雨野カエラのエッセイ
031 周囲への告知について
031 周囲への告知について
雨野カエラ
周りには告知をすべき人とそうでない人がいる。
告知しなくてもよい人は、まず世の中の大半の人。深い関わりのない人たちには告げなくてもよい。自閉圏の人たちの情報が正しく世間に広まった後に知らせることによって配慮してもらえる。例えば、突然の訪問やセールスをやめてくれるのなら知らせるメリットはありそうだが、その周知の日はまだ近くはない。訪ねてきた郵便配達員にいちいち教えることはない。
告知をしなくてよい人たちの中には身近な人たちの一部も入る。どちらにしろ変わらぬ付き合いをしてくれる友人には改めて告げることはないかもしれない。親戚一同にも特に発表しなくてもよいだろう。これで人類の大半はリストから外せる。
自分の生活や仕事に関わりがあって、告知をすべき人には大きく分けて2種類の人たちがいる。先天的に「自閉を理解できる人」と先天的に「理解できない人」だ。先天的というのはちょっとしたジョークだ。理解できる人たちは少数だから大事にしよう。
理解できない人はさらに2グループに分けられる。まず障害や自閉症といった言葉をよく思わない人だ。このグループからは離れよう。人類はいっぱいいるから離れても構わない。もう一つのグループは善意はあるけれども、どうしても理解できない人たちだ。これは少々やっかいだ。この人たちは好意的だけど、なにかと障害にかこつけた解釈の仕方をする。あなたのことが心配だからという理由で、頼んでもいないのに他の人に配慮を求めたり、障害のことを言ってまわったりする。でも善意からしていることだ。彼らが真に理解をしてくれるまではとても時間がかかる。理解のないまま人生を終えるかもしれないから、告知をすべきかそうでないかは、よく考えなければならない。時間はかかるが、後天的な理解の可能性がないわけではない。
そのためには、少数の「理解できる人たち」の力も借りよう。こちらの言葉や表現が足りなくても大半は理解してくれる人たちのことだ。でも何も伝えなくてよいわけではない。この人たちにはがんばってなんとか表現してみよう。きっと応えてくれると信じよう。
*今週は、齊藤が出張のためコメントが間に合いません。次週、書きます。
030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)
030 「想像力の欠如」のコメントの続き(2)
齊藤コメント
ある日I君は、ぷんぷんと怒って幼稚園から帰ってきました。理由は、友だちが約束を破ったからでした。I君の怒りをなだめようと、いつもなら説得を試みるのですが、この日のお母さんのアプローチは違っていました。
「ねえ、今、④の顔(怒り顔)になってるよ。鏡で見てみる?」と尋ねたのです。I君は怒ったまま「うん」と答えました。早速、お母さんは鏡を手渡しました。自分の顔を見たI君は「ほんとだ、④の顔だ。」と言いながら、思わずふっと笑いました。それを見て「あっ、②(微笑み)になった」と言いました。鏡を見ただけなのですが、気持ちが切り替わったようでした。
その後も、機嫌が良いままでした。本当に機嫌が直ったのだろうか?といぶかりながら「お母さん、友だちに電話してみようか?」と言ってみましたが、I君は「もういいよ」とあっさりしたものだったそうです。
問題は何も解決してはいないのです。友だちは約束を破ったままですし、その理由もわからないままなです。いつものI君ならば、納得するまでお母さんや友だちに説明を求めたことでしょう。でもこの日は違いました。なぜなのでしょうか?いつもと違う点と言えば、I君の意識が「他者の気持ち」ではなく「自分の気持ち」に向けられていたことです。
我々は「自分の気持ち」は自分が一番知っていると思いがちですが、決してそうではないということが、経験が積み重なるうちに気づく事実の一つです。「自分の気持ち」は、何かに媒介されなければ知り様がないのです。I君の気持ちを媒介したものは「鏡」でした。それゆえ「自分」が対象化されたのだと思います。ぷんぷんと怒っている時のI君の意識にあったものは、「他者」と「他者に関わること」のみだったのだと思います。だからすべての原因は、他者にあったのです。
I君の意識野には「自分」と「自分に関わること」が、すっぽり抜け落ちていたのではないかと私は思うのです。だから、決して他者にすべての責任を押しつけていたというわけではないと思います。「他者に責任を押しつけている」という表現には、押し付けている主体が隠れているので、一人ではなく、二人が想定されている表現ということになりますから。
そんなI君の内的世界に、鏡を通して「自分」と「自分に関わること」が逆流して流れ込んで来たのです。結果、自己意識が発動したのではないか。そう思えるのです。そうだと仮定すると、I君の気持ちの変化は、問題解決したからではなく、自己が捉えられるようになったから生じた結果なのではないかと考えられます。自己が客体化されたことによって、自己を操作できる位置を獲得したということです。
こんなエピソードもありました。運動会の練習で「よさこい」を練習していました。I君は、踊りを失敗をすると、いちいち落ち込みました。「僕なんか、いなくなればいいんだ」と床に突っ伏してしまうほどでした。先生は「大丈夫、I君はとても上手よ」と繰り返し褒めますが、I君は納得しません。「先生は褒めるけど、僕は失敗したじゃないか」と。
総練習を明日に控えた日の夕方。お母さんが相談に来ました。「当日、本番で失敗して泣き始めたら、全体の踊りが止まってしまいます。それを食い止める方法はないでしょうか?」。
なぜ先生に褒められても嬉しくないのか?について考えてみました。I君は、いつも先生を見て踊っています。正確にいうと先生だけを見て踊っているのだと思います。周りにいるクラスメートのことはほとんど見ていないのだと思います。だから、I君の基準は、いつも先生なのです。完璧な先生を基準にすれば、一度の失敗も許されないのは納得できます。反対に先生の視点からI君を想像してみました。先生の視野にはI君だけじゃなく、他のクラスメートが映っています。だからこそ先生は、I君が誰よりも真面目に取り組み、上手に踊れることを他の子どもとを比較することによって知っているのですが、I君は先生から見た自分というものを想像できません。ここに、両者のすれ違いが生じる原因があるのではないかと思いました。
もう一度まとめますと、I君は先生だけを見ている(自分が想像中にない)。一方、先生は、クラスメートの中の一人としてI君を見ている。見ているものが違うのです。共有しているものが違うのです。
そこで、お母さんに次のような提案をしました。先生に総練習の様子をビデオに撮ってもらい、クラスメートとI君を比較しながら、I君がちゃんとやれていることを確認してほしいと。つまり、I君が想像できない他者からみた自分の様子を、ビデオという道具を使って提供しようというアイデアです。ビデオを見ながらI君のできているところ、できていないところを家族で話し合ってもらいました。結果はうまく行きました。当日、3回失敗したのですが、落ち込んで地面に突っ伏すことなく、ニコニコと笑いながら踊り続けたそうです。
I君が苦手な想像とは、自分を想像することでした。もう少し正確に言うと、他者から見た自分を想像することのようです。雨野さんのいう想像力の欠如は、「自分というものの想像」にあるのかもしれません。
029 「想像力の欠如」のコメントの続き
029 「想像力の欠如」のコメントの続き
齊藤コメント
I君のお母さんは、いろんな表情の顔の絵を描いて、居間の壁に貼ることにしました。①口を開けて笑っている顔、②口を閉じて微笑んでいる顔、③真顔(無表情)、④怒っている顔、⑤泣いている顔の五つです。親しみが湧くようにと、I君の弟の顔に似せて描きました。
表情に合う気持ちを書き入れようとしたとき、I君が近寄ってきました。お母さんは「表情のお勉強のために絵を描いているのよ」と説明すると、I君は絵を見ながら表情に合う気持ちを述べ始めました。どれも表情に合っているものばかりでした。お母さんは、I君の言ったことを顔の周りに書き込んでいきました。面白かったのは、③(無表情)へのコメントの量でした。他の表情に比べると3倍くらい多いのです。③(無表情)は感情を推測するための手がかりがないので、色々な解釈の可能性を含んでいます。I君は、たくさんの推測をしていることがわかりました。
居間に絵を貼り出した次の日から変化がありました。幼稚園から帰ってきたI君は、友達や先生の表情について報告するようになったのです。「~君は、いつも②(微笑み)と③(無表情)と④(怒り顔)だ。もっと①が増えればいいのに」とか「~先生はいつも③(無表情)だ。だから、(指示の意味が)わからない」などとです。それまで、他者の顔など注目することのなかったI君が、お母さんと作った絵をきっかけに観察を始めることになったのです。
観察の目は家族にも向けられました。I君のお父さんは、とても優しいお父さんなのですが、眉間にいつもしわが寄っています。テレビを観ているお父さんを横目で見ながら「お父さんは怒っているの?」とお母さんに尋ねます。お母さんは、絵を指して「そうね、表情は④に見えるわね。でもね、心は②よ。Iのことを怒っているんじゃないの。お父さんは、Iのこと大好きよ」と答えました。I君はそれからしばらく、お父さんの顔を見て不安になると「お父さんは、顔は④だけど心は②」と自分を納得させるためにつぶやくのでした。
I君にとってこの絵は、自分の認識を整理するための枠組みになりました。枠組みが整えられたことで、I君は、普段の生活で目にする表情を分類できるようになりました。表情の差異に気付いたということです。
I君の観察の正確さを物語るエピソードです。「~先生はね。ボール見るときは、②(微笑み)だけど、僕を見るときは、③(無表情)が多いよ」と言ったことがあります。これはどういうことかというと、おそらく先生はまず、I君のそばでボールを使って遊んでみたのでしょう。I君が興味を持つように笑いながら。そして次に、I君がどんな反応をしているのか気になり、視線をボールからI君に移したとき、先生は遊んでいることを忘れて観察することに意識が向いたことによって、楽しげな表情から真剣なまなざしに変わったのだと思います。この違いをI君は見分けていたということです。
もう一つ重要だったことは、かならずお母さんからのコメントがあったことです。絵を互いに共有しながら、表情やそのときのエピソードについてI君とお母さんは色々と語り合うわけです。I君はお母さんのコメントの中に、自分と似ているものあるけれど、それと同時に違うものもあることに気付いていきます。つまり表情の差異に加えて、解釈の差異にも気付いていくのです。
ある日のこと。I君は幼稚園から帰ってくるなり「お母さん、世の中の人って③(無表情)が多いんだよ。知ってた」と、何か大きな発見をしたとでも言いたげな雰囲気で話し始めました。確かにそうです。特に大人の顔は。I君は続けて「でもね、お母さんは、顔は③でも心はあるよね。ということは、他の人も、無表情のときでも心はあるの?」と尋ねてきたそうです。お母さんは「そうよ。無表情でも心はいつもあるのよ」と答えました。I君は「そうかあ」と言ったきり、何か深く考えているようでした。
お母さんの表情と気持ちについては、絵を通じてたくさん語り合ってきました。だから、無表情のときでもお母さんには心があるということを、I君は理解したのです。その認識を、今、他者にも広げようとしているようです。
このエピソードと前後して、幼稚園からトラブルの連絡がパタッと来なくなりました。どうやら相手をしつこく押したりすることが減ったようです。お母さんと話し合って考えたことは、きっと相手の表情に注意が向くようになり、「表情は楽しそうに見えるけれど、心はもしかしたら悲しんだり怒っていたりするかもしれない」というI君とって新たな想像が生まれたからではないか、ということでした。
“ない”ものへの想像力が大切です。以前、クリプキの「暗黙の中の跳躍」を引用してお話したことです(「016 葉を見て森を見ず」参照)。感情を読むには、見たままの情報をそのまま解釈することではない、という気付きが必要です。心の二重性に気付くということです。見たものをそのまま捉え、分類することは、自閉症者のほうがむしろ優れていかもしれません。見えないものが“ある”と気付くこと。このことを自覚することの意義が、早期療育の中で強調されても良い気がします。
028想像力の欠如
028 想像力の欠如
雨野カエラ
想像力の障害という言葉から、想像力の欠如を思い浮かべていませんか。空想力や創造する力が全くない訳ではありません。でも、これから何が起こるのかという予定はしっかりと教えてほしいし、その予定の変更もいやです。何かについて定型発達の人と違った狭い範囲の想定をしているかもしれません。一番の問題は本当の意味の「他者」というのを想像するのも苦手なのかもしれない。ただ、とにかく欠如ではないと思っています。定型発達の人の想像もしないやり方を思いつくのは、時に自閉圏の人たちではありませんか。そうなると想像力の障害があるのはどちらでしょう。
アスペルガー症候群の人の考える他者は「本当の他者」ではないのだと思う。自分の中で考えた他者。それを乗り越えて考えることができない。これが想像力の障害なのかな。
自分の考えた他者だから、自分に都合のいいように考えていると思われてしまうだろうか?しかし、成長と共にそれは修正されていく。大人になったアスペルガー症候群の人は辛い目にたくさんあってきている。自分の中の他者は常に自分を律する人のようになってしまう。たとえ本当はその人が自分に怒りを感じていないとしても、そうは思っていない他者を想像できないのだ。本当の心は聞いてみるまではわからない。そう自分に言い聞かせても、最悪の他者の対応を想像してしまう。それでは心を聞きに行くことさえためらってしまう。想像ができないのではない。想像が間違ってしまうのだ。
定型発達の人はどうやってそれを乗り越えるのだろう。本当に人の心がわかるのだろうか。キーになるのは身振りや表情が読めるかどうかといったことではないと思う。定型発達の人が持つ「あいまいエンジン」がある程度の心の読みを可能にしているのだろうと僕は考えている。
齊藤コメント
「身振りや表情が読めるかどうかといったことではないと思う」ということから考えてみたいと思います。
Baron-Cohen(1995d)は、「目から心を読み取る」心理実験をしました。実験協力者に目の部分だけが切り抜かれた写真を提示し、それに対応する感情語を選択してもらいました。結果、自閉症群は定型発達群に比べ、有意に成績が低かったのでした。
目の部分だけをよく見ると、そんなに多くの手がかりはありません。にもかかわらず、定型発達者はなぜ正答できるのでしょうか?私は、写真を眺めながら考えてみました。目の表情を読み取っているというよりも、「その目にふさわしい全体の表情を思い浮かべ、その表情をもとに感情を推測している」のでないかと思いました。自閉症群は、全体の表情を構築することができないために、成績が低いのではないかということです。すると自閉症群が利用できる手がかりは「目」しかないのです。しかし「目」そのものにはそれほど情報が含まれているわけではないので、誤認する確率は高くなるというわけです。
部分的情報から全体のありようを推測し、想像すること。この実験では、この能力が試されている気がします。表情の一部から全体を推測するためには、理論(ルール)が必要です。さらに理論(ルール)を構築するためには、たくさんのデータが集積されていることが前提になります。定型発達者と自閉症者の成績の差の背景に、データ(経験数)規模の違いが大きく影響していると私は考えています。
次に、経験と表情の読み取りについて、事例を元に考えていきたいと思います。
幼稚園年長のI君(アスペルガー症候群)は、友達を押したり、叩いたりしてはトラブルを起こしていました。毎日、幼稚園から電話がかかってくるようになり、お母さんが困って相談に訪れました。
まず、叩かれた相手がどんな気持ちになったか推測ができているか確認してもらいました。お母さんに尋ねられたI君は「きっと腹が立っているし、悲しい気持ちになっていると思う」と答えました。お母さんは「それだけわかっているのに、どうして叩くのかしら」と不思議に思いました。
もう少し話を聞いてみると、新しい事実が出てきました。友達を叩くのは、別の友達の指示によって行われていたのでした。翌日、幼稚園の先生に確認してもらったところ、本人の話の通りであることがわかりました。
この話をしていたとき、I君がちょっと気になる発言をしたとお母さんは言いました。I君は「でも、あいつ(I君に指示する友達)、笑ってるんだよなあ」と言ったのだそうです。この発言からI君の心の中を推測してみました。そして、次のように仮説しました。I君は「叩いてこい」という言葉がネガティブな内容を含んでいることは理解できます。しかし、その言葉がニコニコと笑顔で話されているので、表情(ポジティブ)と言葉(ネガティブ)が矛盾してしまうのです。I君は、その矛盾をうまく統合できなかったのではないかと思ったのです。うまく統合できないI君は、表情を優先しているようです。
お母さんは「そういえば・・・」と言いながら、「幼稚園に表情の少ない先生がいるんですけど、その先生の指示にはほとんど従わないのです」と話してくれました。どうやら、言葉の意味(メタメッセージによって言葉の意味は変化します)を理解する上で、I君にとって表情は大切な手がかりのようです。先生の指示に反抗していたのでも無視していたのでなく、無表情ゆえに意味が汲み取れなかったのでしょう。
さて、しばらくしてまた、表情の読み取りに関連するトラブルが発生しました。押し合ったり追いかけ合ったりという遊びを子どもはよくするわけですが、I君はどうもしつこいらしいのです。相手の子どもがもう止めたいと思っていても、それに気付かずに続けてしまうので、とうとう我慢できずに、相手の子どもは泣いたり、逃げたりしてしまうのです。
I君は、相手に意地悪をしたいのではないようです。なぜなら、相手が泣いたり、逃げたりした瞬間、ピタッと行動を止めるからです。それだけではありません。「僕なんていなくなっちゃえばいいんだ」と自責の念を抱え、深く落ち込んでしまうのです。I君は、相手が泣いたり、逃げたりなど、はっきりとした感情表現が行われる限りにおいては、相手の気持ちが変化したことに気付くことはできるのです。だから、相手がはっきりと感情表現を行わないということは、相手もきっと楽しいだろうと思って、機嫌よく遊んでいるだけなのです。機嫌よく遊んでいる最中、突然相手が、自分を回避してきたらどんな気持ちになるでしょう。びっくりして、混乱するでしょう。I君の落ち込み方は、まさしく混乱がふさわしいのでした。
この件について、お母さんと次のような話をしました。明確な感情表現(パターン的な表現)は理解することが可能なのだけれど、わずかな表情変化などは読み取りにくいのかもしれない。「0」と「1」の間にある中間的な感情の存在に気付くかどうかが鍵になるのではないか?と。
この話をした後、お母さんは家庭である実践をされるのですが、それはまた来週にお話をいたします。
027 客観的事実と常識的概念(2)
027 客観的事実と常識的概念(2)
雨野カエラ
受動型の人は特に外からもたらされた事柄を事実として扱ってしまう。非自閉の人が何気なく口にした一言も客観的事実だと思い信じてしまう。それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ。
自分の信念と相手の言葉が相違しているときは混乱が倍加する。どちらも事実として扱うと論理が衝突してしまい、混乱や思考の停止が起こってしまう。どちらかを切り捨てるか、新たな理屈を作るか、どちらにしても矛盾をはらむ事になる。
ソーシャルストーリーズやコミック会話といった客観的事実の提示という方法は彼らの理解を助け、自ら混乱を収束させ得るのだろう。
齊藤コメント
ある幼稚園でのこと。自閉症のHちゃん(受動型)が園庭で遊んでいました。夏の暑い日でした。Hちゃんは、乾いたアスファルトにジョウロで水をたらし、その模様を楽しんでいました。
畑に水を撒きたいと思った先生が、Hちゃんを見つけ「Hちゃん、畑の野菜に水を撒いて」と声をかけました。Hちゃんはすぐに反応し、畑のほうへ歩き出しました。しかし、少し様子が変でした。というのも「畑に水。畑に水」と繰り返しながら歩いていたからです。動きがややかたく、表情は無表情に近いものでした。
畑に到着しました。Hちゃんは素直に、先生に指示された場所に水を撒いていきます。先生もその姿を見て喜び「上手ね」とか「ありがとう」と声をかけていました。しかし、やはり様子が変です。さっきよりも声高に「畑に水、畑に水」と繰り返しています。あまり楽しそうではありません。
水を撒き終え、元の場所に戻ってきました。Hちゃんは、ニコニコしながら、ジョウロで遊び始めました。しかし、数分後、先生は再び「Hちゃん、畑に水を撒いて」と指示しました。Hちゃんはすぐに反応し、畑に向かって歩き始めました。今度は、初めから様子が違っていました。「畑に水」を大声で繰り返し始めたのです。水を撒いている間もしばらくそれは続きました。徐々に「金切り声」に近くなっていったころ、Hちゃんは突如、ジョウロを投げ出し、その場から逃げるように走り出していました。先生は、あっけにとられてHちゃんを目で追っていました。
Hちゃんは、アスファルトの模様を見ていたかったに違いがありませ。しかし、先生の指示が聞こえてきました。Hちゃんにとっては、外部からの指示は、従わなければならないことだったのでしょう。Hちゃんは、同時には満たすことのできない二つ要求の狭間で葛藤します。「畑に水」と何度も繰り返していたのは、目標を見失わないように自分をコントロールするためだったのかもしれません。1回目はなんとか持ちこたえましたが、2回目は限界を超えてしまいました。畑に水を撒くことも、ジョウロで遊ぶことも両方を放棄することで解決するしか方法はなかったのでしょう。
子どもが「素直に指示に従う」姿を見ると、大人は納得してくれたと勘違いしてしまいがちです。Hちゃんの反応があまりにも素直だったので、先生は「Hちゃんも、畑に水を撒きたいのだ」と思ってしまったのでしょう。
Hちゃんが「畑に水」と、先生の指示を繰り返していることを、欲求の表現とみるか?葛藤のコントロールとみるか?難しいかもしれませんが、指示に従うこと=本人の欲求=自発性、ではないことを留意する必要があったのでしょう。
ちなみに雨野さんが信頼できるものの順番は、①外部に存在する文字、②自分で言語化できたもの、③言語化できない自分の気持ち、となるそうです。
雨野さんは「それが事実ではなくその人の主観や感想である事にはなかなか気付かない。相手もまた自分と同じように事実を口にしていると思うのだ」と述べています。ここが重要だと思いました。
雨野さんは、自分は客観的事実を話していると思っています。だから他者も同じように常に事実を話していると思うのです。自分と他者を同類であると認識するからこそ、そのような誤解が生じているのです。同じ場所・同じ時間に二つの異なる事実は存在しえません。だから混乱するのです。どちからが事実ではないか、もしくはどちらも事実ではない可能性があるわけですが、そのことを把握する術がないと混乱は続きます。その術の一つとして、ソーシャルストーリーやコミック会話があるのだと思います。
定型発達者にとっては、これらの方法を通じて自閉症者に、世の中の客観的事実を伝えているように思えますが、伝えているのは実は定型発達者の主観的想像の方なのかもしれません。定型発達者の言動には、主観が含まれていることが理解できれば、混乱はひどくならなくて済みます。なぜなら事実は一つというルールは守られるからです。
定型発達者が、ソーシャルストーリーやコミック会話などの方法を通じて、世の中の客観的事実を伝えているという誤解を強めると、それはそれで自閉症者に混乱を与えてしまうことに注意しなければなりません。定型発達者が自身の主観的想像に気付かず「これは100%事実なのです」という態度で説明すると、場合によっては、自閉症者の持つ客観的事実との葛藤が強まることがあるからです。ソーシャルストーリーやコミック会話を作成する人によって、微妙に内容が違うわけですが、このこと自体、伝えている内容が客観的事実ではないことを示しています。客観的事実であればいつも内容は同じはずですから。だからこそ「これには世の中の客観的事実と私の主観的想像が含まれています。ここの部分は私の主観的想像なのですが~」と前置きをして説明する態度が大切だと思います。
これらの方法による支援の最終目標は、自閉症者自身にも主観があるのだということに気付いてもらうことだと私は思っています。雨野さんの言葉には客観的事実だけでなく、主観的想像も含まれているのですから。私にはそう思えるのです。主観的想像にはたくさんの解釈が存在します。その解釈の統合を目指すところに、コミュニケーションの必要性が生まれるのです。客観的事実しかない世界には、経験の共有は生まれにくいと思います。互いに話さなくても、経験の中身は一緒なのですから。
雨野さんは「言語化できない自分の気持ち」が一番信頼できないと言います。これは悲しいことだと思います。「言語化できない自分の気持ち」のなかにこそ、雨野さんの本質が含まれていると思うからです。自己の主観的想像を味わってくれる他者との出会いが、自分を発見し、自分を大切にする感覚を養うものだと私は信じたいと思います。
スーパー健常者、スーパー大人
あけましておめでとうございます。
今年もアスペルガー症候群について思うところを、徒然なるままに述べていきたいと思います。
026 スーパー健常者、スーパー大人
雨野カエラ
施設の職員は利用者のお手本になろうとするあまり、本当の自分を忘れて
健常者よりも健常者らしくふるまうスーパー健常者になってしまいがちです。
学校の先生は子どものお手本になろうとするあまり、本当の自分を忘れて
大人を越えたスーパー大人の役割をしてしまいがちです。
役割も大事ですが、なりきりすぎはよくありません。
齊藤コメント
ある中学校の先生の実践を紹介します。色々なことを教えてもらった先生でした。
この先生は、はじめてアスペルガー症候群の生徒(G君)を担任することになりました。G君の行動に最初は驚いたそうですが、日々、丁寧にかかわりを持つことで、少しずつ理解を深めていったそうです。G君も先生のことを信頼していました。私が特に勉強になったのは、G君をめぐるクラスメートとの対話でした。
「G君と接している時に、自分がどういう感情になっているのか、またどういう気持ちを持って接しているかということを、クラスメートに言葉で説明するんです。「G君の行動は、先生には腹立つなあ」などと、正直に。でもそれだけじゃないんです。次に「どうしてG君はそのような行動を取ったのか、考えてみよう」と投げかけるんです。理由が分かれば、腹が立った気持ちが、「あー、そうなんだ」と安心の気持ちに変わるかもしれないから。私は、G君の行動や気持ちを考えることは、生徒にとって大切な経験だと思うんです。生徒との対話は、G君が困った行動をしたその時、その場で行います。「G君、今、教室から出て行ったけど、どうしてだと思う?」なんて。すると考え出すんですよね。生徒のほうがしっかりしてる(笑)。色んな意見が出るんです。ある生徒が「こうだと思う」と言えば、別の生徒が「いや、こうじゃないのか?」とか」。
「そうやって、担任が疑問を抱いて悩んでいる姿や試行錯誤している姿を、意図的にクラスメートに見せていくんです」。
「自分の仮説を生徒達に伝えると、私と違う仮説を持っている生徒は「うーん」と首をかしげていたり、一方、私と同じ仮説の生徒は「うんうん、そう思う」と同意してくれたり。その場で議論をしちゃうんです。「イライラしていたんじゃないか?」とか「テンション高かっただけじゃないか」とか。そんな風に生徒と対話をしてきました。「G君は問題だよね」という責める雰囲気ではなく、みんなで分析する雰囲気になっていきました。分析しようとする姿勢は、相手を理解しようとすることだと思う」。
「日常的に生徒達とG君について対話をしていると、情報提供の数が格段に増えるんですよ。「こんなことしていたよ」とか「こんなことされた」とか。そういう情報があふれ出すと、担任はすごく楽になります。G君を常に見ている生徒、反対に、普段ほとんど関わっていないのに、でもちゃんと見ている生徒。そういう生徒の方が鋭いことを言ったりするんです」。
解説することはほとんどないでしょう。先生の言葉を読み返してもらえれば、意味が十分に分かると思います。中学校で教師は、時には強いリーダーシップを発揮しなければならないときがあるでしょう。そんな状況のなかで、教師自身の試行錯誤を見せることは、勇気がいることだったと思います。
この先生は、雨野さんのいうところの「スーパー大人」ではないですね。G君に対しても、クラスメートに対しても、対話のチャンネルが開かれているからです。
ある日、学校を訪問し、授業を参観させていただきました。G君は、何かに誘われるように席を立ち、教室内を歩き出しましたが、それで動揺するクラスメートは誰ひとりいませんでした。でも、無視しているわけではありません。次の指示が出たときに、一番そばにいた生徒が、小声で「G君、座ろう」と一言、簡潔に声をかけました。G君はそれをきっかけに、我に返り、授業に戻っていきました。
先生は、インタビューの中で、色々なエピソードをあげながらG君の気持ちを語っておりました。まずは入学当初、よく遅刻をしていたことについてです。
「雨降りの日は,学校に到着する時間が特に遅いんです。傘を差すと、周りの風景が遮断されて、自分の世界に入りやすいんじゃないかと思うんです。僕も何か分かるような気がするんです」。
風景もよく見て楽しんで欲しいし、学校にも遅刻しないで来て欲しい。この二つを同時に満たすために、先生は、どうされたか?
G君にアラーム付の時計を持たせて言ったのです。「G君、この時計のアラームがなるまでは、いつもどおり草や虫を見てて大丈夫。でもアラームが鳴ったら、朝の会まであと5分ということです。鳴ったら走ってね」と。作戦は成功しました。
先生は、玄関で心配しながら待っていたそうです。でも時間通り玄関に現れたG君を笑顔で迎えることができたのだそうです。
次は、冬のある日の授業中、G君が窓の外をボーッと眺めているときの先生の読み取りです。
「授業中、G君が窓の外を見ているんです。雪が降ってないか気にしているんだろうと思いました。「いつになったら、雪が降るんだろう」なんて考えているんだろうかって。すると、席を立って歩き出しました。でも予想していたから、注意しようと思う気持ちにはなりませんでした。ただフラフラしているだけだと思っっていたら、「何してるんだ、座りなさい」と注意していたと思うのですが、「G君、雪好きだもんな。今日は良い天気だな。空を見上げているってことは、雪降ってこないなぁって思っているんだろうなって気持ちを想像していたら、確認が済めばそのうち戻るだろうってことも想像できる。そして、本当に戻るんですよ。G君のそのような行動をいちいち取り上げて、指導の対象にしない。そのレベルのことは、今頑張ることじゃない。今頑張るのはそこじゃないと思ったんです」。
豊かな読み取りだなあと思いました。この先生の豊かな読み取りに触れ、たくさんの対話を積み重ねたクラスメートたちもまたいろんなことを学んでいたのだと思います。
025 客観的事実と常識的概念
025 客観的事実と常識的概念
雨野カエラ
僕の目から見ると非自閉の人々は、客観的事実よりも常識的概念を優先させているように見える。それは科学的でも物理的でもなく、この点において非自閉の人々は自閉圏の人々よりもミスをおかしやすいようにも見える。この齟齬がまずコミュニケーションの壁となる。
さらに問題になるのは次のようなこと。自分の内にある信念も自閉圏の人は論理的に導かれた客観的事実として扱ってしまう。客観的事実なのだから他者にもそれが自明であると思ってしまう。外にある本来の事実も内にある「事実」も自明のことなのに他の人たちはどうしてわからないのだろう、わかってくれないのだろう。これがストレスになりかんしゃくにつながる。
自閉の人たちは自分勝手にただ自己を主張しているのではない。あくまで客観的事実(と思っている)ことを表現しているにすぎない。外も内も事実として同列であり、その意味においては自閉の人たちは「開いている」。
齊藤コメント
アスペルガー症候群の高校生F君との会話です。普段の悩みを色々と相談するために大学を訪れました。
F君「このあいだ、サラリーマンが出てくるマンガを読んだんです。そのサラリーマは遅刻したために、上司にひたすら謝っていました。そのとき、自分はこんな謝り方をしてこなかったなあ、と思いました」
齊藤「これまで、F君はどんな謝り方をしていたの?」
F君「僕は、わざと遅刻したわけではないということを相手にわかってもらうために、遅刻した
理由を詳しく説明していたんです。例えば、目覚まし時計が壊れていたとか」
齊藤「余計に相手は怒らない?」
F君「そうなんです。説明すれば説明するほど怒りますね。ちゃんと説明しているのに、どうして怒るのかわからないんです。別のマンガを見ていたら、僕みたいな謝り方をしている主人公がいました。遅れた理由をずっと説明しているんです」
齊藤「その主人公はどうなったの?」
F君「その後も、すごく叱られていました。僕と一緒です。僕の謝り方が間違っていたのはわかったんですが、どうして『すいません』と言い続けるのが良いのか、よく分からないんです。どうしてなんですか?」
齊藤「難しい質問だね。そうだなあ、怒っている人を燃えている家に、そしてF君を消防官にた
とえてみよう」
F君「はい」
齊藤「遅刻は“故意”ではないと説明する姿勢は、とても事実を重んじているように思える。F君にとっては、事実が大事なんだよ、きっと。火事の喩えでいえば、何が原因で火事になったのだろうと考えることに似ているかもしれない。もし消防官がホースも持たずに、燃えさかる家の中に入って現場を検証しようとするとどうなるかな?」
F君「燃えちゃいますよ~」
齊藤「そうだよね。燃えちゃうよね。F君の謝り方はそれに似ていると思うんだ。実際、F君はもっと怒られて、大変なことになってきたでしょ。現場検証するためには、まず何をしなければならない?」
F君「えーと、火を消す、ですね」
齊藤「そうだよね。現場検証をすることは間違ってはいないんだよ。ただ、物事の順序の問題なんだ。怒っている人にとって、遅刻の理由はもはや二の次なんだ。『俺は怒っているんだ』ということ自体をF君に伝えたいわけ。『俺は、怒ってるんだぞ。心配もしたし、時間も損した。どうしてくれるのだ。お前は俺の気持ち分かっているのか!』ってね。だから、『すいません』って何度も謝るのは、火に水をかける作業に似ているんだ」
F君「あー、そうなんだ。人間って結構面倒ですね」
齊藤「ははは、そうだね。人は感情で動く生き物でもあるからね。相手の感情を想定してコミュニケーションはしなければならないんだ。事実だけで納得する人ばかりではないんだよ。『すいません』と頭を下げることで、自分がきちんと反省していることを態度で表すことになる。すると、相手の怒りの感情は徐々に収まってくるわけ。機嫌を取り戻した相手は、心に余裕ができるから、『で、どうして遅れたんだ?』と聞いてくるかもしれない。そのときに理由を話せば相手は怒らないよ」
F君「もし質問されなかったら、どうすれば良いですかね?」
齊藤「それは相手が理由に関心がないということだから、もう一度謝って、丁寧にお辞儀をして、その場から立ち去るのがいいんじゃないかな?F君の遅刻した理由が、故意ではなく不可抗力によるものだったとしても、理由に関心を持たない人には、必要のない情報なんだ。必要のない情報を説明することで、再び相手の時間を奪ってしまうと、また怒りが起動してしまうかもしれない」
F君「わー、それは怖いですね。なるほど。すごく分かりやすかったです。先生、メモ用紙とペンを借りてもいいですか?」
F君は、メモ用紙に「怒った人には、まず消火」と書いていました。
ニコニコとして、納得した様子でした。
今年はここで終わりです。読んでくださった方々ありがとうございました。
来年1月2日は、お正月のためお休みといたします。
1月9日から再開です。
来年もよろしくお願いいたします。
024 自開ということ
024 自開ということ
雨野カエラ
たくさんの感覚入力、ビジュアルドライブに左右されること、これらは全部自閉というより「自開」。アスペルガー症候群の人はたくさんの感覚入力をうまく取捨選択できずにいるようです。視覚優位やビジュアルドライブと言って、見た物、見た文字に左右されることも多いようです。外からの情報は正しいと思っているからそれにとても左右されます。こんな感じだから閉じている自閉ではなく「自開」です。
齊藤コメント
「自開」とは、雨野さん固有の表現です。自分が自閉者であることを自覚したときから、「自閉」という語感に違和感を覚えていたようです。「私の取扱説明書」に描かれているような世界、つまり文脈に関連した情報と無関連な情報を等しく扱い、様々なものにフォーカスをあわせてしまう状態は(マルチフォーカス)、環境のあらゆる刺激に対して自己が開かれているからこそ生じる現象なのだ、と雨野さんは主張したいのだと思います。私は、初めて「自開」という言葉を聞いたとき、「なるほどなあ」と思いました。当事者の実感に即した理解には、当事者の語りに耳を傾けることが欠かせません。
雨野さんから観察すると定型発達者が「自閉」に見えるそうです。なぜかというと、定型発達者は、文脈に関係のない情報にフォーカスをあわせてないからです。無視されたその情報は、それでもなお存在しているのに、まるで存在しないかのようにふるまう様子を、雨野さんは「その情報に対して自らを閉じている」と考えます。
定型発達者から、アスペルガー症候群当事者を観察すると「自閉」と感じる。けれど反対に、アスペルガー症候群当事者から定型発達者を観察すると、こちらも相手を「自閉」と感じている。「自閉」という言葉は、どちらか一方のみが感じるという非対称なものではないのかもしれません。
「自開」ということの例を、雨野さんの文章でさらに見てみましょう。
雨野カエラ
バロン・コーエンさんによると自閉圏の人たちには「心の理論」の障害があるという。他者の「心が読めない」ということらしいのだが、ではどうやって定型発達の人たちは他人の心を「読んで」いるのだろう。心が読めるようになってみようと思って心の理論について書かれている本を読んだけど、どこにもそれは書かれていなかった。定型発達の人にとって「あまりにあたりまえだから」なのだそうだ。「人の心が読める」人なんて本当にいるの?本当はわかっていないんじゃないの?だとしたら心の理論の障害って何?
サリーとアン課題について考えてみよう。サリーはその場を離れている間、本当にアンのしたことを「見ていなかった」と言えるのだろうか。窓から見ていた可能性は?その場を離れた、あるいは外に出たという可能性は示されているが「見ていなかった」という事実は明示されていない。また、出題の前に誰の視点で物語を見るのかも明示されていない。
サリーは見ていたかもしれないし、見ていなかったかもしれない。
アンは見ていた。ビー玉は自分がどこにいるか知っている。
「箱」も知っているだろう。「かご」は知らないかもしれない。
物語を外から見る第三者にとってもビー玉の在り処は自明だ。
ビー玉がどこにあるか判らないとしたら、確率的にはどこにあってもおかしくない。量子論的にはとても正しい。前の記述で一番確率が高いのは「箱」になる。
齊藤コメント
量子論的には正しいというのは、「シュレーディンガー猫」のことを指しているのだと思います。専門家ではないので、解釈が間違っているかもしれないのだけれども、コメントしてみようと思います。
今、あなたの目の前に箱があります。この箱の中には、放射性原子と放射線を検出すると毒ガスを発生する機械、それと生きた猫が入っています。原子が分裂すると放射線が発生しますが、いつ分裂が始まるかはわかりません。さて、ふたをされて外部からは猫を観察できないとき、箱の中にいる猫は死んでいると思いますか、生きていると思いますか。
量子力学おいて「原子の状態」は、観察者が観察したその時に決定されることになっていますので、観察者が箱の外から観察しているときには、猫は「生きてもいるとも言えるし、死んでもいるとも言える」というふうに、「重なり合った状態」にあると言うのです。猫の生死が決定されるのは、箱を開けて観察者が中を見たその瞬間なのです。それまでは、二つの状態が並列的に存在すると仮定されています。箱を開ける前と後では世界が違うのです。この矛盾はまだ解けていません。パラドクスのままです。雨野さんは、「観察するまで事象は決定されない」という部分に、関心を持ったのでしょう。
この理論でいうと、可能性の数だけたくさんの世界が同時に存在するということになります。「多世界解釈」というやつです。SFなどでよくモチーフにされるテーマです。雨野さんのサリーとアン課題の解釈は、多世界解釈であると言えます。
雨野カエラ
定型発達の人たちは明示されていない条件を自動的に判断しているのだと思う。サリーはきっと「見ていなかった」のだろうし、その「見ていなかったサリーの視点」で「物語」を自動的に判断する。自閉圏の人たちの正解率を上げるにはそれらの条件を明示すればよいのだろうと思う。それで心の理論を得たことになるだろうか。心を読むとは何だろう。
齊藤コメント
雨野さんからみると定型発達者は、他者の心を確率的に判断するのではく(つまり量子力学的に判断するのではなく)、決定論的な確信を持って判断しているように感じているようです。多世界解釈ではなく、一つの解釈で成り立っているような世界に見えるのかもしれません。
雨野カエラ
心の理論が障害されている人たちはだから自分勝手にふるまうのだと思ってはいないだろうか。定型発達の人たちは自分を中心に「心の理論」を駆使している。自閉圏の人たちは「自分中心」で、そのうえ「心の理論」が壊れているのだと思ってはいないだろうか。自閉圏の人たちの視点はサリーやアンであったり第三者であったり、ビー玉であったり箱であったりかごであったりする。だからこの課題を確率的に間違うことがある。実は自分中心という視点がないのが自閉圏の人たちなのだと思う。全てが自分であり、同時に(だから)どれも自分ではないのだ。そこに中心はない。
齊藤コメント
物理現象においてはとても不思議なパラドクスですが、心理現象であれば「多世界解釈」はもしかしたら成り立つかもしれないと思いました(量子力学は全くの素人ですから、頓珍漢なことを言っているかもしれませんがご了承ください)。
人の心が、ある解釈に収束するのはどの時点なのか?
こんな経験はありませんか?長い間、一人で悩んでいたことが、家族や友人と対話をする中で、すとんと一つの解釈に落ちることがあります。それまで、あーでもない、こーでもないと考えられる限りの可能性と未来の状態を想定していたのにも関わらずです。
このように私たちの心には、たくさんの解釈が同時に存在しているのだと思います。相手のことを好きでもあるし嫌いでもあるといったような矛盾した感情を同時に持つことは不思議なことではありません。「やっぱり好き」もしくは「やっぱりキライ」と気持ちが決定されるのは、相手との対話・関わりを通した後です。
自分を「原子」に例えると、自分の心の状態を一つの状態に遷移させるためには、他者に観察してもらう、他者に関わってもらうことが必要なのかもしれません。
023 「021かんしゃくの構造」のコメントの続き(2)
023 「021かんしゃくの構造」のコメントの続き(2)
齊藤コメント
原初的な感情は「快-不快」です。心地よいか、心地よくないかの二側面しかありません。一方、世界は複雑です。ゆえに、複雑な世界に住む人間の経験もまた複雑なはずです。しかしその複雑な経験を「快-不快」の二つの水準でしか捉えられないとしたら、大変不便な生活になるだろうな、と思います。世の中、白か黒しかないモノトーンな世界になってしまうからです。
かんしゃくとは、自分の経験を二分化することしかできないことによるものなのではないかと思います。快と不快の連続線上には、本当はたくさんの目盛りを刻むことができるはずです。多様な感情を経験することは、人格内にかえって矛盾を生み、分裂を引き起こすように思えますが、そうではないと思います。
複雑な経験を複雑なままに経験するには、それに対応する感情も肌理の細かいものである必要があると思います。感情が肌理細やかに分かれていると、経験の意味づけも細かくなっていくのだと思います。このように感情の発達とは、新しいカテゴリーの感情を獲得するというよりは、獲得している感情を社会的状況に合わせて細かく区分することなのではないかと私は考えています。
私の長男が2歳の時の話です。夕方、眠たくなるとギャーギャーとわめき散らすことがありました。たくさん遊んで身体的な疲労があった日は、もっとひどくなりました。物を投げたり、母親を叩いたりとまるで八つ当たりです。そのたびに叱られるので、暴れ具合はいよいよ激しくなるのでした。
ある日うちの妻は、叱るのではなく、暴れて泣いている長男に近づき「ソラ(長男の名前です)、あのね、ソラはね、今、眠たいんだよ。眠たいときは寝なさい」とだけ言って、後はしっかり抱っこしました。しかし、そのときはおさまりませんでした。その後、何度も同じことが繰り返されました。半年くらいたったころ、「今、眠たいんだよ」と声をかけると、自分で寝室に行き布団に横になり眠ったことがありました。その後も、多少の紆余曲折はありましたが、最終的には声かけだけで眠りに行くようになりました。本人は繰り返す中で、「暴れたくなる感覚」が「疲れの感覚」であることを認識し、「疲れの感覚」は眠ると解消されることを知っていったのだと思います。このように2歳代では、生理的な不均衡を丁寧に意識させ、それを解決する方法を伝えることがポイントでした。
次は3歳の時の話です。妹のモモが生まれました。妻は、乳児の世話や家事でいつも手が一杯でした。それまで、親の愛情を一身に受けていたソラは、急に一人きりになり、放りだされた気分になったのでしょう。再び、怪しい行動が出てきました。部屋の中を、折の中に入れられた動物のようにウロウロと歩き回ったり、かんしゃくを起こすことが増えてきました。要するに、赤ちゃん返りです。親から見ると、さびしいのが原因なのは一目瞭然なのですが、本人は勿論気付いていません。
妻は、家事の手を止めてソラに近づき「ソラは今、さびしいんだよ。さびしいときはさびしいって言わないと分からないよ」と言って、抱っこしました。やっぱり、一度で分かるわけがありません。毎日々々同じことを繰り返しました。3ヶ月たったある日のことでした。モモは、居間のソファーでじいちゃんに抱かれていました。妻は台所で夕食の準備です。ママはモモを抱っこしているわけでないので、アプローチしやすいと思ったのでしょうか、その隙をついてソラはおもむろに妻に近づいていき「ママ、さびしい」と小声で伝えました。居間で聞き耳を立てていた家族は、それを聞いて拍手喝采。妻は「ちゃんと言えたんでしょー」とソラをきつく抱っこしました。ソラもエヘヘと笑っていました。(振り返りますと、そのときのソラは、いつものようにかんしゃくを起こすほど不安定ではなく、ウロウロはしていましたが、少し余裕があるようでした。新しい行動を獲得するときはいつもそうですが、子どもにある程度余裕がないと新しい行動は誘発されません。追い詰めて、子どもの気持ちをギリギリの状態にしてしまうと、子どもは怖くて新しい行動を試そうとしないのです)。このように3歳のときには2歳のときと違い、生理的不均衡よりは、心理的不均衡についての会話が多くなりました。
子育てをしていると、子どもの持つモヤモヤした気持ちに遭遇します。「わからない」と親が子どもに怒りをぶつけていては子どもは心を閉ざすばかりです。また子どもの不安に巻き込まれて一緒に心を揺らしてしまっては子どもは迷うばかりです。
ただ、親も万能ではありませんから、子どもの気持ちをすぐに汲み取ることができないときも多々あります。そんな時、どうするか?親だからと完璧を求めずに正直になって、子どもと一緒に考えるのが良いのだと思います。ソラが落ち着いた頃に、妻は抱っこを続けながら、、色々と会話をしていました。こんな気持ちだったの?あんな気持ちだったの?という風に。蜜さんが言っていた大人に選択肢を示して欲しいという願いは、普通の子育ての中で行われる行為なのです。
感情の肌理を細かくする上で、他者のラベリングの影響はとても大きいのだと思います。感情の肌理を細かくすることは、社会的な適応能力を高めることであります。子どもの感情を大人が丁寧に掬い取り、丁寧な言葉で返してあげることが、感情を発達させる上で重要な契機となるのです。
雨野さんの起こすかんしゃくは決して、病気だからなのではありません。雨野さんには、かんしゃくを起こしてしまうということを、その理由も含めてありのまま語れる他者にめぐり合えなかっただけなのではないかと私は考えます。他者の言葉を頼りに、自己の内的な世界を研究する過程の中で、徐々に感情というのは練り上げられていくのだと思います。
022 「021かんしゃくの構造」のコメントの続き
022 「021かんしゃくの構造」のコメントの続き
齊藤コメント
実験後の感想をもう少し挙げます。
Bさんは「快不快、喜怒哀楽程度は感じることができます。相手の感情をうまく言葉に出来ないのと同様に、自分の気持ちも漠然としています。だからいつもモヤモヤしています。でも、自分の気持ちにぴったりな言葉を言われるとすごくすっきりします」。
Cさんは「感情を表現する語彙が少ないんです。普段はその程度の語彙でしか、他者や自分の感情をとらえていません。会話だと流れの中で表現する必要があります。時間制限があるのでとても難しいです」。
Aさん、Bさん、Cさんに共に、感情を表す言葉を知らないということを自覚されています。感情というものは言葉に規定されているものなのですね。
Dさんは「結婚してから、怒れるようになりました。それまでは、無意識に怒りの感情を押さえ込んでいたのだと思います。結婚したことが大きい。夫に対して気持ちを伝えないと、夫婦関係は成り立たない。夫は、私が感情を表現することを求めてきました。恐る恐る感情を表現してみたら、夫のリアクションがとても大きいので驚きました。そんな日々をすごしているうちに、自分の感情を見つめざるを得ない状況なっていきました。すると、感情の起伏が大きくなっていきました。でもまだ、自分の感情をどのくらい出せばよいのかわからないので、必要以上に夫を悲しませることがあります。今は調整段階なのです」。
結婚を機に感情表現が豊かになったというのが興味深いと思います。ポジティブな感情は、相手に受け入れられやすいので表現しやすいですが、ネガティブな感情は相手を怒らせたり、悲しませたりして、その後の関係を悪化させてしまう可能性があります。人間関係において失敗経験の多い人であれば、自己評価を下げる事態を招くことは出来る限り避けたいと思うはずです。
でもDさんは、信頼できる夫に対してであれば、今まで意識することを避け、押し隠してきた感情を表現することができると思ったのでしょう。感情が育つには、当然ですが基本的信頼感が必要条件です。
「自分の心の動きに疲れるときがあります。細かに動いているから。刺激に対するフィルターが細かい。反応してしまう」。
Dさんは、外から見るとクールに見えるのですが、ここで述べているように、いろんな刺激に反応して揺れ動く、敏感な心を持っているようです。細かく揺れ動いているのに、それを外部に表現できない状態は、本当のDさんの姿ではなかったでしょう。
雨野さんは感情語の獲得について、「定型発達児は、養育者からたくさんのラベリングを浴びせかけられる。取捨選択するのは子ども自身だが、ラベリングのきっかけは他者なんですね」と言っていました。
他者からのラベリングを取り込むということは、人は発達初期から他者性を含んだ自己を形成しているということになります。雨野さんは「オリジナルな自分の言葉はないかと、心の中に捜してみたことがあります。しかし、どん言葉も他者から取り入れたものばかりだということに気付きました。自分はたまねぎみたいなものです。真ん中には何もないのですから。僕自身というのは一体どこにあるのでしょうか?」。
このとき私は雨野さんに「感情も含めて自己という概念は、他者と作り上げた一種のイメージなのではないかと思います。自己というものは、個人に内在する実体のあるものではなく、他者との関係性のあり方そのものを指すのではないかと思います。ゆえに他者との関係がないところに、自己もまた存在しないということになると思うのです」という意味のことを述べました。でも、雨野さんは自己がどこかに“ある”と信じているようでした。そして深く長く内省していったのです。
雨野さんは「怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思えるように少しなった。病識というのは大事だ」と述べました。私はこの文章に少し違和感を覚えたのですが、皆さんはどう思いますか?
雨野さんが怒る理由は、時にユニークかもしれません。しかし「怒ること」それ自体は、人間として自然な行為だと思うのです。怒りの感情をうまくコントロールすることは必要ですが、距離を置いて表現しないでいることは、自然ではない気がするのです。私は「怒りの感情から距離を置いて、仕方ないと思う」ことを、なるべくなら“病識”と整理したくないのです。自身の感情世界をより豊かにするのは、他者からラベリングなのだとすると、それを出さずにじっとしていることは、安全と引き換えに成長を失うことになります。
Dさんのようにネガティブな感情をありのままに受け入れ、対話をしてくれる人に出会うことの大切さは、雨野さんの納得の仕方と対比されることによって、より明確になると思います。Dさんは「苦手なことはにがてなままでいいんだなと思えるようになった。自分を許してあげる感覚を持つようになりました」と仰いました。