雨野カエラの部屋(毎週月曜に更新!)

雨野カエラのエッセイ

006 馬の心、人の心

006 馬の心、人の心


雨野カエラ

 大きな音がきらいで、いつもの場所に物がないと驚き、いつも時間通りに生活し、時々パニックになる。まるで自閉症者みたいなもの、それは馬です。

 馬を見ていると自閉症者との類似に気付きます。補食される動物と自閉症者の比較はテンプル・グランディンも行っています。僕はそこに「群れの動物」という点も加えて考えます。自閉症者は群れるのが嫌いなのではないかと言われる方もいるかもしれませんが、ここでいう「群れ」は、人間のように個の消えない「群れ」ではありません。補食される動物の群れとして考えるのです。群れの誰かが危険を発見するとそれは群れ全体の情報となります。群れはそれ全体が個です。そこには自他の区別が希薄です。自分の得た情報は全体が知っている情報。群れが得た情報は自分も知っている情報。群れが群れとして行動するためにはそういう本能が必要な気がします。

 自閉症者は他者の意図を想像するのが苦手だと言われます。自分の思っていることを相手も全く同じように思っている、と思いがちだからです。そのことを「人の気持ちが分からない」「想像力がない」というのだとおもいますが、「思いやりがない」とか「創造性がない」というのと同じではありません。

 僕は「言わないとわからない」というのがわからない事があります。自分の考えていることを相手も同じように考えているとしたら、言わないでも分かるはずですよね。他者は自分とは違うことを考えている場合がある、ということを認知できないのです。自分の知っている情報は相手も当然知っていると思いがちです。情報が同じなら同じ結論に「言わなくても」達するはずだと思ってしまいます。もちろん大きくなって、そのことは経験から得た知識として修正されていきますが、認知を変化させるところまではなかなか達しません。自分の思った通りにならない、それを受け入れるために、みんなのほうが何でもよく知っている、自分はいつも間違っているという認知を成長させてしまったりします。時には相手が間違っていることもあるし、また時には自分が間違っていることもあると言う認知には達しません。自分が正しいか、群れ全体が正しいかではなく、群れの認知としては常に一つのことなのです。

 自閉症者は動物の群れの認知を持っているために、他者の考えを取り入れようとするのですが、他者は気まぐれでいつもバラバラなことを考えています。普通の人間の群れのなかでやっていくには自閉症者には苦労が多すぎます。

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齊藤コメント

 「群れの動物」として思い浮かぶのは、例えば草食動物ですね。群れている動物は、まるで集団として意思を持っているかのような動きを見せることがあります。個と個が互いの意思を確認しながら、各瞬間に動く方向を決定しているのではなく、あたかも当然のように、各個体が一斉に向きを変える様子は、見ていて不思議なものです。

 群れる動物たちにも、もちろん個体差はあるでしょうが、おそらく外部の刺激に対する認識の仕方や行動の選択は、人間に比べて類似度が高いのでしょう。認識パタンや行動パタンの自由度が低いとも言えます。そのように考えると、ある状況において、動物達が同じ行動を一斉にとることの解釈ができます。全体は個であり、個は全体であるゆえんです。

 このことに関連する雨野さんのエピソードを紹介します。雨野さんの子どもの頃の話です。

 目の前に椅子があります。雨野少年はその椅子に座りたいと考えています。しかし、クラスメートが先に座っていました。雨野さんは、座っているクラスメートの前にじっと立ちます(立っているだけです)。クラスメートは席を譲ってくれるそぶりを、一向に見せません。だんだんイライラしてきます。雨野少年は次のように考えます。「僕がその椅子に座りたいのを知っているはずなのに、知らないふりをして座っている。これはきっと意地悪をしているに違いない」。我慢しきれなくなった雨野少年は、そのクラスメートを突き飛ばしてしまいました。

 二つ目のエピソードも子どもの頃の話です。ある日、クラスメートが昨夜見たTV番組について話しかけてきました。「雨野、昨日のTV面白かったな!」。しかし雨野少年は答えません。なぜなら雨野少年にとって、確認し合うまでもなく面白かったからでした。なぜ、自明な事実を改めて尋ねてくるのか、戸惑ったそうです。これはきっと僕をからかっているに違いない、と腹立たしい気持ちになったとのことです(話題を変えるとより分かりやすいかもしれません。例えば、私の妻がゾウの写真をみて、「ねえあなた、これゾウよね。あなたは何だと思う?」。バカにしてるのか?と一瞬思ってしまいます)。


 この二つのエピソードを、クラスメート側から見るとどうなるでしょうか?ちょっと想像してみましょう。一つ目のエピソードから。


 友達と楽しく会話をしていると、そこに雨野少年が近づいてきました。自分に話しかけるのかな?と思ったけれども、何かを話し始める気配はなく、ただ自分をじっと見つめているだけです。友達との会話を再開し、しばらくして振り返ると、雨野少年は先ほどと同じ場所に立って、自分をまだ見つめていました。驚きましたがどのように対応してよいかわからず戸惑っているうちに、いきなり突き飛ばされました。


 二つ目のエピソードです。


 昨日見たTV番組が面白かったので、朝、誰かと話そうとクラスを見渡すとすぐそばに雨野少年がいました。「昨日の○○見たか?」と尋ねると「見た」と言うので、早速「面白かったな!」と話しかけました。しかし雨野少年は黙ったまま返事をしてくれません。「見たか?」の質問にはちゃんと答えてくれたのに、なぜ黙っているのか不思議です。


 かなり私の想像が入っていますが、やり取りは以上のようなものだったと思います。このようにそれぞれぞれの立場からエピソードを眺めてみると、心の内容が大きく違っていることに気付きます。雨野さんは、乱暴な性格だったわけでもなく、気難しい気分屋でもなかったわけです。相手の行動の裏にある意図を読んでいないことが原因だったのです。なぜ読まないかは、先ほどの「群れの動物」の例のごとく、自分と同じことを感じ、考えているはずだという雨野少年の強固な信念に基づいた結果なのでした。


 自閉症スペクトラムの人たちは、共同注意に問題があるとよく言われます。結果として共同注意が成立していないというのは、確かにそうなのですが、雨野さんの話を聞くと、当事者の主観においては捉え方が違うようです。彼らはむしろ、プリミティブな意味合いにおいて、共同注意が成立していると思っているのかもしれません。なぜなら、自分と同じ対象に関心を持ち、同じように感じ、同じように考えていることを前提としているわけですから。これ以上の“共同”感覚はありません。ただし、自己の認識を他者にまで過剰に拡張した結果としての共同注意なので、客観的には“共同”は成立していません。自他を区別したあと、各々の注意を共同するところに、共同注意の本質があるわけですから。


 以前相談していたアスペルガー症候群の子どもの話です。ある日、ウルトラマンの映画をお父さんと見に行きました。帰ってきてすぐに、一緒に映画を観ていないお母さんに「お母さん、どうしてウルトラマンはあそこでやられそうになったの?」と質問しました。お母さんは「観ていないから分からないわ。まずどんな話なのか説明してみて」と返答しましたが、腑に落ちない様子だったそうです。そして「ねえ、どうして」と質問を繰り返したそうです。お母さんは困ってしまいました。


 小学校に入り、自分の好きなポケモンの話を、何十分でもクラスメートに話すようになりました。聞いてくれたクラスメート達もだんだんと敬遠するようになりました。私は「どうしていつもポケモンの話をするの?」と尋ねました。すると「だって僕が楽しい話だから。友達もきっと楽しいはず」と答えました。悪意があって話しているのではないことが分かります。自分と他者は同じなのです。自分が楽しいように、相手も同じくらい楽しいであろうと信じているのです。


 しかしクラスメートに敬遠されるようになったことがきっかけで、この子どもはなぜ相手が僕の話を聞いてくれないのかと、考えるようになりました。ある日、お母さんに相談しました。「どうして誰も僕の話を聞いてくれないの?」。お母さんは答えました。「明日から、聞いて欲しい話があったら、まず『僕、これから○○の話をしたいんだけど、君は知ってる』って聞いてごらん。もし知らないって言ったら、話すのをやめたほうがいいわ。でも知ってるって言ったなら、あなたの話しを少しは聞いてくれるかもしれないわよ」。


 次の日、素直にお母さんのアドバイスを実行に移しました。しばらくたったある日、「お母さん、あのね、知ってるって答えた人は、知らないって答えた人よりも長く話を聞いてくれるんだよ。そして、新しいことも教えてくれるときがあるとわかったよ」と報告してくれたそうです。誰彼かまわずポケモンの話しすることがぐっと減ったそうです。

 すばらしいアドバイスだと思いませんか?私は、お母さんの洞察の深さに感動しました。わが子に必要な知識は「人によって興味や関心が違うこと」、「自分が好きなことが相手も好きだとは限らないこと」であることを見抜いていたのです。さらにこれらの事実を、身をもって気付かせるために”魔法の質問”を授け、じっと見守っていたのです。“自分と他者の心の内容は違う”。定型発達者にとっては自明中の自明な事実であっても、「群れの動物」的世界を持つ人たちにとって見れば(すべての自閉症スペクトラムがそうだと言っているわけではありませんが)、この事実は驚き以外のなにものでありません。


 自分及び他者を発見する瞬間とは、自分の意図通りに他者が動いてくれないときだと思います。それまで、自分と他者は一緒だと固く信じていた子どもにとっては、安定していたはずの世界に“裂け目”ができたように感じる、一種の事件だと思います。でも、その裂け目を裂け目として放置するのではなく、ふさぎなおす努力をする過程で子どもは、コミュニケーションの必要性、効果的な表現の仕方を学んでいくのでしょう。この意味で、我々も自閉症スペクトラムの人たちも、学ぶ原理は一緒だと思います。違うのは“裂け目”の量であろうと、私は考えています。自閉症スペクトラムの子どもが、何とか折り合いをつけられそうだ、と思える程度の裂け目を我々が提供することが大切だと思うのです。療育や教育の効果は、この裂け目の量を子どもの発達合わせて見極められるかが鍵になるのだと思います。


 雨野さんも、成長するに従い「伝えなければ自分の気持ちは相手に理解してもらえない」ことに気付いていきます。しかし、雨野さんの心の初期設定は「群れの動物」的心なので、いちいち自覚する必要があります。直感的には難しいと告白しているように、意識的な変換作業が必要になってきます。
 
 この点が、支援をするときのポイントだと思います。コミュニケーションがずれているときに、どこの部分がどれくらいずれているのか、客観的に整理してあげることが、コミュニケーションをスムーズしていく上で必要です。上手な通訳者になること。支援の基本はここにあると思います。

 

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005 学校キライ(4)

005 学校キライ(4)


雨野カエラ

 学校嫌いはひどくなって、高校は途中でやめた。学校のルールがばかばかしくなったんだ。暑くてもカッターシャツの袖はまくってはいけないなんて、そんなこと、大人を相手に言うことはないだろう?それくらいのことでどうして怒鳴ったり,呼び出したりするんだろう。

 今日なにか起ったらもう学校には二度と来ないと決めて登校した日、全校集会で校長先生が言った。

「やめたいやつはやめてしまえ」

 僕は集会が終ってすぐ学校を出た。「造反有利」とか黒板に書こうかと思ったけど、意味を分かる先生も同級生もいなさそうだったのでやめた。
 
 遅刻なし、欠席もほとんどなし。成績もまあまあ。そんな生徒が学校を辞めるのは開校以来だと言われた。喜んでいいのかな。
 
 そこから数年間を映画とビデオをみながら家で過ごした。今なら引きこもりって言われるね。


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齊藤コメント


 「造反有利」とは、文化大革命の時の毛沢東の言葉です。紅衛兵のスローガンとなりました。「体制に謀反を起こすには、道理がある」との意味があります。退学を決意した雨野さんが、この言葉に託したかったものは、文字通り「退学する自分には、理由があるのだ」ということだったと思います。

 しかし雨野さんは、黒板にこの言葉を書くのをやめてしまいます。自分の気持ちを表現する最後の機会を自ら絶ってしまいました。他者に気持ちを伝えてみることが、他者を動かすための第一歩になるのですが、すでに時機は過ぎていたのでしょう。「自分の気持ちは,到底理解してもらえないだろう」と、あきらめの気持ちだったのだと思います。

 「やめたいやつはやめてしまえ」の号令は、雨野さんには「もうこれ以上、がんばらなくてよい」という天からの声に聞こえたのではないでしょうか。

 「学校キライ」を読み終えた後、何かが足りないと感じました。何度か読み返しているうちに気付きました。それは、「他者に頼る」もしくは「援助を求める」というエピソードがどこにも出てこないということです。どのエピソードも、頼ってみたけれど失敗した、援助を求めたけれど断られた、のではないのです。前提となる対話が開始されていないのです。すべては、雨野少年の心の中で生じ、そして過ぎ去っていっただけです。彼の心的世界には、語り合う「他者」が含まれていないのです。

 もう少し他者に頼れば、解決する問題もあったかもしれません。また周囲の人たちも(特に大人は)、他者への頼り方を具体的な場面に即して身をもって示し、導く必要があったのかもしれません。

 社会の中で生きていくのに大切なスキルとは何でしょうか?いろんな候補が挙げられると思いますが、雨野少年においては「他者に頼るスキル」こそ、真っ先に身に着ける必要のあったスキルだったのではないかと私は考えます。勉強が出来る、挨拶ができる、忘れ物をしない、友達に迷惑をかけない。雨野少年はいずれも、きちんとできていたと思います。そのため周囲の大人達は、むしろ安心していたのではないでしょうか。「自立した子だ」と。でもそこには落とし穴がありました。

 子どもの育ちを眺める視点は色々とありますが「あなたはちゃんと人に頼っているかい?困ったと言えてる?」と尋ねる大人は案外少ないと思います。自立という目標が掲げられる環境では特に。“自立=自分で考え、行動すること”が目標となり、そのような振る舞いができるようになることが成長の証だとみんなが思うようになると、他者に頼ることは“甘え”に、困ったと訴えることは“努力が足りない”というふうに読み換えられてしまうことがあります。

 でも自立とは、そのような意味ばかりではないのではないかと思います。雨野少年にとっての自立とは、他者に上手に頼ることができること。そして他者から頼られたとき、その期待にこたえられることにあったのではないかと思います。雨野少年は、常に自分ひとりで考え、そして行動してきました。まさに文字通り「自立」していたわけです。

 しかし、どのような子どもも、経験は未熟です。思考もまだ自律的ではありません。だからこそ、他者に頼りながら育っていくものだと思います。他者を自己の鏡として。個として試行錯誤することは、非常に効率の低い学習をしている状況であると言えます。私は、自立とは、他者に頼ってきた歴史を背景にして、自己が少しずつ確立された結果であると考えるようになりました。


 雨野さんは、発達障害を次のように定義するのがよいのではないかと考えていました(言葉は正確ではありません。メモを紛失したのです。雨野さんが言わんとするところを私が文章化してみました)。


 「外部に自分を発信し、フィードバックを受けながら成長することを発達というならば、発達障害とは、個人及び環境要因により、フィードバックを受信できないために発達が阻まれている状態を指すのではないか」


 なんとわかりやすい定義でしょう。雨野さんは「自分の言葉が他者に通じない」ということをよく言っていました。会話の相手は「大丈夫、ちゃんと通じているよ」と言ってくれるそうですが、返ってくる言葉は、いつもポイントがずれているのだそうです。雨野さんは「手ごたえがない」と言います。手ごたえがない環境は、負の報酬ばかりが返ってくる環境よりも、もしかしたらつらい状況なのではないかと思います。自分を表現しても「応答がない」環境は、表現することそのものを無意味化するからです。自分の内部に生じたものを、無意味であると感じさせられることほど、人として空しいことがあるでしょうか?

 話は少しそれますが、私が大学生の頃、ある医療機関で行われていた自閉症の療育に、実習生として参加したことがありました。視線の合わない自閉症の子どもとの遊びに悪戦苦闘している私に、セラピストの方がくれたアドバイスは今でも心に残っています。


 「自閉症の子どもの要求を増やしたかったら、子どもの期待通りに大人が反応してあげること。自分の身振りや言葉が他者を動かしていると感じることが大切なんです。世界を動かしているのは自分なんだ、と思えるようにあなたは振舞いなさい。まずあなたは、子どもの道具でいいのです。ただし、おもちゃよりも確かな反応を返す道具になりましょう。あなたの遊び方は、おもちゃに劣っているのですよ。タイミングや方法が微妙に変化しているからです。きっと扱いにくい道具と思われているのだと思います。繰り返し、子どもが望む反応を返すことによって、子どもの信頼を得ることを目指しましょう」


 雨野さんの発達障害の定義と同じ意味のことがここでは語られています。確かな反応、確かな手ごたえ。世界を動かしている有能感。これらが子どもの中でしっかりと根付かない限りは、子どもは外部に向けて何かを発信しようとしないでしょう。以後心得て、信頼できる道具になりきるよう努力しました。すると、その子どもの反応が少しずつ変わってきました。おもちゃよりもまず先に“使って”もらえるようになったのでした。


 人は他者を通してしか自己を理解することはできません。対話は、発達に必要不可欠な行為です。雨野さんが私との対話を望んだ理由は以下のようでした。


 「僕は、生まれてこのかたずっと、アスペルガー症候群だったわけです。だから定型発達というものを知りません。これから僕が生きていく上で、自分を説明しなければならない場面が出てくると思います。しかし、定型発達というものを知らない自分は、どこが共通していてどこが異なるのか、区別がつかないのです。僕の自己紹介は二つのパタンがあります。生まれてからのことをすべて話すのがひとつのやりかた。でもこれはものすごく時間がかかるので、最後まで聞いてくれる人はいません。どのエピソードを選べばよいのか分からないので、結局僕は何も話さないことを選ぶのです。齊藤先生には、僕の考えを伝えます。その考えに対して何を思ったのか、また齊藤先生自身はどのように考えるのかを教えてください。その対話を通じて僕は、自分にしかない特徴というものを推測していきたいのです」


 このように雨野さんが援助を求め、他者に自分の考えを伝えるようになったのは、30歳を過ぎてからです。高校を退学してから十数年後のことでした。

 
 

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003 学校キライ(2)

003 学校キライ(2)


雨野カエラ

 ある日、ハミガキ講習会があって全校児童が歯ブラシを持って体育館の床にぎゅうぎゅうに座っていた。先生の言う通りに歯ブラシを動かしたら前に座っている子にどうしてもぶつかる。その子はとても怖い顔をして僕をにらんだ。でも先生の言う通りにしなければならない。僕はいったいどうしたらいい?

 整列と行進の練習をしていて先生が言う。

 「あごをひけ!」

 僕はその頃あごをひくというのがどういうことかわからなかった。できるかぎりあごが後ろに行くように努力した。僕を見つけて先生が怒鳴る。

 「あごをひけというのがわからないのか!」

 先生は僕のあごをつかみ無理に下げようとした。僕は反抗する気なんてまるでなかったのにどうしてそんなことをされなければならないのかわからなかった。体に触れる前に、あごをひくのがどういうことか分かるように説明してほしかったよ。


 何が間違っていて何があっているのか。僕はさっぱり分からなくなってだんだんと学校がイヤになっていった。集団登校もみんなのようにふざけ合いながら学校まで行くのがとてもイヤだったから、登校班のみんなが出発してから遅刻ギリギリに行くようになった。これでは先生に呼び出される。


 成績はそんなに悪くなかったけど、時々まったくできない科目があった。例えば筆算はできるのにそろばんはほとんど0点。できないとなったら本当にまるっきり理解できない。でも先生は僕が時々何も理解できなくなる事があるなんて思ってなかったらしい。4時間目がそろばんで、計算の終った人から給食ってなったことがあったけど僕は一問もできてなかった。その時は先生の真ん前の一番前の席だったけど、先生は僕が簡単な数問を解けないことに気付かなくて給食を食べはじめていた。


 ペーパーテストでは答えられることが授業中に当てられると全く答えられなかった。主人公がその時どう思ったか、文章から抜き書きすることはできたけど、いく通りも答えがあるような場合は答えられない。何も言えずにいると、はやし立てられたり先生に答えを急かされたりして泣いた。


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齊藤コメント
 
  ハミガキ講習会のエピソードは、どの範囲まで自分の判断で行動することが許されるのかについて迷っていることが原因のようです。雨野少年は、先生の指示に従っているのですが、ぎゅうぎゅうに並んでいるので、歯ブラシがどうしても前の子どもに当たってしまいます。ほんの少し体をかわせばよいのですが、先生の指示にはなかったので、思いもつかなかったのだと思います。「歯みがきをすれば相手に怒られる」と「歯みがきをしなければ先生に怒られる」。どっちを選択しても誰かを怒らせることになってしまいます。行動すれば必ずネガティブな結果が生じてしまう(と思っている)このような状況は、好ましくはない選択肢によって二重に拘束されている状況と読みとれます。
 
 整列と行進のエピソードは、慣用句の理解の失敗と言えるでしょう。「あごをひけ」は文字通りの意味ではありません。この表現を知らない外国人が聞いたら、どんな想像をするでしょうか?私は「誰かのあごにロープをつけて、引っ張っているところ」を想像しました。「あごをひく」を正確に述べるとどうなるでしょうか?「視線を前に向けたまま、あごの先を首に近づける」となるでしょう。これでは子どもには分かりづらい表現なので、次のような説明はどうでしょう。「皆さん、返事をするときに頭をコクンと下げますね。やってみてください。そうですね。では今度は、軽くうなずいてみてください。ほんのわずか頭を下げるくらいです。そうして下げたところで、頭を元に戻さずに、ストップしてみてください。はい、そのまま先生を見てください」。分かりにくいですが、「あごをひく」という慣用句よりは、正確に行動を説明していると思います。このように説明してみると慣用的表現は、聞き手(読み手)に対し、複雑な意図の理解を要求していることになります。言葉とは、あいまいなものです。こういう場合、やはり雨野少年が望むやり方が一番ですね。やって見せれば、一瞬で理解が可能です。


 コミュニケーションとは、流暢に言葉を操り、複雑な言語表現を理解しあうことではないのです。前提は分かり合うことなのです。分かり合えるのならば、どんな方法を使ったっていいのです。それが相手の理解の仕方に合わせるということなのだと思います。


 ネガティブな結果しか予想できない二重拘束の状態、あいまいな言葉による指示への戸惑い。こんな状況が毎日続けば、頭が混乱してくるのも無理はありません。「何が間違っていて何があっているのか。僕はさっぱり分からなくなってだんだんと学校がイヤになっていった」という雨野さんの振り返りは、妥当なものだと私には思えます。まず、自分の判断・解釈に手ごたえがありません。さらに自分で考え、行動すればするほど周囲の人の反感をかってしまう状況は、少しずつ子どもを追い詰めていきます。


 お互いの認識の前提がずれていることを、意識できれば悪循環は回避できるのですが。定型発達者はアスペルガー症候群者の前提を直感的には理解できませんし、アスペルガー症候群者もまた同様です。互いの立ち位置を確認することが大事なのですね。「スタート地点が違っているだけ」なのだと思います。
 
 国語のペーパーテストの話は興味深いと思いました。空欄で提出された解答用紙を見て、教師はどう思ったでしょうか?「登場人物の気持ちが分からない子なんだな」とでも思ったかもしれません。でもそれは事実ではありません。

 雨野さんは、単純に登場人物の心情理解が難しかったのではなかったからです。心情の推測はしていたのです。しかし、当てはまりそうな仮説が、たくさん思い浮かんでしまい、どれを選んだらよいかわからないというところに、雨野少年らしい困り方があったわけです。


 心情理解は多様であったほうが良いのですが、国語のペーパーテストでは答えが決まっています。私も子どもの頃、返却されたテストの答えを見て、なぜそうなるのか分からなくて困った経験があったので、雨野少年のエピソードには共感するところがあります。

 「作者の意図を答えなさい」。こういう設問もありますね。作者は本当に、テストの答えのような意図を持って物語を書いたのでしょうか?私には、どうしてもそうは思えないのです。言葉にならない経験。でもその経験に含まれる何かに、未だ意識化できていないその何かによって心を揺さぶられているからこそ、人は筆を取り物語るのだと思います。作者は、綿密に設計図を書いて、すべての文章を論理的に構成しているわけではないと思うのです。先の設問は、物語が書かれる以前に、明確な意図が事前にあったかのような雰囲気を漂わせています。でも事実は逆ではないでしょうか?物語るという行為を通して、そのとき経験していたことの意味が事後的に了解されうる、というのが物語る行為の本質だと思います。
 
 すると「作者の意図を答える」という設問は文字通りの意味ではないのではないか、と私は思うのです。正確には「作者の意図についてのあなたの考えを述べなさい」が正しいのだと思います。主語は「作者」ではなく「解答者」なのですね。でもそのことは明示されていません。それは暗黙の了解だからです。「解答者」である自分自身を主語とするならば、解釈はしやすくなります。なぜなら他者である「作者」の考えには、いろんな可能性が考えられますが、「解答者」である自分自身の考えであれば、仮説はぐっと減るからです。すなわち複数の仮説の中から、可能性の高いものを絞り込むことができるのです。


 雨野少年に必要だったのは、仮設を絞り込む枠組み、基準であったことがわかります。知的な能力が高い一方、他者の意図を推測することに難しさがある場合、当然論理的な推理能力を働かせて補おうとします。雨野少年は、いつもたくさんの仮説を考えていたのだと思います。このように知的能力とは分析には優れていますが、判断には不向きであるといえます。判断に必要な枠組み、基準はどこあるのでしょうか?またどこからやってくるのでしょうか?この問題については、またどこかで触れたいと思います。

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002 学校キライ(1)

002 学校キライ(1)


雨野カエラ

 朝の学校は騒がしくて大キライだった。先生が来るまでの十数分の間に、いつも気分が悪くなった。“席に座って静かに待ちましょう”なんて決まりを守る子どもは僕以外に誰もいない。みんなおしゃべりをしたり走り回ったり、騒がしさを何とかしてくれる先生はなかなか来ない。

 下を向いて騒がしさに耐えていると誰かがその様子を見て僕を保健室に連れていく。保健の先生はなぜだか僕の名前を間違って覚えていて、でも先生が呼ぶのならそれが正しいと思うから訂正しなかった。


 授業が始まってしばらくしてから僕は“しーん”となった校舎を歩き、教室にそっと戻る。毎日のことなので誰も気にしない。先生も何も言わない。三十分くらい授業は進んでいるけど、それで困ったことはなかった。


 休み時間も耐えるのがたいへんだ。僕は外に遊びに行かないし、席を離れてトイレにいくこともない。外に出て授業が始まるまでに戻れなかったら大変だし、誰かの隣でトイレを使うなんて考えられない。自分の席に座り、図書館で借りた本を必死で読む。誰にも声をかけられたくない。休み時間をなんとかやり過ごす。

 学校の給食はなかなか喉をとおらない。ゆっくり食べたいけどみんなより遅くなってはいけない。パンはまるっきり残して他のおかずを急いで食べる。日によっては昼休みに掃除が始まることがある。食べるのが遅い生徒は舞い上がるホコリの中で給食を食べなければならない。


 小学校で僕は毎日必ず泣いた。理由はよくわからない。間違うことが怖かったのかな。先生にあてられて間違うと泣いた。誰かに小さなことを指摘されると泣いた。自分が間違うなんてことがあるとは思っていなかったからかもしれない。うまくいかないと泣いた。もしかしたら誉められても慰められても泣いたかもしれない。きっと何も干渉されたくなかったんだ。何か言われるってことは、僕のやり方がまるっきり間違っていると言われているように聞こえたんだ。だから何も言われないように、怒られないように学校では先生の言う通りにした。

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齊藤コメント


 集団生活には、目に見えない暗黙の了解があります。先生の指示もクラスメートの行動も、実は暗黙の了解に則った振る舞いなのですが、その存在に気付いていない人から見れば、矛盾が多く戸惑うこともあったでしょう。


 朝の教室は、これから始まる授業への緊張もあってか、憩いの時間でもあります。「席に座って静かに待ちましょう」というきまりは、みんな承知しているとは思うのですが、先生が来るまでの間は、友達同士の会話を楽しむことが優先されていたのでしょう(先生やって来る雰囲気を察知すれば、すぐにそのきまりを遂行できるように心の準備をしながら)。

 
雨野さんは、大人になるまで「会話とは、問題解決に必要な情報交換をするための行為」だと考えていました。たとえば、自分に知識やスキルがないときに質問するなどがそれにあたります。もちろんそのような会話を我々もするのですが、家族や友達といった身近な人物との日常会話は、体験を共有し、同じ感情を分かち合う目的で行う場合が多いと思います。雨野さんの少年時代のエピソードに「小学校の頃クラスメート同士が、昨晩見たテレビ番組について話し合っているのですが、微妙に会話がずれているのです。それでもなおその二人は楽しそうに会話を続けているのが不思議でした」というのがあります。情報交換が会話の目的であると考える雨野少年から見ると、二人は別々の話をしているのにもかかわらずコミュニケーションが成立している状態を、どのように説明すればよいのか分からず惑ったのだと思います。だから朝の騒がしさは、いっそう受け入れがたいものになります。きまりをまもらないクラスメート。何の目的で交わされているのか意味がつかめない会話の嵐。その中で雨野少年は、居心地の悪さを強く感じることになったのだと思います。

 
保健室の先生が自分の名前を間違って呼んだのに先生がそう呼ぶのだから正しいと思った、という箇所に、私はコミュニケーションの外側で生活している雨野少年の孤独を感じました(主観的に“さびしい”と思うこととは別です)。雨野少年は、もちろん自分の本名を知っています。では、なぜこのように思ったのでしょうか。たぶん、他者との関係性の中に自己が位置づけられていなければ、自分がどのような存在と認識されようと、それほど重要なことではなかったということなのではないでしょうか。正しく呼ばれようと、間違って呼ばれようと、相手が自分の内面を理解してくれるのでなければ、名前そのものには意味がないわけです。自分という物理的な存在を、他の人間から識別できるだけの記号があれば十分です。名前とは本来、他者との関係性の中で育まれ、そして定位された心理的存在としての大切なしるしであるはずです。子どもの内面世界を、周囲の人間が誠実に映し出していかないと、自己の存在及びその発達は、一種の幻影のような空ろなものとなってしまうことを示唆します。

 
休み時間の過ごし方についてです。「授業が始まる時間までに戻れなかったら大変だし」という箇所に目が止まりました。この世の中は、不確定なことが生じるのは確かですが、定型発達者は、ほんの数分の休み時間の間に予想もつかない大事件が起こるとは考えません。昨日と同じ休み時間が、今日も続くと確信していますし(確信しているので、安心して教室を離れるのです。もしからしたらその事件を期待している子どももいるかもしれません)、明日の休み時間に対しても、同様の予測をしていることでしょう。

 雨野さんは「1ヶ月とか1年のスケジュールを立てることはとても難しいことです。その間に何が起こるかわからないからです。起こりえることを頭の中で想像し、その対応を考えるだけで頭の中はすぐに一杯になってしまいます。僕が確信を持って予測できるのは、10分先くらいです」と話していたことがありました。これに対して、僕は次のように返答しました。「定型発達者が、手帳に予定を書き込むときに、100%実行するつもりでいるとは限りません。病気になるかもしれないし、他の予定が入ることもどこかで予想しているのです。スケジュールを立てるとは、事実を書くことではなく、ある意味“希望”を書くことだと思います」。雨野さんは、理解してくれました。


 給食の時間は、食べるだけでなくクラスメートと会話する時間でもあります。雨野少年の悩みは、食べることと会話をすることを同時に行えないことでした。会話に集中すると、食べることができません。食べることに集中すると、今度は会話がおろそかになり、「おい、聴いているのか?」と相手の怒りを買ってしまうのです。一つのことに集中できればこなせることも、複数の作業を同時にこなさなければならないと、上手に対応できないようです。授業中も同じようなことが起こります。先生に「姿勢を正しくしなさいといわれると、姿勢ばかりに意識が向き、先生の話が聞けなくなることがたびたびあったそうです。雨野少年が一番集中しているときは、実は姿勢がだらしないときだったとは、当時の先生は思いもよらないことだったと思います。

 
最後の文章は、切実です。他者の意図が読めない状態で、注意されたり、指導されたりの日々が続いています。意図が読めないわけですから、どのように振舞えばよいかいくら考えても答えは出てきません。「自分で考えなさい」はよく聞くフレーズですが、この声かけは雨野少年には「途方にくれなさい」とでも聞こえたと思います。「僕のやり方が全く間違っていたと聞こえた」とあるように、具体的にどのように振舞えばよいのかが呈示されると、とても助かるのです。可能であれば、その意味も含めて。アスペルガー症候群の子どもの中に、叱られないように表面上適応的に振舞う子どもが少なくないのは、以上のような理由あるからなのです。この場合、「自分で考えても分からないんだよ。困った時は人に相談しようね」がおそらく最も適切な声かけだと思います。

 


 

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001 はじめに

001 はじめに


雨野カエラ

 まず知ってもらいたいのは自閉症者でも知的障害者でも、定型発達者でも、本人に見えている世界がその人にとってノーマルで普通であたりまえだってこと。あなたが自分の見ている世界のことを正常で標準の世界だと思っているのと同じくらいに。

 そしてあなたと僕たちを隔てる明確な線はどこにも見えないってこと。

 初めて聞いた時はびっくりするような感覚のちがいがあったとしても、ヒトの感覚を越えたものが見えたり聞こえたりはしない。あなたの感覚と同じ線上に僕たちはいる。本当は感覚ではなく認知の違いなんだと思う。認知の違いってうまく説明できないけど、同じ大きさの音でも気になったり気にならなかったりすることかな。僕はとてもたくさんのことを気にしなければならない。気のせいじゃなく現実のこととして。

 この人たち(アスペルガー症候群)は知覚過敏だなんてどこかで聞いた人は、この部屋は眩しいでしょうと言って、薄暗い部屋で話をしようとするけど、みんながみんな眩しいと思うわけじゃない。普通の人が気にするような「明るいか暗いか」ではなくもっと細かい基準。僕の場合は、照明器具の種類や数や配置によってサングラスをかけたりかけなかったりする。それがわからない人たちは照明器具にこだわりがあるんだなんて納得の仕方をするけど、意味のないこだわりじゃない。そのことに前もって気をつけていないと話に集中できなかったり、気分がわるくなったり、家に帰ってからとてもイライラしたりするんだ。だから感覚のことについては勝手に想像するより本人に聞いてみるのがいちばん。先回りして選択の幅を狭めるより、本人の様子をしっかり見てきめたほうがいいと思う。歩いて五分の距離をみんなと一緒に車に乗らなかった時に、僕が人と車に乗るのがいやなのだとみんなに説明してくれた人がいる。でもはずれ。大抵の人と一緒に車に乗ることはできる。ただ五分の散歩を楽しみたかっただけなんだ。先回りしないで本人の意見を聞いてほしい。

 僕たちとのあいだに線を引こうとするのとは逆に、何を言っても、定型発達者も同じだよと言う人もいる。歩み寄りは素晴らしいけれど、何でもそれで理解しようとするのは間違っている。突然の出来事が苦手なんですと言ったら、誰でも突然、事故にあったらびっくりするよ、みんな同じ、気にすることないと言ってくれる。でも僕の言う突然の出来事はチャイムが鳴ることや電話が突然かかってくること。誰かに声をかけられること、先の見えない話をすること(それをコミュニケーションというらしい)。それだけで事故の知らせを聞いたくらいびっくりしたりイヤな気持ちになったりするとしたら本当に毎日たいへんだと思わない?

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齊藤コメント

 雨野さんとの初めての出会いは、印象的でした。彼は、帽子を目深にかぶり、サングラス姿で現れました(それには理由があったのですが)。お互い緊張しつつ、机をはさんで対角線上に座りました。しばらくの沈黙のあと、雨野さんは「僕の周りには、援助する人といじめる人の二種類しかいませんでした」と語り始めました。僕がどのように返答してよいか考え込んでいたら、「この人たちは、僕にとっては同じ人たちです」と加えておっしゃいました。私は、援助する人”と“いじめる人”が同じとはどういうことであろうと、また考え込んでしまったのでした。考えても答えが見つからなかったので「どのような意味で同じなのですか?」と率直に尋ねました。すると雨野さんは「いじめる人は、僕が何を感じ何を考えているかを考えない人たちです。そして援助する人も、僕が何で困っているのかを考えずに(確認せずに)アドバイスをしたり支援をしたりします。本当は困っていないことに対して、どんどんと支援が進んでいくことがありました」と説明してくれました。我々定型発達者とアスペルガー症候群者は、連続線上にあるものですが、困っているポイントが微妙に違っていることは確かです。雨野さんの話は、支援をする際、主観で相手を一方的に解釈することの危険性について気付かせてくれます。

 雨野さんはこれまでたくさんのアドバイスと支援を受けてきたに違いありません。また雨野さんは大変勉強熱心なかたですから、関連図書には精通していました。つまり障害に関する知識、専門家が口にするパターン的な支援方法についての知識は豊かでした。僕は雨野さんに対し、何を提供することできるだろうかと相談開始早々、困ったことを記憶しています。困った僕をみかねたように雨野さんは「僕は生活する上で、意味がわからないことがたくさんあります。そのことを周囲の人に尋ねることはできません。なぜなら、彼らは理由を説明してくれるのではなく、評価することが多いからです。僕が知りたいのは、評価(良いか悪いか、上手か下手か)ではなく、(行為・習慣の)意味なのです」とおっしゃいました。確かにそうです。日常の行為や習慣について、その意味を我々はあまり意識していません。改めて説明するとなると難しいことが多いと思います。
 
 「例えばどんなことの意味がわからないのですか?」と尋ねると「挨拶です。挨拶は何のためにするのでしょうか?普段、僕は挨拶をすることができます。しかし、その意味は分かりません。意味が分からないので、ぎこちなくなってしまっていると思います。挨拶の意味を説明してくれませんか?」と言いました。早速、頭の中でいくつか定義してみましたが、どれも挨拶の一側面を記述するものばかりでした。定義をいくら積み重ねても、かならず説明しきれない余白が残ってしまいます。はたして挨拶を定義することは可能なのだろうか?とも思いました。なぜなら挨拶は、どちらかというと感情的・身体的な交感なのではないかと思ったからです。なので、定義することを放棄することにしました。「僕は挨拶の意味をきちんと定義づけることができないようです。おそらく、他の人々にとってもそうなのだと思います」と苦しい説明をしました。すると雨野さんは「意味を説明できないのに、皆さんは自然に挨拶をしているということですか?」と驚いた様子でした。雨野さんはしばらく考えた後に「わかりました。僕はこれまで挨拶の意味が分からないばかりに、挨拶が得意でないと思ってきましたが、どうやら逆なのですね。僕は意味を考えすぎていたのかもしれません。言葉で定義できないと行動できないのが僕なのですね」と納得した様子でした。

 雨野さんはこのとき、他者(定型発達)を理解したと同時に、自己(アスペルガー症候群)も理解したのだと思います。相談とは、人と人がコミュニケートすることによって、お互いの共通点と相違点が分かるようなあり方が大切なんだなと改めて実感しました。僕は、雨野さんの捉え方に興味を持ち、驚き、そして同じように雨野さんも私の捉え方に興味を持ち、そして驚いたのでした。雨野さんの文章の冒頭にあるように、我々はもっとたくさん、そして深く対話する必要性があるようです。お互いを分ける明確な境界線は見えないわけですから。

 ちなみに、雨野さんが帽子とサングラスをかけていた理由は、私との会話に集中するために、余計な刺激に注意が向かないようにとの意図があったのでした。帽子のつばによって視野の上の部分はさえぎり、さらにサングラスによって目の前の風景に枠を設ける効果があったのです。その意図が分かれば、なるほどと納得できますが、雨野さんの意図を理解しない人は、なんて礼儀を知らない人間なのだろうと思うでしょう。そして「人前では帽子とサングラスをとりなさい」と一方的に注意をするだけに終わってしまうでしょう。これでは雨野さんのなぞは永遠に解けないのだけは確かです。他者の内面へ想像力を働かせなければならないのは、アスペルガー症候群の方たちだけではありません。同じくらい我々も想像する必要があるのです。

 

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