雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

雨野カエラのエッセイ

031 周囲への告知について

031  周囲への告知について

雨野カエラ

 
周りには告知をすべき人とそうでない人がいる。

 告知しなくてもよい人は、まず世の中の大半の人。深い関わりのない人たちには告げなくてもよい。自閉圏の人たちの情報が正しく世間に広まった後に知らせることによって配慮してもらえる。例えば、突然の訪問やセールスをやめてくれるのなら知らせるメリットはありそうだが、その周知の日はまだ近くはない。訪ねてきた郵便配達員にいちいち教えることはない。

 告知をしなくてよい人たちの中には身近な人たちの一部も入る。どちらにしろ変わらぬ付き合いをしてくれる友人には改めて告げることはないかもしれない。親戚一同にも特に発表しなくてもよいだろう。これで人類の大半はリストから外せる。


 自分の生活や仕事に関わりがあって、告知をすべき人には大きく分けて2種類の人たちがいる。先天的に「自閉を理解できる人」と先天的に「理解できない人」だ。先天的というのはちょっとしたジョークだ。理解できる人たちは少数だから大事にしよう。


 理解できない人はさらに2グループに分けられる。まず障害や自閉症といった言葉をよく思わない人だ。このグループからは離れよう。人類はいっぱいいるから離れても構わない。もう一つのグループは善意はあるけれども、どうしても理解できない人たちだ。これは少々やっかいだ。この人たちは好意的だけど、なにかと障害にかこつけた解釈の仕方をする。あなたのことが心配だからという理由で、頼んでもいないのに他の人に配慮を求めたり、障害のことを言ってまわったりする。でも善意からしていることだ。彼らが真に理解をしてくれるまではとても時間がかかる。理解のないまま人生を終えるかもしれないから、告知をすべきかそうでないかは、よく考えなければならない。時間はかかるが、後天的な理解の可能性がないわけではない。

 そのためには、少数の「理解できる人たち」の力も借りよう。こちらの言葉や表現が足りなくても大半は理解してくれる人たちのことだ。でも何も伝えなくてよいわけではない。この人たちにはがんばってなんとか表現してみよう。きっと応えてくれると信じよう。

*今週は、齊藤が出張のためコメントが間に合いません。次週、書きます。

0

030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)

030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)


齊藤コメント

ある日I君は、ぷんぷんと怒って幼稚園から帰ってきました。理由は、友だちが約束を破ったからでした。I君の怒りをなだめようと、いつもなら説得を試みるのですが、この日のお母さんのアプローチは違っていました。

「ねえ、今、④の顔(怒り顔)になってるよ。鏡で見てみる?」と尋ねたのです。I君は怒ったまま「うん」と答えました。早速、お母さんは鏡を手渡しました。自分の顔を見たI君は「ほんとだ、④の顔だ。」と言いながら、思わずふっと笑いました。それを見て「あっ、②(微笑み)になった」と言いました。鏡を見ただけなのですが、気持ちが切り替わったようでした。

 その後も、機嫌が良いままでした。本当に機嫌が直ったのだろうか?といぶかりながら「お母さん、友だちに電話してみようか?」と言ってみましたが、I君は「もういいよ」とあっさりしたものだったそうです。

 問題は何も解決してはいないのです。友だちは約束を破ったままですし、その理由もわからないままなです。いつものI君ならば、納得するまでお母さんや友だちに説明を求めたことでしょう。でもこの日は違いました。なぜなのでしょうか?いつもと違う点と言えば、I君の意識が「他者の気持ち」ではなく「自分の気持ち」に向けられていたことです。

 我々は「自分の気持ち」は自分が一番知っていると思いがちですが、決してそうではないということが、経験が積み重なるうちに気づく事実の一つです。「自分の気持ち」は、何かに媒介されなければ知り様がないのです。I君の気持ちを媒介したものは「鏡」でした。
それゆえ「自分」が対象化されたのだと思います。ぷんぷんと怒っている時のI君の意識にあったものは、「他者」と「他者に関わること」のみだったのだと思います。だからすべての原因は、他者にあったのです。

 I君の意識野には「自分」と「自分に関わること」が、すっぽり抜け落ちていたのではないかと私は思うのです。だから、決して他者にすべての責任を押しつけていたというわけではないと思います。「他者に責任を押しつけている」という表現には、押し付けている主体が隠れているので、一人ではなく、二人が想定されている表現ということになりますから。

 そんなI君の内的世界に、鏡を通して「自分」と「自分に関わること」が逆流して流れ込んで来たのです。結果、自己意識が発動したのではないか。そう思えるのです。そうだと仮定すると、I君の気持ちの変化は、問題解決したからではなく、自己が捉えられるようになったから生じた結果なのではないかと考えられます。自己が客体化されたことによって、自己を操作できる位置を獲得したということです。

 こんなエピソードもありました。運動会の練習で「よさこい」を練習していました。I君は、踊りを失敗をすると、いちいち落ち込みました。「僕なんか、いなくなればいいんだ」と床に突っ伏してしまうほどでした。先生は「大丈夫、I君はとても上手よ」と繰り返し褒めますが、I君は納得しません。「先生は褒めるけど、僕は失敗したじゃないか」と。

 総練習を明日に控えた日の夕方。お母さんが相談に来ました。「当日、本番で失敗して泣き始めたら、全体の踊りが止まってしまいます。それを食い止める方法はないでしょうか?」。

 なぜ先生に褒められても嬉しくないのか?について考えてみました。I君は、いつも先生を見て踊っています。正確にいうと先生だけを見て踊っているのだと思います。周りにいるクラスメートのことはほとんど見ていないのだと思います。だから、I君の基準は、いつも先生なのです。完璧な先生を基準にすれば、一度の失敗も許されないのは納得できます。反対に先生の視点からI君を想像してみました。先生の視野にはI君だけじゃなく、他のクラスメートが映っています。だからこそ先生は、I君が誰よりも真面目に取り組み、上手に踊れることを他の子どもとを比較することによって知っているのですが、I君は先生から見た自分というものを想像できません。ここに、両者のすれ違いが生じる原因があるのではないかと思いました。

 もう一度まとめますと、I君は先生だけを見ている(自分が想像中にない)。一方、先生は、クラスメートの中の一人としてI君を見ている。見ているものが違うのです。共有しているものが違うのです。

 そこで、お母さんに次のような提案をしました。先生に総練習の様子をビデオに撮ってもらい、クラスメートとI君を比較しながら、I君がちゃんとやれていることを確認してほしいと。つまり、I君が想像できない他者からみた自分の様子を、ビデオという道具を使って提供しようというアイデアです。ビデオを見ながらI君のできているところ、できていないところを家族で話し合ってもらいました。結果はうまく行きました。当日、3回失敗したのですが、落ち込んで地面に突っ伏すことなく、ニコニコと笑いながら踊り続けたそうです。

 I君が苦手な想像とは、自分を想像することでした。もう少し正確に言うと、他者から見た自分を想像することのようです。雨野さんのいう想像力の欠如は、「自分というものの想像」にあるのかもしれません。

0

029 「想像力の欠如」のコメントの続き

029 「想像力の欠如」のコメントの続き

齊藤コメント

I君のお母さんは、いろんな表情の顔の絵を描いて、居間の壁に貼ることにしました。①口を開けて笑っている顔、②口を閉じて微笑んでいる顔、③真顔(無表情)、④怒っている顔、⑤泣いている顔の五つです。親しみが湧くようにと、I君の弟の顔に似せて描きました。

表情に合う気持ちを書き入れようとしたとき、I君が近寄ってきました。お母さんは「表情のお勉強のために絵を描いているのよ」と説明すると、I君は絵を見ながら表情に合う気持ちを述べ始めました。どれも表情に合っているものばかりでした。お母さんは、I君の言ったことを顔の周りに書き込んでいきました。面白かったのは、③(無表情)へのコメントの量でした。他の表情に比べると3倍くらい多いのです。③(無表情)は感情を推測するための手がかりがないので、色々な解釈の可能性を含んでいます。I君は、たくさんの推測をしていることがわかりました。

居間に絵を貼り出した次の日から変化がありました。幼稚園から帰ってきたI君は、友達や先生の表情について報告するようになったのです。「~君は、いつも②(微笑み)と③(無表情)と④(怒り顔)だ。もっと①が増えればいいのに」とか「~先生はいつも③(無表情)だ。だから、(指示の意味が)わからない」などとです。それまで、他者の顔など注目することのなかったI君が、お母さんと作った絵をきっかけに観察を始めることになったのです。

観察の目は家族にも向けられました。I君のお父さんは、とても優しいお父さんなのですが、眉間にいつもしわが寄っています。テレビを観ているお父さんを横目で見ながら「お父さんは怒っているの?」とお母さんに尋ねます。お母さんは、絵を指して「そうね、表情は④に見えるわね。でもね、心は②よ。Iのことを怒っているんじゃないの。お父さんは、Iのこと大好きよ」と答えました。I君はそれからしばらく、お父さんの顔を見て不安になると「お父さんは、顔は④だけど心は②」と自分を納得させるためにつぶやくのでした。

I君にとってこの絵は、自分の認識を整理するための枠組みになりました。枠組みが整えられたことで、I君は、普段の生活で目にする表情を分類できるようになりました。表情の差異に気付いたということです。

 

I君の観察の正確さを物語るエピソードです。「~先生はね。ボール見るときは、②(微笑み)だけど、僕を見るときは、③(無表情)が多いよ」と言ったことがあります。これはどういうことかというと、おそらく先生はまず、I君のそばでボールを使って遊んでみたのでしょう。I君が興味を持つように笑いながら。そして次に、I君がどんな反応をしているのか気になり、視線をボールからI君に移したとき、先生は遊んでいることを忘れて観察することに意識が向いたことによって、楽しげな表情から真剣なまなざしに変わったのだと思います。この違いをI君は見分けていたということです。

もう一つ重要だったことは、かならずお母さんからのコメントがあったことです。絵を互いに共有しながら、表情やそのときのエピソードについてI君とお母さんは色々と語り合うわけです。I君はお母さんのコメントの中に、自分と似ているものあるけれど、それと同時に違うものもあることに気付いていきます。つまり表情の差異に加えて、解釈の差異にも気付いていくのです。

 ある日のこと。I君は幼稚園から帰ってくるなり「お母さん、世の中の人って③(無表情)が多いんだよ。知ってた」と、何か大きな発見をしたとでも言いたげな雰囲気で話し始めました。確かにそうです。特に大人の顔は。I君は続けて「でもね、お母さんは、顔は③でも心はあるよね。ということは、他の人も、無表情のときでも心はあるの?」と尋ねてきたそうです。お母さんは「そうよ。無表情でも心はいつもあるのよ」と答えました。I君は「そうかあ」と言ったきり、何か深く考えているようでした。

 お母さんの表情と気持ちについては、絵を通じてたくさん語り合ってきました。だから、無表情のときでもお母さんには心があるということを、I君は理解したのです。その認識を、今、他者にも広げようとしているようです。

 このエピソードと前後して、幼稚園からトラブルの連絡がパタッと来なくなりました。どうやら相手をしつこく押したりすることが減ったようです。お母さんと話し合って考えたことは、きっと相手の表情に注意が向くようになり、「表情は楽しそうに見えるけれど、心はもしかしたら悲しんだり怒っていたりするかもしれない」というI君とって新たな想像が生まれたからではないか、ということでした。

 “ない”ものへの想像力が大切です。以前、クリプキの「暗黙の中の跳躍」を引用してお話したことです(「016 葉を見て森を見ず」参照)。感情を読むには、見たままの情報をそのまま解釈することではない、という気付きが必要です。心の二重性に気付くということです。見たものをそのまま捉え、分類することは、自閉症者のほうがむしろ優れていかもしれません。見えないものが“ある”と気付くこと。このことを自覚することの意義が、早期療育の中で強調されても良い気がします。

0

028想像力の欠如

028 想像力の欠如


雨野カエラ

 想像力の障害という言葉から、想像力の欠如を思い浮かべていませんか。空想力や創造する力が全くない訳ではありません。でも、これから何が起こるのかという予定はしっかりと教えてほしいし、その予定の変更もいやです。何かについて定型発達の人と違った狭い範囲の想定をしているかもしれません。一番の問題は本当の意味の「他者」というのを想像するのも苦手なのかもしれない。ただ、とにかく欠如ではないと思っています。定型発達の人の想像もしないやり方を思いつくのは、時に自閉圏の人たちではありませんか。そうなると想像力の障害があるのはどちらでしょう。

アスペルガー症候群の人の考える他者は「本当の他者」ではないのだと思う。自分の中で考えた他者。それを乗り越えて考えることができない。これが想像力の障害なのかな。

自分の考えた他者だから、自分に都合のいいように考えていると思われてしまうだろうか?しかし、成長と共にそれは修正されていく。大人になったアスペルガー症候群の人は辛い目にたくさんあってきている。自分の中の他者は常に自分を律する人のようになってしまう。たとえ本当はその人が自分に怒りを感じていないとしても、そうは思っていない他者を想像できないのだ。本当の心は聞いてみるまではわからない。そう自分に言い聞かせても、最悪の他者の対応を想像してしまう。それでは心を聞きに行くことさえためらってしまう。想像ができないのではない。想像が間違ってしまうのだ。

定型発達の人はどうやってそれを乗り越えるのだろう。本当に人の心がわかるのだろうか。キーになるのは身振りや表情が読めるかどうかといったことではないと思う。定型発達の人が持つ「あいまいエンジン」がある程度の心の読みを可能にしているのだろうと僕は考えている。


齊藤コメント


 「身振りや表情が読めるかどうかといったことではないと思う」ということから考えてみたいと思います。

 BaronCohen(1995d)は、「目から心を読み取る」心理実験をしました。実験協力者に目の部分だけが切り抜かれた写真を提示し、それに対応する感情語を選択してもらいました。結果、自閉症群は定型発達群に比べ、有意に成績が低かったのでした。

 

目の部分だけをよく見ると、そんなに多くの手がかりはありません。にもかかわらず、定型発達者はなぜ正答できるのでしょうか?私は、写真を眺めながら考えてみました。目の表情を読み取っているというよりも、「その目にふさわしい全体の表情を思い浮かべ、その表情をもとに感情を推測している」のでないかと思いました。自閉症群は、全体の表情を構築することができないために、成績が低いのではないかということです。すると自閉症群が利用できる手がかりは「目」しかないのです。しかし「目」そのものにはそれほど情報が含まれているわけではないので、誤認する確率は高くなるというわけです。

部分的情報から全体のありようを推測し、想像すること。この実験では、この能力が試されている気がします。表情の一部から全体を推測するためには、理論(ルール)が必要です。さらに理論(ルール)を構築するためには、たくさんのデータが集積されていることが前提になります。定型発達者と自閉症者の成績の差の背景に、データ(経験数)規模の違いが大きく影響していると私は考えています。

次に、経験と表情の読み取りについて、事例を元に考えていきたいと思います。

 幼稚園年長のI君(アスペルガー症候群)は、友達を押したり、叩いたりしてはトラブルを起こしていました。毎日、幼稚園から電話がかかってくるようになり、お母さんが困って相談に訪れました。

 まず、叩かれた相手がどんな気持ちになったか推測ができているか確認してもらいました。お母さんに尋ねられたI君は「きっと腹が立っているし、悲しい気持ちになっていると思う」と答えました。お母さんは「それだけわかっているのに、どうして叩くのかしら」と不思議に思いました。

もう少し話を聞いてみると、新しい事実が出てきました。友達を叩くのは、別の友達の指示によって行われていたのでした。翌日、幼稚園の先生に確認してもらったところ、本人の話の通りであることがわかりました。

この話をしていたとき、I君がちょっと気になる発言をしたとお母さんは言いました。I君は「でも、あいつ(I君に指示する友達)、笑ってるんだよなあ」と言ったのだそうです。この発言からI君の心の中を推測してみました。そして、次のように仮説しました。I君は「叩いてこい」という言葉がネガティブな内容を含んでいることは理解できます。しかし、その言葉がニコニコと笑顔で話されているので、表情(ポジティブ)と言葉(ネガティブ)が矛盾してしまうのです。I君は、その矛盾をうまく統合できなかったのではないかと思ったのです。うまく統合できないI君は、表情を優先しているようです。

お母さんは「そういえば・・・」と言いながら、「幼稚園に表情の少ない先生がいるんですけど、その先生の指示にはほとんど従わないのです」と話してくれました。どうやら、言葉の意味(メタメッセージによって言葉の意味は変化します)を理解する上で、I君にとって表情は大切な手がかりのようです。先生の指示に反抗していたのでも無視していたのでなく、無表情ゆえに意味が汲み取れなかったのでしょう。

さて、しばらくしてまた、表情の読み取りに関連するトラブルが発生しました。押し合ったり追いかけ合ったりという遊びを子どもはよくするわけですが、I君はどうもしつこいらしいのです。相手の子どもがもう止めたいと思っていても、それに気付かずに続けてしまうので、とうとう我慢できずに、相手の子どもは泣いたり、逃げたりしてしまうのです。

I君は、相手に意地悪をしたいのではないようです。なぜなら、相手が泣いたり、逃げたりした瞬間、ピタッと行動を止めるからです。それだけではありません。「僕なんていなくなっちゃえばいいんだ」と自責の念を抱え、深く落ち込んでしまうのです。I君は、相手が泣いたり、逃げたりなど、はっきりとした感情表現が行われる限りにおいては、相手の気持ちが変化したことに気付くことはできるのです。だから、相手がはっきりと感情表現を行わないということは、相手もきっと楽しいだろうと思って、機嫌よく遊んでいるだけなのです。機嫌よく遊んでいる最中、突然相手が、自分を回避してきたらどんな気持ちになるでしょう。びっくりして、混乱するでしょう。I君の落ち込み方は、まさしく混乱がふさわしいのでした。

この件について、お母さんと次のような話をしました。明確な感情表現(パターン的な表現)は理解することが可能なのだけれど、わずかな表情変化などは読み取りにくいのかもしれない。「0」と「1」の間にある中間的な感情の存在に気付くかどうかが鍵になるのではないか?と。

この話をした後、お母さんは家庭である実践をされるのですが、それはまた来週にお話をいたします。

0

027 客観的事実と常識的概念(2)

027 客観的事実と常識的概念(2)

雨野カエラ

 受動型の人は特に外からもたらされた事柄を事実として扱ってしまう。非自閉の人が何気なく口にした一言も客観的事実だと思い信じてしまう。それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ。


 自分の信念と相手の言葉が相違しているときは混乱が倍加する。どちらも事実として扱うと論理が衝突してしまい、混乱や思考の停止が起こってしまう。どちらかを切り捨てるか、新たな理屈を作るか、どちらにしても矛盾をはらむ事になる。


 ソーシャルストーリーズやコミック会話といった客観的事実の提示という方法は彼らの理解を助け、自ら混乱を収束させ得るのだろう。



齊藤コメント

 ある幼稚園でのこと。自閉症のHちゃん(受動型)が園庭で遊んでいました。夏の暑い日でした。Hちゃんは、乾いたアスファルトにジョウロで水をたらし、その模様を楽しんでいました。


 畑に水を撒きたいと思った先生が、Hちゃんを見つけ「Hちゃん、畑の野菜に水を撒いて」と声をかけました。Hちゃんはすぐに反応し、畑のほうへ歩き出しました。しかし、少し様子が変でした。というのも「畑に水。畑に水」と繰り返しながら歩いていたからです。動きがややかたく、表情は無表情に近いものでした。


 畑に到着しました。Hちゃんは素直に、先生に指示された場所に水を撒いていきます。先生もその姿を見て喜び「上手ね」とか「ありがとう」と声をかけていました。しかし、やはり様子が変です。さっきよりも声高に「畑に水、畑に水」と繰り返しています。あまり楽しそうではありません。

 水を撒き終え、元の場所に戻ってきました。Hちゃんは、ニコニコしながら、ジョウロで遊び始めました。しかし、数分後、先生は再び「Hちゃん、畑に水を撒いて」と指示しました。Hちゃんはすぐに反応し、畑に向かって歩き始めました。今度は、初めから様子が違っていました。「畑に水」を大声で繰り返し始めたのです。水を撒いている間もしばらくそれは続きました。徐々に「金切り声」に近くなっていったころ、Hちゃんは突如、ジョウロを投げ出し、その場から逃げるように走り出していました。先生は、あっけにとられてHちゃんを目で追っていました。


 Hちゃんは、アスファルトの模様を見ていたかったに違いがありませ。しかし、先生の指示が聞こえてきました。Hちゃんにとっては、外部からの指示は、従わなければならないことだったのでしょう。Hちゃんは、同時には満たすことのできない二つ要求の狭間で葛藤します。「畑に水」と何度も繰り返していたのは、目標を見失わないように自分をコントロールするためだったのかもしれません。1回目はなんとか持ちこたえましたが、2回目は限界を超えてしまいました。畑に水を撒くことも、ジョウロで遊ぶことも両方を放棄することで解決するしか方法はなかったのでしょう。


 子どもが「素直に指示に従う」姿を見ると、大人は納得してくれたと勘違いしてしまいがちです。Hちゃんの反応があまりにも素直だったので、先生は「Hちゃんも、畑に水を撒きたいのだ」と思ってしまったのでしょう。


 Hちゃんが「畑に水」と、先生の指示を繰り返していることを、欲求の表現とみるか?葛藤のコントロールとみるか?難しいかもしれませんが、指示に従うこと=本人の欲求=自発性、ではないことを留意する必要があったのでしょう。

 ちなみに雨野さんが信頼できるものの順番は、①外部に存在する文字、②自分で言語化できたもの、③言語化できない自分の気持ち、となるそうです。


 雨野さんは「
それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ」と述べています。ここが重要だと思いました。

 雨野さんは、自分は客観的事実を話していると思っています。だから他者も同じように常に事実を話していると思うのです。自分と他者を同類であると認識するからこそ、そのような誤解が生じているのです。同じ場所・同じ時間に二つの異なる事実は存在しえません。だから混乱するのです。どちからが事実ではないか、もしくはどちらも事実ではない可能性があるわけですが、そのことを把握する術がないと混乱は続きます。その術の一つとして、ソーシャルストーリーやコミック会話があるのだと思います。


 定型発達者にとっては、これらの方法を通じて自閉症者に、世の中の客観的事実を伝えているように思えますが、伝えているのは実は定型発達者の主観的想像の方なのかもしれません。定型発達者の言動には、主観が含まれていることが理解できれば、混乱はひどくならなくて済みます。なぜなら事実は一つというルールは守られるからです。

定型発達者が、ソーシャルストーリーやコミック会話などの方法を通じて、世の中の客観的事実を伝えているという誤解を強めると、それはそれで自閉症者に混乱を与えてしまうことに注意しなければなりません。定型発達者が自身の主観的想像に気付かず「これは100%事実なのです」という態度で説明すると、場合によっては、自閉症者の持つ客観的事実との葛藤が強まることがあるからです。ソーシャルストーリーやコミック会話を作成する人によって、微妙に内容が違うわけですが、このこと自体、伝えている内容が客観的事実ではないことを示しています。客観的事実であればいつも内容は同じはずですから。だからこそ「これには世の中の客観的事実と私の主観的想像が含まれています。ここの部分は私の主観的想像なのですが~」と前置きをして説明する態度が大切だと思います。


 これらの方法による支援の最終目標は、自閉症者自身にも主観があるのだということに気付いてもらうことだと私は思っています。雨野さんの言葉には客観的事実だけでなく、主観的想像も含まれているのですから。私にはそう思えるのです。主観的想像にはたくさんの解釈が存在します。その解釈の統合を目指すところに、コミュニケーションの必要性が生まれるのです。客観的事実しかない世界には、経験の共有は生まれにくいと思います。互いに話さなくても、経験の中身は一緒なのですから。

雨野さんは「言語化できない自分の気持ち」が一番信頼できないと言います。これは悲しいことだと思います。「言語化できない自分の気持ち」のなかにこそ、雨野さんの本質が含まれていると思うからです。自己の主観的想像を味わってくれる他者との出会いが、自分を発見し、自分を大切にする感覚を養うものだと私は信じたいと思います。

0