2012年1月の記事一覧
029 「想像力の欠如」のコメントの続き
029 「想像力の欠如」のコメントの続き
齊藤コメント
I君のお母さんは、いろんな表情の顔の絵を描いて、居間の壁に貼ることにしました。①口を開けて笑っている顔、②口を閉じて微笑んでいる顔、③真顔(無表情)、④怒っている顔、⑤泣いている顔の五つです。親しみが湧くようにと、I君の弟の顔に似せて描きました。
表情に合う気持ちを書き入れようとしたとき、I君が近寄ってきました。お母さんは「表情のお勉強のために絵を描いているのよ」と説明すると、I君は絵を見ながら表情に合う気持ちを述べ始めました。どれも表情に合っているものばかりでした。お母さんは、I君の言ったことを顔の周りに書き込んでいきました。面白かったのは、③(無表情)へのコメントの量でした。他の表情に比べると3倍くらい多いのです。③(無表情)は感情を推測するための手がかりがないので、色々な解釈の可能性を含んでいます。I君は、たくさんの推測をしていることがわかりました。
居間に絵を貼り出した次の日から変化がありました。幼稚園から帰ってきたI君は、友達や先生の表情について報告するようになったのです。「~君は、いつも②(微笑み)と③(無表情)と④(怒り顔)だ。もっと①が増えればいいのに」とか「~先生はいつも③(無表情)だ。だから、(指示の意味が)わからない」などとです。それまで、他者の顔など注目することのなかったI君が、お母さんと作った絵をきっかけに観察を始めることになったのです。
観察の目は家族にも向けられました。I君のお父さんは、とても優しいお父さんなのですが、眉間にいつもしわが寄っています。テレビを観ているお父さんを横目で見ながら「お父さんは怒っているの?」とお母さんに尋ねます。お母さんは、絵を指して「そうね、表情は④に見えるわね。でもね、心は②よ。Iのことを怒っているんじゃないの。お父さんは、Iのこと大好きよ」と答えました。I君はそれからしばらく、お父さんの顔を見て不安になると「お父さんは、顔は④だけど心は②」と自分を納得させるためにつぶやくのでした。
I君にとってこの絵は、自分の認識を整理するための枠組みになりました。枠組みが整えられたことで、I君は、普段の生活で目にする表情を分類できるようになりました。表情の差異に気付いたということです。
I君の観察の正確さを物語るエピソードです。「~先生はね。ボール見るときは、②(微笑み)だけど、僕を見るときは、③(無表情)が多いよ」と言ったことがあります。これはどういうことかというと、おそらく先生はまず、I君のそばでボールを使って遊んでみたのでしょう。I君が興味を持つように笑いながら。そして次に、I君がどんな反応をしているのか気になり、視線をボールからI君に移したとき、先生は遊んでいることを忘れて観察することに意識が向いたことによって、楽しげな表情から真剣なまなざしに変わったのだと思います。この違いをI君は見分けていたということです。
もう一つ重要だったことは、かならずお母さんからのコメントがあったことです。絵を互いに共有しながら、表情やそのときのエピソードについてI君とお母さんは色々と語り合うわけです。I君はお母さんのコメントの中に、自分と似ているものあるけれど、それと同時に違うものもあることに気付いていきます。つまり表情の差異に加えて、解釈の差異にも気付いていくのです。
ある日のこと。I君は幼稚園から帰ってくるなり「お母さん、世の中の人って③(無表情)が多いんだよ。知ってた」と、何か大きな発見をしたとでも言いたげな雰囲気で話し始めました。確かにそうです。特に大人の顔は。I君は続けて「でもね、お母さんは、顔は③でも心はあるよね。ということは、他の人も、無表情のときでも心はあるの?」と尋ねてきたそうです。お母さんは「そうよ。無表情でも心はいつもあるのよ」と答えました。I君は「そうかあ」と言ったきり、何か深く考えているようでした。
お母さんの表情と気持ちについては、絵を通じてたくさん語り合ってきました。だから、無表情のときでもお母さんには心があるということを、I君は理解したのです。その認識を、今、他者にも広げようとしているようです。
このエピソードと前後して、幼稚園からトラブルの連絡がパタッと来なくなりました。どうやら相手をしつこく押したりすることが減ったようです。お母さんと話し合って考えたことは、きっと相手の表情に注意が向くようになり、「表情は楽しそうに見えるけれど、心はもしかしたら悲しんだり怒っていたりするかもしれない」というI君とって新たな想像が生まれたからではないか、ということでした。
“ない”ものへの想像力が大切です。以前、クリプキの「暗黙の中の跳躍」を引用してお話したことです(「016 葉を見て森を見ず」参照)。感情を読むには、見たままの情報をそのまま解釈することではない、という気付きが必要です。心の二重性に気付くということです。見たものをそのまま捉え、分類することは、自閉症者のほうがむしろ優れていかもしれません。見えないものが“ある”と気付くこと。このことを自覚することの意義が、早期療育の中で強調されても良い気がします。
028想像力の欠如
028 想像力の欠如
雨野カエラ
想像力の障害という言葉から、想像力の欠如を思い浮かべていませんか。空想力や創造する力が全くない訳ではありません。でも、これから何が起こるのかという予定はしっかりと教えてほしいし、その予定の変更もいやです。何かについて定型発達の人と違った狭い範囲の想定をしているかもしれません。一番の問題は本当の意味の「他者」というのを想像するのも苦手なのかもしれない。ただ、とにかく欠如ではないと思っています。定型発達の人の想像もしないやり方を思いつくのは、時に自閉圏の人たちではありませんか。そうなると想像力の障害があるのはどちらでしょう。
アスペルガー症候群の人の考える他者は「本当の他者」ではないのだと思う。自分の中で考えた他者。それを乗り越えて考えることができない。これが想像力の障害なのかな。
自分の考えた他者だから、自分に都合のいいように考えていると思われてしまうだろうか?しかし、成長と共にそれは修正されていく。大人になったアスペルガー症候群の人は辛い目にたくさんあってきている。自分の中の他者は常に自分を律する人のようになってしまう。たとえ本当はその人が自分に怒りを感じていないとしても、そうは思っていない他者を想像できないのだ。本当の心は聞いてみるまではわからない。そう自分に言い聞かせても、最悪の他者の対応を想像してしまう。それでは心を聞きに行くことさえためらってしまう。想像ができないのではない。想像が間違ってしまうのだ。
定型発達の人はどうやってそれを乗り越えるのだろう。本当に人の心がわかるのだろうか。キーになるのは身振りや表情が読めるかどうかといったことではないと思う。定型発達の人が持つ「あいまいエンジン」がある程度の心の読みを可能にしているのだろうと僕は考えている。
齊藤コメント
「身振りや表情が読めるかどうかといったことではないと思う」ということから考えてみたいと思います。
Baron-Cohen(1995d)は、「目から心を読み取る」心理実験をしました。実験協力者に目の部分だけが切り抜かれた写真を提示し、それに対応する感情語を選択してもらいました。結果、自閉症群は定型発達群に比べ、有意に成績が低かったのでした。
目の部分だけをよく見ると、そんなに多くの手がかりはありません。にもかかわらず、定型発達者はなぜ正答できるのでしょうか?私は、写真を眺めながら考えてみました。目の表情を読み取っているというよりも、「その目にふさわしい全体の表情を思い浮かべ、その表情をもとに感情を推測している」のでないかと思いました。自閉症群は、全体の表情を構築することができないために、成績が低いのではないかということです。すると自閉症群が利用できる手がかりは「目」しかないのです。しかし「目」そのものにはそれほど情報が含まれているわけではないので、誤認する確率は高くなるというわけです。
部分的情報から全体のありようを推測し、想像すること。この実験では、この能力が試されている気がします。表情の一部から全体を推測するためには、理論(ルール)が必要です。さらに理論(ルール)を構築するためには、たくさんのデータが集積されていることが前提になります。定型発達者と自閉症者の成績の差の背景に、データ(経験数)規模の違いが大きく影響していると私は考えています。
次に、経験と表情の読み取りについて、事例を元に考えていきたいと思います。
幼稚園年長のI君(アスペルガー症候群)は、友達を押したり、叩いたりしてはトラブルを起こしていました。毎日、幼稚園から電話がかかってくるようになり、お母さんが困って相談に訪れました。
まず、叩かれた相手がどんな気持ちになったか推測ができているか確認してもらいました。お母さんに尋ねられたI君は「きっと腹が立っているし、悲しい気持ちになっていると思う」と答えました。お母さんは「それだけわかっているのに、どうして叩くのかしら」と不思議に思いました。
もう少し話を聞いてみると、新しい事実が出てきました。友達を叩くのは、別の友達の指示によって行われていたのでした。翌日、幼稚園の先生に確認してもらったところ、本人の話の通りであることがわかりました。
この話をしていたとき、I君がちょっと気になる発言をしたとお母さんは言いました。I君は「でも、あいつ(I君に指示する友達)、笑ってるんだよなあ」と言ったのだそうです。この発言からI君の心の中を推測してみました。そして、次のように仮説しました。I君は「叩いてこい」という言葉がネガティブな内容を含んでいることは理解できます。しかし、その言葉がニコニコと笑顔で話されているので、表情(ポジティブ)と言葉(ネガティブ)が矛盾してしまうのです。I君は、その矛盾をうまく統合できなかったのではないかと思ったのです。うまく統合できないI君は、表情を優先しているようです。
お母さんは「そういえば・・・」と言いながら、「幼稚園に表情の少ない先生がいるんですけど、その先生の指示にはほとんど従わないのです」と話してくれました。どうやら、言葉の意味(メタメッセージによって言葉の意味は変化します)を理解する上で、I君にとって表情は大切な手がかりのようです。先生の指示に反抗していたのでも無視していたのでなく、無表情ゆえに意味が汲み取れなかったのでしょう。
さて、しばらくしてまた、表情の読み取りに関連するトラブルが発生しました。押し合ったり追いかけ合ったりという遊びを子どもはよくするわけですが、I君はどうもしつこいらしいのです。相手の子どもがもう止めたいと思っていても、それに気付かずに続けてしまうので、とうとう我慢できずに、相手の子どもは泣いたり、逃げたりしてしまうのです。
I君は、相手に意地悪をしたいのではないようです。なぜなら、相手が泣いたり、逃げたりした瞬間、ピタッと行動を止めるからです。それだけではありません。「僕なんていなくなっちゃえばいいんだ」と自責の念を抱え、深く落ち込んでしまうのです。I君は、相手が泣いたり、逃げたりなど、はっきりとした感情表現が行われる限りにおいては、相手の気持ちが変化したことに気付くことはできるのです。だから、相手がはっきりと感情表現を行わないということは、相手もきっと楽しいだろうと思って、機嫌よく遊んでいるだけなのです。機嫌よく遊んでいる最中、突然相手が、自分を回避してきたらどんな気持ちになるでしょう。びっくりして、混乱するでしょう。I君の落ち込み方は、まさしく混乱がふさわしいのでした。
この件について、お母さんと次のような話をしました。明確な感情表現(パターン的な表現)は理解することが可能なのだけれど、わずかな表情変化などは読み取りにくいのかもしれない。「0」と「1」の間にある中間的な感情の存在に気付くかどうかが鍵になるのではないか?と。
この話をした後、お母さんは家庭である実践をされるのですが、それはまた来週にお話をいたします。
027 客観的事実と常識的概念(2)
027 客観的事実と常識的概念(2)
雨野カエラ
受動型の人は特に外からもたらされた事柄を事実として扱ってしまう。非自閉の人が何気なく口にした一言も客観的事実だと思い信じてしまう。それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ。
自分の信念と相手の言葉が相違しているときは混乱が倍加する。どちらも事実として扱うと論理が衝突してしまい、混乱や思考の停止が起こってしまう。どちらかを切り捨てるか、新たな理屈を作るか、どちらにしても矛盾をはらむ事になる。
ソーシャルストーリーズやコミック会話といった客観的事実の提示という方法は彼らの理解を助け、自ら混乱を収束させ得るのだろう。
齊藤コメント
ある幼稚園でのこと。自閉症のHちゃん(受動型)が園庭で遊んでいました。夏の暑い日でした。Hちゃんは、乾いたアスファルトにジョウロで水をたらし、その模様を楽しんでいました。
畑に水を撒きたいと思った先生が、Hちゃんを見つけ「Hちゃん、畑の野菜に水を撒いて」と声をかけました。Hちゃんはすぐに反応し、畑のほうへ歩き出しました。しかし、少し様子が変でした。というのも「畑に水。畑に水」と繰り返しながら歩いていたからです。動きがややかたく、表情は無表情に近いものでした。
畑に到着しました。Hちゃんは素直に、先生に指示された場所に水を撒いていきます。先生もその姿を見て喜び「上手ね」とか「ありがとう」と声をかけていました。しかし、やはり様子が変です。さっきよりも声高に「畑に水、畑に水」と繰り返しています。あまり楽しそうではありません。
水を撒き終え、元の場所に戻ってきました。Hちゃんは、ニコニコしながら、ジョウロで遊び始めました。しかし、数分後、先生は再び「Hちゃん、畑に水を撒いて」と指示しました。Hちゃんはすぐに反応し、畑に向かって歩き始めました。今度は、初めから様子が違っていました。「畑に水」を大声で繰り返し始めたのです。水を撒いている間もしばらくそれは続きました。徐々に「金切り声」に近くなっていったころ、Hちゃんは突如、ジョウロを投げ出し、その場から逃げるように走り出していました。先生は、あっけにとられてHちゃんを目で追っていました。
Hちゃんは、アスファルトの模様を見ていたかったに違いがありませ。しかし、先生の指示が聞こえてきました。Hちゃんにとっては、外部からの指示は、従わなければならないことだったのでしょう。Hちゃんは、同時には満たすことのできない二つ要求の狭間で葛藤します。「畑に水」と何度も繰り返していたのは、目標を見失わないように自分をコントロールするためだったのかもしれません。1回目はなんとか持ちこたえましたが、2回目は限界を超えてしまいました。畑に水を撒くことも、ジョウロで遊ぶことも両方を放棄することで解決するしか方法はなかったのでしょう。
子どもが「素直に指示に従う」姿を見ると、大人は納得してくれたと勘違いしてしまいがちです。Hちゃんの反応があまりにも素直だったので、先生は「Hちゃんも、畑に水を撒きたいのだ」と思ってしまったのでしょう。
Hちゃんが「畑に水」と、先生の指示を繰り返していることを、欲求の表現とみるか?葛藤のコントロールとみるか?難しいかもしれませんが、指示に従うこと=本人の欲求=自発性、ではないことを留意する必要があったのでしょう。
ちなみに雨野さんが信頼できるものの順番は、①外部に存在する文字、②自分で言語化できたもの、③言語化できない自分の気持ち、となるそうです。
雨野さんは「それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ」と述べています。ここが重要だと思いました。
雨野さんは、自分は客観的事実を話していると思っています。だから他者も同じように常に事実を話していると思うのです。自分と他者を同類であると認識するからこそ、そのような誤解が生じているのです。同じ場所・同じ時間に二つの異なる事実は存在しえません。だから混乱するのです。どちからが事実ではないか、もしくはどちらも事実ではない可能性があるわけですが、そのことを把握する術がないと混乱は続きます。その術の一つとして、ソーシャルストーリーやコミック会話があるのだと思います。
定型発達者にとっては、これらの方法を通じて自閉症者に、世の中の客観的事実を伝えているように思えますが、伝えているのは実は定型発達者の主観的想像の方なのかもしれません。定型発達者の言動には、主観が含まれていることが理解できれば、混乱はひどくならなくて済みます。なぜなら事実は一つというルールは守られるからです。
定型発達者が、ソーシャルストーリーやコミック会話などの方法を通じて、世の中の客観的事実を伝えているという誤解を強めると、それはそれで自閉症者に混乱を与えてしまうことに注意しなければなりません。定型発達者が自身の主観的想像に気付かず「これは100%事実なのです」という態度で説明すると、場合によっては、自閉症者の持つ客観的事実との葛藤が強まることがあるからです。ソーシャルストーリーやコミック会話を作成する人によって、微妙に内容が違うわけですが、このこと自体、伝えている内容が客観的事実ではないことを示しています。客観的事実であればいつも内容は同じはずですから。だからこそ「これには世の中の客観的事実と私の主観的想像が含まれています。ここの部分は私の主観的想像なのですが~」と前置きをして説明する態度が大切だと思います。
これらの方法による支援の最終目標は、自閉症者自身にも主観があるのだということに気付いてもらうことだと私は思っています。雨野さんの言葉には客観的事実だけでなく、主観的想像も含まれているのですから。私にはそう思えるのです。主観的想像にはたくさんの解釈が存在します。その解釈の統合を目指すところに、コミュニケーションの必要性が生まれるのです。客観的事実しかない世界には、経験の共有は生まれにくいと思います。互いに話さなくても、経験の中身は一緒なのですから。
雨野さんは「言語化できない自分の気持ち」が一番信頼できないと言います。これは悲しいことだと思います。「言語化できない自分の気持ち」のなかにこそ、雨野さんの本質が含まれていると思うからです。自己の主観的想像を味わってくれる他者との出会いが、自分を発見し、自分を大切にする感覚を養うものだと私は信じたいと思います。
スーパー健常者、スーパー大人
あけましておめでとうございます。
今年もアスペルガー症候群について思うところを、徒然なるままに述べていきたいと思います。
026 スーパー健常者、スーパー大人
雨野カエラ
施設の職員は利用者のお手本になろうとするあまり、本当の自分を忘れて
健常者よりも健常者らしくふるまうスーパー健常者になってしまいがちです。
学校の先生は子どものお手本になろうとするあまり、本当の自分を忘れて
大人を越えたスーパー大人の役割をしてしまいがちです。
役割も大事ですが、なりきりすぎはよくありません。
齊藤コメント
ある中学校の先生の実践を紹介します。色々なことを教えてもらった先生でした。
この先生は、はじめてアスペルガー症候群の生徒(G君)を担任することになりました。G君の行動に最初は驚いたそうですが、日々、丁寧にかかわりを持つことで、少しずつ理解を深めていったそうです。G君も先生のことを信頼していました。私が特に勉強になったのは、G君をめぐるクラスメートとの対話でした。
「G君と接している時に、自分がどういう感情になっているのか、またどういう気持ちを持って接しているかということを、クラスメートに言葉で説明するんです。「G君の行動は、先生には腹立つなあ」などと、正直に。でもそれだけじゃないんです。次に「どうしてG君はそのような行動を取ったのか、考えてみよう」と投げかけるんです。理由が分かれば、腹が立った気持ちが、「あー、そうなんだ」と安心の気持ちに変わるかもしれないから。私は、G君の行動や気持ちを考えることは、生徒にとって大切な経験だと思うんです。生徒との対話は、G君が困った行動をしたその時、その場で行います。「G君、今、教室から出て行ったけど、どうしてだと思う?」なんて。すると考え出すんですよね。生徒のほうがしっかりしてる(笑)。色んな意見が出るんです。ある生徒が「こうだと思う」と言えば、別の生徒が「いや、こうじゃないのか?」とか」。
「そうやって、担任が疑問を抱いて悩んでいる姿や試行錯誤している姿を、意図的にクラスメートに見せていくんです」。
「自分の仮説を生徒達に伝えると、私と違う仮説を持っている生徒は「うーん」と首をかしげていたり、一方、私と同じ仮説の生徒は「うんうん、そう思う」と同意してくれたり。その場で議論をしちゃうんです。「イライラしていたんじゃないか?」とか「テンション高かっただけじゃないか」とか。そんな風に生徒と対話をしてきました。「G君は問題だよね」という責める雰囲気ではなく、みんなで分析する雰囲気になっていきました。分析しようとする姿勢は、相手を理解しようとすることだと思う」。
「日常的に生徒達とG君について対話をしていると、情報提供の数が格段に増えるんですよ。「こんなことしていたよ」とか「こんなことされた」とか。そういう情報があふれ出すと、担任はすごく楽になります。G君を常に見ている生徒、反対に、普段ほとんど関わっていないのに、でもちゃんと見ている生徒。そういう生徒の方が鋭いことを言ったりするんです」。
解説することはほとんどないでしょう。先生の言葉を読み返してもらえれば、意味が十分に分かると思います。中学校で教師は、時には強いリーダーシップを発揮しなければならないときがあるでしょう。そんな状況のなかで、教師自身の試行錯誤を見せることは、勇気がいることだったと思います。
この先生は、雨野さんのいうところの「スーパー大人」ではないですね。G君に対しても、クラスメートに対しても、対話のチャンネルが開かれているからです。
ある日、学校を訪問し、授業を参観させていただきました。G君は、何かに誘われるように席を立ち、教室内を歩き出しましたが、それで動揺するクラスメートは誰ひとりいませんでした。でも、無視しているわけではありません。次の指示が出たときに、一番そばにいた生徒が、小声で「G君、座ろう」と一言、簡潔に声をかけました。G君はそれをきっかけに、我に返り、授業に戻っていきました。
先生は、インタビューの中で、色々なエピソードをあげながらG君の気持ちを語っておりました。まずは入学当初、よく遅刻をしていたことについてです。
「雨降りの日は,学校に到着する時間が特に遅いんです。傘を差すと、周りの風景が遮断されて、自分の世界に入りやすいんじゃないかと思うんです。僕も何か分かるような気がするんです」。
風景もよく見て楽しんで欲しいし、学校にも遅刻しないで来て欲しい。この二つを同時に満たすために、先生は、どうされたか?
G君にアラーム付の時計を持たせて言ったのです。「G君、この時計のアラームがなるまでは、いつもどおり草や虫を見てて大丈夫。でもアラームが鳴ったら、朝の会まであと5分ということです。鳴ったら走ってね」と。作戦は成功しました。
先生は、玄関で心配しながら待っていたそうです。でも時間通り玄関に現れたG君を笑顔で迎えることができたのだそうです。
次は、冬のある日の授業中、G君が窓の外をボーッと眺めているときの先生の読み取りです。
「授業中、G君が窓の外を見ているんです。雪が降ってないか気にしているんだろうと思いました。「いつになったら、雪が降るんだろう」なんて考えているんだろうかって。すると、席を立って歩き出しました。でも予想していたから、注意しようと思う気持ちにはなりませんでした。ただフラフラしているだけだと思っっていたら、「何してるんだ、座りなさい」と注意していたと思うのですが、「G君、雪好きだもんな。今日は良い天気だな。空を見上げているってことは、雪降ってこないなぁって思っているんだろうなって気持ちを想像していたら、確認が済めばそのうち戻るだろうってことも想像できる。そして、本当に戻るんですよ。G君のそのような行動をいちいち取り上げて、指導の対象にしない。そのレベルのことは、今頑張ることじゃない。今頑張るのはそこじゃないと思ったんです」。
豊かな読み取りだなあと思いました。この先生の豊かな読み取りに触れ、たくさんの対話を積み重ねたクラスメートたちもまたいろんなことを学んでいたのだと思います。