2012年2月の記事一覧
033 テクニカル
雨野カエラ
自閉症者の支援は、気持ちだけではどうにもならない。本人を支えようとするポジティブな気持ちは勿論必要なのだけれど、支援の技術なしに関わろうとする人がなんと多いことか。理解するということと思いやりをもって接することは同義ではない。「ロマンティックな自閉症」が好きな人たちにはウケがよくないのかもしれないけど、支援の「テクニック」「技術」がとってもとっても重要なのだ。
社会性の障害があるということと「誰でも社会では苦労するさ」というような事柄は、同じように語られるべきではない。支援者はよく考えなければならない。本人もまたそれを混同しないようできる限り考えなければならない。
他者の意図がわからないということは思いやりを持てないという意味ではない。思いやりを持っていても、意図を読み違えて相手に迷惑をかけることがあるもしれない。本人は、そこに注意がいるだろう。一方、支援者は本人が多くの場合、意図の分からない大勢の人たちに囲まれて過ごしている状態にあることを忘れてはならない。
それが頑固であるとかこだわりであるとかいった単なる指摘は(理解がその程度では)本人にとっては拷問にしかならない。
齊藤コメント
雨野さんと知り合った頃、メールでやり取りしていました。抽象的な議論をしていましたから、口頭で話し合うだけではイメージの共有が難しいと互いに判断したためです。
文章ならば、言葉をじっくり練ることができます。
私は、できる限り丁寧に文章を組み立てることに注意を払っていましたが、ある日、時間がなかったので校正もろくにせずに送信してしまったことがありました。いつもならすぐに返信があるのですが、なかなか返ってきません。2週間ほどすぎても返信がなかったので、こちらからメールをしました。
するとすぐに返信がありました。メールには、返信できなかった理由が書いてありました。私の文章に意味の繫がらない箇所があって、何度も読み返していたのだそうです。
指摘された文章を再度読んでみると、なるほど繫がっていません。文章の流れは保たれているものの、一つ一つの文章がきっちりと論理的に編まれているわけではないので、局部的にみると非論理的に感じられるのでした。雨野さんは、そこに引っかかったのです。
私は、曖昧な文章を書いて送ったことをまず謝りました。その上で、「わからないと思ったらすぐに連絡してくれれば良かったのに」と書き送りました。すると「齊藤先生が、意味の通らない文章を書くとは思っていなかったのです。先生の文章は正しいと思っていたので、理解できないのは自分のせいだと思っていました」と返事がありました。雨野さんの言葉への態度は、とても精密なのだなと感じました。
数日後、非論理的な文章が苦手な理由について「一貫性のない文章」という題されたメールで解説してくれました。
文章に[真 T(true)]と[偽 or あいまい F(false)]が混在した時に、(僕の頭は)フリーズするか整合性のとれない部分を消去するようです。順番に文章を読んでいって、
ここでフリーズ
↓
…T T T T T T F t t t t t t t …
↑
ここから新規(F以前は消去)
ラージ「T」が連続しているのは、論理的に整合的であることを示しています。しかし、そこに「F」という曖昧な表現が混入します。すると、ラージ「T」と「F」が、矛盾しますので処理が中断してしまいます。つまり、フリーズが生じます。でも立ち止まってばかりはいられません。これが、相手の話であれば、どんどんと話題は進んでいきまので、処理を前進させなければなりません。「F」とスモール「t」は、やはり矛盾するのですが、かまわず処理を進めていきます。スモール「t」が連続してくると一安心です。論理的に繫がっていて意味が分かるからです。しかしながら、ラージ「T」および「F」の記憶は失われます。意味的、論理的に繋がらない文章は断片化し、記憶に残りにくいからでしょう。または断片化しているので、想起(検索)できないだけなのかもしれません。雨野さんは、論理的に曖昧な文章を読んだり聞いたりすると、いつも最後の文章しか頭に残っていないと言います。「ここからは新規」と記述されているのはそういう意味です。
このメールを受けて、文章の構成には、特別の配慮をすることにしました。何度も読み返しては、意味の繫がらないところはないかどうか入念にチェックしました。すると、論理的によく構成されたメールを送信すると、返信が早いことが分かりました。私の文章が変化したことによって、意思疎通がよりスムーズになったのです。雨野さんとコミュニケーションする、コツを学んだような気がしました。
余談ですが、「私は、せっかちでおっちょこちょいです。論理的ではない文章は、実は始終書いているのです。だから、次回から曖昧な文章に出会った時は、雨野さんの読解力がないからと判断せず、齊藤の文章力のなさと考えてもらえますか」とお願いしたところ、「今回のことで、よくわかりました。齊藤先生のメールに関しては基準を変更しました。曖昧な文章に出会っても、もう大丈夫です」と言ってくれました。それからは、僕の曖昧な文章にもよくつきあってくださり、雨野さんが思う解釈を返信してくれるようになりました。お互いを理解し、文章の書き方、読み取り方を修正した結果、コミュニケーションがよりスムーズになったのでした。
032 「周囲への告知について」のコメント
032 「周囲への告知について」のコメント
齊藤コメント
雨野さんの文章を読んでいると、他者を敵か味方かで判断しているように見受けられます。
基本的信頼感が薄いと、判断の基準がどんどんとプリミティブなものになっていくようです。
敵か味方か、という基準が強くなると、コミュニケーションは生まれにくくなります。
以前紹介した高校生のF君は、所属する部活のメンバーに自分のことを告知しました。最初のうちは理解を示してくれた仲間や先輩達も、頻繁に指示を忘れたり、同じ間違いを繰り返すF君に苛立ちを感じ始め、しばらくすると「障害に甘えているのではないか」と責めるようになってしまいました。
悩んだF君は、一つ上の学年の先輩に相談しました。その先輩は、親身になって話を聞いてくれたそうです。また、聞いてくれただけでなく解決方法も一緒に考えてくれました。F君は「次から次へと指示されると、最後の指示しか頭に残っていないんです」と自分のことを説明しました。すると先輩は、ノートを持つことを勧めてくれました。F君に指示があったときは、手元にあるノートにすぐに書き込めるようにしたらどうだろうかと提案してくれたのです。さらには、一人だけノートを持っていては目立つので、コーチや監督には事前に伝えておいてくれたそうです。
F君がこの話を終えた後「齊藤先生、これで良かったのでしょうか?」と確認を求めてきました。私は「もちろんです」と答えました。そして「F君の話を聞いていて、すごいなあと思ったところは、自分の記憶の特性に気付いただけでなく、さらに相談に乗ってくれそうな先輩を試行錯誤せずに一度で見つけられたことだと思います」と言いました。F君は、きょとんとしていました。
自分を理解してくれそうな人を見つけるのは、簡単なことではありません。自分が何について相談したいのかが分かっていないと、それに適した相手を見つけることは不可能だからです。また、F君のように自分の特性を把握している人でも、「相手を信じる」気持ちがなければ相談までたどり着けません。「どうせ分かってくれないだろう」と否定的な気持ちで一杯な時に、他者に頼ろうとはしないでしょう。このように「相談する」というスキルは、獲得の難しいスキルの一つだと思います。
私が出会ってきた自閉症圏の方たちは、本当に困った時に自分一人で考える込む人たちが多いなあ、という印象を持っています。他者に頼る、助けを求めるということは、まず身に着けなければならないことだと私は思います。誰だって、人に助けられて日々を生きているわけです。心を低くして、他者に助けを求める。そして助けられたことを感謝して形に表してお返しする。この気持ちが育っていれば、社会に出たときに何とか生きていけるのではないかと私は思うのです。
F君のように、本当に困ったときに他者に相談できる人というのは、きっとそれまでの人生において、一緒に考え、助けてくれる人にたくさんめぐり合ってきたのだろうと想像できます。もっと想像するならば、F君のご両親や周りの人たちが、小さなF君の代わりにいろんな方々に相談しながら、他者に助けてもらう模範を示されてきたのだろうとも思うのです。両親が先に通ってくれた道なればこそ、後に続く子どもが、本当に困ったときに親の姿に自分を重ね合わせ、自然と相談できるようになったのだと思うのです。相談する力というのは、一丁一石に身につくものではないと私は思います。短期間のソーシャルスキルで、形は整うかもしれませんが、そのスキルを運用すること、相手に感謝の気持ちを持つことは、また別の話です。何年もの生活の積み重ねが必要です。
自立することを、人に迷惑をかけないことと教えている場面によく出会います。年齢などにもよりますが、小さいうちからあまりこのことを強調しすぎると、かえって人間同士が自然に助け合う姿を歪めて伝えてしまっているように思います。
「困っているんだね、手助けしてあげよう。でも次からは、自分で出来るように努力するんだよ」。一見筋が通っているように思うのですが、この精神を突き詰めると、実存的で孤独な個人を作り出してしまうような気がします。孤独な個人には信じるものがありません。完全な自由を獲得しますが、同時に心のよりどころを見失うことになります。
「困っているんだね。手助けしてあげよう。私にお返しはいらないよ。そのかわり、君が大きくなって同じように困っている人がいたら、助けてあげてほしい。できれば、自分が助けられて感謝しているということを話してくれるなら、もっといいな」。これだと、人と人のつながりが切れません。自己評価も下がりません。またこの声かけは助けられてきた過去の自分から人を助ける将来の自分へと、自己の成長を歴史的に展望する視点を子どもに与えています。歴史的な文脈の中に自己を位置づけることは、たくさんの他者に支えられながら今の自分が成り立っているという気持ちを育てる苗床になると思います
子どものソーシャルスキルの問題は、我々大人のソーシャルスキルの問題であると言えます。思いやりの気持ちを持って欲しいと願うならば、その子の前で私たちが、常に思いやりのある行動を、その子どもや周りの人に向けていることが必然となります。社会のために働いて欲しいと願うならば、まず私たちが他者の喜びを目標としてしっかりと働く姿を、子どもに映さねばなりません。
ソーシャルスキルや障害告知といったことが、技術論だけで終わるならば、大きな効果は望めないでしょう。子どもに向き合う私たちの日常の生活そのものをどのように構築していくかが問われているのだと思います。
F君は、普段、部活のメンバーに迷惑をかけて申し訳ないと思う気持ちから、誰よりも早くグラウンドに顔を出し、一人黙々と整備をしているのだそうです。F君を育てた家族や支援者たちの日々の過ごし方が表れていると思います。
031 周囲への告知について
031 周囲への告知について
雨野カエラ
周りには告知をすべき人とそうでない人がいる。
告知しなくてもよい人は、まず世の中の大半の人。深い関わりのない人たちには告げなくてもよい。自閉圏の人たちの情報が正しく世間に広まった後に知らせることによって配慮してもらえる。例えば、突然の訪問やセールスをやめてくれるのなら知らせるメリットはありそうだが、その周知の日はまだ近くはない。訪ねてきた郵便配達員にいちいち教えることはない。
告知をしなくてよい人たちの中には身近な人たちの一部も入る。どちらにしろ変わらぬ付き合いをしてくれる友人には改めて告げることはないかもしれない。親戚一同にも特に発表しなくてもよいだろう。これで人類の大半はリストから外せる。
自分の生活や仕事に関わりがあって、告知をすべき人には大きく分けて2種類の人たちがいる。先天的に「自閉を理解できる人」と先天的に「理解できない人」だ。先天的というのはちょっとしたジョークだ。理解できる人たちは少数だから大事にしよう。
理解できない人はさらに2グループに分けられる。まず障害や自閉症といった言葉をよく思わない人だ。このグループからは離れよう。人類はいっぱいいるから離れても構わない。もう一つのグループは善意はあるけれども、どうしても理解できない人たちだ。これは少々やっかいだ。この人たちは好意的だけど、なにかと障害にかこつけた解釈の仕方をする。あなたのことが心配だからという理由で、頼んでもいないのに他の人に配慮を求めたり、障害のことを言ってまわったりする。でも善意からしていることだ。彼らが真に理解をしてくれるまではとても時間がかかる。理解のないまま人生を終えるかもしれないから、告知をすべきかそうでないかは、よく考えなければならない。時間はかかるが、後天的な理解の可能性がないわけではない。
そのためには、少数の「理解できる人たち」の力も借りよう。こちらの言葉や表現が足りなくても大半は理解してくれる人たちのことだ。でも何も伝えなくてよいわけではない。この人たちにはがんばってなんとか表現してみよう。きっと応えてくれると信じよう。
*今週は、齊藤が出張のためコメントが間に合いません。次週、書きます。
030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)
030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)
齊藤コメント
ある日I君は、ぷんぷんと怒って幼稚園から帰ってきました。理由は、友だちが約束を破ったからでした。I君の怒りをなだめようと、いつもなら説得を試みるのですが、この日のお母さんのアプローチは違っていました。
「ねえ、今、④の顔(怒り顔)になってるよ。鏡で見てみる?」と尋ねたのです。I君は怒ったまま「うん」と答えました。早速、お母さんは鏡を手渡しました。自分の顔を見たI君は「ほんとだ、④の顔だ。」と言いながら、思わずふっと笑いました。それを見て「あっ、②(微笑み)になった」と言いました。鏡を見ただけなのですが、気持ちが切り替わったようでした。
その後も、機嫌が良いままでした。本当に機嫌が直ったのだろうか?といぶかりながら「お母さん、友だちに電話してみようか?」と言ってみましたが、I君は「もういいよ」とあっさりしたものだったそうです。
問題は何も解決してはいないのです。友だちは約束を破ったままですし、その理由もわからないままなです。いつものI君ならば、納得するまでお母さんや友だちに説明を求めたことでしょう。でもこの日は違いました。なぜなのでしょうか?いつもと違う点と言えば、I君の意識が「他者の気持ち」ではなく「自分の気持ち」に向けられていたことです。
我々は「自分の気持ち」は自分が一番知っていると思いがちですが、決してそうではないということが、経験が積み重なるうちに気づく事実の一つです。「自分の気持ち」は、何かに媒介されなければ知り様がないのです。I君の気持ちを媒介したものは「鏡」でした。それゆえ「自分」が対象化されたのだと思います。ぷんぷんと怒っている時のI君の意識にあったものは、「他者」と「他者に関わること」のみだったのだと思います。だからすべての原因は、他者にあったのです。
I君の意識野には「自分」と「自分に関わること」が、すっぽり抜け落ちていたのではないかと私は思うのです。だから、決して他者にすべての責任を押しつけていたというわけではないと思います。「他者に責任を押しつけている」という表現には、押し付けている主体が隠れているので、一人ではなく、二人が想定されている表現ということになりますから。
そんなI君の内的世界に、鏡を通して「自分」と「自分に関わること」が逆流して流れ込んで来たのです。結果、自己意識が発動したのではないか。そう思えるのです。そうだと仮定すると、I君の気持ちの変化は、問題解決したからではなく、自己が捉えられるようになったから生じた結果なのではないかと考えられます。自己が客体化されたことによって、自己を操作できる位置を獲得したということです。
こんなエピソードもありました。運動会の練習で「よさこい」を練習していました。I君は、踊りを失敗をすると、いちいち落ち込みました。「僕なんか、いなくなればいいんだ」と床に突っ伏してしまうほどでした。先生は「大丈夫、I君はとても上手よ」と繰り返し褒めますが、I君は納得しません。「先生は褒めるけど、僕は失敗したじゃないか」と。
総練習を明日に控えた日の夕方。お母さんが相談に来ました。「当日、本番で失敗して泣き始めたら、全体の踊りが止まってしまいます。それを食い止める方法はないでしょうか?」。
なぜ先生に褒められても嬉しくないのか?について考えてみました。I君は、いつも先生を見て踊っています。正確にいうと先生だけを見て踊っているのだと思います。周りにいるクラスメートのことはほとんど見ていないのだと思います。だから、I君の基準は、いつも先生なのです。完璧な先生を基準にすれば、一度の失敗も許されないのは納得できます。反対に先生の視点からI君を想像してみました。先生の視野にはI君だけじゃなく、他のクラスメートが映っています。だからこそ先生は、I君が誰よりも真面目に取り組み、上手に踊れることを他の子どもとを比較することによって知っているのですが、I君は先生から見た自分というものを想像できません。ここに、両者のすれ違いが生じる原因があるのではないかと思いました。
もう一度まとめますと、I君は先生だけを見ている(自分が想像中にない)。一方、先生は、クラスメートの中の一人としてI君を見ている。見ているものが違うのです。共有しているものが違うのです。
そこで、お母さんに次のような提案をしました。先生に総練習の様子をビデオに撮ってもらい、クラスメートとI君を比較しながら、I君がちゃんとやれていることを確認してほしいと。つまり、I君が想像できない他者からみた自分の様子を、ビデオという道具を使って提供しようというアイデアです。ビデオを見ながらI君のできているところ、できていないところを家族で話し合ってもらいました。結果はうまく行きました。当日、3回失敗したのですが、落ち込んで地面に突っ伏すことなく、ニコニコと笑いながら踊り続けたそうです。
I君が苦手な想像とは、自分を想像することでした。もう少し正確に言うと、他者から見た自分を想像することのようです。雨野さんのいう想像力の欠如は、「自分というものの想像」にあるのかもしれません。