんだよ。眠たいときは寝なさい」とだけ言って、後はしっかり抱っこしました。しかし、そのときはおさまりませんでした。その後、何度も同じことが繰り返されました。半年くらいたったころ、「今、眠たいんだよ」と声をかけると、自分で寝室に行き布団に横になり眠ったことがありました。その後も、多少の紆余曲折はありましたが、最終的には声かけだけで眠りに行くようになりました。本人は繰り返す中で、「暴れたくなる感覚」が「疲れの感覚」であることを認識し、「疲れの感覚」は眠ると解消されることを知っていったのだと思います。このように2歳代では、生理的な不均衡を丁寧に意識させ、それを解決する方法を伝えることがポイントでした。


 次は3歳の時の話です。妹のモモが生まれました。妻は、乳児の世話や家事でいつも手が一杯でした。それまで、親の愛情を一身に受けていたソラは、急に一人きりになり、放りだされた気分になったのでしょう。再び、怪しい行動が出てきました。部屋の中を、折の中に入れられた動物のようにウロウロと歩き回ったり、かんしゃくを起こすことが増えてきました。要するに、赤ちゃん返りです。親から見ると、さびしいのが原因なのは一目瞭然なのですが、本人は勿論気付いていません。


 妻は、家事の手を止めてソラに近づき「ソラは今、さびしいんだよ。さびしいときはさびしいって言わないと分からないよ」と言って、抱っこしました。やっぱり、一度で分かるわけがありません。毎日々々同じことを繰り返しました。3ヶ月たったある日のことでした。モモは、居間のソファーでじいちゃんに抱かれていました。妻は台所で夕食の準備です。ママはモモを抱っこしているわけでないので、アプローチしやすいと思ったのでしょうか、その隙をついてソラはおもむろに妻に近づいていき「ママ、さびしい」と小声で伝えました。居間で聞き耳を立てていた家族は、それを聞いて拍手喝采。妻は「ちゃんと言えたんでしょー」とソラをきつく抱っこしました。ソラもエヘヘと笑っていました。(振り返りますと、そのときのソラは、いつものようにかんしゃくを起こすほど不安定ではなく、ウロウロはしていましたが、少し余裕があるようでした。新しい行動を獲得するときはいつもそうですが、子どもにある程度余裕がないと新しい行動は誘発されません。追い詰めて、子どもの気持ちをギリギリの状態にしてしまうと、子どもは怖くて新しい行動を試そうとしないのです)。このように3歳のときには2歳のときと違い、生理的不均衡よりは、心理的不均衡についての会話が多くなりました。

 子育てをしていると、子どもの持つモヤモヤした気持ちに遭遇します。「わからない」と親が子どもに怒りをぶつけていては子どもは心を閉ざすばかりです。また子どもの不安に巻き込まれて一緒に心を揺らしてしまっては子どもは迷うばかりです。


 ただ、親も万能ではありませんから、子どもの気持ちをすぐに汲み取ることができないときも多々あります。そんな時、どうするか?親だからと完璧を求めずに正直になって、子どもと一緒に考えるのが良いのだと思います。ソラが落ち着いた頃に、妻は抱っこを続けながら、、色々と会話をしていました。こんな気持ちだったの?あんな気持ちだったの?という風に。蜜さんが言っていた大人に選択肢を示して欲しいという願いは、普通の子育ての中で行われる行為なのです。


 感情の肌理を細かくする上で、他者のラベリングの影響はとても大きいのだと思います。感情の肌理を細かくすることは、社会的な適応能力を高めることであります。子どもの感情を大人が丁寧に掬い取り、丁寧な言葉で返してあげることが、感情を発達させる上で重要な契機となるのです。


 雨野さんの起こすかんしゃくは決して、病気だからなのではありません。雨野さんには、かんしゃくを起こしてしまうということを、その理由も含めてありのまま語れる他者にめぐり合えなかっただけなのではないかと私は考えます。他者の言葉を頼りに、自己の内的な世界を研究する過程の中で、徐々に感情というのは練り上げられていくのだと思います。

 

 

 

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022  「021かんしゃくの構造」のコメントの続き

022  「021かんしゃくの構造」のコメントの続き


齊藤コメント

 

 実験後の感想をもう少し挙げます。

 

 Bさんは「快不快、喜怒哀楽程度は感じることができます。相手の感情をうまく言葉に出来ないのと同様に、自分の気持ちも漠然としています。だからいつもモヤモヤしています。でも、自分の気持ちにぴったりな言葉を言われるとすごくすっきりします」。


 Cさんは「感情を表現する語彙が少ないんです。普段はその程度の語彙でしか、他者や自分の感情をとらえていません。会話だと流れの中で表現する必要があります。時間制限があるのでとても難しいです」。

 

 Aさん、Bさん、Cさんに共に、感情を表す言葉を知らないということを自覚されています。感情というものは言葉に規定されているものなのですね。

 

 Dさんは「結婚してから、怒れるようになりました。それまでは、無意識に怒りの感情を押さえ込んでいたのだと思います。結婚したことが大きい。夫に対して気持ちを伝えないと、夫婦関係は成り立たない。夫は、私が感情を表現することを求めてきました。恐る恐る感情を表現してみたら、夫のリアクションがとても大きいので驚きました。そんな日々をすごしているうちに、自分の感情を見つめざるを得ない状況なっていきました。すると、感情の起伏が大きくなっていきました。でもまだ、自分の感情をどのくらい出せばよいのかわからないので、必要以上に夫を悲しませることがあります。今は調整段階なのです」。

 

 結婚を機に感情表現が豊かになったというのが興味深いと思います。ポジティブな感情は、相手に受け入れられやすいので表現しやすいですが、ネガティブな感情は相手を怒らせたり、悲しませたりして、その後の関係を悪化させてしまう可能性があります。人間関係において失敗経験の多い人であれば、自己評価を下げる事態を招くことは出来る限り避けたいと思うはずです。

 

 でもDさんは、信頼できる夫に対してであれば、今まで意識することを避け、押し隠してきた感情を表現することができると思ったのでしょう。感情が育つには、当然ですが基本的信頼感が必要条件です。

 

 「自分の心の動きに疲れるときがあります。細かに動いているから。刺激に対するフィルターが細かい。反応してしまう」。

 

 Dさんは、外から見るとクールに見えるのですが、ここで述べているように、いろんな刺激に反応して揺れ動く、敏感な心を持っているようです。細かく揺れ動いているのに、それを外部に表現できない状態は、本当のDさんの姿ではなかったでしょう。
 

 雨野さんは感情語の獲得について、「定型発達児は、養育者からたくさんのラベリングを浴びせかけられる。取捨選択するのは子ども自身だが、ラベリングのきっかけは他者なんですね」と言っていました。

 

 他者からのラベリングを取り込むということは、人は発達初期から他者性を含んだ自己を形成しているということになります。雨野さんは「オリジナルな自分の言葉はないかと、心の中に捜してみたことがあります。しかし、どん言葉も他者から取り入れたものばかりだということに気付きました。自分はたまねぎみたいなものです。真ん中には何もないのですから。僕自身というのは一体どこにあるのでしょうか?」。

 

 このとき私は雨野さんに「感情も含めて自己という概念は、他者と作り上げた一種のイメージなのではないかと思います。自己というものは、個人に内在する実体のあるものではなく、他者との関係性のあり方そのものを指すのではないかと思います。ゆえに他者との関係がないところに、自己もまた存在しないということになると思うのです」という意味のことを述べました。でも、雨野さんは自己がどこかに“ある”と信じているようでした。そして深く長く内省していったのです。

 

 雨野さんは「怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思えるように少しなった。病識というのは大事だ」と述べました。私はこの文章に少し違和感を覚えたのですが、皆さんはどう思いますか?

 

 雨野さんが怒る理由は、時にユニークかもしれません。しかし「怒ること」それ自体は、人間として自然な行為だと思うのです。怒りの感情をうまくコントロールすることは必要ですが、距離を置いて表現しないでいることは、自然ではない気がするのです。私は「怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思う」ことを、なるべくなら“病識”と整理したくないのです。自身の感情世界をより豊かにするのは、他者からラベリングなのだとすると、それを出さずにじっとしていることは、安全と引き換えに成長を失うことになります。

 

 Dさんのようにネガティブな感情をありのままに受け入れ、対話をしてくれる人に出会うことの大切さは、雨野さんの納得の仕方と対比されることによって、より明確になると思います。Dさんは「苦手なことはにがてなままでいいんだなと思えるようになった。自分を許してあげる感覚を持つようになりました」と仰いました。

 

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