雨野カエラのエッセイ
011 自閉症者は人の心が読めない?
雨野カエラ
自閉症者は人の心が読めないとしたら、非自閉症者は人の心が読めるというのだろうか。人の心が読めないと指摘をすることはあっても、心の読み方を教えてもらえないのはなぜなのだろうか。「心」とは何かということを、非自閉者はよく分かっているのだろうか。
心は自分と相手との間に浮かぶハートだと思う。自分が相手との間に感じるもの。自閉者は自分と同じような心を相手も持っていると思う。同じような心だから自分の考えたことを相手も考えている、と思う。相手の考えたことを自分も考えていると思う。自分と物の間にも、自分と動物の間にも、心を感じることができる。非自閉者は自分と同じ心を持っていないから自閉者には心がない、と思っていないだろうか。
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齊藤コメント
「我々アスペルガー症候群児・者は、心の理論の発達が遅れていると言われます。それは認めます。ではなぜ心の理論を持つ定型発達者は、我々が困っていることを理解できないのでしょうか」。定型発達者の持つ心の理論が、定型発達者にしか適用できないものだとしたら、その理論は普遍的なものではなく、相対的・限定的な意味合いを帯びることになります。
雨野さんは、アスペルガー症候群にも心の理論はあるのだけれども、その理論を持つ人は少ないため、意思疎通の不都合が生じる。定型発達者は自分の心の理論が普遍的だと考えているので、意思疎通できない者を「心の理論がない」と判断するのだ、と考えているようです。
私は、雨野さんに質問しました。「では、アスペルガー症候群同士ならば意思疎通は容易なのでしょうか」。すると「それは難しいと思います。一人一人が独自の理論を立てているので、共通点が少ないことのほうが多いと思います」と答えました。「宇宙の中の星と星との間くらい離れている」と笑いながら言っていました。「出会うこと自体少ないのだ」と。
成人当事者のグループに参加した時のことです。進行役のセラピストの方は「はじめのうちは、会話が続かなくて大変でした。皆さん、他の人の話はきちんと聞いているのですが、共通の関心を持つ者同士で、質問したり、話題を提供することがほとんどなかったからです。進行役は、関連する事柄を見つけて、さりげなくつなげることに集中しなければなりませんでした」。
数ヵ月後、久しぶりにそのグループを見学しました。以前のように、一人しゃべっては沈黙の繰り返しではなく、誰かがコメントを返すようになっていました。さらにその数ヵ月後には、和気藹々と楽しそうに世間話をする姿が見え始めました。そして2年後。近況を聞いたり、感想を言い合ったり、冗談を言ったり、とても自然な会話が繰り広げられるようになりました。表情もリラックスしていました。ゆっくりですが、確実な変化がそこにはありました。その様子を初めて見た人は、きっと当事者のグループとはすぐには気付かなかったでしょう。自閉症だから会話ができないのではありません。またする気がないのでもありません。おそらく彼らは、他者とつなぎ合わせてくれる人にめぐり会えなかったために、「一人」の世界に住まわざるを得なかったのだと思います。自閉症は一人が好きなのだからそっとそっとしておいてあげてと力説する専門家がいますが、彼らの姿をみていると、そうとばかりは言えないなあ、と思います。確かに一人の時間を、苦もなく過ごせる人はたくさんいます。でも、本当に孤独を愛しているわけではありません。孤独が好きならば、グループには通ってこないでしょうし、ましてや世間話を楽しむわけがないからです。
私は、一人で暗く沈んでいる姿が自閉症の姿だと、それまで勘違いしたことに気付きました。彼らにも人を求める気持ちが、我々と同じようにあるのです。そして、長い時間はかかるけれど、互いに心を通い合わせた後は、明るくて社交的な側面を垣間見ることができるのです(積極奇異としてではなく)。
さて、自閉症とはいったいなんなのでしょうか?確かに、彼らの感覚経験は私とは違うようですし、思考プロセスも興味深いと思うことは多々あります。しかし、丁寧に話し合うと、それらのことは互いを分ける溝ではなく、単なる違いとして了解が可能なことが多いように思えます。「そういう人なんだなあ」と一旦思ってしまうと、「自閉症ってなんなのだろう」と迷うことがしばしばあるのでした。
アスペルガー症候群と診断されたお母さんと育児相談を定期的に行っています。そのお母さんも子育ての中で、子どもの反応が予想とあまりに違うことに直面し、それまでの自分の価値観を振り替えることが多くなりました。子どもの行動がうまく理解できなくてイライラしたともありましたが、徐々に理解を深め、それに伴ってお母さんの価値観も変容していきました。そんなある日、私と同じような問題意識を持っていたことが分かり、その話で盛り上がりました。「最近、自閉症ってなんのかって考えるんだよね。友達にもアスペルガーのお母さんがいてね。その人は『自分はアスペルガーだから、~できない』って言い方をする。でもそういう人って結局、変われないと思う。私だってずっと苦労してきたよ。でもね、子ども育てるためには、好き嫌いにかかわらず、求まられたように振舞わなきゃだめなのさ。キャラを作っちゃえば楽なのに。要はね、自閉症かどうかよりも、(自分に求められていることを)受け入れるかどうかが大事なのさ」。
心の理論とは、自然発生的に生じる心の作用ではなく、他者とのコミュニケーションを積み重ねることによって、徐々に作り上げるものなのだと思います。
先ほどの当事者のグループでも、セラピストという第三者の力を借りて、自分の発言と他者の発言が丁寧に結び合わされるという経験を通して、自分と他者の関係性について気付くようになったのです。自分が相手に求めること、そして相手から求められていることを。そしてそのような関係性についての理解が深まるに従い、自然な会話ができるようになったのです。自己と他者の同型性が前提となれば「相手は何が好きなんだろう?」「これを言ったら怒るかな?」などの推論過程が必要なくなるので、思ったことを意識の検閲なしに話すことができるからです。
雨野さんのいう「心は自分と相手との間に浮かぶハートだと思う」は、このことを言い当てているのだと思います。以前に「社会性とは、自分と他者が似ていると思えることである」と述べていましたが、雨野さんは、この定義に従い(操作的定義)、人間以外のものにも、つまり同型性を感じ取れるものであれば、その対象と心を通い合わせることが可能であると考えているようです。
しかしながら、一人一人の人間の持つ自由度の高さゆえ、共通の理論、規範を維持するには、我々は常にコミュニケーションをし、情報を更新し続けなくてはなりません。他者はいつも観察しなければならない対象なのです。したがって、人間に関する理論は、常に暫定的なものであり、普遍的な真理として構築するのは非常に困難です(極端な相対主義は無秩序を生みますが、程よい相対性は、柔軟性を生むことになります。社会的環境への適応度が飛躍的に上昇します)。物や動物は、一度その生態を理解すれば、適用範囲は広く、時間的にもほとんど変化しないでしょう(人間の一生のうちには)。しかし人間に関わる事象は、物や動物とは反対に短期的な「変化」が前提となります。人間に関する事象は非常に動的です。
先ほどのアスペルガー症候群のお母さんは、子育てという先の見えない仕事に関わる中で、常に子どもの変化に注目し、日々、理解の仕方を更新し続けたに違いありません。つらい日々もあったに違いありません。切れそうになったことも幾度もありました。でも、「人は動的に変化している」と「それに応じて自分も変化する」ことを受け入れたとき、子育てが楽になっていきました。このお母さんは「今は子どもが可愛いし、生んでよかった」と言っています。
「自分と相手との間に浮かぶハート」だからこそ、心は常にオープンなシステムであることが求められるのだと思います。自閉症かどうかよりも、他者に対して自分の心をオープンにできるかが大切なのではないかと思います。定型発達者の中にも、クローズなシステムで生活している人はたくさんいると思います(私は、その傾向があると思います)。自閉症者の中にも、オープンなシステムで生活している人は増えていると思います。だんだんとその境界はあいまいになっていくのだと思います。
010 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き(2)
010 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き(2)
齊藤コメント
前回、「想像力の障害」という場合の「想像力」とは「身体的状況を仮想的に再現できる力」なのではないかと述べました。ということは、この力が弱い人は、実際の場面から離れてソーシャルスキルを学んだとしても、身体的状況とは乖離したままということになります。
ある当事者は「SST(ソーシャルスキルトレーニング)で、スキルを学んだとしても、現実には使えないことが多いのです。なぜなら、援助を求めるスキルを学んだとしても、そもそも自分が困っていることに気付けないから、覚えたスキルを使えないからです」と教えてくれました。これはスキルを学ぶときに、対応する身体的状況の賦活がとても弱かったか、もしくはスキルとは関係のない身体的状況をマッチングしてしまったと考えることができます。
この方は「リアルタイムにフィードバックをもらうことが必要」であると言っていました。つまり、身体的状況が賦活しているそのときに、言葉によってラベリングしてもらえれば、自分の内的な状況を意識的に把握することができるのではないかということなのです。前回のB君のエピソードで言えば、B君が相手にぶつかって申し訳ないと強く感じている時の行動が、客観的に見て適切であるかどうか、適切であればどのくらい適切であるのかを、そばにいる支援者がモニターし、丁寧に伝えていくことが重要ということになります。
もしB君にそのようなフィードバックが繰り返し与えられていれば、B君は同じような状況に陥ったとき、胸がどきどきする感じや相手の表情の変化などを手がかりにして、過去に実行して成功したスキルを適切に引き出せることになったのかもしれません。
ここでもう一度、雨野さんのエピソードに戻りたいと思います。相手が転んでしまったときにどんな働きかけをしたらよいのか迷ってしまうという話でした。結論から言えば、これにもやはり「身体的状況を仮想的に再現する力」が関与しているのではないかと思うのです。
自分が転んだとき、そばにいる他者にどのように対応して欲しいかについて迷う人は少ないと思います(助けてor見ないで)。その時に生じている身体的状況が、選択の余地をぐっと狭めるからです。では他者が転んだときはどうでしょう。間髪いれずに反応を繰り出せる人は、転んだ時とその後の身体的な動き(表情を含む)をみるだけで、(無意識に)同様の身体的状況を自己の内部に写像せしめることができる人であると言えます。
間髪いれずに反応できる人は、行動オプションの選択において、状況分析が論理的かつ速いのではなく、転んだ本人と同様の身体的状況になることによって「それしかありえない」という確信を持っているのだと思います。言葉の世界、論理の世界では、多数の選択肢が生じますが、身体の世界・感情の世界ではつねに最適な解が一つ選び取られるのだと思います。雨野さんは、相手の身体的状況をスムーズに自己内部に写像できなかったので、それを補う形で論理が働き、しかも論理が過剰に働いたおかげで、可能性の低い選択肢をも増やしてしまったのだと考えることができます。
雨野さんは「本当は心配されたくないのかどうか、どうやってわかる?声を掛けられたくないのか、掛けて欲しいのか。何か言うとすればなんて言えばいいのか。どうやって選べばいいのだろうか?」と我々に問いかけています。今の私であれば「他者の身体的状況を自己に写像する能力が人間には備わっているのである。論理が決めるのではなく、その時、仮想的に賦活された身体的状況がひとりでに決めるのである。」と答えるでしょう(雨野さんはきっと「よくわからない」と言うと思いますが)。
ここまで述べてきたことは、近年「ミラーニューロン」というキーワードで盛んに議論されている問題です。我々は、他者の運動を知覚すると同時に、同じ運動を脳内で再現しているということが分かっています(実際には運動をしていなくてもです)。相手の運動を知覚する領域と自分が同じ運動を表出する領域は重なっているのです。つまり相手のしぐさ、表情を見るだけで、自己の内部に同じようなしぐさや表情が仮想的に生じているわけです。ミラーニューロンによって我々は、他者の振る舞いを見ているだけで、推論を経なくとも、同じ心の状態に至ることができるということになります。とすると他者の心は推論によって「知る」ものではなく、直感的に「分かる」もの、ということになります。
内田樹先生は自身のブログの中で次のように述べます。長いですが引用します。
『例えば、怒りという感情は、怒っている人間の表情や声の出し方や身ぶりを模倣することによって内面化し、学習される。子どもの内面に感情がまずあって、それが身体表現に外化するのではない。他人の身体表現を模倣し、それが伴う情動が内面化した結果、感情が生まれるのである。子どもの感情が豊かになる過程を仔細に観察していればわかる。他人の身体表現の模倣に熟達するにつれて、子どもたちの感情は深まり、多様化する。感情は他人の外形を模倣することで発生するわけであるから、外形抜きの「純粋感情」などというものは存在しない。人類が致死性のウィルスで絶滅して、あなたが「人類最後の一人」になったときのことを想像して欲しい。あなたは自分が「人類最後の一人」になったことでたいへん腹を立てている。たぶん、その怒りをゴミ箱を蹴飛ばしたり、机をひっくり返したりして表現するはずである。だが、どうしてあなたはそんなときにも「誰が見ても、それとわかる怒りの定型」を忠実になぞるのか?誰も見ていないのだから、そんなことをする必要は全然ないのである。純然たる怒りの感情だけがあって、それを身体化しなくても誰も困らない(見ている人は誰もいないのだから)。でも、誰も見ていない場所においてでさえ、私たちは見ている人がいれば「ああ、この人は怒っているのだな」とわかるような感情表現を外形化する。外形化せざるを得ない。というのは、身体表現抜きで輪郭のはっきりした感情を維持することが私たちにはできないからである。感情とは(観客がいないと意味をなさない)社会的な記号なのである。そして、強い感情表現は、それを見ている他者のミラーニューロンを賦活させるから、他者のうちに同質の感情を作りだす。』(内田樹の研究室、「感情表現について」2011年8月10日)。
自閉症スペクトラムを取り巻く、感情認識・表現 および他者理解・自己理解の問題とぴったりと符号していると思います。感情の起源は、他者の身体化・外形化された感情表現であるという考察は、私にはとても納得できるものでした。他者の模倣が少ないまま成長すれば、他者の感情のみならず自己の感情すら明確なものにはならないわけです。感情表現が豊かにならないのも同様です。
しかしこの認識は、雨野さんの持つ認識とは全く反対でありました。雨野さんは、自分だけの概念、自分だけの気持ち、自分だけの言葉を必死に探そうとしていた時期がありました。「自分の心の中を見つめてみて、人から学んだものを一つ一つ排除していきました。するとどんな言葉も他者からもらったものばかりであることに気付きました。僕は、玉ねぎみたいなものです。僕の中心には僕がいません。僕は一体どこにいるのでしょうか」。
内田先生の考察によれば、純粋な自分(純粋感情がないのですから)は存在しないことになります。他者が、言葉や身体を通して外形化したものを取り入れ、さらにそれを内化する過程で、自己と他者を発見していくことになります。自己と他者の起源は全く同根なのです。雨野さんは「定型発達者の使用する言葉は、獲得したその瞬間からすでに他者性を帯びているのだと思います」と考察していたことがありましたが、まさにそうなのだと思います。しかし、雨野さんは論理的には理解できても感覚的には納得できず、長く黙り込んでいたことを思い出しました。
009 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き
009 「理解することと行動することのあいだ」のコメントの続き
齊藤コメント
大学で相談しているアスペルガー症候群の中学生A君の話です。
A君は幼少期から、TVなどで登場人物が落ちたり、転んだりする場面を見ると、ゲラゲラと笑ってしまうのでした。中学生になった今も、笑ってしまうことがあります。
先日、家族で映画館に行きました。主人公は一生懸命に山を登っていたのですが、最後の場面で力尽きて落ちてしまいました。この場面で、A君は笑ってしまったのです。悲しい場面にも関わらず、大きな声で笑ってしまったので、家族は「大変恥ずかしい思いをした」とのことでした。
なぜA君は、笑ってしまうのでしょうか。その時、何を思っているのでしょうか?A君は「純粋に面白いんだ。どうしても笑っちゃうんだ」と言います。どうやら“映像”として面白いと感じているようです。しかも文脈とは関係なく、その場面だけに反応しているように思えます。
A君の名誉のために言いますが、普段は、優しい人です。悲しんでいる人の気持ちを知りながら、それを笑うような冷たい人間ではないのです。家族が悲しんでいれば、慰めの言葉をかけたりすることもあります(ただし、明示的な表情や言葉での宣言が必要という条件付きではありますが)。
しかし上記のエピソードが示すのは、感情の推測よりも、知覚している現象に心が奪われてしまうことがあるということです。このことから、A君は他者から誤解を受けることが時々あります。
次のようなエピソードもありました。ある相談日。その日は“登場人物の気持ちを台詞にしてみよう”という課題を行っていました。私が「(絵の中の人物を指差しながら)この人は今、トイレで用を足しています。(少し間を置いて)するとその時、何度もノックしながら「開けてくれ」と訴える人が現れました。さて、中に入っている人はどんな気持ちになったでしょうか。気持ちを台詞にしてみましょう」と問題を提示しました。すると彼は「うーん、わからない」と答えました。
そこで私は、床の一点を指差して「ここが便器です。A君、座ってください。そして周りはぐるっと、壁になっています。目をつぶって想像してください」と指示しました。A君は、戸惑いながらも指示に従ってくれました。次に「今、あなたは、ウ○コをしています。はい、想像の中でしてみてください。」と伝えました。しかし恥ずかしがって演技してくれなかったので(まあ、当然ですが)、私も一緒に腰をかがめて「うーん、うーん」とうなりました(かなりリアルにです)。すると彼もつられてうなり始めました。気分が十分に高まった頃に、私が「ドンドンドン(ドアをノックする音)、開けてくれ!」と大声で怒鳴りました。すると彼は、「うわー、やめてくれよ、は、入ってますよー、あーびっくりするなあ、もー」と台詞を言ってくれました。台詞を話す間合い、その韻律はとても自然でした。言語による状況説明だけでは答えられなかったのに、具体的にシュミレーションすると、自然に台詞が口をついて出たのはなぜでしょうか?
もう一つ関連すると思われるエピソードを紹介します。ある特別支援学級(中学校)で行われていたソーシャルスキルトレーニングの授業中のことです。設定は「あなたは自動販売機でジュースを買おうとしています。しかし、お金を入れるのに手間取ってしまい、後ろに長い列ができてしまいました。他の利用者に迷惑になるので『すいません、どうぞお先に』と次の方に譲ることにした」という場面でした(なかなか複雑です)。
高機能自閉症のB君は、一歩身を引きながら流暢に決められた台詞を述べ、スムーズに譲ることができました。他のクラスメートも、上手にこなしていました。無事終わったとおもいきや、その後の反省会で、あるクラスメートがB君の態度について指摘をしました。「B君は、ちゃんと話すことができていたけど、少し笑っていた。気持ちがこもっていない」という内容でした。なかなか鋭い指摘です。確かに他のクラスメートは、態度も声色も申し訳なさそうに演技をしていました。一方、B君はそれとは対照的に、堂々と胸を張り、明るい表情で、さわやかに台詞をしゃべっていました。和気藹々とした教室の雰囲気にはマッチしているのですが、想定している場面には少し違和感があります。つまりこの状況では、謝罪の意思表示が必要だからです。“堂々とさわやか”なのは、ちょっと違いますね。
担任の先生は、このクラスメートの意見を尊重し、B君に再演してもらうことにしました。しかし、何度やっても“堂々”かつ“さわやか”なので、クラスメート達は「そうじゃない」「もっと気持ちをこめて」と次第に指導に熱が入ってきました。最初は明るかったB君も何度もダメだしをされるので、徐々に悲しそうな表情と声色になってきました。かなりつらくなって本当に悲しそうに言えたとき、クラスメート達は「それ、その感じ」とOKを出しました。
クラスメート達は台詞の正確さや流暢性といった言語的・非身体的な情報よりも、表情や声色や姿勢といった非言語的・身体的な情報に注意を向けていたことが分かります。幸か不幸か、繰り返されるダメだしに本当に悲しくなったB君は、最後の最後にクラスメート達が望む身体的情報を表現することができました(もっとも内実は別種の感情が生じていたのですが、「悲しい」という点では一致していますね)。堂々と胸を張っていた姿勢が、わずかに猫背に。明るい表情が、眉毛の両端が下がり悲しそうな表情に。さわやかなしゃべり方が、声は小さく、短調に。
その後、興味深いことが観察されました。授業が終わって片付けをしているときのことです。すっかり肩を落とし、下ばかりを見て掃除をしていたB君はクラスメートに強くぶつかってしまったのです。先ほどの授業の様子を踏まえれば、B君はきっと、儀礼的に明るく「すいません」と言って、すぐに掃除をし始めるのではないかと思いました。しかい、実際は違いました。「あ、す、すいません」と焦った感じで、すぐに謝っています。相手のクラスメートは「いいよいいよ」と気にする風でもなくその場を立ち去ろうとします。B君は、それでは申し訳ないと思ったのか、相手の正面に回りこんで、顔を見ながら「大丈夫、ごめんね」と誠意をこめて謝っていたのです。丁寧に頭も下げています。先ほど、何度もやり直しをさせられていたB君とは思えないほどに、自然な振舞いでした。このギャップはなんなのだろう?と思いました。
この背景には「仮想場面と現実場面の違い」が関係していそうです。言語のみの状況説明や教室内で行われるソーシャルスキルトレーニングは、いわば現実ではありません。子ども達は「まるでその場にいるかのような状態を具体的に想像」することによって、不足している情報を自力で補わなければなりません。A君とB君はどちらも仮想的な状況で、この不足している情報を補うことができずにいたようです。では不足している情報とは何か?
もう一度振り返ってみましょう。A君の場合は、リアルにウ○コをするフリを繰り返し行うことによって(下品ですいません)、“まるで本当に○○しているかのような”身体的状態を内的に賦活させました。B君の場合は、ドンと相手にぶつかった時の肩に感じた衝撃を直接に経験しています。どちらも、ある状況に対応する身体的状態が賦活したときに、期待する言動が行われているようです。
診断基準のひとつにある「想像力の障害」とはなんなのだろうか?と、私はずっと疑問でした。なぜなら、視覚的なイメージとしては、彼らは十分すぎるくらい想像している場合があるからです。雨野さんにも「僕らは想像できないのではありません。想像が標準的ではないということが問題なのです。これは、想像力の障害なのですか?」と問われて、うまく返答できなかったことがありました。
A君とB君のエピソードが示すことは次のことです。
「想像力の障害」という場合の「想像力」とは「身体的状況を仮想的に再現できる力」。
次回、もう少しこのテーマについて考えたいと思います。
008 理解することと行動することのあいだ
008 理解することと行動することのあいだ
雨野カエラ
一緒に歩いている誰かが、凍った道で転ぶ。僕は何も言わない。すると彼は怒る。感情がないのかと非難する。でも声を掛けられてうれしいかどうか、本当は心配されたくないのかどうか、どうやってわかる?声を掛けられたくないのか、掛けて欲しいのか。何か言うとすればなんて言えばいいのか。どうやって選べばいいのだろうか?本当は心配しているのに。
子どもの時から自分は心の冷たい人間なのではないかと思っていた。心のないロボットなのではないかと思っていた。みんなと同じ様に声を掛けることができなかったから。まわりからそう言われるから。
目の前で転んだ人がいるとするだろ。人の立場に立って考えなさいってよく言われるから、そう考える。自分が転んだらどう思うか。声を掛けて助けおこしてもらいたい時もあるし、見なかったことにしてほしい時もある。どちらかは決められない。それで何も言えないでいると人の気持ちがわからない人って言われてしまうんだ。自分がその人の立場だったら、と想像するだけでは足りないらしい。
他人は自分の考えている以外のことも考えている。そこが自分には足りないんだ。でもそのことを想像するのは難しい。もしかしたら僕に足りない脳の機能って、そのことなのかもしれない。相手の立場に立って考えれば考える程、考えてもみなかった答えを返され、ショックを受ける。相手のことを心配しているのに人の気持ちがまるでわからないと非難されることは、とても悲しい。思いもよらない意見や批判や干渉を受けることは、真剣に相手のことを考えていただけに衝撃を受ける。
心配していることを相手に言わなければ伝わらない。そう思えないことが問題なんだ。だって人が転んだ場面では心配するのが当然だろ。だから心配している。僕はひどい人間ではない。だから当然そう思っていると「相手も思っている」と考える。ほら、ここなんだ。だから人の気持ちを考えるテストをすると成績がよくない。そのことを想像力がないって言うらしい。思いやりがなくって、空想もできない、というのとはちょっと違うよ。
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齊藤コメント
この文章を読んだとき、以前読んだ論文を思い出しました。
Travis(2001)は、言語能力の高い自閉症スペクトラム児童を対象に、社会的場面における理解力と行動力との関連を調べました。
結果、関心のあるおもちゃに相手の注意を向けようとする者(共同注意を開始する能力)及び、紙芝居中の登場人物の感情とそれを観ている自分の感情が同一と捉える傾向の高い者(共感性)が、向社会的行動(自発的に他者を助ける行動など)や友達との遊びを積極的に行うことが分かりました。
一方、心の理論課題などで測られるような推論能力との関係は低いことが分かりました。
雨野さんのように、客観的な分析能力を持っている方でも、現実の生活、特に対人場面では苦労しています。知識や論理的な推論能力が現実の社会的な行動と相関しない、というTravisらの結果は、確かに当てはまりそうです。雨野さんは、相手の感情の推測は行っています。しかし、どの解釈が適しているのかの最終判断ができないので困っているのです。
関心を持つ対象に相手の注意を向けようとする共同注意行動の背景には、「学校キライ(4)」で書いた「他者(世界)を動かす有能感」がなければいけません。雨野さんによる発達障害の定義は、この有能感が持てないことが中核となっています。相手が自分の期待通りに行動してくれるという確信が得られないので、頭の中の仮説で終わってしまうのです。「行動」まで、たどりつけません。
「会話が途切れれば、何か違う話題を提供しなければとは思っているんです。でも、『そんな話をしたいんじゃない』とか『お前の言っていることはわからない』などと言われるのではないかと、ネガティブな想像ばかりが思い浮かんでしまい、結局言い出せません。黙ったままになります」。
これに関して、雨野さんの世界観をあらわす文章を紹介します。
「私」は世界に含まれていない。
「私」は観測者。
「私」はナレーター。
「私」は映画を見ている視聴者。
世界に対しては、「傍観者」
世界に「私」はいない。
「世界は私だ」の感覚。
定型発達者は「私は世界だ」と思う人たち。
映画を見ている視聴者という喩えは、分かりやすいですね。映画の中で、人が転んでも、席を立って助けに行く人はいません。登場人物に働きかけても、こちらに応答してくれたり、ストーリーが変化すると思っているわけではありませんから。
次に、登場人物と同一の感情が、自分にも生じていると感じる力(共感性)について考えてみたいと思います。
ある日、雨野さんは「齊藤先生は、人に褒められると楽しいですか?」と尋ねてきました。私は「うれしいですね」と答えました。しかし、彼は「僕はあまりうれしくありません。自分と似ていない人に褒められても、それが褒めることに値するのかどうか分からないからです。僕は、自分と他者は似ているとは思えないのです」。
だから彼は「正の報酬をもらおうとして行動するのではなく、負の報酬を避けるように行動するようにしている」と言います。相手を怒られないように、悲しませないようにと。
先ほど、現実はまるで映画のようだ、という雨野さんの世界観についてお話しましたが、常にこのような世界観に埋没しているわけではありません。このような世界観が強まるのは、対人的なトラブルがあった後のような、ひどく落ち込んだときが多いようです。
「この世界に身体を持つことはつらいことです。なぜなら、他者の評価は、僕という物理的に存在に向かって行われるからです。ネガティブな評価に耐えられなくなったときは、意識の中で身体を消していく想像を行います。すべてを消すわけではありません。世界を眺めるのは楽しいので、眼球は残します。自分が眼球そのものになるまで、身体を消していく想像を続けます」。
この作業が行われないとどうなるか?他者はどんどんと自分に向けてメッセージを送ってきます。すると、
「他者のインフレが生じる」
「あらゆるものに他者を感じる」
ようになるというです。おそらく、自分が伝えようとしたことと他者の応答との間に対応関係が認められないことによって(時には自己を完全否定されてしまう経験によって)、「他者の応答=自己を写像したもの」というタグがはずれ、他者からの一方的な写像を感じることになるのだろうと思います。「自分」がなくなっていく不安を感じているのかもしれません。
雨野さんは、このような話をしたあと、社会性について以下の文章を黒板に書きました。
「社会性とは、自分と他者は似ていると思えることである」と。
Travis,L, Sigman,M & Ruskin,E 2001 Links Between Social Understanding and Social Behavior in Verbally Able Children with Autism Jounal of Autism and Developmental Disorder Vol.31 No.2 119-130
007 子どもの頃、好きだったもの
007 子どもの頃、好きだったもの
雨野カエラ
子どもの頃のことをもう少し書こう。
好きだった物は、読書、動物、マンガ、アニメ、映画、一時期は電車。
ドリトル先生やムツゴロウさんの本をよく読んでいた。畑正憲さんの本は小学生が読むには大人向きのことも書いてあったように思う。片付け物ができないくせにマンガと本だけは1巻から順に並べていた。すると「几帳面だねえ」と部屋に入ってくる大人に言われる。僕は大事な本のことで干渉されることがいやだったから、それからはわざと乱雑に見えるように並び替えた。これなら自分の思うように並べられるし、大人に干渉されることもないからね。
広辞苑や時刻表、電話帳を眺めるのも好きだった。中学生になってからは対談本をよく読んだ。対談を読んだ後は参加者の一人になりきって、頭の中で彼らと対談を続けられる。対談は現実の会話とは違い、後から書き起こされて整理されているからずっと論理的な会話が続けられる。どうしてみんな対談の人たちのように会話ができないのだろう。それならもっと会話も楽しいのにと思う。
パソコンの雑誌を読むと気分が落ち着く。コンピューターのスペックを眺めていると、割り切れない人間のことを考えなくて済むからかな。
集めていたものは、小さなネジ、リード線、ビー玉、パチンコ玉。
機械の分解が好きだった。ラジカセ、ビデオデッキ、フィルムの8ミリカメラ。分解の「気持ちよさ」にまかせてバラしていくので、組み上げた時には元通りにならず、たいてい最後にネジが余る。とくに精密ドライバーをつかって外すような小さなネジが好きでしまい込んでいた。発明家になりたかったよ。
ビー玉は封じ込められた小さな泡を眺めたり、日にかざしてキラキラしているのを少しずつ角度を変えて楽しんだ。今でもビー玉がレールを転がっていくおもちゃが好きで、やはり太陽の光をあてながら見るときれいだ。今度、銀色の金属球がレールを転がり続ける、ちょっと前のおもちゃが復刻されると聞いて楽しみにしている。
ブロックも大好きだった。必ずシンメトリーになるように作っていた。でも、これも大人に何か言われそうな気がして、わざと必ず非対称に作るようになった。今でもレゴのセットをたまに買う。
持っていたおもちゃではミニカーを中心に、毎回同じ勧善懲悪ストーリーで遊んだ。おもちゃのお気に入りの順序は厳格に決まっていた。これはとても重要。
アニメソングを録音したカセットをたくさん持っていた。やがてテレビで放送される映画をたくさん録画するようになった。どちらもリストをつくってまとめていたからかなりの本数になる。
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齊藤コメント
雨野少年は、構造が明確なものが好きだったようです。対談本の話、コンピューターのスペック、勧善懲悪のストーリー、対称性のあるブロックなどがそうです。理解できることは安心につながります。「割り切れない人間のことを考えなくてもすむからかな」という本音からは、構造の見えない状況に対する不安が垣間見えます。
対人的なやりとりをする上で、時間的な構造化は空間的な構造化よりも重要な気がします。自閉症の子ども達が「ボタンを押すと音が鳴る」「球を入れるとクルクルと回りながら落ちる」というような単純なおもちゃに没頭するのは、自己の動作とその結果の時間的な因果関係が捉えやすいからであろうと思います。
自閉症の子どもと遊ぶと、やり取りが続かないばかりか、こちらに関心すら向けてもらえないことがあります。一方、おもちゃに没頭している姿をみると、なんだかさびしい気持ちになります。こういう場合、私のかかわり方の時間的構造が流動的で、子どもにとっては構造が見えにくいものになっているのだと思います。
このことは遊びに限ったことではありません。普段の会話なども厳密に構造化されているわけではありません。むしろ、あいまいな表現、かみ合わない言葉のやり取りが頻繁に生じています。
ある女性の当事者に、幼い頃の話を聞いたことがありました。
「周囲に人がいることは分かっていたが、興味がなかった。自分とは関係のないものと思っていた。友達の遊びに加わっても、どんどん遊びが、グダグダになる。どう振舞って良いかわからなかった。結局、絵本などの自分好きなことをしていた」
“どんどん遊びがグダグダになる”とは、おそらく目的やルール、方法の変更を指しているのだと思います。彼女は変更を楽しいとは思えず、“どう振舞って良いかわからなくなる”くらいに困ることだと思っていました。一緒に遊ぶことの意義が見出せない彼女が、一人遊びになるのは必然です。他者は構造を乱す者として捉えられています。だから自分とは関係ないものとして、彼女の世界から排除されていたようです。
ある療育機関で実習した時のことです。6歳の自閉症の子どもとセラピスト(以下、Th.)が遊んでいるところを観察していました。
その子どもは、おもちゃのレジスターで遊んでいました。隣にいるTh.にアイコンタクトすることなく、黙々とボタンを押していました。Th.は子どもの行動に効果音をつけたり、言語化したりと、途切れずに働きかけていました。そのような状態が、十数分間続きました。
おそらく偶然ですが、お金を入れる一番大きな引き出しが勢いよく飛び出しました。黙々と遊んでいた自閉症の子どもの表情が変化しました。はっきりとした表情ではなかったのですが、驚きの感情が生じたように見えました。
その時です。Th.が「わぁー!」と子どもの驚きを代弁するかのような声を出しながら、数回でんぐり返しをしたのです。一瞬、私は「なんだ!?」と思いました。引き出しが飛び出たことに驚いている暇もないうちに、大人(Th.)が派手なでんぐり返しを行ったのですから。それも連続で。
ふとわれに返り、観察中であることを思い出し、子どもへ視線を移すと、引き出しが飛び出てくるボタンを再び押そうとしています。偶然かなと最初は思いましたが、その後も繰り返していたのでそうではないようです。ボタンが押されるたびに、Th.は最初のときと同じタイミング、同じ声の大きさ、同じ速度、同じ回数のでんぐり返しを、きっちりと再現して見せています。この間子どもは、Th.の方を見ていませんでした。視野のはしっこで確認している程度だったと思います。
その後も、延々と続きました。子どもは明らかに、Th.を動かすために、そしてその予測が確かなものであるかを確かめるために繰り返しボタンを押しました(まるで実験しているようでした)。数回のセラピーが過ぎた後、子どもの行動に変化が起こりました。ボタンを押す前にニコッと笑ったのです。これは期待が成立したことを示唆します(僕がボタンを押せば、きっとこのおじさんはでんぐり返しをするぞ!)。他者が行動する前に、結果を予測するということはつまり、人の心を読もうとする態度と同じと言えます。
しかし、ここまでくるには長い道のりが必要でした。Th.の正確な反応と何十回もの繰り返しの末に起きた変化でした。私ならばとっくに飽きて、子どもの期待とは違う反応を返し、子どもを落胆させていたでしょう。
ニコッと笑った表情をTh.は見逃しませんでした。それまで、ボタンを押すのとほぼ同時にでんぐり返しをしていたのですが、少しポーズを置いてから回るように反応を修正したのです。すると、それまでTh.とアイコンタクトしなかったこの子どもは、「おかしいな」とでもいうように、初めてTh.の顔を見たのです。Th.は、子どもが自分に視線を向けてきたことを確認してから、でんぐり返しをしました。その後は再び、ほぼ同時のでんぐり返しを数回行い、時折、ポーズをとって期待を少しだけ裏切るという、変則的な遊び方に変わっていました(変則的といっても、ポーズはほんのわずかの時間です)。これをまた延々と続けたのです。
するとポーズを置いたときに、アイコンタクトが明確に出現するようになりました。Th.は、徐々にですが「ボタン押し→でんぐり返し」という因果関係から、「Th.を見る→でんぐり返し」というように、要求の対象をモノではなく人へと導いていたのでした。子どもの側からすれば、最初のアイコンタクトは「あれ、おじさん壊れたのかな」くらいの感覚だったのかもしれません。しかし繰り返しの中で、子どもはボタンを押して相手をでんぐり返しさせるよりも、相手に視線を送るだけのほうが、はるかに便利なコミュニケーション手段であることに気付いていったのでしょう。ボタンを押すのと同時に、アイコンタクトすることが増え、かつ注視時間が長くなっていきました。
アイコンタクトが安定してきたころ、Th.はあらたな変更を行いました。ポーズをより長く置くようにしたのです。子どもの反応も、それに応じて変わりました。Th.とアイコンタクトするときに、不快そうに発声をするようになったのです。「どうしていつものように回ってくれないの?早く回ってよ」とでも言いたげに。Th.は、「ごめんごめん」などと言いながら、タイミングを元に戻してでんぐり返しをして、一旦安心させます。しかしすぐにまた長いポーズをとります。当然子どもは怒ります。はっきりと怒った声で、感情を伴った要求をするようになりました。
数週間前であれば、Th.は期待通りに動かなければ、すぐに他者を回避し一人遊びを開始していたでしょう。でも今は違います。怒りながらもしつこく要求するようになったのです。関係に“粘り”が出てきたのです。
ここまでの流れを簡単におさらいしてみましょう。子どもが他者を操作しようとする手段の変遷です。おもちゃにばかり集中していた子どもが、だんだんと人を動かす面白さに気付き、道具的な要求の仕方から感情を伴う発声を用いた要求の仕方に変化しています。
一人遊び
↓
ボタンを押して他者を動かす
↓
視線を送って他者を動かす
↓
感情を伴った発声で他者を動かす。
Th.は、要求の仕方を子どもに教えたことは一度もありません。互いの行動が関連し合っていることを丁寧に粘り強く示し(時間的な反応の正確さは本当にすごいものでした)、子どもに期待を抱かせるようにしただけです。
他者への期待が確かなものになるにつれて、他者と共有する台本が形成されていきました。この台本こそ、雨野さんが対談本の例で述べていた、対人的なやり取りにおける時間的な構造化なのだと思います。台本が共有されれば、自閉症の子どもも見通しがつくようになり、次の結果に確信が持てるようになるので、安心して要求行動が増えてくるのです。他者の反応への信頼感が、子どもの要求を高めていったのです。重要なのは、台本を子どもと一緒に作り上げることです。
基本となる台本を作り上げた後、Th.は台本を修正することに工夫を凝らします。台本を修正された子どもは「どうなっているんだ!台本どおりやってくれ」と言わんばかりに、Th.に感情・意図を訴えるようになります。同じ台本を共有していても、自分と他者では、その運用や解釈は違うものです。Th.は、ポーズを置くことや、ポーズの長さを変化させることで、子どもの台本の解釈に揺さぶりをかけたのです。このTh.に学ぶべきは、台本の変更のアイデアの繊細さと多様さ、そして子どもの反応への感度の高さです。ほんのわずかな落胆も見逃さない観察力です。
やりすぎれば回避されます。変化が子どもにとって小さすぎれば、他者はずっと道具のままです。
“同じ台本を共有しつつも、解釈は色々とある”。この子どもが学んだのは。他者と自分の心の違いについてだと思います。しかし違っていても、台本の構造自体が崩れているわけではないので、驚きはするでしょうが、なんとか元に戻そうとします。つまり他者に修正の修正をしてくれるように交渉しようとする意図が生まれるわけです。
私が学生時代、このTh.に何度も注意されたことの一つに「おもちゃに負けるな。おもちゃより人間のほうが面白いと思わせるように遊びなさい」というものがありました。おもちゃを操作する時に感じる明確な時間的構造を、他者とのやり取りのなかでも構築することができれば、子どもが楽しめる範囲でという条件付ではありますが、不規則な、もしくは予測不可能な変化(反構造)を生じさせ、ものごとの結果には多様性があることを伝えていくことは可能だと思うのです。構造と反構造がバランスよく対立するその間に、感情や意図というものが育つのだと思います。構造しかない静的な世界ばかりでは、自他の区別が未分化なままで育ちません。しっかりした構造を形成することがでればできるほど、大胆な反構造を子どもに提示することができるのと私は考えます。このTh.の遊びには、二つの側面が絶妙なバランスで機能していたといえます。
構造と反構造が、時々刻々と図と地が反転するように表れるとき、構造が基準となり、次に表れる反構造との差分を認識することが可能になります。反構造が構造に吸収されるわけです。新奇な経験であっても分類することが可能になります(見通しのない状況での不安の軽減)。また反構造の次に表れた構造は、反構造の影響を受けて、新たな構造に変化するきっかけを得るかもしれません。より複雑な環境に対応できるよう新しい構造にバージョンアップされるのです(こだわり、同一性保持の軽減)。
構造(台本)と反構造(不確定な事態)との往復の中に身を置く人間は、少しずつ自分と環境との相互作用という目に見えない一次元、上の構造に気付いていくのだと思います。
006 馬の心、人の心
006 馬の心、人の心
雨野カエラ
大きな音がきらいで、いつもの場所に物がないと驚き、いつも時間通りに生活し、時々パニックになる。まるで自閉症者みたいなもの、それは馬です。
馬を見ていると自閉症者との類似に気付きます。補食される動物と自閉症者の比較はテンプル・グランディンも行っています。僕はそこに「群れの動物」という点も加えて考えます。自閉症者は群れるのが嫌いなのではないかと言われる方もいるかもしれませんが、ここでいう「群れ」は、人間のように個の消えない「群れ」ではありません。補食される動物の群れとして考えるのです。群れの誰かが危険を発見するとそれは群れ全体の情報となります。群れはそれ全体が個です。そこには自他の区別が希薄です。自分の得た情報は全体が知っている情報。群れが得た情報は自分も知っている情報。群れが群れとして行動するためにはそういう本能が必要な気がします。
自閉症者は他者の意図を想像するのが苦手だと言われます。自分の思っていることを相手も全く同じように思っている、と思いがちだからです。そのことを「人の気持ちが分からない」「想像力がない」というのだとおもいますが、「思いやりがない」とか「創造性がない」というのと同じではありません。
僕は「言わないとわからない」というのがわからない事があります。自分の考えていることを相手も同じように考えているとしたら、言わないでも分かるはずですよね。他者は自分とは違うことを考えている場合がある、ということを認知できないのです。自分の知っている情報は相手も当然知っていると思いがちです。情報が同じなら同じ結論に「言わなくても」達するはずだと思ってしまいます。もちろん大きくなって、そのことは経験から得た知識として修正されていきますが、認知を変化させるところまではなかなか達しません。自分の思った通りにならない、それを受け入れるために、みんなのほうが何でもよく知っている、自分はいつも間違っているという認知を成長させてしまったりします。時には相手が間違っていることもあるし、また時には自分が間違っていることもあると言う認知には達しません。自分が正しいか、群れ全体が正しいかではなく、群れの認知としては常に一つのことなのです。
自閉症者は動物の群れの認知を持っているために、他者の考えを取り入れようとするのですが、他者は気まぐれでいつもバラバラなことを考えています。普通の人間の群れのなかでやっていくには自閉症者には苦労が多すぎます。
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齊藤コメント
「群れの動物」として思い浮かぶのは、例えば草食動物ですね。群れている動物は、まるで集団として意思を持っているかのような動きを見せることがあります。個と個が互いの意思を確認しながら、各瞬間に動く方向を決定しているのではなく、あたかも当然のように、各個体が一斉に向きを変える様子は、見ていて不思議なものです。
群れる動物たちにも、もちろん個体差はあるでしょうが、おそらく外部の刺激に対する認識の仕方や行動の選択は、人間に比べて類似度が高いのでしょう。認識パタンや行動パタンの自由度が低いとも言えます。そのように考えると、ある状況において、動物達が同じ行動を一斉にとることの解釈ができます。全体は個であり、個は全体であるゆえんです。
このことに関連する雨野さんのエピソードを紹介します。雨野さんの子どもの頃の話です。
目の前に椅子があります。雨野少年はその椅子に座りたいと考えています。しかし、クラスメートが先に座っていました。雨野さんは、座っているクラスメートの前にじっと立ちます(立っているだけです)。クラスメートは席を譲ってくれるそぶりを、一向に見せません。だんだんイライラしてきます。雨野少年は次のように考えます。「僕がその椅子に座りたいのを知っているはずなのに、知らないふりをして座っている。これはきっと意地悪をしているに違いない」。我慢しきれなくなった雨野少年は、そのクラスメートを突き飛ばしてしまいました。
二つ目のエピソードも子どもの頃の話です。ある日、クラスメートが昨夜見たTV番組について話しかけてきました。「雨野、昨日のTV面白かったな!」。しかし雨野少年は答えません。なぜなら雨野少年にとって、確認し合うまでもなく面白かったからでした。なぜ、自明な事実を改めて尋ねてくるのか、戸惑ったそうです。これはきっと僕をからかっているに違いない、と腹立たしい気持ちになったとのことです(話題を変えるとより分かりやすいかもしれません。例えば、私の妻がゾウの写真をみて、「ねえあなた、これゾウよね。あなたは何だと思う?」。バカにしてるのか?と一瞬思ってしまいます)。
この二つのエピソードを、クラスメート側から見るとどうなるでしょうか?ちょっと想像してみましょう。一つ目のエピソードから。
友達と楽しく会話をしていると、そこに雨野少年が近づいてきました。自分に話しかけるのかな?と思ったけれども、何かを話し始める気配はなく、ただ自分をじっと見つめているだけです。友達との会話を再開し、しばらくして振り返ると、雨野少年は先ほどと同じ場所に立って、自分をまだ見つめていました。驚きましたがどのように対応してよいかわからず戸惑っているうちに、いきなり突き飛ばされました。
二つ目のエピソードです。
昨日見たTV番組が面白かったので、朝、誰かと話そうとクラスを見渡すとすぐそばに雨野少年がいました。「昨日の○○見たか?」と尋ねると「見た」と言うので、早速「面白かったな!」と話しかけました。しかし雨野少年は黙ったまま返事をしてくれません。「見たか?」の質問にはちゃんと答えてくれたのに、なぜ黙っているのか不思議です。
かなり私の想像が入っていますが、やり取りは以上のようなものだったと思います。このようにそれぞれぞれの立場からエピソードを眺めてみると、心の内容が大きく違っていることに気付きます。雨野さんは、乱暴な性格だったわけでもなく、気難しい気分屋でもなかったわけです。相手の行動の裏にある意図を読んでいないことが原因だったのです。なぜ読まないかは、先ほどの「群れの動物」の例のごとく、自分と同じことを感じ、考えているはずだという雨野少年の強固な信念に基づいた結果なのでした。
自閉症スペクトラムの人たちは、共同注意に問題があるとよく言われます。結果として共同注意が成立していないというのは、確かにそうなのですが、雨野さんの話を聞くと、当事者の主観においては捉え方が違うようです。彼らはむしろ、プリミティブな意味合いにおいて、共同注意が成立していると思っているのかもしれません。なぜなら、自分と同じ対象に関心を持ち、同じように感じ、同じように考えていることを前提としているわけですから。これ以上の“共同”感覚はありません。ただし、自己の認識を他者にまで過剰に拡張した結果としての共同注意なので、客観的には“共同”は成立していません。自他を区別したあと、各々の注意を共同するところに、共同注意の本質があるわけですから。
以前相談していたアスペルガー症候群の子どもの話です。ある日、ウルトラマンの映画をお父さんと見に行きました。帰ってきてすぐに、一緒に映画を観ていないお母さんに「お母さん、どうしてウルトラマンはあそこでやられそうになったの?」と質問しました。お母さんは「観ていないから分からないわ。まずどんな話なのか説明してみて」と返答しましたが、腑に落ちない様子だったそうです。そして「ねえ、どうして」と質問を繰り返したそうです。お母さんは困ってしまいました。
小学校に入り、自分の好きなポケモンの話を、何十分でもクラスメートに話すようになりました。聞いてくれたクラスメート達もだんだんと敬遠するようになりました。私は「どうしていつもポケモンの話をするの?」と尋ねました。すると「だって僕が楽しい話だから。友達もきっと楽しいはず」と答えました。悪意があって話しているのではないことが分かります。自分と他者は同じなのです。自分が楽しいように、相手も同じくらい楽しいであろうと信じているのです。
しかしクラスメートに敬遠されるようになったことがきっかけで、この子どもはなぜ相手が僕の話を聞いてくれないのかと、考えるようになりました。ある日、お母さんに相談しました。「どうして誰も僕の話を聞いてくれないの?」。お母さんは答えました。「明日から、聞いて欲しい話があったら、まず『僕、これから○○の話をしたいんだけど、君は知ってる』って聞いてごらん。もし知らないって言ったら、話すのをやめたほうがいいわ。でも知ってるって言ったなら、あなたの話しを少しは聞いてくれるかもしれないわよ」。
次の日、素直にお母さんのアドバイスを実行に移しました。しばらくたったある日、「お母さん、あのね、知ってるって答えた人は、知らないって答えた人よりも長く話を聞いてくれるんだよ。そして、新しいことも教えてくれるときがあるとわかったよ」と報告してくれたそうです。誰彼かまわずポケモンの話しすることがぐっと減ったそうです。
すばらしいアドバイスだと思いませんか?私は、お母さんの洞察の深さに感動しました。わが子に必要な知識は「人によって興味や関心が違うこと」、「自分が好きなことが相手も好きだとは限らないこと」であることを見抜いていたのです。さらにこれらの事実を、身をもって気付かせるために”魔法の質問”を授け、じっと見守っていたのです。“自分と他者の心の内容は違う”。定型発達者にとっては自明中の自明な事実であっても、「群れの動物」的世界を持つ人たちにとって見れば(すべての自閉症スペクトラムがそうだと言っているわけではありませんが)、この事実は驚き以外のなにものでありません。
自分及び他者を発見する瞬間とは、自分の意図通りに他者が動いてくれないときだと思います。それまで、自分と他者は一緒だと固く信じていた子どもにとっては、安定していたはずの世界に“裂け目”ができたように感じる、一種の事件だと思います。でも、その裂け目を裂け目として放置するのではなく、ふさぎなおす努力をする過程で子どもは、コミュニケーションの必要性、効果的な表現の仕方を学んでいくのでしょう。この意味で、我々も自閉症スペクトラムの人たちも、学ぶ原理は一緒だと思います。違うのは“裂け目”の量であろうと、私は考えています。自閉症スペクトラムの子どもが、何とか折り合いをつけられそうだ、と思える程度の裂け目を我々が提供することが大切だと思うのです。療育や教育の効果は、この裂け目の量を子どもの発達合わせて見極められるかが鍵になるのだと思います。
雨野さんも、成長するに従い「伝えなければ自分の気持ちは相手に理解してもらえない」ことに気付いていきます。しかし、雨野さんの心の初期設定は「群れの動物」的心なので、いちいち自覚する必要があります。直感的には難しいと告白しているように、意識的な変換作業が必要になってきます。
この点が、支援をするときのポイントだと思います。コミュニケーションがずれているときに、どこの部分がどれくらいずれているのか、客観的に整理してあげることが、コミュニケーションをスムーズしていく上で必要です。上手な通訳者になること。支援の基本はここにあると思います。
005 学校キライ(4)
005 学校キライ(4)
雨野カエラ
学校嫌いはひどくなって、高校は途中でやめた。学校のルールがばかばかしくなったんだ。暑くてもカッターシャツの袖はまくってはいけないなんて、そんなこと、大人を相手に言うことはないだろう?それくらいのことでどうして怒鳴ったり,呼び出したりするんだろう。
今日なにか起ったらもう学校には二度と来ないと決めて登校した日、全校集会で校長先生が言った。
「やめたいやつはやめてしまえ」
僕は集会が終ってすぐ学校を出た。「造反有利」とか黒板に書こうかと思ったけど、意味を分かる先生も同級生もいなさそうだったのでやめた。
遅刻なし、欠席もほとんどなし。成績もまあまあ。そんな生徒が学校を辞めるのは開校以来だと言われた。喜んでいいのかな。
そこから数年間を映画とビデオをみながら家で過ごした。今なら引きこもりって言われるね。
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齊藤コメント
「造反有利」とは、文化大革命の時の毛沢東の言葉です。紅衛兵のスローガンとなりました。「体制に謀反を起こすには、道理がある」との意味があります。退学を決意した雨野さんが、この言葉に託したかったものは、文字通り「退学する自分には、理由があるのだ」ということだったと思います。
しかし雨野さんは、黒板にこの言葉を書くのをやめてしまいます。自分の気持ちを表現する最後の機会を自ら絶ってしまいました。他者に気持ちを伝えてみることが、他者を動かすための第一歩になるのですが、すでに時機は過ぎていたのでしょう。「自分の気持ちは,到底理解してもらえないだろう」と、あきらめの気持ちだったのだと思います。
「やめたいやつはやめてしまえ」の号令は、雨野さんには「もうこれ以上、がんばらなくてよい」という天からの声に聞こえたのではないでしょうか。
「学校キライ」を読み終えた後、何かが足りないと感じました。何度か読み返しているうちに気付きました。それは、「他者に頼る」もしくは「援助を求める」というエピソードがどこにも出てこないということです。どのエピソードも、頼ってみたけれど失敗した、援助を求めたけれど断られた、のではないのです。前提となる対話が開始されていないのです。すべては、雨野少年の心の中で生じ、そして過ぎ去っていっただけです。彼の心的世界には、語り合う「他者」が含まれていないのです。
もう少し他者に頼れば、解決する問題もあったかもしれません。また周囲の人たちも(特に大人は)、他者への頼り方を具体的な場面に即して身をもって示し、導く必要があったのかもしれません。
社会の中で生きていくのに大切なスキルとは何でしょうか?いろんな候補が挙げられると思いますが、雨野少年においては「他者に頼るスキル」こそ、真っ先に身に着ける必要のあったスキルだったのではないかと私は考えます。勉強が出来る、挨拶ができる、忘れ物をしない、友達に迷惑をかけない。雨野少年はいずれも、きちんとできていたと思います。そのため周囲の大人達は、むしろ安心していたのではないでしょうか。「自立した子だ」と。でもそこには落とし穴がありました。
子どもの育ちを眺める視点は色々とありますが「あなたはちゃんと人に頼っているかい?困ったと言えてる?」と尋ねる大人は案外少ないと思います。自立という目標が掲げられる環境では特に。“自立=自分で考え、行動すること”が目標となり、そのような振る舞いができるようになることが成長の証だとみんなが思うようになると、他者に頼ることは“甘え”に、困ったと訴えることは“努力が足りない”というふうに読み換えられてしまうことがあります。
でも自立とは、そのような意味ばかりではないのではないかと思います。雨野少年にとっての自立とは、他者に上手に頼ることができること。そして他者から頼られたとき、その期待にこたえられることにあったのではないかと思います。雨野少年は、常に自分ひとりで考え、そして行動してきました。まさに文字通り「自立」していたわけです。
しかし、どのような子どもも、経験は未熟です。思考もまだ自律的ではありません。だからこそ、他者に頼りながら育っていくものだと思います。他者を自己の鏡として。個として試行錯誤することは、非常に効率の低い学習をしている状況であると言えます。私は、自立とは、他者に頼ってきた歴史を背景にして、自己が少しずつ確立された結果であると考えるようになりました。
雨野さんは、発達障害を次のように定義するのがよいのではないかと考えていました(言葉は正確ではありません。メモを紛失したのです。雨野さんが言わんとするところを私が文章化してみました)。
「外部に自分を発信し、フィードバックを受けながら成長することを発達というならば、発達障害とは、個人及び環境要因により、フィードバックを受信できないために発達が阻まれている状態を指すのではないか」
なんとわかりやすい定義でしょう。雨野さんは「自分の言葉が他者に通じない」ということをよく言っていました。会話の相手は「大丈夫、ちゃんと通じているよ」と言ってくれるそうですが、返ってくる言葉は、いつもポイントがずれているのだそうです。雨野さんは「手ごたえがない」と言います。手ごたえがない環境は、負の報酬ばかりが返ってくる環境よりも、もしかしたらつらい状況なのではないかと思います。自分を表現しても「応答がない」環境は、表現することそのものを無意味化するからです。自分の内部に生じたものを、無意味であると感じさせられることほど、人として空しいことがあるでしょうか?
話は少しそれますが、私が大学生の頃、ある医療機関で行われていた自閉症の療育に、実習生として参加したことがありました。視線の合わない自閉症の子どもとの遊びに悪戦苦闘している私に、セラピストの方がくれたアドバイスは今でも心に残っています。
「自閉症の子どもの要求を増やしたかったら、子どもの期待通りに大人が反応してあげること。自分の身振りや言葉が他者を動かしていると感じることが大切なんです。世界を動かしているのは自分なんだ、と思えるようにあなたは振舞いなさい。まずあなたは、子どもの道具でいいのです。ただし、おもちゃよりも確かな反応を返す道具になりましょう。あなたの遊び方は、おもちゃに劣っているのですよ。タイミングや方法が微妙に変化しているからです。きっと扱いにくい道具と思われているのだと思います。繰り返し、子どもが望む反応を返すことによって、子どもの信頼を得ることを目指しましょう」
雨野さんの発達障害の定義と同じ意味のことがここでは語られています。確かな反応、確かな手ごたえ。世界を動かしている有能感。これらが子どもの中でしっかりと根付かない限りは、子どもは外部に向けて何かを発信しようとしないでしょう。以後心得て、信頼できる道具になりきるよう努力しました。すると、その子どもの反応が少しずつ変わってきました。おもちゃよりもまず先に“使って”もらえるようになったのでした。
人は他者を通してしか自己を理解することはできません。対話は、発達に必要不可欠な行為です。雨野さんが私との対話を望んだ理由は以下のようでした。
「僕は、生まれてこのかたずっと、アスペルガー症候群だったわけです。だから定型発達というものを知りません。これから僕が生きていく上で、自分を説明しなければならない場面が出てくると思います。しかし、定型発達というものを知らない自分は、どこが共通していてどこが異なるのか、区別がつかないのです。僕の自己紹介は二つのパタンがあります。生まれてからのことをすべて話すのがひとつのやりかた。でもこれはものすごく時間がかかるので、最後まで聞いてくれる人はいません。どのエピソードを選べばよいのか分からないので、結局僕は何も話さないことを選ぶのです。齊藤先生には、僕の考えを伝えます。その考えに対して何を思ったのか、また齊藤先生自身はどのように考えるのかを教えてください。その対話を通じて僕は、自分にしかない特徴というものを推測していきたいのです」
このように雨野さんが援助を求め、他者に自分の考えを伝えるようになったのは、30歳を過ぎてからです。高校を退学してから十数年後のことでした。
003 学校キライ(2)
003 学校キライ(2)
雨野カエラ
ある日、ハミガキ講習会があって全校児童が歯ブラシを持って体育館の床にぎゅうぎゅうに座っていた。先生の言う通りに歯ブラシを動かしたら前に座っている子にどうしてもぶつかる。その子はとても怖い顔をして僕をにらんだ。でも先生の言う通りにしなければならない。僕はいったいどうしたらいい?
整列と行進の練習をしていて先生が言う。
「あごをひけ!」
僕はその頃あごをひくというのがどういうことかわからなかった。できるかぎりあごが後ろに行くように努力した。僕を見つけて先生が怒鳴る。
「あごをひけというのがわからないのか!」
先生は僕のあごをつかみ無理に下げようとした。僕は反抗する気なんてまるでなかったのにどうしてそんなことをされなければならないのかわからなかった。体に触れる前に、あごをひくのがどういうことか分かるように説明してほしかったよ。
何が間違っていて何があっているのか。僕はさっぱり分からなくなってだんだんと学校がイヤになっていった。集団登校もみんなのようにふざけ合いながら学校まで行くのがとてもイヤだったから、登校班のみんなが出発してから遅刻ギリギリに行くようになった。これでは先生に呼び出される。
成績はそんなに悪くなかったけど、時々まったくできない科目があった。例えば筆算はできるのにそろばんはほとんど0点。できないとなったら本当にまるっきり理解できない。でも先生は僕が時々何も理解できなくなる事があるなんて思ってなかったらしい。4時間目がそろばんで、計算の終った人から給食ってなったことがあったけど僕は一問もできてなかった。その時は先生の真ん前の一番前の席だったけど、先生は僕が簡単な数問を解けないことに気付かなくて給食を食べはじめていた。
ペーパーテストでは答えられることが授業中に当てられると全く答えられなかった。主人公がその時どう思ったか、文章から抜き書きすることはできたけど、いく通りも答えがあるような場合は答えられない。何も言えずにいると、はやし立てられたり先生に答えを急かされたりして泣いた。
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齊藤コメント
ハミガキ講習会のエピソードは、どの範囲まで自分の判断で行動することが許されるのかについて迷っていることが原因のようです。雨野少年は、先生の指示に従っているのですが、ぎゅうぎゅうに並んでいるので、歯ブラシがどうしても前の子どもに当たってしまいます。ほんの少し体をかわせばよいのですが、先生の指示にはなかったので、思いもつかなかったのだと思います。「歯みがきをすれば相手に怒られる」と「歯みがきをしなければ先生に怒られる」。どっちを選択しても誰かを怒らせることになってしまいます。行動すれば必ずネガティブな結果が生じてしまう(と思っている)このような状況は、好ましくはない選択肢によって二重に拘束されている状況と読みとれます。
整列と行進のエピソードは、慣用句の理解の失敗と言えるでしょう。「あごをひけ」は文字通りの意味ではありません。この表現を知らない外国人が聞いたら、どんな想像をするでしょうか?私は「誰かのあごにロープをつけて、引っ張っているところ」を想像しました。「あごをひく」を正確に述べるとどうなるでしょうか?「視線を前に向けたまま、あごの先を首に近づける」となるでしょう。これでは子どもには分かりづらい表現なので、次のような説明はどうでしょう。「皆さん、返事をするときに頭をコクンと下げますね。やってみてください。そうですね。では今度は、軽くうなずいてみてください。ほんのわずか頭を下げるくらいです。そうして下げたところで、頭を元に戻さずに、ストップしてみてください。はい、そのまま先生を見てください」。分かりにくいですが、「あごをひく」という慣用句よりは、正確に行動を説明していると思います。このように説明してみると慣用的表現は、聞き手(読み手)に対し、複雑な意図の理解を要求していることになります。言葉とは、あいまいなものです。こういう場合、やはり雨野少年が望むやり方が一番ですね。やって見せれば、一瞬で理解が可能です。
コミュニケーションとは、流暢に言葉を操り、複雑な言語表現を理解しあうことではないのです。前提は分かり合うことなのです。分かり合えるのならば、どんな方法を使ったっていいのです。それが相手の理解の仕方に合わせるということなのだと思います。
ネガティブな結果しか予想できない二重拘束の状態、あいまいな言葉による指示への戸惑い。こんな状況が毎日続けば、頭が混乱してくるのも無理はありません。「何が間違っていて何があっているのか。僕はさっぱり分からなくなってだんだんと学校がイヤになっていった」という雨野さんの振り返りは、妥当なものだと私には思えます。まず、自分の判断・解釈に手ごたえがありません。さらに自分で考え、行動すればするほど周囲の人の反感をかってしまう状況は、少しずつ子どもを追い詰めていきます。
お互いの認識の前提がずれていることを、意識できれば悪循環は回避できるのですが。定型発達者はアスペルガー症候群者の前提を直感的には理解できませんし、アスペルガー症候群者もまた同様です。互いの立ち位置を確認することが大事なのですね。「スタート地点が違っているだけ」なのだと思います。
国語のペーパーテストの話は興味深いと思いました。空欄で提出された解答用紙を見て、教師はどう思ったでしょうか?「登場人物の気持ちが分からない子なんだな」とでも思ったかもしれません。でもそれは事実ではありません。
雨野さんは、単純に登場人物の心情理解が難しかったのではなかったからです。心情の推測はしていたのです。しかし、当てはまりそうな仮説が、たくさん思い浮かんでしまい、どれを選んだらよいかわからないというところに、雨野少年らしい困り方があったわけです。
心情理解は多様であったほうが良いのですが、国語のペーパーテストでは答えが決まっています。私も子どもの頃、返却されたテストの答えを見て、なぜそうなるのか分からなくて困った経験があったので、雨野少年のエピソードには共感するところがあります。
「作者の意図を答えなさい」。こういう設問もありますね。作者は本当に、テストの答えのような意図を持って物語を書いたのでしょうか?私には、どうしてもそうは思えないのです。言葉にならない経験。でもその経験に含まれる何かに、未だ意識化できていないその何かによって心を揺さぶられているからこそ、人は筆を取り物語るのだと思います。作者は、綿密に設計図を書いて、すべての文章を論理的に構成しているわけではないと思うのです。先の設問は、物語が書かれる以前に、明確な意図が事前にあったかのような雰囲気を漂わせています。でも事実は逆ではないでしょうか?物語るという行為を通して、そのとき経験していたことの意味が事後的に了解されうる、というのが物語る行為の本質だと思います。
すると「作者の意図を答える」という設問は文字通りの意味ではないのではないか、と私は思うのです。正確には「作者の意図についてのあなたの考えを述べなさい」が正しいのだと思います。主語は「作者」ではなく「解答者」なのですね。でもそのことは明示されていません。それは暗黙の了解だからです。「解答者」である自分自身を主語とするならば、解釈はしやすくなります。なぜなら他者である「作者」の考えには、いろんな可能性が考えられますが、「解答者」である自分自身の考えであれば、仮説はぐっと減るからです。すなわち複数の仮説の中から、可能性の高いものを絞り込むことができるのです。
雨野少年に必要だったのは、仮設を絞り込む枠組み、基準であったことがわかります。知的な能力が高い一方、他者の意図を推測することに難しさがある場合、当然論理的な推理能力を働かせて補おうとします。雨野少年は、いつもたくさんの仮説を考えていたのだと思います。このように知的能力とは分析には優れていますが、判断には不向きであるといえます。判断に必要な枠組み、基準はどこあるのでしょうか?またどこからやってくるのでしょうか?この問題については、またどこかで触れたいと思います。
002 学校キライ(1)
002 学校キライ(1)
雨野カエラ
朝の学校は騒がしくて大キライだった。先生が来るまでの十数分の間に、いつも気分が悪くなった。“席に座って静かに待ちましょう”なんて決まりを守る子どもは僕以外に誰もいない。みんなおしゃべりをしたり走り回ったり、騒がしさを何とかしてくれる先生はなかなか来ない。
下を向いて騒がしさに耐えていると誰かがその様子を見て僕を保健室に連れていく。保健の先生はなぜだか僕の名前を間違って覚えていて、でも先生が呼ぶのならそれが正しいと思うから訂正しなかった。
授業が始まってしばらくしてから僕は“しーん”となった校舎を歩き、教室にそっと戻る。毎日のことなので誰も気にしない。先生も何も言わない。三十分くらい授業は進んでいるけど、それで困ったことはなかった。
休み時間も耐えるのがたいへんだ。僕は外に遊びに行かないし、席を離れてトイレにいくこともない。外に出て授業が始まるまでに戻れなかったら大変だし、誰かの隣でトイレを使うなんて考えられない。自分の席に座り、図書館で借りた本を必死で読む。誰にも声をかけられたくない。休み時間をなんとかやり過ごす。
学校の給食はなかなか喉をとおらない。ゆっくり食べたいけどみんなより遅くなってはいけない。パンはまるっきり残して他のおかずを急いで食べる。日によっては昼休みに掃除が始まることがある。食べるのが遅い生徒は舞い上がるホコリの中で給食を食べなければならない。
小学校で僕は毎日必ず泣いた。理由はよくわからない。間違うことが怖かったのかな。先生にあてられて間違うと泣いた。誰かに小さなことを指摘されると泣いた。自分が間違うなんてことがあるとは思っていなかったからかもしれない。うまくいかないと泣いた。もしかしたら誉められても慰められても泣いたかもしれない。きっと何も干渉されたくなかったんだ。何か言われるってことは、僕のやり方がまるっきり間違っていると言われているように聞こえたんだ。だから何も言われないように、怒られないように学校では先生の言う通りにした。
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齊藤コメント
集団生活には、目に見えない暗黙の了解があります。先生の指示もクラスメートの行動も、実は暗黙の了解に則った振る舞いなのですが、その存在に気付いていない人から見れば、矛盾が多く戸惑うこともあったでしょう。
朝の教室は、これから始まる授業への緊張もあってか、憩いの時間でもあります。「席に座って静かに待ちましょう」というきまりは、みんな承知しているとは思うのですが、先生が来るまでの間は、友達同士の会話を楽しむことが優先されていたのでしょう(先生やって来る雰囲気を察知すれば、すぐにそのきまりを遂行できるように心の準備をしながら)。
雨野さんは、大人になるまで「会話とは、問題解決に必要な情報交換をするための行為」だと考えていました。たとえば、自分に知識やスキルがないときに質問するなどがそれにあたります。もちろんそのような会話を我々もするのですが、家族や友達といった身近な人物との日常会話は、体験を共有し、同じ感情を分かち合う目的で行う場合が多いと思います。雨野さんの少年時代のエピソードに「小学校の頃クラスメート同士が、昨晩見たテレビ番組について話し合っているのですが、微妙に会話がずれているのです。それでもなおその二人は楽しそうに会話を続けているのが不思議でした」というのがあります。情報交換が会話の目的であると考える雨野少年から見ると、二人は別々の話をしているのにもかかわらずコミュニケーションが成立している状態を、どのように説明すればよいのか分からず惑ったのだと思います。だから朝の騒がしさは、いっそう受け入れがたいものになります。きまりをまもらないクラスメート。何の目的で交わされているのか意味がつかめない会話の嵐。その中で雨野少年は、居心地の悪さを強く感じることになったのだと思います。
保健室の先生が自分の名前を間違って呼んだのに先生がそう呼ぶのだから正しいと思った、という箇所に、私はコミュニケーションの外側で生活している雨野少年の孤独を感じました(主観的に“さびしい”と思うこととは別です)。雨野少年は、もちろん自分の本名を知っています。では、なぜこのように思ったのでしょうか。たぶん、他者との関係性の中に自己が位置づけられていなければ、自分がどのような存在と認識されようと、それほど重要なことではなかったということなのではないでしょうか。正しく呼ばれようと、間違って呼ばれようと、相手が自分の内面を理解してくれるのでなければ、名前そのものには意味がないわけです。自分という物理的な存在を、他の人間から識別できるだけの記号があれば十分です。名前とは本来、他者との関係性の中で育まれ、そして定位された心理的存在としての大切なしるしであるはずです。子どもの内面世界を、周囲の人間が誠実に映し出していかないと、自己の存在及びその発達は、一種の幻影のような空ろなものとなってしまうことを示唆します。
休み時間の過ごし方についてです。「授業が始まる時間までに戻れなかったら大変だし」という箇所に目が止まりました。この世の中は、不確定なことが生じるのは確かですが、定型発達者は、ほんの数分の休み時間の間に予想もつかない大事件が起こるとは考えません。昨日と同じ休み時間が、今日も続くと確信していますし(確信しているので、安心して教室を離れるのです。もしからしたらその事件を期待している子どももいるかもしれません)、明日の休み時間に対しても、同様の予測をしていることでしょう。
雨野さんは「1ヶ月とか1年のスケジュールを立てることはとても難しいことです。その間に何が起こるかわからないからです。起こりえることを頭の中で想像し、その対応を考えるだけで頭の中はすぐに一杯になってしまいます。僕が確信を持って予測できるのは、10分先くらいです」と話していたことがありました。これに対して、僕は次のように返答しました。「定型発達者が、手帳に予定を書き込むときに、100%実行するつもりでいるとは限りません。病気になるかもしれないし、他の予定が入ることもどこかで予想しているのです。スケジュールを立てるとは、事実を書くことではなく、ある意味“希望”を書くことだと思います」。雨野さんは、理解してくれました。
給食の時間は、食べるだけでなくクラスメートと会話する時間でもあります。雨野少年の悩みは、食べることと会話をすることを同時に行えないことでした。会話に集中すると、食べることができません。食べることに集中すると、今度は会話がおろそかになり、「おい、聴いているのか?」と相手の怒りを買ってしまうのです。一つのことに集中できればこなせることも、複数の作業を同時にこなさなければならないと、上手に対応できないようです。授業中も同じようなことが起こります。先生に「姿勢を正しくしなさいといわれると、姿勢ばかりに意識が向き、先生の話が聞けなくなることがたびたびあったそうです。雨野少年が一番集中しているときは、実は姿勢がだらしないときだったとは、当時の先生は思いもよらないことだったと思います。
最後の文章は、切実です。他者の意図が読めない状態で、注意されたり、指導されたりの日々が続いています。意図が読めないわけですから、どのように振舞えばよいかいくら考えても答えは出てきません。「自分で考えなさい」はよく聞くフレーズですが、この声かけは雨野少年には「途方にくれなさい」とでも聞こえたと思います。「僕のやり方が全く間違っていたと聞こえた」とあるように、具体的にどのように振舞えばよいのかが呈示されると、とても助かるのです。可能であれば、その意味も含めて。アスペルガー症候群の子どもの中に、叱られないように表面上適応的に振舞う子どもが少なくないのは、以上のような理由あるからなのです。この場合、「自分で考えても分からないんだよ。困った時は人に相談しようね」がおそらく最も適切な声かけだと思います。
001 はじめに
001 はじめに
雨野カエラ
まず知ってもらいたいのは自閉症者でも知的障害者でも、定型発達者でも、本人に見えている世界がその人にとってノーマルで普通であたりまえだってこと。あなたが自分の見ている世界のことを正常で標準の世界だと思っているのと同じくらいに。
そしてあなたと僕たちを隔てる明確な線はどこにも見えないってこと。
初めて聞いた時はびっくりするような感覚のちがいがあったとしても、ヒトの感覚を越えたものが見えたり聞こえたりはしない。あなたの感覚と同じ線上に僕たちはいる。本当は感覚ではなく認知の違いなんだと思う。認知の違いってうまく説明できないけど、同じ大きさの音でも気になったり気にならなかったりすることかな。僕はとてもたくさんのことを気にしなければならない。気のせいじゃなく現実のこととして。
この人たち(アスペルガー症候群)は知覚過敏だなんてどこかで聞いた人は、この部屋は眩しいでしょうと言って、薄暗い部屋で話をしようとするけど、みんながみんな眩しいと思うわけじゃない。普通の人が気にするような「明るいか暗いか」ではなくもっと細かい基準。僕の場合は、照明器具の種類や数や配置によってサングラスをかけたりかけなかったりする。それがわからない人たちは照明器具にこだわりがあるんだなんて納得の仕方をするけど、意味のないこだわりじゃない。そのことに前もって気をつけていないと話に集中できなかったり、気分がわるくなったり、家に帰ってからとてもイライラしたりするんだ。だから感覚のことについては勝手に想像するより本人に聞いてみるのがいちばん。先回りして選択の幅を狭めるより、本人の様子をしっかり見てきめたほうがいいと思う。歩いて五分の距離をみんなと一緒に車に乗らなかった時に、僕が人と車に乗るのがいやなのだとみんなに説明してくれた人がいる。でもはずれ。大抵の人と一緒に車に乗ることはできる。ただ五分の散歩を楽しみたかっただけなんだ。先回りしないで本人の意見を聞いてほしい。
僕たちとのあいだに線を引こうとするのとは逆に、何を言っても、定型発達者も同じだよと言う人もいる。歩み寄りは素晴らしいけれど、何でもそれで理解しようとするのは間違っている。突然の出来事が苦手なんですと言ったら、誰でも突然、事故にあったらびっくりするよ、みんな同じ、気にすることないと言ってくれる。でも僕の言う突然の出来事はチャイムが鳴ることや電話が突然かかってくること。誰かに声をかけられること、先の見えない話をすること(それをコミュニケーションというらしい)。それだけで事故の知らせを聞いたくらいびっくりしたりイヤな気持ちになったりするとしたら本当に毎日たいへんだと思わない?
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齊藤コメント
雨野さんとの初めての出会いは、印象的でした。彼は、帽子を目深にかぶり、サングラス姿で現れました(それには理由があったのですが)。お互い緊張しつつ、机をはさんで対角線上に座りました。しばらくの沈黙のあと、雨野さんは「僕の周りには、援助する人といじめる人の二種類しかいませんでした」と語り始めました。僕がどのように返答してよいか考え込んでいたら、「この人たちは、僕にとっては同じ人たちです」と加えておっしゃいました。私は、援助する人”と“いじめる人”が同じとはどういうことであろうと、また考え込んでしまったのでした。考えても答えが見つからなかったので「どのような意味で同じなのですか?」と率直に尋ねました。すると雨野さんは「いじめる人は、僕が何を感じ何を考えているかを考えない人たちです。そして援助する人も、僕が何で困っているのかを考えずに(確認せずに)アドバイスをしたり支援をしたりします。本当は困っていないことに対して、どんどんと支援が進んでいくことがありました」と説明してくれました。我々定型発達者とアスペルガー症候群者は、連続線上にあるものですが、困っているポイントが微妙に違っていることは確かです。雨野さんの話は、支援をする際、主観で相手を一方的に解釈することの危険性について気付かせてくれます。
雨野さんはこれまでたくさんのアドバイスと支援を受けてきたに違いありません。また雨野さんは大変勉強熱心なかたですから、関連図書には精通していました。つまり障害に関する知識、専門家が口にするパターン的な支援方法についての知識は豊かでした。僕は雨野さんに対し、何を提供することできるだろうかと相談開始早々、困ったことを記憶しています。困った僕をみかねたように雨野さんは「僕は生活する上で、意味がわからないことがたくさんあります。そのことを周囲の人に尋ねることはできません。なぜなら、彼らは理由を説明してくれるのではなく、評価することが多いからです。僕が知りたいのは、評価(良いか悪いか、上手か下手か)ではなく、(行為・習慣の)意味なのです」とおっしゃいました。確かにそうです。日常の行為や習慣について、その意味を我々はあまり意識していません。改めて説明するとなると難しいことが多いと思います。
「例えばどんなことの意味がわからないのですか?」と尋ねると「挨拶です。挨拶は何のためにするのでしょうか?普段、僕は挨拶をすることができます。しかし、その意味は分かりません。意味が分からないので、ぎこちなくなってしまっていると思います。挨拶の意味を説明してくれませんか?」と言いました。早速、頭の中でいくつか定義してみましたが、どれも挨拶の一側面を記述するものばかりでした。定義をいくら積み重ねても、かならず説明しきれない余白が残ってしまいます。はたして挨拶を定義することは可能なのだろうか?とも思いました。なぜなら挨拶は、どちらかというと感情的・身体的な交感なのではないかと思ったからです。なので、定義することを放棄することにしました。「僕は挨拶の意味をきちんと定義づけることができないようです。おそらく、他の人々にとってもそうなのだと思います」と苦しい説明をしました。すると雨野さんは「意味を説明できないのに、皆さんは自然に挨拶をしているということですか?」と驚いた様子でした。雨野さんはしばらく考えた後に「わかりました。僕はこれまで挨拶の意味が分からないばかりに、挨拶が得意でないと思ってきましたが、どうやら逆なのですね。僕は意味を考えすぎていたのかもしれません。言葉で定義できないと行動できないのが僕なのですね」と納得した様子でした。
雨野さんはこのとき、他者(定型発達)を理解したと同時に、自己(アスペルガー症候群)も理解したのだと思います。相談とは、人と人がコミュニケートすることによって、お互いの共通点と相違点が分かるようなあり方が大切なんだなと改めて実感しました。僕は、雨野さんの捉え方に興味を持ち、驚き、そして同じように雨野さんも私の捉え方に興味を持ち、そして驚いたのでした。雨野さんの文章の冒頭にあるように、我々はもっとたくさん、そして深く対話する必要性があるようです。お互いを分ける明確な境界線は見えないわけですから。
ちなみに、雨野さんが帽子とサングラスをかけていた理由は、私との会話に集中するために、余計な刺激に注意が向かないようにとの意図があったのでした。帽子のつばによって視野の上の部分はさえぎり、さらにサングラスによって目の前の風景に枠を設ける効果があったのです。その意図が分かれば、なるほどと納得できますが、雨野さんの意図を理解しない人は、なんて礼儀を知らない人間なのだろうと思うでしょう。そして「人前では帽子とサングラスをとりなさい」と一方的に注意をするだけに終わってしまうでしょう。これでは雨野さんのなぞは永遠に解けないのだけは確かです。他者の内面へ想像力を働かせなければならないのは、アスペルガー症候群の方たちだけではありません。同じくらい我々も想像する必要があるのです。