雨野カエラのエッセイ
016 葉を見て森を見ず
016 葉を見て森を見ず
雨野カエラ
木を見て森を見ず、って知ってる?
最初の問診で「木を見て森を見ず、ということがよくありますか」とドクターに尋ねられた。僕は、“ウンウン”考えてやっとのこと答えた。「そうですね」って。一見、会話が成立しているように思える。正常な会話のようだ。木も森も何かの喩えなのだろう。それが何かはあえて特定しないでもよいのだろう。それはわかる。
同時にこうも考えていた。僕は、冬の木が好き。森を見る時は、木も枝も葉っぱも見る。冬は、枝や残った葉の上に雪がつもり、輪郭のコントラストがはっきりする。葉の輪郭は枝の、枝の輪郭は木の、木の輪郭は森の輪郭をフラクタルに構成する。木を見て森を見ずというより、「葉を見て森を見ず」です。だから答えは「(まあ)そうですね」になった。こんな一見、普通なのに実は食い違う答えが、やがて人とのコミュニケーションのほころびになっていく。支援者でさえ、そこにどんな溝があるのか気付かない。「大丈夫。会話は成立しているよ」という励ましは、きちんと見ていないということになる。
この文章を書くにあたっては、自分の「自閉の認知」を捉まえなければならなかった。それは集中できる時間と環境の条件がとても限られていることだったり、自分の知っていることぐらいは、周りのみんなはとっくにお見通しだと思っていることだったり、文章が自己エコラリア(繰り返し)になりがちなことだったり、どれだけ書けば良いのか誰かに定量化してもらわないと判らないことだったりした。せっかく書くことが.みんなとっくに知っていることだとしたら、書く意味なんて見出せないし、全く誰も知らない新しいことを書くのはとっても大変なことだろう。
自閉の人たちはあまり閉じていない。どちらかというと開いている。自分の知っていることはみんなも知っていると思っているし、みんなの知っていることは自分も知っていると思っている。とってもオープンな認知。これは「群れ」スタイルだと思う。かつてテンプル・グランディンは自閉の人を捕食される動物に喩えた。僕がイメージするのは「捕食される動物の『群れ』」。群れの中ではクローズではなくオープン。自閉症という言葉から連想されるイメージからジャンプして、離れながらこの文章を読み始めてほしい。
ぼく?僕もなんとか自分の思い込みからトムソンガゼルみたいにジャンプして離れてみるよ。
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齊藤コメント
「木を見て森を見ず」ではなくて、「葉を見て森を見ず」。前回考察した微分的思考のイメージが分かりやすく表現されていると思いました。局所時間、局所空間への注目の高さを表しています。雨野さんはよく、「定型発達者とASでは、言葉の周波数が違う」と言っていました。「ASは高周波なんだ」みたいなことを。たしかに、ASの人と話していると、非常に丁寧な言葉遣いをしようと努力していると感じることがあります。礼儀という尺度から分かる類のものではなく、正確に言葉を選ぼうとする態度の強さのことを指します。だからASの人の言葉って、表現の肌理がきっと細かいのだと思うのです。一方、我々定型発達者の言っていることは、ASの人から見ると、肌理が粗く、外れてはいないんだけども、しっくりも来ないといったことになるのでしょう。そういえば、雨野さんと出会って一年くらいたった頃「齊藤先生も高周波な言葉を話せるようになってきましたね」と褒めてもらったことがありました。そのときは、うれしかったものです。
さて、本題はここからです。最後の文章を読んで私は、クリプキの「暗黙の中の跳躍」という言葉を思い浮かべました。意味を確定する行為は、暗闇へ命がけで跳躍するのに等しいことだということを示すメタファーです。私達は、どの瞬間においても選択を迫られています。一つ一つの事例について、100%の確証を持って選択している人はいないでしょうが、ここぞ!という場面では、我々は「エイヤッ!」と確証のないまま選択を強いられることになります。その選択がどんな結果をもたらすか皆目分からないときは、この「エイヤッ!」度は高まります。ネガティブな結果が想像されるときはさらに高まります。
数年前、学会出席のためにロンドンを訪れました(初の海外でした!)。ある日、込み合っている地下鉄に乗り合わせました。すると私の目の前に、髭が立派で、スーツも上等なアラブ系のおじさんが立っていました。目が合ったので笑顔を返しました。一旦視線をはずしたあと、再び、何気なくそのおじさんの方へ顔を向けると、なんと!僕をニヤニヤ笑いながら見ているではありませんか!(視野の端っこで確認していたのです)。知らない振りをしましたが、おじさんの視線は僕から外れません。「あー、どうしよう。なんか気持ち悪い」と直感的に感じました。
数分後、思わず目が合ってしまいました(おじさんの位置が変化したのを見逃していたのです)。私は笑顔のまま固まっていると、好意なのか敵意なのか分からない“素敵な”スマイルを浮かべながら「Are you Japanese?」と声をかけてきました。「Ye,Ye, Yes…」と、しどろもどろになりながら答えました。おじさんは次の質問をするべく、口元を動かそうとしています。その瞬間の私の心の内容を実況中継しますと「やばい、襲われる!このおじさんは、アラブの大富豪で、慰み者として僕を誘惑しているのではないか?僕ってそんなに魅力的?いやいや、そんなことを考えている場合でない」。そんな妄想が頭を駆け巡りました(人は、恐怖に陥ると何でも想像する生き物ですね)。私はこの不気味なおじさんから一刻も早く逃げたいと思ったのですが、地下鉄ですからそうもいきません。おじさんの熱烈?な視線を感じつつ、目的地に着くのを今か今かと待っていたのでした。
日本だったら、私はこんな風にはなりません。言語も習慣も文化も違う相手だったからこそ、恐怖を感じたのだと思います。日本ではなくロンドンだったから、そして日本人ではなくアラブ人だったために、相手の意図を確定することが難しかったわけです。相手の意図が見えないというのは、こんなに怖いものかと思いました。この時、おじさんのスマイルを見たままに「好意」として解釈することは、そのときの私にとってはまさに「暗闇の中の跳躍」に匹敵することでした。なぜなら、その解釈は私の想定を超えた選択肢だったからです。自分の認知の外に出るのは、難しいだけでなく、勇気が必要です。もしかしたら、アラブのおじさんはアジアから来た青年に「ロンドンヘいらっしゃい」と歓迎の意を示したかったのかもしれませんし、昔日本に旅行したことがあってなつかしくなり、日本について会話したかったのかもしれません。しかしながら繰り返しますが、その時の私にとって、その選択肢は「暗闇」に属すことだったのです。
言葉の使い方も感覚経験も違うと感じ、他者との同型性を見つけられないと告白する雨野さんは、日本人として日本にいても、まるで外国で一人ぼっちでいる旅行者のようだと思いました。この時の経験をいつも、雨野さんの日常に重ね合わせています。雨野さんは、普段の生活のいたるところで「暗闇の中の跳躍」が求められている状態だったとしたら。
話は少し変わりますが、暗黙の了解との出会いは、日常における異文化との出会いです。自分が文脈に合わない発言や行動をしているのはなんとなく分かるけれど、それを正しく、独力で意識するのは、大変難しいことです。なぜなら「もしかしたら~なのかもしれない」という、確信のない解釈はその人にとっては「暗闇」に属する解釈だからです。「さあ、跳んでごらん」と言われても、そう信用できるものではありません。よほどの信頼関係がないとダメです。
自閉症の人たちは暗黙の了解が身についていない、とよく言われます、しかし、信頼感と丁寧な説明がなされない状況では、そもそも自閉症であるかにないかに関わらず、なかなか身に付かないのではないかと思います。他者への信頼もない、結果についての丁寧な説明もなければ、あとは「思い切って跳ぶ」という個人の無謀な勇気に頼るしかないのです。これじゃあ、運の良い人しか成長できないことになってしまいます。
さて、雨野さんは文章を書くことで、自分の「自閉の認知」を捉える必要が生じました。文章を書く行為とは、読み手(他者)を想定する行為ですから、頭の中ではいつも誰かと対話していることになります。「文章が自己エコラリア(繰り返し)になりがち」と述べているように、自己の認知の内側に留まっている限りは、他者に伝えたいテーマや伝わる表現は生まれません。認知の外に、思い切って飛び出すときに初めて、「客観的な自己」が自分の視野に入ってきて、さらには他者との関係の網の目に含まれる自己が俯瞰されるのだと思います。
「暗闇」に自分を投げ出し、表現している雨野さんの文章に対して、何かしらのリアクションを返すのは、人間として私が果たすべき礼儀であると感じます。そして、「暗闇に跳んだ」雨野さんに、どんな着地点を提供できるかが私に課せられたとても大切な責務であると思うのです。
周囲の人間に信頼感を持てないと常日頃感じている人達が訴える言葉や行為を、「暗闇の中への跳躍」として捉える感度が我々にあったならば、彼ら彼女らは今よりはもっと救われていたのではないかと思います。信頼関係が薄くなっているこの世の中、自己を開示するのはとても勇気のいることです。その勇気ある行為を“常識”の名のもとに、単純に序列化してしまうのでは、その人の未来がありません。
一般的に、子どもが開示した事象は、その子どもにとっては「個別」的なことです。大人にとっては、常識に属する範疇の事柄であっても、その子どもにとっては一回性の経験であることを、大人が承認することが重要だと思います。個性を尊重するということはそういうことです。そのためには、子どもの言葉や行為が原則的には常に「暗闇の中への跳躍」であるとの想像力が大人には必要です。我々だって子どものときは、その跳躍を「よくやった」「うん、よくわかるよ。私も昔はそうだった」と受け止めてくれる大人が傍にいたのではないでしょうか?そのような大人の一言で、我々は成長できたのではないでしょうか?今我々は「子どもの跳躍を受け止める立場」いるのだという自覚が改めて必要なのだと思います。
蛇足ですが、「暗闇の中への跳躍」だとちょっと暗い気持ちになりますが、「トムソンガゼルみたいにジャンプ」するなら、なんかうまくいきそうな気がしますよね。