雨野カエラのエッセイ
スーパー健常者、スーパー大人
あけましておめでとうございます。
今年もアスペルガー症候群について思うところを、徒然なるままに述べていきたいと思います。
026 スーパー健常者、スーパー大人
雨野カエラ
施設の職員は利用者のお手本になろうとするあまり、本当の自分を忘れて
健常者よりも健常者らしくふるまうスーパー健常者になってしまいがちです。
学校の先生は子どものお手本になろうとするあまり、本当の自分を忘れて
大人を越えたスーパー大人の役割をしてしまいがちです。
役割も大事ですが、なりきりすぎはよくありません。
齊藤コメント
ある中学校の先生の実践を紹介します。色々なことを教えてもらった先生でした。
この先生は、はじめてアスペルガー症候群の生徒(G君)を担任することになりました。G君の行動に最初は驚いたそうですが、日々、丁寧にかかわりを持つことで、少しずつ理解を深めていったそうです。G君も先生のことを信頼していました。私が特に勉強になったのは、G君をめぐるクラスメートとの対話でした。
「G君と接している時に、自分がどういう感情になっているのか、またどういう気持ちを持って接しているかということを、クラスメートに言葉で説明するんです。「G君の行動は、先生には腹立つなあ」などと、正直に。でもそれだけじゃないんです。次に「どうしてG君はそのような行動を取ったのか、考えてみよう」と投げかけるんです。理由が分かれば、腹が立った気持ちが、「あー、そうなんだ」と安心の気持ちに変わるかもしれないから。私は、G君の行動や気持ちを考えることは、生徒にとって大切な経験だと思うんです。生徒との対話は、G君が困った行動をしたその時、その場で行います。「G君、今、教室から出て行ったけど、どうしてだと思う?」なんて。すると考え出すんですよね。生徒のほうがしっかりしてる(笑)。色んな意見が出るんです。ある生徒が「こうだと思う」と言えば、別の生徒が「いや、こうじゃないのか?」とか」。
「そうやって、担任が疑問を抱いて悩んでいる姿や試行錯誤している姿を、意図的にクラスメートに見せていくんです」。
「自分の仮説を生徒達に伝えると、私と違う仮説を持っている生徒は「うーん」と首をかしげていたり、一方、私と同じ仮説の生徒は「うんうん、そう思う」と同意してくれたり。その場で議論をしちゃうんです。「イライラしていたんじゃないか?」とか「テンション高かっただけじゃないか」とか。そんな風に生徒と対話をしてきました。「G君は問題だよね」という責める雰囲気ではなく、みんなで分析する雰囲気になっていきました。分析しようとする姿勢は、相手を理解しようとすることだと思う」。
「日常的に生徒達とG君について対話をしていると、情報提供の数が格段に増えるんですよ。「こんなことしていたよ」とか「こんなことされた」とか。そういう情報があふれ出すと、担任はすごく楽になります。G君を常に見ている生徒、反対に、普段ほとんど関わっていないのに、でもちゃんと見ている生徒。そういう生徒の方が鋭いことを言ったりするんです」。
解説することはほとんどないでしょう。先生の言葉を読み返してもらえれば、意味が十分に分かると思います。中学校で教師は、時には強いリーダーシップを発揮しなければならないときがあるでしょう。そんな状況のなかで、教師自身の試行錯誤を見せることは、勇気がいることだったと思います。
この先生は、雨野さんのいうところの「スーパー大人」ではないですね。G君に対しても、クラスメートに対しても、対話のチャンネルが開かれているからです。
ある日、学校を訪問し、授業を参観させていただきました。G君は、何かに誘われるように席を立ち、教室内を歩き出しましたが、それで動揺するクラスメートは誰ひとりいませんでした。でも、無視しているわけではありません。次の指示が出たときに、一番そばにいた生徒が、小声で「G君、座ろう」と一言、簡潔に声をかけました。G君はそれをきっかけに、我に返り、授業に戻っていきました。
先生は、インタビューの中で、色々なエピソードをあげながらG君の気持ちを語っておりました。まずは入学当初、よく遅刻をしていたことについてです。
「雨降りの日は,学校に到着する時間が特に遅いんです。傘を差すと、周りの風景が遮断されて、自分の世界に入りやすいんじゃないかと思うんです。僕も何か分かるような気がするんです」。
風景もよく見て楽しんで欲しいし、学校にも遅刻しないで来て欲しい。この二つを同時に満たすために、先生は、どうされたか?
G君にアラーム付の時計を持たせて言ったのです。「G君、この時計のアラームがなるまでは、いつもどおり草や虫を見てて大丈夫。でもアラームが鳴ったら、朝の会まであと5分ということです。鳴ったら走ってね」と。作戦は成功しました。
先生は、玄関で心配しながら待っていたそうです。でも時間通り玄関に現れたG君を笑顔で迎えることができたのだそうです。
次は、冬のある日の授業中、G君が窓の外をボーッと眺めているときの先生の読み取りです。
「授業中、G君が窓の外を見ているんです。雪が降ってないか気にしているんだろうと思いました。「いつになったら、雪が降るんだろう」なんて考えているんだろうかって。すると、席を立って歩き出しました。でも予想していたから、注意しようと思う気持ちにはなりませんでした。ただフラフラしているだけだと思っっていたら、「何してるんだ、座りなさい」と注意していたと思うのですが、「G君、雪好きだもんな。今日は良い天気だな。空を見上げているってことは、雪降ってこないなぁって思っているんだろうなって気持ちを想像していたら、確認が済めばそのうち戻るだろうってことも想像できる。そして、本当に戻るんですよ。G君のそのような行動をいちいち取り上げて、指導の対象にしない。そのレベルのことは、今頑張ることじゃない。今頑張るのはそこじゃないと思ったんです」。
豊かな読み取りだなあと思いました。この先生の豊かな読み取りに触れ、たくさんの対話を積み重ねたクラスメートたちもまたいろんなことを学んでいたのだと思います。
025 客観的事実と常識的概念
025 客観的事実と常識的概念
雨野カエラ
僕の目から見ると非自閉の人々は、客観的事実よりも常識的概念を優先させているように見える。それは科学的でも物理的でもなく、この点において非自閉の人々は自閉圏の人々よりもミスをおかしやすいようにも見える。この齟齬がまずコミュニケーションの壁となる。
さらに問題になるのは次のようなこと。自分の内にある信念も自閉圏の人は論理的に導かれた客観的事実として扱ってしまう。客観的事実なのだから他者にもそれが自明であると思ってしまう。外にある本来の事実も内にある「事実」も自明のことなのに他の人たちはどうしてわからないのだろう、わかってくれないのだろう。これがストレスになりかんしゃくにつながる。
自閉の人たちは自分勝手にただ自己を主張しているのではない。あくまで客観的事実(と思っている)ことを表現しているにすぎない。外も内も事実として同列であり、その意味においては自閉の人たちは「開いている」。
齊藤コメント
アスペルガー症候群の高校生F君との会話です。普段の悩みを色々と相談するために大学を訪れました。
F君「このあいだ、サラリーマンが出てくるマンガを読んだんです。そのサラリーマは遅刻したために、上司にひたすら謝っていました。そのとき、自分はこんな謝り方をしてこなかったなあ、と思いました」
齊藤「これまで、F君はどんな謝り方をしていたの?」
F君「僕は、わざと遅刻したわけではないということを相手にわかってもらうために、遅刻した
理由を詳しく説明していたんです。例えば、目覚まし時計が壊れていたとか」
齊藤「余計に相手は怒らない?」
F君「そうなんです。説明すれば説明するほど怒りますね。ちゃんと説明しているのに、どうして怒るのかわからないんです。別のマンガを見ていたら、僕みたいな謝り方をしている主人公がいました。遅れた理由をずっと説明しているんです」
齊藤「その主人公はどうなったの?」
F君「その後も、すごく叱られていました。僕と一緒です。僕の謝り方が間違っていたのはわかったんですが、どうして『すいません』と言い続けるのが良いのか、よく分からないんです。どうしてなんですか?」
齊藤「難しい質問だね。そうだなあ、怒っている人を燃えている家に、そしてF君を消防官にた
とえてみよう」
F君「はい」
齊藤「遅刻は“故意”ではないと説明する姿勢は、とても事実を重んじているように思える。F君にとっては、事実が大事なんだよ、きっと。火事の喩えでいえば、何が原因で火事になったのだろうと考えることに似ているかもしれない。もし消防官がホースも持たずに、燃えさかる家の中に入って現場を検証しようとするとどうなるかな?」
F君「燃えちゃいますよ~」
齊藤「そうだよね。燃えちゃうよね。F君の謝り方はそれに似ていると思うんだ。実際、F君はもっと怒られて、大変なことになってきたでしょ。現場検証するためには、まず何をしなければならない?」
F君「えーと、火を消す、ですね」
齊藤「そうだよね。現場検証をすることは間違ってはいないんだよ。ただ、物事の順序の問題なんだ。怒っている人にとって、遅刻の理由はもはや二の次なんだ。『俺は怒っているんだ』ということ自体をF君に伝えたいわけ。『俺は、怒ってるんだぞ。心配もしたし、時間も損した。どうしてくれるのだ。お前は俺の気持ち分かっているのか!』ってね。だから、『すいません』って何度も謝るのは、火に水をかける作業に似ているんだ」
F君「あー、そうなんだ。人間って結構面倒ですね」
齊藤「ははは、そうだね。人は感情で動く生き物でもあるからね。相手の感情を想定してコミュニケーションはしなければならないんだ。事実だけで納得する人ばかりではないんだよ。『すいません』と頭を下げることで、自分がきちんと反省していることを態度で表すことになる。すると、相手の怒りの感情は徐々に収まってくるわけ。機嫌を取り戻した相手は、心に余裕ができるから、『で、どうして遅れたんだ?』と聞いてくるかもしれない。そのときに理由を話せば相手は怒らないよ」
F君「もし質問されなかったら、どうすれば良いですかね?」
齊藤「それは相手が理由に関心がないということだから、もう一度謝って、丁寧にお辞儀をして、その場から立ち去るのがいいんじゃないかな?F君の遅刻した理由が、故意ではなく不可抗力によるものだったとしても、理由に関心を持たない人には、必要のない情報なんだ。必要のない情報を説明することで、再び相手の時間を奪ってしまうと、また怒りが起動してしまうかもしれない」
F君「わー、それは怖いですね。なるほど。すごく分かりやすかったです。先生、メモ用紙とペンを借りてもいいですか?」
F君は、メモ用紙に「怒った人には、まず消火」と書いていました。
ニコニコとして、納得した様子でした。
今年はここで終わりです。読んでくださった方々ありがとうございました。
来年1月2日は、お正月のためお休みといたします。
1月9日から再開です。
来年もよろしくお願いいたします。
024 自開ということ
024 自開ということ
雨野カエラ
たくさんの感覚入力、ビジュアルドライブに左右されること、これらは全部自閉というより「自開」。アスペルガー症候群の人はたくさんの感覚入力をうまく取捨選択できずにいるようです。視覚優位やビジュアルドライブと言って、見た物、見た文字に左右されることも多いようです。外からの情報は正しいと思っているからそれにとても左右されます。こんな感じだから閉じている自閉ではなく「自開」です。
齊藤コメント
「自開」とは、雨野さん固有の表現です。自分が自閉者であることを自覚したときから、「自閉」という語感に違和感を覚えていたようです。「私の取扱説明書」に描かれているような世界、つまり文脈に関連した情報と無関連な情報を等しく扱い、様々なものにフォーカスをあわせてしまう状態は(マルチフォーカス)、環境のあらゆる刺激に対して自己が開かれているからこそ生じる現象なのだ、と雨野さんは主張したいのだと思います。私は、初めて「自開」という言葉を聞いたとき、「なるほどなあ」と思いました。当事者の実感に即した理解には、当事者の語りに耳を傾けることが欠かせません。
雨野さんから観察すると定型発達者が「自閉」に見えるそうです。なぜかというと、定型発達者は、文脈に関係のない情報にフォーカスをあわせてないからです。無視されたその情報は、それでもなお存在しているのに、まるで存在しないかのようにふるまう様子を、雨野さんは「その情報に対して自らを閉じている」と考えます。
定型発達者から、アスペルガー症候群当事者を観察すると「自閉」と感じる。けれど反対に、アスペルガー症候群当事者から定型発達者を観察すると、こちらも相手を「自閉」と感じている。「自閉」という言葉は、どちらか一方のみが感じるという非対称なものではないのかもしれません。
「自開」ということの例を、雨野さんの文章でさらに見てみましょう。
雨野カエラ
バロン・コーエンさんによると自閉圏の人たちには「心の理論」の障害があるという。他者の「心が読めない」ということらしいのだが、ではどうやって定型発達の人たちは他人の心を「読んで」いるのだろう。心が読めるようになってみようと思って心の理論について書かれている本を読んだけど、どこにもそれは書かれていなかった。定型発達の人にとって「あまりにあたりまえだから」なのだそうだ。「人の心が読める」人なんて本当にいるの?本当はわかっていないんじゃないの?だとしたら心の理論の障害って何?
サリーとアン課題について考えてみよう。サリーはその場を離れている間、本当にアンのしたことを「見ていなかった」と言えるのだろうか。窓から見ていた可能性は?その場を離れた、あるいは外に出たという可能性は示されているが「見ていなかった」という事実は明示されていない。また、出題の前に誰の視点で物語を見るのかも明示されていない。
サリーは見ていたかもしれないし、見ていなかったかもしれない。
アンは見ていた。ビー玉は自分がどこにいるか知っている。
「箱」も知っているだろう。「かご」は知らないかもしれない。
物語を外から見る第三者にとってもビー玉の在り処は自明だ。
ビー玉がどこにあるか判らないとしたら、確率的にはどこにあってもおかしくない。量子論的にはとても正しい。前の記述で一番確率が高いのは「箱」になる。
齊藤コメント
量子論的には正しいというのは、「シュレーディンガー猫」のことを指しているのだと思います。専門家ではないので、解釈が間違っているかもしれないのだけれども、コメントしてみようと思います。
今、あなたの目の前に箱があります。この箱の中には、放射性原子と放射線を検出すると毒ガスを発生する機械、それと生きた猫が入っています。原子が分裂すると放射線が発生しますが、いつ分裂が始まるかはわかりません。さて、ふたをされて外部からは猫を観察できないとき、箱の中にいる猫は死んでいると思いますか、生きていると思いますか。
量子力学おいて「原子の状態」は、観察者が観察したその時に決定されることになっていますので、観察者が箱の外から観察しているときには、猫は「生きてもいるとも言えるし、死んでもいるとも言える」というふうに、「重なり合った状態」にあると言うのです。猫の生死が決定されるのは、箱を開けて観察者が中を見たその瞬間なのです。それまでは、二つの状態が並列的に存在すると仮定されています。箱を開ける前と後では世界が違うのです。この矛盾はまだ解けていません。パラドクスのままです。雨野さんは、「観察するまで事象は決定されない」という部分に、関心を持ったのでしょう。
この理論でいうと、可能性の数だけたくさんの世界が同時に存在するということになります。「多世界解釈」というやつです。SFなどでよくモチーフにされるテーマです。雨野さんのサリーとアン課題の解釈は、多世界解釈であると言えます。
雨野カエラ
定型発達の人たちは明示されていない条件を自動的に判断しているのだと思う。サリーはきっと「見ていなかった」のだろうし、その「見ていなかったサリーの視点」で「物語」を自動的に判断する。自閉圏の人たちの正解率を上げるにはそれらの条件を明示すればよいのだろうと思う。それで心の理論を得たことになるだろうか。心を読むとは何だろう。
齊藤コメント
雨野さんからみると定型発達者は、他者の心を確率的に判断するのではく(つまり量子力学的に判断するのではなく)、決定論的な確信を持って判断しているように感じているようです。多世界解釈ではなく、一つの解釈で成り立っているような世界に見えるのかもしれません。
雨野カエラ
心の理論が障害されている人たちはだから自分勝手にふるまうのだと思ってはいないだろうか。定型発達の人たちは自分を中心に「心の理論」を駆使している。自閉圏の人たちは「自分中心」で、そのうえ「心の理論」が壊れているのだと思ってはいないだろうか。自閉圏の人たちの視点はサリーやアンであったり第三者であったり、ビー玉であったり箱であったりかごであったりする。だからこの課題を確率的に間違うことがある。実は自分中心という視点がないのが自閉圏の人たちなのだと思う。全てが自分であり、同時に(だから)どれも自分ではないのだ。そこに中心はない。
齊藤コメント
物理現象においてはとても不思議なパラドクスですが、心理現象であれば「多世界解釈」はもしかしたら成り立つかもしれないと思いました(量子力学は全くの素人ですから、頓珍漢なことを言っているかもしれませんがご了承ください)。
人の心が、ある解釈に収束するのはどの時点なのか?
こんな経験はありませんか?長い間、一人で悩んでいたことが、家族や友人と対話をする中で、すとんと一つの解釈に落ちることがあります。それまで、あーでもない、こーでもないと考えられる限りの可能性と未来の状態を想定していたのにも関わらずです。
このように私たちの心には、たくさんの解釈が同時に存在しているのだと思います。相手のことを好きでもあるし嫌いでもあるといったような矛盾した感情を同時に持つことは不思議なことではありません。「やっぱり好き」もしくは「やっぱりキライ」と気持ちが決定されるのは、相手との対話・関わりを通した後です。
自分を「原子」に例えると、自分の心の状態を一つの状態に遷移させるためには、他者に観察してもらう、他者に関わってもらうことが必要なのかもしれません。
023 「021かんしゃくの構造」のコメントの続き(2)
023 「021かんしゃくの構造」のコメントの続き(2)
齊藤コメント
原初的な感情は「快-不快」です。心地よいか、心地よくないかの二側面しかありません。一方、世界は複雑です。ゆえに、複雑な世界に住む人間の経験もまた複雑なはずです。しかしその複雑な経験を「快-不快」の二つの水準でしか捉えられないとしたら、大変不便な生活になるだろうな、と思います。世の中、白か黒しかないモノトーンな世界になってしまうからです。
かんしゃくとは、自分の経験を二分化することしかできないことによるものなのではないかと思います。快と不快の連続線上には、本当はたくさんの目盛りを刻むことができるはずです。多様な感情を経験することは、人格内にかえって矛盾を生み、分裂を引き起こすように思えますが、そうではないと思います。
複雑な経験を複雑なままに経験するには、それに対応する感情も肌理の細かいものである必要があると思います。感情が肌理細やかに分かれていると、経験の意味づけも細かくなっていくのだと思います。このように感情の発達とは、新しいカテゴリーの感情を獲得するというよりは、獲得している感情を社会的状況に合わせて細かく区分することなのではないかと私は考えています。
私の長男が2歳の時の話です。夕方、眠たくなるとギャーギャーとわめき散らすことがありました。たくさん遊んで身体的な疲労があった日は、もっとひどくなりました。物を投げたり、母親を叩いたりとまるで八つ当たりです。そのたびに叱られるので、暴れ具合はいよいよ激しくなるのでした。
ある日うちの妻は、叱るのではなく、暴れて泣いている長男に近づき「ソラ(長男の名前です)、あのね、ソラはね、今、眠たいんだよ。眠たいときは寝なさい」とだけ言って、後はしっかり抱っこしました。しかし、そのときはおさまりませんでした。その後、何度も同じことが繰り返されました。半年くらいたったころ、「今、眠たいんだよ」と声をかけると、自分で寝室に行き布団に横になり眠ったことがありました。その後も、多少の紆余曲折はありましたが、最終的には声かけだけで眠りに行くようになりました。本人は繰り返す中で、「暴れたくなる感覚」が「疲れの感覚」であることを認識し、「疲れの感覚」は眠ると解消されることを知っていったのだと思います。このように2歳代では、生理的な不均衡を丁寧に意識させ、それを解決する方法を伝えることがポイントでした。
次は3歳の時の話です。妹のモモが生まれました。妻は、乳児の世話や家事でいつも手が一杯でした。それまで、親の愛情を一身に受けていたソラは、急に一人きりになり、放りだされた気分になったのでしょう。再び、怪しい行動が出てきました。部屋の中を、折の中に入れられた動物のようにウロウロと歩き回ったり、かんしゃくを起こすことが増えてきました。要するに、赤ちゃん返りです。親から見ると、さびしいのが原因なのは一目瞭然なのですが、本人は勿論気付いていません。
妻は、家事の手を止めてソラに近づき「ソラは今、さびしいんだよ。さびしいときはさびしいって言わないと分からないよ」と言って、抱っこしました。やっぱり、一度で分かるわけがありません。毎日々々同じことを繰り返しました。3ヶ月たったある日のことでした。モモは、居間のソファーでじいちゃんに抱かれていました。妻は台所で夕食の準備です。ママはモモを抱っこしているわけでないので、アプローチしやすいと思ったのでしょうか、その隙をついてソラはおもむろに妻に近づいていき「ママ、さびしい」と小声で伝えました。居間で聞き耳を立てていた家族は、それを聞いて拍手喝采。妻は「ちゃんと言えたんでしょー」とソラをきつく抱っこしました。ソラもエヘヘと笑っていました。(振り返りますと、そのときのソラは、いつものようにかんしゃくを起こすほど不安定ではなく、ウロウロはしていましたが、少し余裕があるようでした。新しい行動を獲得するときはいつもそうですが、子どもにある程度余裕がないと新しい行動は誘発されません。追い詰めて、子どもの気持ちをギリギリの状態にしてしまうと、子どもは怖くて新しい行動を試そうとしないのです)。このように3歳のときには2歳のときと違い、生理的不均衡よりは、心理的不均衡についての会話が多くなりました。
子育てをしていると、子どもの持つモヤモヤした気持ちに遭遇します。「わからない」と親が子どもに怒りをぶつけていては子どもは心を閉ざすばかりです。また子どもの不安に巻き込まれて一緒に心を揺らしてしまっては子どもは迷うばかりです。
ただ、親も万能ではありませんから、子どもの気持ちをすぐに汲み取ることができないときも多々あります。そんな時、どうするか?親だからと完璧を求めずに正直になって、子どもと一緒に考えるのが良いのだと思います。ソラが落ち着いた頃に、妻は抱っこを続けながら、、色々と会話をしていました。こんな気持ちだったの?あんな気持ちだったの?という風に。蜜さんが言っていた大人に選択肢を示して欲しいという願いは、普通の子育ての中で行われる行為なのです。
感情の肌理を細かくする上で、他者のラベリングの影響はとても大きいのだと思います。感情の肌理を細かくすることは、社会的な適応能力を高めることであります。子どもの感情を大人が丁寧に掬い取り、丁寧な言葉で返してあげることが、感情を発達させる上で重要な契機となるのです。
雨野さんの起こすかんしゃくは決して、病気だからなのではありません。雨野さんには、かんしゃくを起こしてしまうということを、その理由も含めてありのまま語れる他者にめぐり合えなかっただけなのではないかと私は考えます。他者の言葉を頼りに、自己の内的な世界を研究する過程の中で、徐々に感情というのは練り上げられていくのだと思います。
022 「021かんしゃくの構造」のコメントの続き
022 「021かんしゃくの構造」のコメントの続き
齊藤コメント
実験後の感想をもう少し挙げます。
Bさんは「快不快、喜怒哀楽程度は感じることができます。相手の感情をうまく言葉に出来ないのと同様に、自分の気持ちも漠然としています。だからいつもモヤモヤしています。でも、自分の気持ちにぴったりな言葉を言われるとすごくすっきりします」。
Cさんは「感情を表現する語彙が少ないんです。普段はその程度の語彙でしか、他者や自分の感情をとらえていません。会話だと流れの中で表現する必要があります。時間制限があるのでとても難しいです」。
Aさん、Bさん、Cさんに共に、感情を表す言葉を知らないということを自覚されています。感情というものは言葉に規定されているものなのですね。
Dさんは「結婚してから、怒れるようになりました。それまでは、無意識に怒りの感情を押さえ込んでいたのだと思います。結婚したことが大きい。夫に対して気持ちを伝えないと、夫婦関係は成り立たない。夫は、私が感情を表現することを求めてきました。恐る恐る感情を表現してみたら、夫のリアクションがとても大きいので驚きました。そんな日々をすごしているうちに、自分の感情を見つめざるを得ない状況なっていきました。すると、感情の起伏が大きくなっていきました。でもまだ、自分の感情をどのくらい出せばよいのかわからないので、必要以上に夫を悲しませることがあります。今は調整段階なのです」。
結婚を機に感情表現が豊かになったというのが興味深いと思います。ポジティブな感情は、相手に受け入れられやすいので表現しやすいですが、ネガティブな感情は相手を怒らせたり、悲しませたりして、その後の関係を悪化させてしまう可能性があります。人間関係において失敗経験の多い人であれば、自己評価を下げる事態を招くことは出来る限り避けたいと思うはずです。
でもDさんは、信頼できる夫に対してであれば、今まで意識することを避け、押し隠してきた感情を表現することができると思ったのでしょう。感情が育つには、当然ですが基本的信頼感が必要条件です。
「自分の心の動きに疲れるときがあります。細かに動いているから。刺激に対するフィルターが細かい。反応してしまう」。
Dさんは、外から見るとクールに見えるのですが、ここで述べているように、いろんな刺激に反応して揺れ動く、敏感な心を持っているようです。細かく揺れ動いているのに、それを外部に表現できない状態は、本当のDさんの姿ではなかったでしょう。
雨野さんは感情語の獲得について、「定型発達児は、養育者からたくさんのラベリングを浴びせかけられる。取捨選択するのは子ども自身だが、ラベリングのきっかけは他者なんですね」と言っていました。
他者からのラベリングを取り込むということは、人は発達初期から他者性を含んだ自己を形成しているということになります。雨野さんは「オリジナルな自分の言葉はないかと、心の中に捜してみたことがあります。しかし、どん言葉も他者から取り入れたものばかりだということに気付きました。自分はたまねぎみたいなものです。真ん中には何もないのですから。僕自身というのは一体どこにあるのでしょうか?」。
このとき私は雨野さんに「感情も含めて自己という概念は、他者と作り上げた一種のイメージなのではないかと思います。自己というものは、個人に内在する実体のあるものではなく、他者との関係性のあり方そのものを指すのではないかと思います。ゆえに他者との関係がないところに、自己もまた存在しないということになると思うのです」という意味のことを述べました。でも、雨野さんは自己がどこかに“ある”と信じているようでした。そして深く長く内省していったのです。
雨野さんは「怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思えるように少しなった。病識というのは大事だ」と述べました。私はこの文章に少し違和感を覚えたのですが、皆さんはどう思いますか?
雨野さんが怒る理由は、時にユニークかもしれません。しかし「怒ること」それ自体は、人間として自然な行為だと思うのです。怒りの感情をうまくコントロールすることは必要ですが、距離を置いて表現しないでいることは、自然ではない気がするのです。私は「怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思う」ことを、なるべくなら“病識”と整理したくないのです。自身の感情世界をより豊かにするのは、他者からラベリングなのだとすると、それを出さずにじっとしていることは、安全と引き換えに成長を失うことになります。
Dさんのようにネガティブな感情をありのままに受け入れ、対話をしてくれる人に出会うことの大切さは、雨野さんの納得の仕方と対比されることによって、より明確になると思います。Dさんは「苦手なことはにがてなままでいいんだなと思えるようになった。自分を許してあげる感覚を持つようになりました」と仰いました。